幸田露伴「一口剣」現代語勝手訳 上篇 -1-
幸田露伴「一口剣」を現代語訳してみました。
自分の訳したいように現代語訳をしていますので、厳密な逐語訳とはなっていません。
超意訳と言うよりも、ある意味勝手な訳となっている部分もあります。
大きく勘違いしている部分、言葉の大きな意味の取り違えがあるかもしれません。その時は、ご教示いただければ幸いです。
この作品は、筑摩書房「日本文学全集3 幸田露伴 樋口一葉集」を底本としました。
上篇
元気のよい雲雀の鳴き声も、やがて夕暮れの寺の鐘の音に包まれて、春の日は静かに暮れて行く。柳の蔭から徐々に暗くなり始めると、やがて月の光は小流れの傍らに咲く白躑躅だけをほんのりと染め照らす。が、その柔らかな光は地面の塵まで照らすだけの力はない。
霞がかかった鎮守の杉の森や庄屋殿の裏木戸の竹藪はそよりともせず、様々な鳥が夢の中に眠る夕べの景色に、風流とは縁遠い男も、煙管を咥えてそんな眺めを気持ちよさそうに眺めている。煙管の煙が長閑にたなびけば、嬶は昼休みにちょっと摘んでおいた土筆を煮て、その手柄の品を疲れた夫の膳に載せようとするが、そんな忙しい最中、しゃがんでいる母親の背面に回り込んで、肩越しに首を出す我が子に、「これかえ」と乳房を見せて共に笑うこの光景、極楽はそこから遠くはないだろうと思える田舎である。その村はずれに一軒の家がある。柱も傾き、屋根の藁もだいぶ黒くなって、しかも去年の冬をどうやって凌いだのか、あら打ちの壁土はあらかた崩れ落ちてしまっている。
今、そこから洩れてくる言い争いの声は忙しなく、癇ばしった女の声も決して上品とは言えないものであった。
「まだ欲しいと言われるか、その大きい腹も身の内、大概にしてほしいもの。私の足はもう酔うてフラフラ、厭、もう厭。歩くのはもう厭。それも、銭でも持って行くならまだしも、いつも金払いを悪くしていて、これ以上借りに行くのは、いくら向こうが商売でもいい顔はせず、さっきもたった二合ばかりと、三合と言いたいところを弱みがあるのでこっちから遠慮して言ったのに、あの番頭め、酢をなめたような難しい顔をして、『今度の月末には確かにお勘定を済ましてくれる当てはございますか、三月も前の分がまだそのままになっております。ちゃんと約束してもらわないと差し上げにくうございます』ともっともらしい切り口上。このはげ頭め、人の運は一寸先も知れないものを、行く先を見た風な言い草、当てがござるか無いとかと、よくもよくも蔑んだ言葉。なんの地酒の少しくらい、いや、たとえ一石、三石の借りになったとしても、蛙のいる溝の水で産湯を浴び、筵の上で這い這いの稽古をして育ったおのれら土百姓に見くびられる罪など一つもないわ、歯糞一杯の口をして小癪なことを言うなと、一本やり込めてやりたかったけれど、そうしては今夜はお酒が飲めなくなると、腹の虫を杉の香で殺すようにして、悔しいのを耐え、無理にお世辞をあんな奴に振りかけてやって、『ほんに先月はお気の毒なことをしました。実は地金の安いのを余分に買い込みましたため、お支払いすることができなくなりましたけれども、その代わり今度は鋤鍬や鎌など色々と注文を受けておりますので、間違いなく先々の分も一度にお勘定いたしましょう』と仕事もないのに真っ赤な嘘をちょっとこしらえて甘く欺してきたのに、またもう一度行くなんて、私は厭。飲みたければご自分で白鳥徳利提げてお出かけなされ。あまりにも気の利かないこと、私にはもう沢山。ナニ? おれはまだ酔わないとおっしゃるか、成程、半分ちょっとは私が飲んでしまいましたが、それが悪いのなら謝って、アア眠い、お詫びをいたしましてもう寝ましょう。夜は短し、グズグズしないで殿様もお休みなさいませ。フフフ、ええ? まだ何を五月蠅く小言を言われます。親切な人なら私に裏の清水を一杯汲んで持って来て、酔い覚めの甘露を勧めるくらいのことは働きのない腕でもできそうなことなのに、どこぞの国に男が酒を飲ましてくれと女房にせがむことがありますか。オヤ、お叱りですか、それは恐れ入ります。お叱りは恐ろしいこと。イエどうして、殿様を馬鹿になどはいたしません。本当によく才覚が廻られて、智恵がおありになり、貧乏にはおなりにならない、奥方の衣類、櫛簪を質になどはお入れさせなさらない結構な殿様をどうして馬鹿になどするものですか。昨日この頃のように苦しいことなど全くない暮らしぶり、将軍さまの御鬢を吹く風が通う江戸の町で大きくなった私が、こんな草深い片里の酒屋の奉公人風情に軽く扱われないのも皆殿様のお陰であれば、なかなか有り難く思っております」と、見事に喋り退けて、ガチガチと炉縁をはたいては、「ええ、この煙管の腹に何が詰まってる! 鈍の役立たずが」と放り出せば、今までおとなしかった亭主が少し太い声で、
「酒を買いに行くのが厭なら厭でよし。我に突っかかって来なくてもよかろう。恨みがましい文句は、言ってみればお互い様だ。我もお前のせいで、もう一年で天晴れ師匠様より許しを受けて立派な刀鍛工になるはずだったのに、ちょっとしたことでお前に引かれて、あの武蔵守正光殿に鞴の初中終の吹き様を教えていただいた大恩を余所にし、共に駆け落ちして故郷へ帰れば、一徹な親父様は承知されず、師匠の家の敷居の中に足を踏み入れることができないようなことをしでかしてきた者を我が家の鴨居の下はくぐらせるものか。その女と別れて武蔵の守殿に詫びて、それが叶ったならともかく、そうでなければ勘当だと言われたその時、お前も覚えていようが、お前の涙ぐんだ眼と自分の眼と見合わせて、不憫さが堪らず、もったいなかったが、親父様に背を見せ、二人手を引き合って、それからここに落ち着いたものの、いい仕事は無し、悔しいけれど農具鍛工となりさがってこの通り、お前が叔母の家を出る時に取ってきたという金も衣類も皆無くなったのがお前の腹立ちなら、師匠様、親父様に逢うこともままならないのが我の情けなさ。アア、もう今夜は酒を飲んでも甘くもなかろう。愚痴は五分五分、言ってもしょうが無いことは止めにして我も寝るとしよう」と、妻に怒った言葉は最後の方になると力なく、遂には独り言のようになると、これを潮時と立ち上がり、自分で戸締まりをしようと、貧すればこれも思うように動かない雨戸をガヂガヂ引き寄せたが、戻り様にいぎたなく横になった女を見て、思わず睨め付け、「お前に迷うてからが……」とブツブツ呟いた。
しかし、情ばかりで義のない出来合いの夫婦仲、情が濃いだけにお互いに勝手を許した間柄、諍いとなって、一悶着起こった後、それが済むと再び情だけが残るのか、
「お蘭、お蘭」と優しく呼んで、寝冷えするなよと、何やら掛けてやる様子。その時、女房はいきなり飛び起き、閉めていた戸をガラリと開け放して、乱れてほらほらと翻る裳裾にも構わず、白い脛を見せて駈け出して行った。
つづく