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気ににゃる彼女。  作者: 水瀬透
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3 ではまたいつもの場所で

 3 ではまたいつもの場所で


 一月一日の朝日を背に、神さまの前に現れたのは牛でした。「いってらっしゃい」と言われて牛の頭から飛び出したのはねずみです。

「おお、お前が一番か」

 そう微笑む神さまに、ねずみは首を振って言いました。

「神さま、わたしではなく、ねこを一番にしてください」

 首をかしげる神さまに、ねずみは言い間違えたことを話しました。一月二日の朝日と一緒に必ずねこは現れると必死にお願いしました。しかし、神さまはねずみのお願いを叶えてはくれません。それでも「どうか」と頼み込むねずみに神さまは言います。

「また後で話をしよう。どんな理由があったにせよ、お前が一番乗りに変わりはないのだから」

 そして改めて、ねずみと新年の挨拶をしました。次は牛と、その次は虎、うさぎ、たつ、へび、馬、羊、猿、鳥、犬、いのししの順に、一番から十二番の動物が揃いました。酒盛りが始まりました。見たこともないような豪勢な料理と、香りだけでも幸せな気分になれるお酒もたくさん並びます。みんなで乾杯をして、それぞれ楽しそうにわらいあっていますが、ねずみだけはしょんぼりしています。そんなねずみに神さまはこっそり手招きをしました。

「おいで、さっきの話の続きをしよう」


 ☆


「……あ。」

「……」

 放課後にケイが鉢合わせしたすずみはずぶ濡れだった。居眠りしていた罰として、課題を集めて職員室に持っていったケイが教室に戻ってくる途中、反対側の廊下からずぶ濡れのすずみが歩いてきたのだ。

 昼休みを一緒に過ごさなくなって十日ほどが経っていた。

 その間話すどころか「おはよう」も言っていない。いつか木ノ葉と話していたように、ケイが話しかけるのをやめればあっさりとつながりは失われてしまった。

 すずみは以前と同じように目があっても顔色ひとつ変えないで、ケイからふいと目をそらすと教室に入っていった。

 ケイが教室に入ると、すずみは後ろのロッカーでジャージを探しているようだった。しかしいくら探しても見つからないらしい。髪からぽたぽた雫が落ちて、すずみの周りにはちいさな水たまりが出来ていた。鞄に教科書をつめるふりをしながら、ケイは悩んでいた。

「……一宮さん」

「……」

「一宮さん」

「……」

 訝しそうに無言でケイの方を向いて、すずみは首を傾げた。

 自分のジャージを差し出したケイは、濡れネズミのすずみになんとか言葉を繋ぐ。

「これ、よかったら」

「いらない」

 そっけなく遮られて、行き場を失ったジャージと言葉。

 再びロッカーの方を向いてしまったすずみにジャージを押し付ける。

 放っておけなかったのだ。木ノ葉にはわらわれてしまいそうだけれど、――いまさらだけど、どうしてもケイは放っておきたくなかった。

「一宮さん、これ着て」

 ジャージを押し付けてくるケイをすずみは振り払おうとする。

「いい。大丈夫だから、」

「大丈夫じゃないよ」

「え?」

 すずみがケイを見上げた。久しぶりにちゃんと目があった気がするなとケイは思った。

「それは、大丈夫じゃないよ」

「……」

「この間はごめん。ひどいこと言ってごめんなさい」

「……」

「もういっこ、ごめん。……その、透けてるよ?」

「?!」

 ため息混じりにそっぽを向いたケイの言葉にばっと胸を隠して、ようやくすずみはジャージを受け取った。「……着替えたいんですけど」と言われてケイは慌てて教室の外に出た。ふう、とため息をつく。――いまのも、猫の仕業だろうか。

 ケイは壁にもたれて目を閉じる。


 昨日、ケイの家でこんなやりとりがあった。

『ねえ、なんかいい匂いがするなあと思ったらほら、ねずみが巣食ってたみたい』

『あーあ。壁、直るの?』

『まあどうにかなると思うんだけど……捕まえたからこれ以上食われないでしょうし』

『あ、そうなの?』

 ケイは母親の手元を覗き込んだ。素手で捕まえていることは特に驚かない。それなら子供の頃に散々追い掛け回して捕まえたし、いまでもできる。人間同士の追いかけっこもケイは大の得意だった。――母親にもほめられた腕を持つケイが唯一捕まえられなかったのはすずみだけだ。

