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幸田露伴「一口剣」現代語勝手訳  作者: 秋月しろう
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幸田露伴「一口剣」現代語勝手訳 上篇 -2-

 しばらくして、片手に徳利を提げながら、もう片手でつまを取り、小草おぐさの露の玉を踏み分けて、おぼろ月に惜しげもなく美しいおもてを見せつつ戻って来たお蘭、我が家をちょっと覗いてから、足を清めて静かに上がり、ぼんやり考えていた男と炉を挟んで坐った。

 酒が温まるのを待つ長い間、女は一言も喋らず、男も目を(つむ)ったままで、家はシンとしていたが、やがて鉄瓶から小壜こびんを引き抜き、一杯飲んでみて、お蘭はその猪口をすぐに男の手に載せ、

「サァ、お燗も丁度良し、快くあがってくだされ。先刻さきのいざこざは私が負けました故、あの禿げ頭を口説き落として何とかこれだけまた取ってきましたのを、ホホホ、褒めてやって堪忍してくだされ、謝りますに、機嫌を直して笑ってしもうてくだされ。まあ重ねてもう一杯」と折れて出ると、惚れた女房が勧めるのをたわいなく受けて、それを返し、また貰って、また差して、無理に重ねて、飲めないというのを助けてやって、二人とも酔い、ゆったりして、見れば女房の水髪(みずがみ)が少し乱れているのが男には可愛らしく、また、亭主がでっぷり肥えていて、しかもいつも愛嬌のある顔の眼の中が何となくいきいきと涼しげに見える今、女も男をひとしおいとしく思えるのだった。


 夫婦互いに睦まじく語らえば、妙なもので、心穏やかになった女の声は次第に小さくなり、男は逆に浮かれた勢いでか、気も大きくなって声も高くなり、暮らしを苦にするお蘭の話を打ち消して、ハハ、ハハとしんから面白そうに笑い、天井の一番遠い隅へ酔いを吹きかけながら、

「そのようにくよくよしないでくれ、思う者同士こうして暮らせば、下物さかなは塩辛い漬け物ばかりでもおれはうれしい。さっきみたいにそなたに怒られさえしなければ、貧乏もさほどに悲しいものでもない。蒲団は無くても歌の文句に『みちのくの十節とふ菅薦七節すがごもななふには君を寝させてわれ三節みふに寝む』というのがあるが、江戸を出る時そなたも元気がよく、陸奥みちのくの果てへでも連れて行ってくだされ、憂さもつらさも(いと)いませぬと小唄混じりにおれに言ったではないか」と、女の頬をちょいとつつく。女はその指先を捕まえて、痛くはない程度に噛んで突っ放し、

「およしなされ、悪さはなさるな。そんな手であどけなく悦んだのは浮気で逢った昔のこと。可笑(おか)しくもない。女房なればこそ心配して、酔いに任せて所帯じみた野暮な話もするものを」と尻目使いに力を入れて、ツンとしながら睨めば、男は頭を掻き掻き、

「そう言われては面目なし。縁とはいえ、夫婦になってから、亭主のくせに帯一筋買ってやることもできないのに、よく愛想をつかさずにいてくれるが、実はもしや見限られはしないかと、この太い腹の中でヒヤヒヤすることも間々(まま)あるのだ。しかし、おれとても一生こうであるはずもない。また、良い運の芽が萌えて……」

「さあ、その運の芽が萌えて出ているのが今だったら、ちょっと覚束ないところはあるけれど、何ぞ楽しみにするあてはありますか?」と突っ込まれて、男は少し行き詰まってしまったが、

「ハハハハ」と笑って、「マァ飲みやれ」と猪口を渡し、丁寧に注いでやり、自信ありげに身を反らして、

「別に変わった目当てもないけれど、こう見えてもこの正蔵しょうぞうは、当時天下第一と言われた武蔵守正光殿の教えを受け、かたじけなくも、あま麻比止都禰まひとつねみことの流れを汲んで、腕は十二の春より鍛え、四方詰め、三枚張り、二枚ばり、いずれも会得し、つかね、うわかわし、伸べかしの呼吸を心得、陰陽大事の焼刃渡し、深遠な秘密の湯加減まで、しっかりと骨髄に刻みつけて忘れず、棒剣、五分ぞり、八分反りの次第から、ひら作り、菖蒲づくり、かむり落としの色々までそらで覚えて、短剣、長剣作っては失敗することなし。こんなに浅ましく落ちぶれながら大言壮語を吐くと思うかも知れないが、おそらく日本六十余州の刀鍛工かたなかじを見渡したところ、おれの上に立つものは無し。この道に携わった後先あとさきはあるものの、おれの仲間や弟子を自分の眼で選んで相鎚あいづちとして一心こめて打ってぐるなら、師匠の作にも劣らないばかりか、名工の虎徹こてつ繁慶はんけいをもはるかに凌いで、天晴れ末代にまで伝わるべき宝剣をも作り得るのだと、日頃この胸の内にわだかまっているけれど、悲しいことに今の世に本物の眼を持っている武士は少なく、正宗と言えば鎺下はばぎしたが腐った物でも千両で買う者もいるが、名も無い鍛工かじの作といえば、五十年の命をわずか二尺足らずに縮めて鍛えなした利刀りとうにも、五匁ごもんめの銀を惜しむのが常である。しかし、おれはこの腕に覚えあるので、何日いつかは名を上げ、家を起こす時が来るのだ」と言うのを聞いて、つくづくその話を聞いて惚れ直したと女房は満面の笑みを浮かべて、

「名も上がり、富むようになったらどれだけうれしいことか。その時は、私を我がまま者としてお捨てにならぬよう。忘れもしない去年の春、私が迷ったのがおかしかったか? ええ、この憎い男め」とお蘭が差し出す猪口を正蔵は手ごと握って、

「何が捨てていいものか、この我が儘者を」と。

 ……後はひっそりして、ゆるゆると響いてくる遠い寺の鐘の音が低い軒を巡り、眠そうなお月様は井戸の桔槹はねつるべが上がった端にポッカリと浮かんでいる。


つづく

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