表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
気ににゃる彼女。  作者: 水瀬透
5/6

4 ナイフより毒より強いもの

 4 ナイフより毒より強いもの


 「お前は自分が王様でなくなっても、ねこを王様にしたいのか?」

 頷くねずみに「どうしてそんなにねこに入れ込むんだ?」と神さまが聞くと、ねずみはねこに憧れていることを打ち明け、ずっと友達になりたかったことも話しました。今回のことで嘘つきだと思われてしまったら、謝っても許してもらえないかもしれないと。

 そんなねずみに神さまはしばらく考え込むと「それなら、わたしと賭けをしようか」と言いました。

「もしお前がわたしの出した条件を満たすことができたら、ねこを王様にしてあげよう」

 ねずみは一も二もなく頷きました。「何をすればいいのですか?」と言って、「どんなことでも、わたしにできることなら叶えてみせます」と一生懸命神さまを見上げるねずみの後ろから、恐ろしい声が響いてきました。

「ねずみはどこだ! よくも騙したな!」

 ねずみはどうにか話をしようと「ごめんなさい! 誤解なんです!」と逃げながら叫びましたが、ねこはあんまりにも怒っているので聞こえません。

「どうして騙したんだ! 嘘つき!」

 ねこに責められるたびにねずみの心は傷つきましたが、ねこがどんな気持ちだったのかを考えると、もっともっと痛くなりました。ねこはどんなに酒盛りを楽しみにしていたのでしょう。早起きをしようとみんなのように早く寝床に入ったのでしょうか。ねずみの心は痛くて痛くて、涙が滲みました。

 ようやくねこから逃げて、うまく隠れると、神さまがぽん! と小さくなって現れました。

「ねこはお前と友達になるどころではないようだね」

 ねずみはしょんぼりと頷きました。神さまは頷いて「さっきの話が途中になっていたね」とねずみに言います。ねこが追いかけてきたので、賭けの内容をまだきいていませんでした。ちいさな神さまはねずみに言いました。

「ねこがねずみを憎まなくなったら、ねこを王様にしてあげよう」



 ☆



「一宮が転校するって知ってたか?」

「は?」

 木ノ葉がいつもの笑顔を引っ込めて、珍しく真顔で聞く。何とも言えない表情で腕を組んで、木ノ葉がため息をつく。

「昨日潮先輩からものすごい剣幕で電話が来た。ミケ、心当たりあんだろ?」

「昨日? ていうかお前先輩と知り合いだったの?」

「それいまはいいから。心当たり。あるの? ねえの?」

「心当たりって言ったって、そんなのないよ」

 確かにその日は早朝勉強会にすずみは現れなかった。欠席でなく遅刻だと担任が言ったので昼休みを楽しみにしていたケイは、木ノ葉の言葉に頭がついていけなかった。

「何言ってんだお前、だいたい――」

 苛立ったふうに声を荒らげた木ノ葉が急に口をつぐむので、ケイもつられてそちらを見ると、すずみが教室に入ってくるところだった。いつも通りの無表情だと思う間もなく、木ノ葉がケイに絡むように後ろから首をホールドした。

「いって、」

「いいかミケ、お前あんなに追っかけてたんだから、最後までやめんな?」

 苦しいというケイの訴えは却下され、木ノ葉は口早に言った。

「今日を逃したら一宮は間違いなくすぐに転校する。本当なら今日にでも行くとこだったんだ。絶対貫け。」

 バカミケ、と頭をすぱこーんと叩いて木ノ葉は自分の席に戻っていった。と同時にすずみが席にストンと座る。転校、という言葉がケイの頭をぐるぐるまわって「おはよう」を言い損ねてしまった彼をすずみがちらりと見たような気がしたけれど、ついに視線が合うことはなかった。

 木ノ葉がやれやれとため息混じりに頬杖をついていた。


 ☆


「すずみさん、転校するの?」

「……」

「急に転校って、なんで?」

 昼休み、屋上の屋上に現れたすずみにケイは聞いた。風のよく鳴る屋上で黙ったまま、目を合わそうとしないすずみに焦れて声が大きくなる。

「そんなに辛かったんなら言ってくれれば、」

「言ったら!」

 いつかのように遮ったすずみは、それでも泣いていなかった。聞いたことのない彼女の大きな声に呆気にとられるケイに、すずみは噛み付くように言う。

「言ったらやめてくれるっていうの? あなたは知ってたんでしょう、わたしがねずみだって。――あれがねこの仕業だって知ってて、ねこのあなたが友達のふりまでして、なんなの? どうしてそこまで干支なんかにこだわるのかわからない」


 ――友達のふり?