 彼女がネズミか人間かは、別として。と思ったケイは鼻をひくつかせた。

『ん? ねずみの匂いってこんなんだっけ?』

『あれ? ケイちゃんねずみの匂いはすーぐ見つけてたじゃない。忘れちゃった?』

『えー……コレ、だよね?』

『? そうよ?』

 母親の手元に顔を寄せてみたけれど、確かに美味しそうないい匂いがしたけれど――すずみの匂いとは違っていた。

『……』

『どしたの? ケイちゃん?』

『んーん、なんでもない』

『そう? あ、おやつ食べる?』

『何かあるの?』

『そうよー、今日買い物行ったら安かったから買ってきちゃったの』

『……あ』

 なんと五十四円! と胸を張る母親が指すテーブルには、山盛りのチーズ蒸しパンが積まれていた。なかにはチョコ蒸しパンなんてものもある。

 ――あ、おいしい。

 ケイは母親と一緒に食べながら、何気なく先祖の話をふってみた。

『……母さん、うち先祖の猫って、ねずみに騙されたこと怒ってんの?』

『あら、久しぶりにしたとおもったらまたそんなこと言って』

『?』

『幼稚園くらいかしら。初めて十二支の話を聞いて、先祖の話を聞いて、ケイちゃん同じこと言ったの覚えてない?』

『そんな昔のことおぼえてないよ』

『自分が読み忘れたのになんで怒るの? ねずみも悪かったんだからおあいこでしょってずうっと言ってたのよ』

『そうなの?』

『まあ、母さんがきいた話だと、ねずみは謝ったらしいけどね。十二支に入ったって言ってもねずみは害獣扱いだし』

『あー、ねこは愛玩動物のトップ争いだもんね』

『そゆこと。しかし久しぶりにこの話したわねー……あ。』

『なに?』

『そういえばケイちゃんに言ったっけ。干支はずれのねこの言葉。』

『聞いてないよ?』

『あー、よかった思い出して。ちょっと待ってて』

 何が何やら首をかしげるケイに、母親は玄関のタマからガタゴトと古びた紙を取り出して持ってきた。

『あのね、――』

 ケイは驚いて母親の顔をみた。彼女はふふ、と微笑んだ。

 ――ね、同じこと言ってたって言ったでしょう?


 あの言葉を思い出しながら、ケイは目を閉じて考えた。


 自分の好きな女の子が、干支ねずみの子孫であること。

 自分は干支外れのねこの子孫であること。


 分家のねこたちはねずみを恨んでいること。

 すずみへの嫌がらせは、分家の仕業で間違いないこと。 

 自分もそのねこの一員であること。


 ねこの自分が偶然とはいえ助けたこと。――助けたいこと。


 すずみはケイがねこだと知らないこと。

 嫌がらせの犯人が、ねこであることも知らないこと。



 カラ、と教室の扉が開いて、すずみが少しだけ顔をのぞかせた。

「大丈夫?」

「……はい。ありがとうございます」

「じゃ、帰ろっか」

「……」

「そこまで、一緒に行こう」

「……」

 小さく頷いたすずみににこりとわらいかけて、そのまま一緒に下駄箱まで歩いた。

 やっぱり、いい匂いだなあなんてこんなときにもケイは漂う香りに目を細めた。――やっぱり、ねずみの匂いじゃないと改めて思った。

 それよりもっと、ずっと美味しそうで、いい香りで、惹かれるのは、すずみの匂いだからだとケイはもう知っている。


 ――あのね、ほら「ねずみと仲良くなれると思ったのに嘘をつかれたと思って悲しかった」。

 ねこがねずみを追い掛け回していたのは、真相を知りたくなかったから。

 騙されていたのなら、嘘をつかれていたのがわかってしまえば、悲しい。それなら話を聞かないでいれば、もしかしたらと希望を持つことができる。

 嫌われていなかったのだと思うことができる。

 ねこのねずみへの本心が書かれたボロボロの紙切れの最後には、小さくこう書かれていた。


 ――でも、話を聞いて、ちゃんと喧嘩が出来たなら。友達になれたのだろうか。


 だからケイは、ちゃんとそばにいようと決めた。

 喧嘩はきっとおあいこだ。それなら自分で終わりにしようと思った。――ただ、ずっと、すずみのそばにいたくて。

 恋は偉大だと、木ノ葉辺りがわらいそうだと思ったが、わらいやがれとおもった。わらっても、木ノ葉はわらいものになんかしないのを、ケイは分かっていた。


「ほんとうにいいの?」

「……うん」

「そっか。気をつけてね、風邪にもさ」

「ありがとう。明日返します」

 送るといったケイをすずみは頑として受け入れず、深々と頭を下げて帰っていった。長身のケイのジャージはすずみにはぶかぶかで、見ているだけでケイの頬が緩みそうになったけれど、ずぶ濡れになっていたことを思い出して「今度の体育に間に合えばいいよ」と手を振った。

 小さな背中が小さくなって角を曲がるまで、ケイはぶかぶかのジャージの後ろ姿を見ていた。


 ☆ 


「おはよう」

「……」

 翌朝、ケイはすずみに声をかけた。すずみは少し間を空けて、無言で小さく頭を下げた。

 にこにことケイはすずみの後ろから声をかける。

「一宮さん、英語の予習やってある?」

「……」

「見せてくれない? 自信ないんだ」

「……」

「一宮さーん、一宮さーん、一宮さーん、」

「……わかったから。」

 少し前のように、ケイはまたすずみに構うようになった。物がなくなったり壊されたりは相変わらずだったけれど、木の葉も加わって一緒に探したり、ケイや木ノ葉が他のクラスの知り合いから借りてきたりしてきた。すずみは頑なに拒むことなく「ありがとう」と受け取るようになった。


