幸田露伴「一口剣」現代語勝手訳 中篇 -1-
中篇
むくむくと太った大きい白犬を連れ、銀鎖の付いたご自慢の淀屋橋の二つ提げを腰にぶらつかせて、両手を後ろに組んだまま、
「正蔵殿、よく精が出ますな」と声を掛けて、のそりと入ってきた五十を超えた爺。お蘭はそれを見て素早く、亭主の返事を横から奪い、茣蓙の塵をはたいて、
「マア、旦那様、こちらへおいでなされませ。そこは火花が飛びます。火を使う仕事場はまことに危のうございますので。サア、お構いなくずっとこちらにお通りになって」と下には置かず、早口に喋れば、
「ハア、姉御のお世辞は甘いものでござる。どうしても江戸の人は違いますな。村一番の愛想良しだと若い者達が褒めているが、実はその、確かにその通りでござるな」と、無遠慮に評しながらも、向こう鎚の小僧が横切った後、茶の間に上がってから、女房が汲んで出す麦湯をいただいて飲む様子は流石庄屋、礼儀をわきまえたものである。
その間に亭主は炉前を立ち、手を洗ってやって来て、丁寧に時候のあいさつをすれば、ただ「はいはい」と受け答えばかりしていたが、「さて」と、膝の上に指の股を広げて載せていた手を少し後へ引き、言葉を改め、
「今日わざわざ寄せてもらったのは外でもない、実はその、この村の鍛工を連れて、明日御城下の御家老様の御宅まで来いというお知らせが来た。実は何事かと魂消たが、実はその、我々はお互い、実は悪党ではなし、実はまた、悪いことではないので当人と一緒に安心してやって来いとの、実は、有り難いこと故、実はさっぱり訳が分からぬが、実はその、正蔵殿、万一そなた、凶状持ちであるなら、実は大変だが、そなたはまこと、実は善人で、実はその、少し素行が悪くて、実はその、近所の娘と懇ろになって駆け落ちして来たというだけのことかと思っているが、実は肥り過ぎて腹は布袋のようだが、あまりに色男のそなた、実はまた、他に不義密通でもありはしないかと、疑いもしたけれど、それが見つかったとしても御家老の所へ呼び寄せられるのがおかしい。実はまた、今の殿様は結構な有り難い殿様で、下々のことをどういうものか、詳しくご存じで、これまで孝行息子や貞節な女などはこの村だけでも三人呼び出されて、青緡…青く染めた麻縄の銭差…を賜ったくらいだから、そなたにも何かいいことがあるのではないかと思うけれども、実はその、親に勘当を言い渡されていて、孝行息子という訳でもなし、また、そなたの女房は人に向かえば東風で、そなたは西風だという噂なので、実は、姉御、ちょっと耳を塞いでいてくだされ、実はその、確かにお褒めにあずかるほどの貞女でもないと考えられるが、とにかく明日は我等と一緒に城下へ行かねばなりません。他に出ることはなりませんぞ。詳細が分かるまで、実はその、心配でならんが、御上の御用は謹んでお受けする我等故、実はその、知らせに来たもので、実はその、実はその、エエ、実はその、用事はこれだけのこと。では、明日」と言い捨てると一礼して、犬を引っ張ったり、犬に引っ張られたりしながら帰っていく。その後ろ姿を小僧は見送って、
「ハハハ、あのつけ髷が日に光る。ハハハ、あのつけ髷が……」と、指さしながら笑うのだった。
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藁葺き屋根に音もなく降る春の雨は、枝を伝って、一ト際山吹の花をしならせ、落ちてくる雨に叩かれて頷く花を、障子を開け放して、お蘭は身体を行書の辶のようにしながら、ただぼんやりと柱に凭れながら眺めていた。そして、ああ、この眺めも昔、自分の家で本も読み飽き、ふと目を移した時、庭の隅に咲いたのを見つけた時の方が綺麗だったな、と思い返していた。その頃は苦労と言えば身だしなみのことだけで、銭湯で逢った近所の同じ年格好の娘達に、お蘭さまの髪はいつも素敵ですね、と褒められたくらいだったのに、今は鏡にも向かわず、グルグルと束ねるだけ。挿し櫛もすき透るものはただ一枚も持っておらず、じめじめするこの天気に湿気た着物一枚切りとは何というざまか。