 なんのことだと言おうとしたケイの背筋が冷える。――昨日?

『坊ちゃんは、仲のいいふりをされているのでしょう?』

『もちろんそうですよね?』

『ああ、まあ、そうだよ。そうに決まってる』

 昨日のやり取りが甦る。とりあえず頷いた自分の言葉。――まさか、聞いていた?

 すずみは普段の彼女からは想像もつかないくらい感情を、苛立ちをあらわにしてケイを睨みつける。「もういい」そう呟いて屋上のフェンスに手をかけ登り始めた。ケイたちのいるところはフェンスの半分ほどの高さがある。ケイが止めるも届かず、すずみは手前に少し折れ曲がっているフェンスを危なげなく登っていく。

「ちょ、すずみさん危ないっ」

「なによ、ねずみが一番乗りしたほんとうの理由も、どうしたかったのかも知らないくせに追い回して。だから、――だから、わたしはどこか遠いところに行くしかないっていうのに、どうしてミケくんが引き止めるの?」

「理由? ちょ、すずみさん、なんのこと?」

 トンと向こう側に降りたすずみはケイを見上げて「飛び降りたりなんかしないよ」とくるりと背を向けてすとんと腰を下ろした。空を見上げて大きく伸びをすると、つかえが取れたように言葉を紡いだ。どうして? と。

「どうして、ミケくんはわたしに話しかけたりしてくれたの? わたしがねずみだって知っていたなら、あの嫌がらせはミケくんのおうちが絡んでいたんでしょう? まあ、ほんとうにいじめられたけど。人間も獣もたいして変わりはしないね。くだらない。――いじめて、助けて、友達の振りまでして? そんなに、ねずみが憎い? まあ、ミケくんが教科書とか破いてたとは思えないけど、――もうわかんないや。」

 ねえ、どうして? と首だけで振り向いたすずみは、ほんの少し目を細めていた。


「もう、関わらないでくれるかな。これ以上かなしくなりたくない」

 泣きそうな――初めて見た、わらった顔はあまりにかなしくて。


 呟いて、ケイに背を向けてフェンスにもたれるすずみに、ケイは何も言わずにすずみと同じように――すずみより危なげなくフェンスを登ると、ほとんどてっぺんから軽々と彼女の隣に着地した。目を丸くしているすずみの腕を掴む。

「あぶないよ」

「……」

「戻ろう?」

「……ミケくんもあぶない」

「おれはいいよ、戻ろう?」

「……」

「すずみさん、おれは――」

「ほっといて」

「それは嫌だ」

「やだって、ねこなのになんで?」

「それはいま関係ないでしょ」

「だから、なんで構うの?!」

 もう離して! ほっといて! 掴まれた腕を振りほどこうとするすずみに、ケイは気付けば叫んでいた。


「好きだからだよ!」


 え、と固まってしまったすずみに言い聞かせるようにケイは繰り返す。すずみがどこにも行かないように、一人になんてなれないように。

「すずみさんが好きだよ。だから、構うしほっとかない」

「……そんな、でも」

 すずみは泣きそうな顔でケイを見上げる。優しく見つめるケイからうろうろと視線を彷徨わせて俯いてしまった。

「すず――」

「坊ちゃん!」

 口を開こうとしたケイの後ろから、猫たちが飛び出してくる。

 どうやら校庭の木から窓に飛び移って、校内の階段から登ってきたらしい。校舎のパイプやらを伝ってフェンスの外にも猫が居るのを見て、だから昼休みに一緒にいたこともばれていたのかと今更ながらにケイは自分の迂闊さに舌打ちした。 