「付き合ってんの?」

「は?」

「一宮と」

「付き合っては、ないけども」

「けど、付き合いたいとは思っていると」

「……」

 図星か。つうか丸分かりだもんなあと言って、木ノ葉は頼りない弟にでも言うようにため息混じりに頬杖をついた。

 そんなに好きなら言えばいいのに。言えるわけないじゃん。二文字だろ? そういう問題じゃないだろ……。

「お前なら、恋の翼なんてなくても軽々壁も飛び越えられるだろうに」

「なんだよそれ」

「ロミオとジュリエット。今度の演目」

「お前は?」

「ロミオ。」

「それは知ってる。壁の話」

「は? おれならどう越えるかって?」

「……」

「ばかだねえ、お前。」

「うっせ」

「壁を作らなきゃいいいんだよ。ロミオとジュリエットも、お前も」

「は?」

「壁なんかねえから空想の恋の翼で飛び越えられるんだろ? ハナから作らなきゃいい」

「ロミオが言っていのか、それ」

「ロミオになったら飛び越えるからいいんだよ。壁がほんとにあったら登ればいいんだから」

「……屁理屈」

「そんなん言ってる間に、恋患いおこすくらいなら愛でも囁いてこい」

「……おおロミオ?」

「お前がジュリエットんなってどうすんだよ」

 ばあか、と木ノ葉はぽこんと頭を小突いて立ち上がった。そのまま真っ直ぐ教壇に立つと教室にいたクラスメイトに呼びかけた。そもそも木ノ葉が教壇に立った時点で教室にいたものはみんな彼を見ていたのだが。

「なー、ちょっとアンケートに協力してくれないか?」

 なんだよー、いいよーと答えるクラスメイトたちは木ノ葉に協力的だ。友人の多い木ノ葉はほとんどクラス全員と一定の親しさを持っていると言ってもいい。男女もクラスも年齢も問わない彼の「一定」を越えているのはケイくらいなのだが。――気難しいなんて繊細なのじゃない、単にずる賢いだけだ。コロコロと見せる顔を変える彼の腹の中を知っているケイは、今度は何をするのやらと木ノ葉を見る。と、ぱちんと目があった彼が「お、ご、り」と唇を動かした気がして嫌な予感がケイを襲う。たぶんもう決定事項の、慣れ親しんだ嫌な予感。

「今年の文化祭、演劇部恒例の舞台はロミオとジュリエットのアレンジをやろうとおもってるんだけど、あらすじ知らないってやつはいないよな? 原作のデッドエンドをベースにするか、ハッピーエンドにするか。どっちが見たい?」

 教室内は色めき立って、ロマンチックなラブストーリーに憧れる女子たちや、美人の先輩がどんな衣装なのかを聞いてくる男子やらで一気に騒がしくなった。あれこれ意見を聞いて、収まりそうにない声を一旦まとめた木ノ葉は「じゃあ」と指名した。

「一宮は? どっちが見たい?」

 クラスが静まり返った。いまだに続く嫌がらせは取り憑かれたから神隠しだのと悠々と大きな尾ひれで泳ぎ回っている。ケイが一緒にいるようになったのを見ているのは見られているケイもわかっていたが、追いかけっこをしていた頃のように話しかけるものはなく。でも、仕方ないとケイは思っていたのだ。――何考えてんだ? 唖然とするケイとクラスメイトの視線は、休み時間だから教室にいたすずみに集まる。無視すると全員が思った。

「……」

「ロミジュリ。知らないってことはないだろ? 美しい悲恋の物語」

「……に、」

 木ノ葉の言葉に何か引っかかったのか、クラス全員の予想を裏切って、すずみは口を開いた。

「すきにならなきゃいい」

「へえ? ロミオが? ジュリエットが?」

「……両方」

 木ノ葉は細くした目ですずみに尋ね続ける。クラス中が二人に注目していた。

「バッドエンドかハッピーエンド以前に、大前提をひっくり返すか」

「……」

「でも、恋に落ちた後に気づいたんだから消せなくね?」

「……気付いた時点で、なかったことにすればいい」

「自分に嘘をつけってこと?」

「……」

「ロミオもジュリエットもいない、そんなロミジュリあったらすげえな」

「……」

「なかったことにして、家に従ってヒキガエルとでも結婚して恋人を見捨てるってか」

「すくなくとも、ロミオはやり直せる」

「……へえ? いいね、冷酷なジュリエット。――なあ一宮、演劇部来ねえ?」

「いかない」

「あ、ふられた。ベタ惚れのロミオを突き放し続ける冷酷なジュリエットは一宮に似合うと思ったんだけど。――なあ、すっげーツンツンのデレの欠片もねえジュリエット、どう思う?」

 ふ、といつもの調子で木ノ葉が気さくな声をかけるので、クラスメイトはツンデレ? いやそれ好きだからこそのツンツンだろ? とついつい調子を合わせてしまい、すずみの言葉からクラス中に話題が広がる。――好意的な話題が。

 木ノ葉につられて、一宮さんほんとに入ればいいのに、なんて声も聞こえた。似合いそうだよね、ドレスとかさ。と女子が囁く。奇異の目ではない、ささやかな興奮に満ちた好意的な声。

