確かに人の話は聞かない方がいいかもしれない
歌とか本とかで、「あんまり人の話を聞かない方がいい」みたいな言葉を耳にしますよね?
自分は、それってどうなのかなぁと思っていました。
傷つきたくないから人の話を聞かないとしたら自己中です。それじゃあ一人よがりな考えになりそうです。
私は逆に、もっともっと多くの人の意見を聞き、すべての意見を尊重すべきなのではないかと思っていました。そして、「意見の違うみんなの声をどこまで否定・排除せずに受け入れられるか」が重要なことではないかと考えていました。
要は「インターネット」のような存在を目指すべきではないかと思ったんです。
もし私がネット上に「タンポポはイネ科です」と書き込んでも、システムやパソコンは「その情報は間違っています」と教えてくれません。また、差別的な意図を含む発言をしても、「ネット」自体は止めてくれません。
人が注意をしてくれることはあります。ネットを見たり考えたり、情報を受け取ったりするのは人間です。
しかし人は間違いも犯します。誤った情報を流したり、何の罪もない人に攻撃を仕掛ける人もいます。
それでも「インターネット」という仮想空間は無感情で寛容で、発信者に悪意があろうと無かろうと関係なく、すべての情報を無差別に受け入れ無限に膨張します。これは宇宙のようです。
私は、できることならそういう存在になりたいと思いました。
人の話を聞く時に、私は「こういうことは良い、これは悪い」という先入観を持ったまま耳を傾けます。なので感情的になりやすく、自分で勝手解釈して「意味」を付けがちです。
そしてことあるごとに人の意見を否定しようとします。これは良くないから、理性的になるためもっと感情を減らすべきだと思いました。
感情を減らすという方向性自体は間違いじゃなかったかもしれません。しかしここ最近、自分の信念や喜び、好奇心を放り投げてしまっていました。
やけに憂鬱で不快で暗い気分になったのですが、原因が分からず、何だろうなと思うまま心が不安定になりました。
これは文字通り「気のせい」です。しかし「気」を甘く見ると痛い目に遭います。
この不快感は、例えるなら
「いつもお世話になっている、尊敬している人がみんなから陰口を叩かれている現場を目撃した。私は『違う、あの人はそんな人じゃない!』と叫びたかったけれど、勇気が出ず言えなかった。それどころか、みんなから『貴方もそう思うよね?』と言われて、思わず『うん』と答えてしまった」
……という感じです。
また別の例えをするなら、踏み絵をさせられた感じです。
要するに「尊敬している人、信仰の対象、あるいは仲間を裏切ってしまった」感覚です。
何が原因で、いつの間にそんな不快感に浸っていたのか考えてみると、どうも「私の好きなものを否定してくる人を見た時に、私の感情を押し殺したこと」が理由です。
自分にとっては好きなものでも、他の人にとっては嫌いなものだったりします。中には感覚を否定してくる人もいます。感情を手放せばそのような方とも理解し合えるかと思いましたが……これは危険です。
悟りました。私には多くの人の価値観や意見を受け入れられるような器はありません。私は「いい人」にはなれません。
世の中には「いい人」がいますが、すべての人がいい人になれるわけないんです。「いい人になりなさい」って言ってくる人がいるかもしれませんが、身の丈に合わない善人を演じようとすればパンクします。
善人になれなくて結構。自分の好きなものを第一に守るのがオススメです。好きなものを悪く言われたら怒ればいいし、反論していいと思います。
「絵が好き」とか「音楽が好き」などといった大きなことは滅多に見失わないと思うんですが、人には「漠然と好きなこと」がある気がします。「何がどう好きなのか説明できない程漠然としたこと」です。
例えば、「ここから見える景色が好き」とか「この自販機でジュースを買って飲むひとときが好き」とか。
見失っても支障がないレベルの「好き」であれば別にいいでしょうが、好きという自覚がない割にそれを失うと精神に致命傷を受けるレベルのものもあると思います。
「好きなもの」は大事です。失って気付く前に、何が好きなのか自覚して守った方が良さそうです。
以上で話は大体終わりです。ここから先は、「結局私の好きなものは何だったのか」という話になりますので、興味がなければお戻りください。
えー、私は以前から「自然」が好きでした。
ただ、本気で好きな人と比べると漠然としたもので、「なんとな~く海とか空とか山や森が好きなんだ」という感じです。
なので正直、自分の気持ちをナメていました。「別にこの柱を失ったところで倒れやしないだろう」と。