「坊ちゃん! どういうことですか?!」

「そいつは、あのねずみの子孫でしょう?!」

「干支外れといってもあなたは本家の、その直系なのですよ?!」

 ケイとすずみを囲んで、じりじりとねこたちが迫る。

「退け。」

 口々にケイをなじる猫たちの間から、叔父がのっそりと姿を現した。軽蔑した目は、それでもケイではなくすずみに向けられたまま。舌打ちして、見下すように鼻を鳴らした。

「たぶらかされたか。それをこちらによこせ、ケイ。」

「いやだ」

「……もう一度いう。そのねずみをよこせ。」

「いやだ。」

「そのねずみが何者か分かっているのか?! 忌まわしい、」

「違う。彼女はひとりの人間だ。」

 ケイはいつもののんびりとした日だまりのような空気をがらりと変えて、長い前髪の間から射殺すような視線を返す。

 ふざけんな、と低い声にねこたちに緊張が走る。いまやケイの全身から殺気が立ち上っていた。

「ふっざけんな!! 誰も、理不尽に傷つけられる理由なんてないんだよ!」

 叔父が聞くに堪えないとばかりに殺せと叫ぶ。

「ああもういい! 二人とも祟り殺してしまえ!」

 呪え! 祟れ! 報復だ! その声に干支はずれのねこを支持し、崇拝する数え切れない猫たちが一斉にケイとすずみめがけて飛びかかった。鋭い牙を、爪を向けて襲いかかる。


 ケイはねこたちからかばうように、怯えて固まっているすずみの腕を引き寄せた。突然のことにすずみはあっさりと素直にケイの腕に収まった。何が起きているのかわかっていないであろう彼女をぎゅっと抱きしめて、ケイはすずみに囁く。

「ごめん、絶対怪我させないから――信じて。」

 抱きしめられたことに戸惑う間もなく、すずみの身体がふわりと浮いた。


 軽やかにコンクリートを蹴って、ケイは屋上から飛び降りた。


 しっかり、守るように。守りたいとケイは抱きしめた腕に力を込める。

 そっとすずみがケイの胸にすがりつく。ふわりとあの香りがケイの鼻をくすぐった。――ねずみのものじゃない、すずみの香り。


 彼の大好きな女の子の香り。


「……さて、と。しっかり掴まっててね」

 落ちながら、ため息混じりに苦笑いしてケイが呟く。微かにすずみが頷いたのを確かめて、彼は彼女を抱きしめたまま、くるんっと宙返りをして、トントンっと壁を蹴って衝撃を殺すと――そのまま、怪我どころか足音も立てずに中庭にすとんと着地した。


「すずみさん、大丈夫?」

 ゴメンネと苦笑いしたケイが腕を解くと、すずみはその場にへたり込んでしまった。

「み、ミケくん……?」

 ほんとに猫みたい、と屋上を見上げて呟く彼女にケイはため息混じりにゆるくわらってみせる。

「すずみさんは、ねずみの特徴とか受け継いでないみたいだね」

 小柄なとこくらい? と困ったようにわらうケイの長い前髪の向こうには、不思議な色の瞳があることをすずみは知っていた。――そうだ、あれは猫の目とよく似ていたんだといまになって彼女は気づいた。

 しかし、ケイが悩んでいたのはこの運動神経だった。猫並みの、人並み外れた運動神経。

 アメリカでは、猫には魂が九つあるという。

 それは人間から見れば命がいくつあっても足りないような危険なことを、ねこがあっさりやってのけることから生まれた言葉だ。

 だから、ケイが普通にしていると、それは嫌でも人の目に止まる。

 小学校の頃からケイはのんびり屋だったけれど、熱中するとサッカーのゴールネットやバスケットボールのゴールにぴょんと飛び乗ってしまうことがあった。――そんなケイを気味悪がらずにいたのは木ノ葉くらいだった。「すげーじゃん」そう、わらってくれたから、二人は仲良くなった。

 両親はあんまり驚かさないようにねというくらいで、とくに気にすることも、ケイのことを隠そうとすることもなかった。だからケイはのんびり屋のままで成長し、化けることには右に出るもののいない木ノ葉と考えたり、アドバイスを受けたりして、のんびり屋の昼寝好きでいることができた。


 それは、すずみが優等生でいることを選んだことと同じだったかもしれない。

 干支のねずみの子孫だからといわれて育った彼女の、最大の盾にして矛。

 ひとりを選んででも叶えたかった彼女の秘密は、誰かと分かち合えるものではなかったから。


 どこも痛くない? 怖がらせてゴメンネ。座り込んだままの彼女に視線を合わせるようにケイはしゃがんだ。

「でも、嘘じゃないよ。フリなんかじゃないのは、ホント」

「……」

「好きなのも、ほんとだよ」

「……」

 見上げるすずみの目は戸惑いに満ちている。

 不意にみゃあと鳴き声がして、木々を伝い、または校舎から飛び出してきたねこたちが二人を取り囲む。肩をびくつかせるすずみに「もう何もしてこないよ」と射殺すような視線を向けてくる叔父に、ケイは鋭い目を向けた。

 実際、ねこたちは攻撃どころか、二人から一定の距離をとって近づこうとすらしてこない。


 ねこの喧嘩はハッタリ勝負だ。

 置き去りの屋上で分家の猫たちの悲鳴が響く。基本的にねこは同族同士で争わない。避けて通れないときでさえ、牙や爪を相手に向けることはほとんどなく、やたらめったら相手を傷つけたり、まして殺したりなんてしない。威嚇や寸止めを繰り返す、いわばチキンレースみたいなもので、最後まで強気だったものが勝負を制する。