 してやったりとアンケートのまとめに入る木ノ葉の声を遠くで聞きながら、ケイの耳にはすずみの言葉が離れなかった。

 ――すきにならなきゃいい。

 ずっと、そうやって過ごしてきたの? なんて、ケイは聞けやしないのだけれど。


 ☆


 ケイはまた、昼休みに屋上の屋上にやって来るようになった。

 ひらひらと手を振る木ノ葉が、気のせいか柔らかく目を細めているように見えた。


「ねえ、一宮さんて学校来るの早いの?」

「まあ。」

「じゃあさ――」

 相変わらずチーズ蒸しパンをかじっていたすずみが不思議そうにケイを見上げる。

 両手で蒸しパンを持つ彼女は小動物らしくて、知らず知らずケイの頬がゆるむ。でも、ねずみって実はチーズとかの乳製品て嫌いなんだっけか、と彼はテレビで見たうろ覚えの情報を思い出しながら、ごろんと寝転がって空を見上げた。いい? ……。じゃあ決まりで。……勝手にすれば。

「うん、勝手にする。」

「……」

 ケイはにこにこわらってすずみを見上げた。



「じゃーん」

「……」

「あれ? びっくりしない?」

 ケイがすずみの目の前にぴょんと取り出したのはカエルのおもちゃ。

 ほらほらと言ってケイがぴょこぴょこ飛び跳ねさせるのを、椅子に後ろ向きに座るすずみは冷ややかともいえる目で見ている。

「……今日は、どこ?」

「古文のさ、この辺。たぶん期末に出るんじゃないかなって」

「たぶん。出しやすいし……これはここを、」

 もともと木ノ葉に見せていたように課題はきちんとやっておく性分のケイは、あの日の昼休みのうちに約束を取り付けていた。

 すずみが朝一番に教室に来ているというので、今日は当たるからとか課題の答え合わせや試験の対策だとかこつけて、ケイも朝早く登校してくるようになったのだ。

 どんなに突き放しても追いかけてきたケイのしつこさを身を持って知っているからか、昼休み以外は関わらないようにしても、毎日延々と後ろから話しかけてくるケイに折れたのか、その両方か。――違う理由か?

 さておき、いまでは放課後以外の学校にいる時間を、すずみはケイと過ごすようになっていた。ときどき木ノ葉や潮がまざることはあったけれど。

 朝はいつも、彼女はケイより早く来ていて、後ろ向きに座って待っていてくれた。

 ふたりぼっちの早朝勉強会は、昼休みの屋上の屋上と一緒でもう当たり前になっていた。

「……宮尾くん、聞いてる?」

「え? 聞いてる聞いてる」

「……」

「ごめんて! そんな疑わしい目で見ないで!」

「……いいけど。じゃあこれは?」

 意外とお人好しだよなあ、とケイは思う。ケイとお昼を一緒に食べる前、つっけんどんに話していたときでも、誰かに聞かれればすずみは丁寧に教えていた。お人好しというよりしっかり者というべきか。

 ケイは彼女の指した問題を考えながら、カエルのおもちゃをぴょこんと跳ねさせた。

 ヘビの飛び出すびっくり箱、ポンっと旗の出てくるおもちゃの銃、耳を押すと歌いだすうさぎ、唄って踊る花のおもちゃ。ケイは家にある面白いおもちゃを毎日持ってきてはすずみを驚かそうとした。いまのところケイの全戦全敗で、すずみはびくっと肩を揺らしても、表情は変わらない。

 どうしたもんかなあ、とケイは考える。

「……宮尾くん。聞いてないでしょう」

「ミケでいいよ」

「え?」

「苗字で呼ばれるの、あんまりすきじゃないんだ」

「……それ、いま関係ある?」

「ずーっと気になってたんだからいいでしょ?」

「……わたしも、ほんとは苗字ってきらいかな」

「じゃ、すずみさん?」

「……」

「うそうそうそゴメンナサイ!」

「……いいけど。」

 え、と顔を上げるとすずみが「なんでさん付けなの?」と呆れたように頬杖をついていた。

 カエルのおもちゃ、びっくり箱、おもちゃの銃に、唄ううさぎと踊る花。

 ケイはもう、すずみを驚かせたいとは思わなくなっていた。


 すずみのわらった顔が、みてみたいと思うようになっていた。


 ☆ 


「坊ちゃん!」

 帰ろうと下駄箱に向かおうとするケイに、猫が二匹飛びついてきた。

 あちゃーと思うケイに、猫の姿のままで「恥ずかしくないんですか?!」と叫ぶ。彼らは分家の猫だった。

 まさか学校に潜んでいるとは思っていなかった。隠すなりなんなりすればどこかに去っていくものだと思い込んでいたので、まさか学校で声をかけられるとは思っていなかった。ケイはきょろきょろと辺りを見回したが放課後であることもあって周囲に人影はない。それでも用心に越したことはないと、ケイはさっさと帰ってもらおうと噛み付かんばかりに騒ぐねこに声を落とすように言った。

「どうしてねずみなんかと一緒にいるんですか?!」

 詰め寄る若い猫がケイの制服に爪を立てる。

「朝、教室で一緒にいましたよね?! しかもあなたは何も報復の手伝いもしていない!」

「……痛いし穴あくから、とにかく離してもらえる?」

 すみません! とさっと下がった若い猫の頭を叩いて、付き添いの壮年の猫も「申し訳ありません」と頭を下げた。

「馬鹿が申し訳ない。――坊ちゃんは、仲のいいふりをされているのでしょう?」

「え? ああそうか! 勘違いして申し訳ございませんでした!」

「えっと、」

 言葉に詰まるケイに、もちろんそうですよね? と期待に満ちた目と、鋭く光る目が迫る。

 どうしようかと迷った挙句、とにかく早くここから追い払おうと、ケイはとりあえず頷いた。もしかして何かしに来たところなら、このまま帰ってくれればすずみの持ち物が傷つくことが明日はないかもしれない。なるべく学校には来ないように、もしくは長居しないようにともっともらしい言い方をできないものかと思いながら、ケイは適当に答えた。