そして好きだという自覚が足りないまま過ごしていました。
好きだという自覚が足りないので、自然の偉大さを否定するようなものを見かけても気付きません。精神にダメージを負っても気付きません。特に人の言うことに「一理あるな」とか「正論だな」と感じた時は、すんなり受け取ってしまいます。
人の意見を聞くことにより自分の世界観を広げているつもりになっていましたが、逆になんと狭めていたんです。
この間、ぼんやりと「水」のことを考えていた時に、水をテーマにした番組がテレビから流れてきました。
その時水に話しかけられた気がして、それをきっかけにぼんやりと自然のことを考えていたんです。
それまではなんとなく憂鬱だったんですが……自然のことを考え始めると急に気分が軽くなって、リフレッシュできました。
そしてそのままずっと自然に意識を向けていると、「楽しかった思い出」がどっと頭の中に戻ってきたんです。
しゃがんでダンゴムシを眺めたこと。海で遊んだこと。山から見た満天の星空が綺麗だったこと。野のまわりを走り回ったこと。雪や田んぼや森が綺麗だったこと。
記憶というより、「楽しい」「好き」という感覚を思い出しました。
「自然が好き」と言いましたが、ただ好きなだけではなかったんです。
小さい頃、わけもなくはしゃいでいた理由が分かりました。
「自然に心があることを知っていたから」「自然からの愛情を感じていたから」です。
山や野や川から、理屈以上の「何か」をずっと受け取っていました。きっと子どもはみんなそうです。
世界には、「神の声を聞いた」という人がいます。「幽霊が見える」「動物と話せる」「未来が分かる」「人の痛みを感じる」という人もいます。「ピンときた」「運命を感じた」と言う人もいます。
私には何の力もありません。あんまり感受性が強くありません。
けれどそんな私でも確実に「何か」を受け取っています。「おてんとさん」とか「神」と呼ぶようなものから。
そしてこれは、自覚がなくてもきっとみんな感じているものです。ずっと吸っているのに意識しないと感じられない「空気」とか「酸素」みたいに。
命に感謝して「いただきます」を言う、その相手も大きな「何か」です。
この気持ちは自然信仰かなぁ……と思ったのですが、よく考えたら自然だけに感じるものでもないです。
夜景を見た時など、一歩引いて町を俯瞰している時には優しい気持ちになれます。基本的に人は苦手ですが、「この光景の中に何百人、いや何千人の人間がいるんだろう」と考えた時に嫌な気持ちにはなりません。
ビルとか観覧車とか、道具や乗り物や機械からも愛情を感じます。物はどんな人間が相手でも同じように動いてくれて偉いです。
素敵な音楽を聞いた時にも、人の力を越えた「何か」を感じます。
なのでこれは……「宇宙信仰」ですかね。
地球は宇宙の中にどっぷり浸かっているはずなので、地球の自然も人間も何もかも含めて「宇宙」です。森羅万象とも言えますね。
人間には愛がある、とここで断言します。そして「愛」を持つ人間を生んだのは宇宙なのだから、人間は宇宙の一部であり、宇宙の本質は愛であると断定できると思います。
宇宙にある物質が生命を生んだのだから、宇宙にある物質・素材は「思考することが可能」なのです。
だったら万物が意識を持っている可能性があります。私たちの認識レベルでは捉えきれないだけで。
虫を見ると、アリが子どもの世話をしていたり、ハチが巣(国)を守るために戦いを挑んできたりしますね。小さくても人間と似たようなことをしているな~と思います。見ようによっては人間界の縮図みたいです。
ということは、人間界も何か大きなものの縮図なのではないでしょうか。自然の摂理(弱肉強食)を超越する「愛情」の答えが、そこにあるのではないでしょうか。
なのでその「大いなる何か」、つまり宇宙を信仰したいと思います。
太陽があそこにいてくれて、植物が太陽の力を借りてエネルギーを作って、酸素を産み出して、私たちが植物を食べたり酸素を吸ったりして生きてゆけるのも偶然じゃないと思います。
太陽様々、植物様々、生産者様々です。
コンセントにもゴミ箱にも置時計にも歯磨き粉にも、感謝を捧げ尊びたいと思います。
皆様もおひとつ、宇宙信仰はいかがですか?
試しにこれから一週間……いや3日くらい、「この道具にも、雲にも、虫にも、山にも、町にも魂があるんだ」と、一点の曇りもなく、強く強く意識してみてはいかがでしょう。
別に行動は何も変えなくて良いはずです。ゴキブリを殺したり、酔った勢いで「世界のバカヤロー!」と叫んだりしても多分問題ないかと思います。
宇宙信仰しても特に何も起こらないかとは思いますが、もしかしたら……劇的に人生観が変化するかもしれません。