 祟り殺せと叔父は言ったが、それでケイがすずみを差し出せばいいと考えていたのだろう。手を引けばいいと。

 ハッタリの掛け合いは、だからこの勝負はケイの勝ちだった。


 ☆ 


「はーい、そこまでー」

 ぱんと手を打つ音に振り返ると、そこにはケイとすずみの担任の神宮が立っていた。

 はああっとわざとらしいくらい大きなため息を聞えよがしについた神宮はねこたちを見回して「ったくあんたらばかなの?」と頭をかいた。

「まったくあんたら何やってくれてんだ。流行りのモンスターペアレンツも驚きだろうよ。なにこれ、なによその家の子供いじめてんの? しかも厳密には宮尾の家族でもないし……ったく仮にも女の子に寄ってたかって恥ずかしくないのかね」

 無気力な神宮の口調に、どうしてか猫たちは完全に気圧されている。数匹の猫にやっと支えられ、ほとんど担がれてきたケイの叔父は、ケイと目を合わせると、ふらふらとめまいを抑えるように額に手を当てる。ため息をひとつついた神宮はケイとすずみに笑顔を向けた。いつもの、頼りない砕けた笑顔。

「宮尾も一宮も、怪我ないか?」

「先生、なんなの……?」

「カミサマ。」

 ケイの問いに神宮がさらりと答える。

「干支を集めた、カミサマの子孫だよ」

 呆気にとられるケイとすずみに「まあオレはこのとおり何にも出来ないしがない高校教師だけどな」と頬をかいて、誰かを呼んだ。

「おーい、そろそろ出てこーい」

 ぞろぞろと現れたのは、付き人を従えた和服姿の厳ついおじいさんだった。「じじさま?!」とすずみが素っ頓狂な声を上げる。

「貴様ァ!!」

 ケイの叔父が先程までの倒れそうな様子は何処へやら、獲物を捕らえるようにすっ飛んできた。

 眉を寄せた老人も叔父の姿に、鬼のような形相を浮かべた。

「ここであったが百年目ェ! 覚悟しろネズミ野郎!!」

「こちらの台詞じゃあこの猫畜生!!」

「ああ?! ネズミーランドで夢見るボケたじじいに何ができるって?」

「なんという侮辱! 貴様ごときにネズミーランドの素晴らしさが分かるものか」

「わからなくて結構。はっ、世界中を虜にするハロハロキティの素晴らしきことよ」

「なにをいうか。やれブランドだ、やれゆるキャラだとコラボレーションしまくっておる猫のどこがいい」

「なんだと?!」

「だいたいトノとジュリーのあの聡明なねずみを見てわからんか」

「これはこれは。あれはトノがわざと負けてやっておるのがわからんとは驚いた」

「こんの猫畜生が! うちの孫が毎週楽しみに見ておったアニメを愚弄するか?!」

「貴様の孫などいくらでも愚弄してやるわ! うちの甥をたぶらかしおってからに」

「何をいう! そもそもうちの孫娘に散々嫌がらせしてくれたそうじゃないかええ?!」

「んなこと知ったことか! 元はといえばねずみが騙したからうちの甥も笑いものにされてんだぞ?!」

「騙しただと? 話を聞く耳も理解をする脳みそも少ないと見える。哀れなことよ」

「うちの甥までたぶらかしといて何を言っておる。だいたいうちの甥がどんなに優秀かわかってるのか?!」

「うちの孫娘こそ素晴らしい優秀な自慢の孫娘じゃ! これを見ろ! たぶらかしたなどと言いがかりも甚だしい!!」

「それがなんだ! こっちを見てもそんなものを出していられるか? うちの甥はなあ、」

「なんだなんだ。うちの孫娘はこんなに、」


「はーいはいはい、そこまでー」


 はいはいはい、と手を打ち鳴らした神宮に、ぽかーんとしていたけいとすずみも我に返る。

「あー、ったく。喧嘩はあとで勝手にやってくれ。孫自慢も甥自慢も後。」

 まずは挨拶でしょう、いい大人がこれ以上子供におかしなもの見せないでくれと面倒そうにため息混じりに告げる神宮に、バツが悪そうにすずみの祖父とケイの叔父がそれぞれ手に持っていたケイとすずみの写真やらアルバムやらを片付けて口を閉じた。