「ああ、まあ、そうだよ。そうに決まってる」


 かなしい目には、気がつかないまま。


 ☆


「そっか、そうだよね……」

 廊下の壁に身を隠したすずみは俯いていた。

 衣擦れの音すら立てずに廊下の曲がり角からそっと走り出したすずみは、そのまま家まで立ち止まらなかった。

 落とした小さな囁きは、誰にも聞こえない。

 ――ごめんね、おばあちゃん。わたしじゃ、だめだった。



 ☆ 二宮潮の考察


 二宮潮はロミオとジュリエットが幸せになりたかったのなら、バルコニーで愛の誓いが云々と言っている間にかっさらって駆け落ちすればよかったのではないかと思っている。

 誓いを交わしたかったのなら、駆け落ちしてからいくらでも語らえばよかったじゃないかと。数日で仮死状態の薬だのなんだので周囲をごまかしてまでこむつかしい細工をするくらいなら、すべて投げ捨ててしまえば良かったじゃないかと、彼女は理解に苦しむ。

 ――でも、あのシーンが一番好きだな。自分自身に誓えとジュリエットがロミオに頼み込むところ。

 夜に、月にジュリエットへの愛を誓おうとするロミオにジュリエットはバルコニーから、ひと月ごとに姿を変えるような浮気な月などには誓わないでと密やかに請う。なんだかんだ言っても、一番甘く愛をささやきあうバルコニーでのシーンが潮は一番好きだった。

 ――それでも、いつまで続くのかしら。

 突然燃え上がった恋は、愛になったとして、勢いよく、それこそ流れ星のように一瞬で燃え尽きてしまうのかしら、と彼女は思う。それなら、一番幸せなときに死ねたロミオとジュリエットは幸福なのかもしれない。もし駆け落ちして、互いの粗ばかりが目に付くようになって、一瞬で恋も愛も冷めてしまったら? ――続くのは生き地獄でしかないだろう。帰る家も失って、一人で食べていくにはなまじ恵まれたボンボンとお嬢さんだっただけに雑草にはなれやしないだろう。

 一番悲惨なのは、片方だけが冷めてしまうこと。彼女はそう思う。

 夢のような時間から覚めたものに映るのは、人生と引き換えにしたかつての宝石。

 夢を見続けられるなら、どんなに幸福だろうと潮は思う。

 愛しいひと、とささやきあって、外の世界なんて忘れて溺れて、そのまま沈んでしまえたら――そしたらずっと、愛しいひとに愛してもらえる。

 たとえそれが、相手の作り上げた幻想の自分だとしても。

 

 やっぱり、死んでしまって正解だったのかもしれない。潮は思う。

 あんなに愛してしまったら、相手がいなくなるより、その愛が消えてしまうことのほうが恐ろしくて生きてなんていられない。


 でも、もしも夢から覚めても、ずっと一緒にいられたら? 

 それこそ、夢みたいだ――学校一のアイドルはぼすんとベッドに倒れ込んで目を閉じた。



『ねこさん、かわいい』

『すずみんすごいねえ、ねこさんはすずみんがだいすきなんだね』

 赤い癖っ毛の少女は、柔らかいブラウンの髪の子供に身体を摺り寄せるねこたちを見ながら、自分もそっと手を伸ばす。

 にゃあにゃあと甘えた猫なで声、足に、膝に、背中にまとわりつくねこたちはさらさらの髪を甘噛みしたりと好き勝手にくつろいでいる。ねこに囲まれても、小さな子供は怯えることもなく優しい手つきで擦り寄るねこの頭や背中を撫でている。赤毛の少女が撫でても、ついとそっぽを向いてしまう。

『いいなあ、あたしにはなかよくしてくれないや』

 羨ましそうに呟くので、子供は慌てて抱き上げたねこを渡してくる。にげないかなあ。にげないよ、しおちゃんもすきだもん。

 今度伸ばした手はするりと避けられることもなく、地面に寝転がってごろごろとお腹を見せている。

 きっと野良猫だろうな、それでもあたたかくて柔らかい体温と、擦り寄る仕草が可愛くて、二人の子供は時間も忘れてねこたちを遊んでいた。

『ねこさんは、ほんとうにすずみんがだーいすきなんだねえ』

『すずも、ねこさんだいすき!』

 真っ黒いねこをぎゅっと抱きしめて、花が咲くように子供がわらった。それにつられて少女も優しい気持ちに笑顔がこぼれた。すずみんはどのこがすき? すずねえ、この黒いこがすき! くろねこ? うん! 真っ黒くて、目がお月さまみたいにきれいだもん。そうかあ、あたしはこのこかなあ。どのこ? ほら、灰色で、靴下はいてるみたいにあしとしっぽが黒くてかわいい。しっぽにくつした? ふふ、ほら顔もかわいいよ。