叔母さまの言うことを聞いて、表具師のところへ嫁いでいたならこうはなっていなかったのだろうが、その男が濡紙のようにしなしなしているのをどうしても虫が障って好きになれず、また、もう一つには、つい馴れ初めた今の人の鷹揚なところが骨に沁みて可愛らしく思えたからで、それで後先も考えず、雲を追うようにして二人逃げてみたけれど、それからは悲しい目ばかり。まあ、それはいいのだけれど、一緒に暮らしてみれば、鷹揚が鷹揚すぎて心の働きが鈍い殿様、本当にどうしてこのような鈍間に惚れて叔母さまに余計な苦労をかけたのか。自分で自分の昔が悔しい時は、思わず髪をむしって罵詈雑言を壁に叩きつけるほどの日もあるけれど、それでも怒らずに鷹揚に優しく扱われると、また急にむらむらと愛おしくなって、自分は血を吸われ、肉を剥がれてもこの人だったら惜しくはないと思う夜もある。だが、そうかと思うと、何か言われた時などたちまち厭になって癪に障って、訳もなく腹が立ち、眼の前にその人が見えているのも忌々しく、自分の眼を潰してしまうか、その人を灰にしてしまうか、どちらかにしてしまいたいような気持ちになる。そうすると、自分の罪を責めるのか、その人を恨むのかも分からず、苦しくてたまらなくなり、そのうちいつも癪が起こって足元から寒気がぞっぞと立って、胸は次第に厚氷に閉じ込められ、どっと倒れて暗闇の底なし井戸に身を逆さまにして落ちるような切ない思いになる。男から、しっかりせよと言われてようやく気がつき、ぼんやりその顔を見ると、アア、この人とは前世は敵同士でもあったかも知れないと感じる癪の後のたとえがたい気味悪さ、今思い出しても厭になる。好きな男と一緒に住んで貧乏するだけか、この苦しみ。これももしかすると、添い遂げられないという行く末の兆かと思い巡らすと、悪縁を結んだ初めが恨めしく、ほとほと自分が憎くって、憎くって、自分を騙してこんな運命に沈ませた我が身の昔が恨めしくって……。
グッタリとした身体はいつしか堅くなり、左手を強く引っ張って顎が埋まった着物の襟を噛めば、折から風に煙って舞い込む霧雨が細い首筋にひやり。
たとえば硫黄の毒の煙が眼にしみて、喉にも入って苦しいのを空中で払いのけようとするのに、それを掴むことのできない悔しさと同様、思いに燻られ、迷いに焦がされて、お蘭はそぞろに悲しく、この貧家にあるまだましなものとも言える薬缶を自在鍵から下ろし、男の湯飲みに訳もなく湯を注いで、一ト口飲めば、これさえもとても美味いとは思えない温さで、水に近いものであったのにも腹が立つ。ため息一つは色々の恨みで長く、やがて火箸を取って何の気なしに灰に埋もれた炉の火をかき起こせば、豆のように小さいのが五つ六つ、じっと見る間にやせ細って、それも遂に消えてしまった。ええ、忌々しいと訳もなく掻き回して、最後には火箸を投げ捨て、ぐるりと横を向いたその時、麦畑の間を庄屋と共にこちらに来る夫を見つけた。
おう、帰って来られたか、用事は何だったのか早く聞きたいのに、あの歩きようの鷹揚で遅いのが歯がゆい。我が家を見たら駆け戻って、女房帰ったぞと飛び込んでもよさそうなものなのに、あの年寄りの庄屋にまで後れて、アレ、霧雨が今晴れて悦んで出て来た喋々が肩に止まるような薄のろい歩きぶりは何事。人が淋しがって待っているのに気を回さずに、と思う内に眉もはっきり分かるくらいに近くなれば、草履をつっかけて四、五間走り出て、自分の夫には眼だけやって、言葉は庄屋に、
「よう早うお帰りになられました。道が悪くてさぞお困りだったでしょう」と例の早口で話しかけるのを、今日はそれを皆まで聞かず、庄屋は乾枯らびた顔に笑窪を作りながら、
「これ姉御、魂消なさるな、実はそのその、実はその、実はその大変で、えらいもので、青緡ではない方で、黄色の方で、何にせよめでたしでござる。正蔵殿はいい男でござる。首っ玉にかじり付いて嘗めてやりなされ、ハッハ、これは嬉しかろう、ハハ良いの、さようなら、また明日伺います」と、一人嬉しがって無性に手を振り、一つの所に立ち止まって、虚空を足で何度か踏みながら、辻褄の合わないことを言い、庄屋はいそいそと帰っていくのだが、それに引き替え、亭主は思い悩んだ様子で頭を垂れている。女房はそれを見て何が何だか分からず、心は雲に包まれ中有をさ迷っている感じである。
つづく