「……失礼。わたしが干支ねずみの現当主です」

 すずみの祖父は、神宮に頭を下げた。

 すずみの祖父が「すずみ」と呼んで、へたりこんだままの孫娘を見た。

「お前は、ばあさんから聞いて知っているのだろう? だから、ここまで我慢した。違うか?」

「……」

「すべて聞いた。鞄も、制服も隠れて洗っていたんだろう? ずっと誰にも言わないで、頑ななところはばあさんそっくりだ」

「かくし……?」

 黙りこくったまま俯くすずみの代わりに声を出してしまったケイが慌てて口をつぐむ。――ずっと一人で耐えていたなんて知らなかった。

 そんなケイに向きなおると、すずみの祖父は口を開いた。

「干支のねずみには、代々伝えられてきたことがあった。牛の頭に乗ってまで一番に到着しようとした、本当の理由と、約束を――」

 理由? 約束? とケイがすずみを見る。本当の理由も知らないくせに――彼女は屋上でそう言ってはいなかったか。

 そんな彼の隣で、すずみは小さな頃に祖母が毎晩話してくれた、秘密のお話を思い出していた。

 ――いいかい、すずみ? ねこは、ねずみに宴会の日にちを、わざと一日遅く教えられたとお話ではいわれていたね? 二日に顔を出したものだから、顔を洗って出直して来いなんて言われてしまって、だから猫はいまでもしょっちゅう顔を洗ってるんだって。

 でも、本当はね、ねずみはねことずうっと仲良くなりたかった。だけどなかなか話しかけられなくて、いきなり話しかけられて驚いてしまったんだね。だから、日にちを間違って教えてしまった。追いかけようにもねずみには猫がどこにいるかわからなかった。

 だから、ねずみはなんとしても一番に神さまのところに着いて、お願いしようとしたんよ。

 猫に間違った日にちを教えてしまったから、猫を十二支に入れてもらうか自分の代わりに猫を入れてもらおうと、お願いするために誰より早く神さまのところに行ったんよ。

「――しかし、自分で覚えていなかった猫にも非はあるからと、猫を十二支にしてくれという先祖の願いは受け入れられなかった。それでも、ひとつの条件を出された」

 すずみの祖父の言葉を繋いだのは、その孫娘。


「……猫が、ねずみを恨まなかったら、そのときは違う形で猫を王様にしてあげる。神さまはそう言ったの」


 祖母の声はすずみの耳にいまでもしっかり残っている。その笑顔も、心も。

 ――ねずみは謝ろうと猫を探し回ったけれど、怒った猫はねずみをあっさり見つけて追いかけてきた。これじゃあ神さまに見つかったら話がおじゃんになってしまう。だから、ねずみは話を聞いてくれる猫が現れるまで、猫から身を隠して生きてきたんだよ。


 ――すずみ、あんたが出会えたらいいね。


 ――ハッピーエンドを、作れたら素敵だ。あんたなら、できる。


 祖母はそう言って、優しくわらって小さなすずみの頭を撫でてくれた。ねこがかわいそう、そう言って泣くすずみに願いを託した。

 そして彼女は出会ったのだ。

 いつも寝てばかりの、それなのにいくら突き放しても優しくしてくれる猫に――ケイに。


『隙を見せてはいけない。先祖に恥じないよう立派でありなさい』

 幼い頃からそういわれてきたすずみは、にこにこわらっていても、転んで泣いても同じことを言われた。

 すずみは自分が猫を引き寄せることを知っていた。

 幼い頃に寄ってきたねこと遊んでいたら、祖父にものすごい剣幕で叱られて頬を叩かれた。そのまま風呂場に放り込まれて、ねこには一切近づくなときつく言われた。先祖に恥じない人間になるためと、行動を制限するために習い事を詰め込まれた。


 すずみは猫を王様にするために、何があっても顔色一つ変えずに耐えていた。

 先祖のねずみの思いを伝えたくて、だいすきな祖母の願いを叶えたくて、何をされても黙っていた。どんな嫌がらせにも、ケイが居てくれたから耐えられた。

 だから、ケイが猫だとわかったときはかなしくて裏切られた気分だった。それでも、ケイの先祖も同じような気持ちだったのかもしれないと思えば、耐えられた。ケイと離れるのは寂しかったけれど、すずみにはもう淡々としていられる自信がなかった。