 どれくらいそうしていたのか、楽しく遊んでいた二人の背中から金切り声が聞こえた。

 振り向く前にねこまみれになっていた子供が襟首を掴まれて、ねこたちはにゃーにゃーと手を伸ばした。けれど厳しい硬い声が怒鳴りつけて、驚いたねこたちは四方八方に逃げ去ってしまう。呆然としていた赤毛の少女は、ばちん! と爆ぜるような音に我に返ると、仲良しの子供が頬を叩かれていた。何が起きたのかわからないらしい子供は一拍置いて、じわじわと目に涙を溜めていくが、泣くな! と叱り飛ばされてびくりと肩を揺らす。

『あんなものに今後一切触るな! 隙を見せるんじゃない!』

 怒り狂っていた老人は、お前もしっかり見ていて近寄らせるんじゃない! と少女も怒鳴りつけて、そのまま子供を引きずって帰ってしまった。


 少女は家に帰るとすぐにわんわんと泣き出した。

 店の方から入るといつも怒られるけれど、そのときは怒られる前に、両親でも祖父母のものでもない優しい手が抱き上げてくれた。

『あら、あんたはうちのすずみと仲良くしてくれてる潮ちゃんじゃないかい?』

『だあれ?』

『ふふ、あたしはすずみのおばあちゃん』

 どっか痛かったかい? 怖かった? と聞かれて、しゃくりあげながらつっかえつっかえ説明すると、すずみの祖母はごめんねえ、と頭を撫でてくれた。それはあのこのおじいちゃんだわ、怖かったでしょう。悪い人ではないのよ、ごめんなさいねと微笑む彼女に、じゃあ早くすずみんのとこ行ってあげて、泣いちゃうよと言う少女に目を丸くして、彼女は優しい目でお願いを口にした。

 ――優しいお姉ちゃん。あのこがひとりぼっちにならないように、そばにいてやってくれないかい?

 そしたら内緒のお話を教えてあげる。優しい目のおばあさんは潮と指切りをして帰っていった。

 見送って気が付くと、魔法のように涙は引っ込んでいた。



「あれ、すずみんどーしたの?」

「しおちゃん……」

 家のすぐ横で潮はすずみに鉢合わせた。幼馴染はぼんやりした目の焦点を合わせると迷子みたいに呟いた。声が震えているのに気付くと、焦って止めようとしたのか「なんでもない」と言うけれど、何かあったのは一目瞭然だった。

 柔らかくていい匂いがすずみを包む。潮がぎゅうっと抱きしめて、頭をとんとんなでた。

「すーずみん、約束したでしょ。あたしには隠さないの」

「……う、ん」

 安心したのか潮の服の裾を掴むすずみに苦笑して、潮は自分の家に引っ張り込んだ。


「父さん、母さん、すずみ来たから忙しくなったら呼んで」

「おお、久しぶりだなあ。おかえり」

「おかえりなさい、すずちゃん。潮、冷蔵庫に頂き物のお菓子あるから食べなさい」

「こんにちは、お邪魔します」

「わかったー、じゃあよろしく」

 潮の家は食堂を営んでいる。祖父母の代からで、いまは彼女の両親が経営している。休日や放課後には潮が接客担当で店に立つことも多い。小さな頃から潮を知っている常連客も多く、ボリュームのある定食が人気の地元の食堂だ。

 よう潮ちゃん! 今日も美人だねえと飲んでいた常連客に綺麗な笑顔で応えてすずみの手を引く。


 学校でも、家でも、潮は自分の容姿が人目を惹くものであるとこれまでの経験から自覚していた。

 もとからよくわらう性格ではあったけれど、それが災いして媚を売っているだのなんだのと言いがかりじみた噂を流されることも多かった。ああ面倒だ、と潮はよく思ったものだ。確かに人間の印象を外見が大きく左右するのはわかる。それでも思わずにはいられなかった。

 ――たかが頭蓋骨の肉の付き方にそこまでこだわる理由がわからない。

 そんな潮のそばにいて、愚痴も全て聞いてもそばにいたのはすずみだった。いとこで幼馴染のすずみ。――ただ、いとこというのは当たらずとも遠からずの肩書きではあるのだが、すずみの盾になりうるならなんだっていいと潮は思っている。

 美人がジャージでうろうろしているとそれだけでだらしがないとか勿体ないだの残念だのと周りが勝手に自称アドバイスをしてくれるので、潮は一時だって気が抜けなかった。いつしか笑顔は完璧な営業スマイルになっていて「二宮潮」という商品が一人歩きしているのを潮が息を切らして追いかけているような気さえした。

 美人で気取っていなくて、いつも笑顔で性格はさばさばとした男前。

 異性からも同性からも一目置かれる完全無欠のとっても可愛いみんなのアイドル。


 ――絵にかいたような、フィクションの誰かみたい。

 そう呟いた彼女にすずみは「しおちゃんは、しおちゃん」というだけだった。

 潮がぼさぼさの寝起きだろうと、部屋着がスエットの上下だろうと、がつがつ肉にかじりついていても、毒を吐いても、愛らしい外見そのままに可愛いものが大好きでも、勝手に期待して勝手に失望したりしないで、ずっと変わらず潮を慕ってくれたすずみは、潮をアイドルになんて見ていなかった。

