フレーバー
深夜2時、私は後悔の念で、一人頭を抱えていた。
さっきまであいつが寝転がっていたベッドは、まだかすかに香りを残している。大きく息を吸い、またもっと大きく息を吐く。
「やっちまった。」
大学時代の女友人と何度目かの同窓会、目の前のメンツはまだ大し懐かしいわけでもなかったが、大いに再会を祝したくなった私は、それだけ大いに酒を飲んだ。それはもう、今生の別れを覚悟した大親友と再会できたかのごとき飲みっぷりだった。最近いろいろなストレスを溜め込んでいたので、そんなストレスと関係のない彼女らに会えるのが本当に嬉しかったのだ。大学時代の思い出話や、彼氏の話などに花を咲かせ、本当に大学時代に戻った気がして、楽しかったが少し切なかった。
そして会はお開きとなり、ふらつきながらも夢のような時間を抜け出して家路についた。
家に帰るとやつがいた。
帰るとやつがいるのはそこまで珍しいことではない。合鍵を渡しているのだし、私たちはそういう関係だ。むしろ普段なら喜ばしいことであった。
しかし、その時私は酔っていたのだ。酒と青春の夢に。
「ただいまぁ」
「酒くせぇ」
愛しの彼女が帰ったのにあんまりな第一声だった。そういうやつなのだ。
「今日は飲みました。飲みましたとも!青春を飲み干した!」
「なんだそれ」
それでもやつは、心底呆れた顔をして、少し笑ってくれる。そして言った。
「シャワー」
浴びて来いということだろう。異論はない。
「うん。そうする。」
この時、素直にシャワーを浴びて酔いを醒ましていればよかったのだ。そうすれば、嫌がるやつにアルコールフレーバーのキスをお見舞いして、ひとしきりじゃれ合って気持ちよく寝られただろうに。もしかしたら、セックスの一回や二回する気になったかもしれない。しかし無意識に、唐突に、私は言葉を発していた。
飲み干した青春の度数は、私が思っていたよりも強かったようだった。
「ねえ、私が浮気をしたらどうする?」
ストレスとか、青春の夢とか、アルコールフレーバーとか、要するに私は狂っていたのだ。そして、やつの答えは私をもっと狂わせた。
「別にどうもしねえだろ。」
それからはもう、醜いのなんのって。
「なにそれ」
「浮気しても良いの?」
「あんた私のこと好きなの?」
「ほんと、冷たい」
どんどん口から溢れる言葉を私は止められなかった。やつは心底面倒臭そうに三回に一回くらい応える。
「別に浮気しろなんていってねえ。」
「なんでそうなんだよ。」
そして最後に一言。
「なんだお前、束縛されたいの?」
冷たい目でそう言った。
私の感情のキャパシティーはその一言で振り切れ、一瞬の静寂の後、泣いていた。
私たちの関係は、確かにお手軽な感じで始まった。そのお手軽さが心地よかったのは、お互いが束縛やしがらみかに疲れたていたからだった。そんな関係を私は壊した。最悪の壊し方だ。他にもっとやり方はあったはずだった。
やつはため息をついて玄関の方へ歩いていく。泣いている私を置いて。
「どこ、行くの?」
「公園」
「……蚊、いっぱいいるよ?」
「……」
バタン。
さっきの場面を何度も反芻しながら、さっきまでやつが転がっていたベッドに突っ伏し、ひとしきり泣いて、今に至る。
やつの家はここから歩いて帰るには遠すぎる。泊めてもらえる知り合いも近くにはいない。それで公園に避難したのだろうが、今は8月。こんな暑さの中で野宿なんかした日には、いくら体力があったって倒れてしまう。蚊にも刺されてしまう。醜態をさらしてしまった恥ずかしさや、気まずさ、やつに会う怖さよりも、そんな心配が勝って、やつのいる公園へ私は向かった。
やつはベンチに寝転がっていた。
「寝転がり大魔神……」
とか訳のわからない悪態をつきつつ、私は恐る恐る近づいた。ベンチの脇には、コンビニで買ったであろう虫よけスプレーと2リットルのスポーツドリンクが2本。さすがに眠ってはいないようだが決してこちらを見ようとはしない。
「あの、ごめん。私が悪かったから、今日は帰ろう?こんなところで寝てたら倒れちゃうよ。」
「……」
「家にガリガリ君もあるよ?帰ろ?」
「……」
「……帰りにハーゲンダ」
ッツを買ってあげるから。言いかけたところで、やつは黙って立ちあがって、虫よけスプレーとスポーツドリンクを袋に入れて歩き出した。
「考えてた。」
道すがら、やつはポツリと呟くように言った。
「……何を?」
「お前他に好きなやついるのかよ?」
「いないよ。」
「浮気、したいのかよ。」
「いや、そういうわけじゃなくて……」
「だったら今は何も考えず俺のそばにいればいい。」
その言葉を聞いて、私は心の中の醜いものがスッと溶けていくのを感じた。
灼熱の夜、やつは考えてくれていたのだ。熱中症を心配しながらスポーツドリンクを4リットルも買って。野宿も覚悟の上だったのだろう。
「何も考えず俺のそばにいればいい。」きっとそんな結論を手に入れるために、酒臭い彼女の言うことを真に受けて、考えるのは苦手なくせに考えてくれたのだ。
説明下手のやつは、結論をポツリと呟くだけだった。しかしなぜか私にはやつの言葉の裏にある思いを、その重さを、言葉には出来ないが理解することが出来た。それがたまらなく嬉しかった。
私はやつのそばに寄って大きく息を吸ってから、言ってやった。
「汗くせぇ」
「……」
やつは黙って先を歩く。私は少し早足で追いかける。帰ったら、キスをしたい。酒臭いと嫌がられても、お見舞いしてやろうと思う。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
あなたは私にとって、初めての読者です。
読んでいただけたことが嬉しく、楽しんでもらえたならさらに嬉しく、少しでも何か印象を持っていただければこの上ないです。ありがとうございました。
近々、二作目の短編を公開します。少しでもあなたの日々のお楽しみになればと思います。