 すずみはどうしても、ケイを幸せにしたかった。


「おれの幸せ、勝手に決めないでよ」

 それはおれが決めることだよ、とケイはため息を一つ。呆れたようにすずみにわらってみせた。

 その様子を見ていたすずみの祖父は静かに尋ねた。

「……ねずみでも、好いてくれるのか?」

 ケイは立ち上がって、頷いた。いつも後ろから見ていた、凛としたすずみの後ろ姿を思う。


「好きです。ねずみでも、すずみさんをひとりの人間として尊敬しています。危なかっしくて、意志の強くて、不器用だけど優しい彼女を守りたいと思いました」


 きっぱり答えるケイにすずみは俯いてしまった。ほんのり赤くなった頬が見える。

「ありがとう……! ようやく約束を果たせる」

 すずみの祖父は震える手で目頭を押さえた。喜びに震えていた。そんな彼に、神宮が静かに告げた。

「もう叶ってる」

「え?」

 一同が唖然とする中で神宮が軽く言ってのけた。


「もう、叶ってたんだ」


 そして、どこにでもあるような招き猫をそっと地面に置いた。左手を上げたものだった。

「これが、約束の品。」

「は?」

「なに?」

「招き猫の起源って、知ってるか?」

「猫の恩返し、とか?」

「ふむ」

「人間が猫に助けられたことではなかったかしら?」

「はいはい」

「挙げてる手によって人かお金を招くのではなかったか?」

「そりゃ起源じゃあない」

 ぽかんとする一同に、神宮はあっさり告げた。

「由来はない。正確には複数あるんだ」

 ――干支を集めた神が作ったから、人間に伝えるには複数の人間に伝える必要があった。だから起源が複数あって明らかにはなっていない。


 招き猫は、縁起物。縁起物は、福の神にまつわる品。

 招き猫は右手を上げていればお金、左手を上げていれば人を招く。

「両手を挙げているものは、お手上げだって嫌うひともいるらしいが、ほんとうはこれこそが始まりの招き猫だ。神さまが作った招き猫は両手を挙げているもので、――それは宮尾、お前の家にあるはずだ」

「タマのこと? 玄関に両手挙げた大きい招き猫ならいるけど」

「そう、それ」

 神宮はケイに頷いて続けた。


 年中、干支が何の年であっても関係なく、いつでもどこでも、だれでも飾れる神さま。

 猫だけの、神さま。


「では……では今までの苦労は! 見つかるたびに住む土地を変え、ついには姿も変えてきた私たちのこれまでは一体……」

 その場に崩れ落ちるねずみの当主に神宮は静かに告げる。

「信じたかったんだよ。」

 ――神さまが信じたいと、願ったんだ。

 許し、許されること。

 それは尊く、難しいことだ。許されようと、ひどく難しいそれを諦めようとしないなら、神さまは信じたいと思い、願いを託した。

 そして長い間、ずっとねずみとねこを見守っていた。

 もしも叶うことがあったなら、種明かしをしようと待っていた。


「ねこがねずみを命懸けでかばった。それは、あんたの孫が耐えたからだろ」

 神宮が静かに説く。ねずみの当主は顔を覆った。

 すずみの祖父は決して干支ねずみの子孫という血筋に奢っていたわけではない。

 隠された先祖の思いを伝えたい、頭を下げて事足りるならいくらでも下げられると思っていた。ねこに見つかっては土地を移り、ついにはねずみから人間に姿が変わっても、先祖の願いを叶えようと、ねこに見つからないように暮らしながら、ねこを探していた。

 自分の手に入れた立場や宝を投げ出してでもねこを王様にしたいと願った先祖を、心から尊敬した。そして、そんな先祖に恥じないような自分でありたいと思い、子供たちにもそう教えてきた。

 いつからだろう、孫娘がわらわなくなったのは。泣かなくなったのは。

 いつからか、先祖のためが――自分のためになっていた。

 そして、ずれた重みを背負って耐えていたのは、すずみだった。


「わるかった……すまない、すずみ」

 孫娘に、祖父は深く頭を下げた。この頭で足りるなら、どれだけ下げたって構わないと思っていたのだから。

 それほどのことをしたと、彼は思う。

「じじ、さま……?」

「もう、いい。もうそんな顔をしていなくていい」

「……?」

「すずみ、じじがお前によっく話していたお話、覚えてるか?」

「……ねずみの、嫁入り?」

 祖母が亡くなったあと、すずみに子守唄がわりに本を読んでいたのは祖父だった。

 おばあちゃんがこれ好きって言ってたと指さしたその話を、祖父はいつも読んでやった。


 ――思いあうねずみの、娘に嫁入りの話が来る。

 娘の父親は世界一強いものの嫁にするといい、お日様の嫁にするという。泣く娘と嘆く青年を可哀想に思って、ねずみの法師は父親をうまく言いくるめた。

 お日様の光は、雲が来たら隠されてしまう。

 では、お雲様が一番強いのだな!

 いいや、雲は風が吹けば飛ばされてしまう。

 では、お風様が一番強いのだな!