 お姉ちゃん面して、頼って甘えていたのは、ほんとうは自分のほうだと潮は思っている。

 でも、きっと兄弟姉妹ってこんなものかしら? 一人っ子の潮にはわからないけれど、すずみの支えに少しくらいなれていたらいいと思う。

 教室に行くのは嫌がらせが起きてからそれとなくすずみに止められていたので、ここのところは放課後に家に招いたり、休日に遊びに行ったりしか顔を合わせていなかった。最近妹ちゃんのとこにはいかないの? とクラスメイトに聞かれると、妹離れってやつよとわらっていた潮だったが、聞こえてくる噂に気が気でなく、いくつかは彼女が直々に潰した。とりつかれているという噂に便乗して、すずみに何かしら仕掛けようとする動きがあれば木ノ葉から連絡が入るようにしていた。

 せめてこれまでの、クラスで一人の状態をと、潮は影ながら動いていたのだ。それでも足りなかったのは主犯のものだが、人間の絡んだものは未然に防ぐことができた。

 今日はお姉ちゃんにならなくちゃ、と気合を入れつつ考え事をしていたら、くいと手を引かれて振り返る。黙り込んだ彼女を不思議に思ったのか、すずみが「どうしたの?」と首をかしげていた。

「しおちゃん?」

「あ、ごめん。先に部屋行ってて」

「ん」

「なに飲む?」

「……」

「甘いのね」

 潮の家は一階が食堂、二階が住居スペースになっている。

 潮は先にすずみを部屋に行かせると、お菓子と飲み物の用意をしながら考える。


 小さい頃は、すずみは潮の前では泣いて、わらうことができた。

 潮がすずみに初めて会ったのは、ほんとうに小さな頃だった。

 十二支同士で交流なんてないので、すずみがねずみだと知ったのもそのときだった。潮の家の前にまだハイハイをしている赤ん坊のすずみが、ひとりでふらふらしていたのだ。にこにこわらっているすずみを、そのときはまだ小さかった潮が慌てて抱き上げて、とりあえずその子が座っていた家のインターフォンを鳴らして迷子のすずみを届けたのだ。潮は手厚くもてなされ、家まで来て感謝された。小さなすずみは結構な冒険者の探検家で、ふと目を離すとどこにでも行ってしまうのだと。

 すずみと潮が住んでいるのは車が一台通れるかどうかという狭い道に面した場所なので、自転車と歩行者くらいしか来ないのが不幸中の幸いだった。

 潮は十二支の昔話の「ねずみは牛の頭に乗って」というところを聞くたびに、ねずみのばーか、と思っていた。「なんで気付かなかったんだろう、牛もばかだ」と思っていた。けれど、腕の中できゃっきゃとわらっているすずみを見て、家に帰った彼女は両親に言ったのだ。

『あんなにちいさかったら、あたしが抱っこしてあげなきゃどこにもいけないから、いい』

 そうわらって、毎日のように一緒に遊んだ。まるで妹のようにすずみを可愛がる潮をすずみも姉のように慕った。

 潮はすずみが厳しくしつけられているのを知っていたので完璧なんて求めなかった。必要以上に大人になることも。潮はすずみのおばあちゃんが大好きで、遊びに行くたびよく可愛がってもらっていた。――潮はすずみの祖母に頼まれていたのだ。

 不器用なあのこは泣きもわらいもしないけど、何も言わずに泣いていたら気づいてやって欲しいとお願いされていた。

 いまでは潮の前でも笑いはしないけれど、泣かせることなら潮は出来た。

 隙を見せるなと言われ続けて、あのふにゃりとした笑顔は失われてしまった。

 ――あ、でも失われてはいないのかしら。

 いつもより足取りの軽いすずみに、廊下で鉢合わせたのは昼休みのこと。

 校内の見取り図はないかと潮におかしなことを聞いてきたすずみは、調べによると昼休みに追いかけっこをしていた。すずみは逃げる側。追いかけるのは彼女と同じクラスの男の子。てっきりほんとうに逃げたいのかと思っていたら、見取り図を真剣に見つめる眼差しに憂鬱めいた色はなかった。「楽しい?」と聞いた潮に「追いかけてくるから、それだけ」と言ったすずみは、少し口を尖らせていて。困ったようなそれがすずみの照れているときの癖だと知っている彼女は「そう?」と気づかないふりをしたけれど、嬉しかったのだ。だから、一緒に昼休みを過ごすようになったと聞いても、宮尾ケイに接触することはなかった。泳がせていた、といったら聞こえは悪いが、すずみに関わると潮に目をつけられて場合によっては制裁されるなんて噂が立つくらいだ。大事な妹分の恋路の邪魔はしたくなかった。うまくいって、一人ぼっちなんてやめればいい。そう思っていたのに、嫌がらせが始まって、すずみはまた一人に戻ってしまった。

 泣けばいいのに泣きもしないで、潮が聞くまで何も話そうとしなかったすずみにため息がこぼれる。

 不甲斐ないなあ、と自嘲するみたいにゆるくわらう彼女は知らない。おばあちゃんみたいにいつもわらって迎えてくれる、いたずらっ子の目でわらう潮のことが、すずみはとても大好きなことを。


「で、どしたの?」

「……クラスの子で、」

 チーズケーキをぱくつきながら、潮は聞いた。だいたい知っているけれど、知らないふりで。すずみはここ最近起きたことをぽつりぽつり話した。

 嫌がらせのような些細なことが続いたこと、それは猫の仕業だったこと。

 一層クラスで浮いてしまった自分を助けてくれた男の子が、本当は猫だったこと。

 彼が友達のふりをしていたこと。

「ううわ、もーなにそれ!」

 ないないない! と憤る潮だったが、友達のふり云々は知らなかったので内心驚いていた。――彼はすずみんが好きだったはずよね?