 いいや、いくら風が吹こうと壁はびくともしない。

 では、お壁様が一番強いのか?

 いいや、どんな分厚い壁にも穴を開けてしまうものがいるだろう?

 我々ねずみだ! では娘は一番強いねずみの嫁にする!

 そして開かれた婿選びに出場した青年は、いくら投げ飛ばされても、身体中傷だらけになっても、ふらふらになっても、決して立ち上がることをやめなかった。ぼろぼろになっても向かってくる青年に、ついに相手は敵わないと根負けし、青年と娘は結ばれた。

 お日様より、お雲様より、お風様より、お壁様より、どんなつよいものより、思う合う者同士の気持ちが一番強い!


 ――なあすずみ、好き同士が一緒になるのが一番だ。

 すずみの祖父は昔話を読みながら、そう言って幼いすずみにわらっていた。

 じじとばばも、そうやって一緒になった、幸せになったんだと、せがまれるままに話した。


「おお、覚えてくれていたのか。じじはいまも変わらない」

「じじ?」

「好き同士が一番だ。お前にはもう守ってくれるひとがいる。素直になりなさい」

 ――あんたなら、できる。ハッピーエンドを、作れるよ。


 ふえ、とすずみの肩が震えた。

 わんわんと子供のように声を上げて泣き出した。

 わあわあと、ぼろぼろ涙をこぼすすずみをケイがよしよしとなでていると、祖父がすずみを抱きしめた。

 にっこりわらって、おじいちゃんの顔になった当主は孫娘の頭を撫でた。

 大きくなったなあと彼は目尻に涙を滲ませたままわらった。――それでも、お前はまだ子供なんだから、思いきり泣いて、わらいなさい。

 すまない、すまなかったなと孫娘をあやす祖父の隣からケイはこっそり離れていった。


 ☆


「ふーん。そういうことね」

 神宮先生まで絡んでいたのか。まああんな規模の嫌がらせを一教師で止めておけるはずがないから一枚かんでいるんじゃないかとは思っていたけれど。

 木ノ葉は二階の廊下から一部始終を見ながら呟いた。潮からの連絡で今日あたり何かが起こりそうだと思った彼は昼休みに体育館で演劇部のゲリラ公演を決行していた。演目は「ロミオとジュリエット」ではなく去年の文化祭で大人気だったいばら姫のアレンジバージョンだ。

 いばら姫と王子が出会うところから始まる、いばら姫が目を覚ましたあとを描いた物語。

 脚本を書いたのは木ノ葉だ。

 タイトルは「ハッピーエンドの在りありか


 いばら姫と王子は甘い甘い出会いにロミオとジュリエットのように数日で結婚する。そこまでは原作のおしまいと同じだ。

 木ノ葉の描いたその後は、冒険物語。

 いくら王家といっても百年も眠っていれば食料はおろか金銭的にも蝶よ花とは暮らしていられない。王子は王子で自分の国は兄が継ぐので国民を養うことはできない。そこで、ドレスを一番に脱ぎ捨てたのはいばら姫だった。

「なければ作ればいいのよ、さいわい近くには町がある。教えてもらいましょう」

 小麦のつくり方、野菜の畑のつくり方、鳥や豚の育て方、魚の捕まえ方を教えてもらえば、飢えることはなくなるし、売り買いでお金のやりとりもできる。なにより人と関わることができるからといばら姫は言って、自ら町に出向いて教えを乞うた。

 おとぎ話だと思われていた城の姫君に町の人は驚いて、それでもその愛らしさと賢さと美しい声と優しいまなざしに、誰もが彼女を好きにならずにはいられなかった。城の人々と町の人が手を取り合うのを見届けて、いばら姫は王子にこれからの予定を尋ねる。とくに決めていないという王子に、彼女は旅に出たいと言った。

「ここを離れていいのですか?」

「ええ、もう私がいなくても大丈夫だから」

 寂しがる王様と后様が持たせようとした高価な持ち物をいばら姫はやさしく断って、町娘のような服を着て、自分で荷物を持って王子の隣を歩いた。王子は何が楽しいのかわからなかったが、花や鳥や家々を見ては嬉しそうにわらういばら姫を微笑ましく見ていた。

 二人は一緒にいるから喧嘩もした。くだらない理由で喧嘩をするいばら姫はきつい言葉も口にするし、売り言葉に買い言葉でひどいことを言うこともあった。王子も大きな声を出すこともあって、ときには何日も口をきかない喧嘩をすることもあった。

 それでも、仲直りをして、二人は旅を続けていく。

 宝を探してみたり、伝説の美しい鳥を探しに行ったり、船で、馬で、汽車で、世界中を冒険した。

 そのうち、王子はいばら姫の美しい声の歌が、調子はずれになっていることに気づく。

 魔法使いかと思えるほど物知りであった彼女がごく普通の知識の持ち主になっていること。いつも微笑みを浮かべていた唇は大きく開いてわらうこともあれば、ぶすくれることもあること。いまの彼女は、誰もが好きにならずにはいられなかった、出会った頃のいばら姫ではなくなっていた。そのことをたずねると、いばら姫はちいさく微笑んでごめんなさいと言った。

「私は生まれたときに妖精から贈り物を授かって、それで賢く、美しく、愛される存在だったのです」

 百年の眠りのうちに、贈り物は少しずつ解けていきました。それが私の願いでしたと彼女は呟いた。 

 ひとの望む者すべてをこの姫君に授けましょう――それが間違いだったとは思いません。でも、と。

「では、本来の私はどこに? いばら姫とは誰なのでしょう?」

 彼女は王子を心から愛していた。それは旅に出てからも変わらなかった。出会った頃より愛するようになった。

 しかし、いばら姫は本当の彼女ではない。そのまま愛されるのなら、贈り物を取り払った自分を見せて幻滅された方がいいと、いばら姫はそう考えた。

 それほどまでに、彼女は王子を愛していた。

「ここでなら、あなたが私との結婚を破棄しても咎める者はおりません。騙していてほんとうにごめんなさい」

「……あなたの、お名前は?」 

 王子はいばら姫に静かに尋ねた。にっこりと微笑む王子に彼女が名前を答えると、彼は彼女の名前を呼んで、手を取った。

 旅の間にいくらか傷のついた、少し冷たい手を慈しむように包むとひざまづいて口付ける。

「わたしと結婚してください」

「え?」

 戸惑ういばら姫――恋人に彼はやさしくわらいかけた。

「確かに出会った頃のあなたは美しく、賢く、気品があり、そして優しい、素晴らしい姫君でした。しかし、いまのあなたは可愛らしく、少し素直ではないところもありますが、とても優しくいつも誰かを思いやる心を持っている。わたしは調子はずれのあなたの鼻唄も、照れてすぐ叩いてくる癖も、愛しています」

 ぽろぽろと涙をこぼす彼女に、彼はもう一度問いかけた。

「わたしと結婚してください。あなたでなくてはだめなんです」

 彼の一番だいすきな笑顔で、彼女は頷いた。二人が口付けを交わすところで幕は下りる。


「その後、ふたりはどうなったのかしら?」

 不意に声をかけられて振り向くと、潮が壁にもたれて木の葉を見ていた。

「どうにかなったみたいですね、あの二人」

「ええ、ねこがねずみを庇って、しかも好きになってるんだから文句のつけようもないでしょう」

 木ノ葉は頼みごとをされたときに十二支のねずみとねこの因縁を潮から聞いていた。ねずみの願いも。

「で?」

「え?」

「いまごろクライマックスであろう、あの劇の続き」

「ああ、実はそこまでしか書けなかったんです」

 怪訝そうな彼女に木ノ葉は言った。

「いばら姫でなくなった以上、彼女の土地には帰れない。王子の城に帰ろうにも王子の兄が次の王様。城でのうのうと暮らせるかは微妙なオチでしょう? かといって王族の地位を捨てて、普通に暮らすってのは簡単にできるかわからないですし――だから、在り処はわからない。どこにでもあるんじゃないかって、書けなかったから書かなかったんです」

「……へえ、意外と純粋なのね」

「さあ? 書けなかったのは、あの姫のモデルが何を幸せとするかわからなかったからでもあるんですよ」

「モデル?」

 木ノ葉は潮の前に跪くと、手を取ってわらってみせた。

 ずっと、彼は潮を見ていたのだ。ずっと、ずっと。

「おれで幸せになってくれませんか?」

「……キザ。」

「結婚でも申込みましょうか?」

「いやよ」

「なら、恋人になってください」

「……」

「黙ってると肯定と受け取りますよ?」

「……それ、」

「はい?」

「そのわざとらしい敬語やめて頂戴。あと、名前でいい、から」

 にいっとわらって木ノ葉は心なしか熱を持った手に口付けた。

「潮、すげー好き。結婚して」


 木ノ葉は思う。

 ほら、恋の翼なんてなくたって、軽々と壁は越えられる。

 なければ作ればいいけれど、あったらそれさえ使ってしまえばいい。

 髪に負けないくらい真っ赤な恋人を抱きしめながら、木ノ葉は幸福を噛み締めた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