 狐目の後輩をどうしてやろうかと考えながら、何かおかしいと思いつつ、それから何も言わないすずみにきいた。

「すずみんは、怒ってないの?」

「……怒るより、なんだろう」

 困ったふうに頬をかいて、すずみはぽつりと呟いた。

「かなしかった、のかな」

 すずみはいままで何をされても、たとえ同じクラスに友達がいなくたって、ひとりぼっちだろうと平気な顔をしていた。潮が聞いているだけの嫌がらせでだって、泣いたりしなかった。――すずみが耐えられたのは、彼の存在があったからだろう。

 クッションに顔をうずめるすずみに、潮は慈しむような吐息を一つ。そっと小さな妹分を抱きしめた。

「泣いちゃいなさい、溜め込んでいいものなんてなーいの」

「……」

「怒ったっていいのに」

 ふるふると首を振るすずみに仕方ないねと苦笑いして「怒れないなら泣けばいいわ」よしよしと震える背中をなでた。

 泣かせるしかできない自分を歯がゆく思うけれど、一人にするよりいいと好きなだけ泣かせた。

「すずみんは、その子が好き?」

「……」

「ほんとは、わかってるよね?」

「……でも、」

「なあに?」

「ねこ、だし、ふりって言った」

「言った? すずみんに?」

「どっかのねこに、聞かれてた」

「すずみんに言ったんじゃないのね?」

「……たまたま、きいちゃった」

「それは――」

 それは本心なの? 喉まで出かかった言葉を飲み込んで、頷く。

「そっか。……どうするつもり?」

「転校?」

 潮はすずみの祖母から昔話も聞いていた。すずみが叶えようとしている願いも知っていた。

 ねこがねずみを恨んでいるうちは、ねずみはねこから逃げるしかない。――それでも、この話はまだ終わっていないと彼女は思った。

「すずみんは、も少し素直になっていいと思うの」

「……?」

「誰かを好きになるって、素敵なことよ? そりゃあ無傷ではすまないけれど」

「……しおちゃん、好きな人いるの?」

「え?! あー、いや、一般論?」

「……」

「……」

「……」

「……いないことも、ない、けど」

「だれ?」

「……すずみんがいわないからあたしも言わない!」

「しおちゃんなら、すきになるよ?」

「えー、たぶんなんとも思われてない。ていうかからかわれてるっていうか、わかんないんだよ」

「なにが?」

「……すきかどうか?」

「……素直になるといいらしいよ?」

「それあたしがさっき言ったじゃん!」


 潮は自分がお節介であることを重々自覚していたが、そろそろ潮時かなあと思った。

 それならいまのうちに存分に可愛がってやろうとぎゅうぎゅう抱きしめた。

「なに?」

「んーん、可愛いなって」

「へんなしおちゃん」

「そんなあたしがお好きなくせに」


 幸せにならないと承知しない、潮はすずみを送ってから携帯を掴む。

 ――先輩?

「ええ、ちょっと頼まれごとをお願いしたいの」

 電話の向こうで、にやっとわらったのが容易に分かった。声の主は芝居がかった口調で応えた。

 ――なんなりとお申し付けください。

「あなたのお友達に伝えて頂戴。このままではすずみが転校してしまうわ――てめえの不甲斐なさなんて知ったことかボケが! とね」

 しばらくの沈黙の後、向こう側で大笑いする声が聞こえた。

 ――なにもかも、姫君のお望みのままに。


 ほら、まだこの話は終わらない。

 終わらせない。ハッピーエンド以外でオチは付けない。

 潮はふうっとため息をついてなんとか気持ちを落ち着かせると電話の向こうに呆れた声を返した。


「ねえ、よくこんな口の悪いのを姫なんて呼べるわね? 見かけだけはってことかしら?」

 ――え、気づいてなかったんですか?

「嫌味?」

 ――すみません、言い方を間違えました。先輩は聞いたことありません?

「なあに? からかうだけなら切るわよ」

 ――女の子は、生まれたときから誰かのお姫さま。願わくば、貴女がわたしの姫君であらんことを。

「え?」

 ――誓いは浮気な月でもこの稲妻のような夜にでもなく、わたし自身に貴女の前で。


 ツー、ツー、と無機質な音に、潮は携帯を放り投げて真っ赤な頬を隠すようにベッドに倒れ込んだ。

 芝居がかった狐のような目の、小生意気な後輩を思い出す。どうでもいいやと営業スマイルも面倒で、ぞんざいな口の利き方をしたって幻滅どころか面白がって、よけいに構ってきた変わり者。

「……キザ。」






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