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気ににゃる彼女。  作者: 水瀬透
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2 まるでロミオとジュリエット

 2 まるでロミオとジュリエット


 ねずみは大慌てで知り合いの家を訪ねましたが、みんな返事をしません。一月一日に早起きをして十二番目までに神さまのところへ着くようにと、みんな早く寝てしまっていたのです。ねこの家も、ねこがいつもどこにいるかもねずみは知りません。どうしよう、どうしようとねずみの目から涙がこぼれました。せっかくねこがありがとうと言ってくれたのに。もしかしたら、友達になれるかと思ったのに。

「あら? そこにいるのはだあれ?」

 突然声をかけられてねずみは飛び上がるほど驚きました。見上げると、牛がねずみのすぐ後ろに立っていました。牛は大きいのでねずみが見えなかったのでしょう。ねずみは慌てて事情を説明すると、牛はねこの居場所は知りませんでしたが「それならわたしに乗って行きなさい」と言いました。「わたしは歩くのが遅いから、今夜中に出発するの。あなたは小さいから、いまから走ったって明日中には着けないでしょう?」と言って、一緒に神さまのところへ連れて行ってあげるから、自分で説明しなさいとねずみを頭に乗せてくれました。「ごめんなさい」と繰り返すねずみに牛はわらっていいました。

「もう。そういうときには、ありがとうっていうものよ」


 ☆


 どうしてそうなったのかはわからないけれど、めぐり合わせというものがあるのなら、それはいまここで起きているのだと思った。

 きっと、どこでも起きているのだろうけれど、一人にとってとんでもなく重大な意味を持つ出来事や重要な人物は、いくらその人間に近しいものだったとしても、まったく取るに足らないことだったりする。それでも、その反対だって起こりうるのだからおあいこだろう。

 ケイは思う。すべておあいこだと。

 だから、一方的な、理不尽なことなんて実際はなくて、知らないうちに何かをしてしまっていて、自分では覚えてもいないことで恨みを買うこともあるだろうと、どこかで思っていた。

 容姿が優れていること。

 成績が優れていること。

 何かに秀でていること。

 何かに劣っていること。

 何かが欠けていること。

 何かが特別であること。

 でも、それは違っていたんだとケイは思い知ることになる。

 理不尽に、一方的に攻撃の対象になることに、――何にも理由なんてない。

 暇つぶしで、流行りで、目についたから、ただそこにいたから、なんとなく。

 ただなんとなくで、何もかも塗りつぶすような攻撃が始まることもある。

 いじめ、なんて呼ばないとケイは目の当たりにして思った。


 暇つぶしで、流行りで、目についたから、ただそこにいたから、なんとなく。

 そんな理由で行われる――殺人行為。


 心を踏み潰して、塗りつぶして、破壊して、晒して、わらいものにして、ひとひとりの心を殺す。

 命あっての物種とはいうけれど、何かを楽しんだり、好きになることのない、心のない生活が、生きているといえるのだろうか。

 いえないのなら、そこで行われていたのは紛れもない殺人行為だ。

 無差別の快楽殺人。――裁きは重いに決まっている。


「な、」

「おはよーさん、ミケ」

「いや、おはようより……あれは?」

「さあね、おれがきたときにはもうああだった」

 言葉を失うケイの向こう。

 肩をすくめる木ノ葉の視線の先には、傷だらけの机と椅子と床にしゃがみこむすずみの姿があった。

「机と椅子がひっくり返ってたみたいだ」

「引っくり、ってなんでだよ?」

「さあ? しっかし一宮って学校来るの早いだろ? 誰がやったんだろうな」

「え、そうなの?」

「おれが朝練の前に教室のぞくと絶対いる。それよかお前行かねーの?」

 教室の入口に突っ立ったままのケイに木ノ葉が呆れ顔で聞く。ケイは慌ててすずみに駆け寄った。遠巻きにしていたクラスメイトがどよめいたけれど、ケイはそれどころではなかった。ケイの前の席、すずみの机と椅子はケイたちのものと何も変わらない、どこにでもあるような学校の備品だ。多少古くて傷や落書きはついていても、こんなにあからさまにぼろぼろではなかったはずだとケイは思う。真面目なすずみは教科書を持ち帰っているらしく、机の中身は空に近い。それでも、机の横に掛けてあった体育館シューズの袋は引き裂かれ、辞書も同じく傷だらけになっていた。

「一宮さん、大丈夫?」

「……」

「壊れたものとか、」

「大丈夫だから、ほっといて」

「じゃあ、おれこっち片付けるから」

「……」

「あ、じゃあおれ教科書欠けてないか見といてやるよ」

 すずみはいつもと変わらないそっけなさで、ケイと目も合わせずに袋や辞書の切れ端を淡々と拾っていく。クラスメイトが呆気にとられている間に片付けを終えて「多少破れてるけど今日いるやつは全部あった」と確認した木ノ葉から辞書やらを受け取って、傷だらけの机にしまうと、何事もなかったかのように席に着いた。

 誰がやったんだろう、とひそひそ囁く声にもすずみは顔色ひとつ変えなかった。


 それから、すずみの周りではおかしなことが起きるようになった。


「うわ、なにあれー」

「授業中に誰か来たってこと?」

「やだ、こわいって」

 移動教室から戻ると、ひそひそ離しているグループが一斉にすずみを見た。

 今度は机がひっくり返って教科書がなくなっていた。

 借りる友達がいないすずみは、ケイの申し出も断って教師に珍しいなとわらわれながら残りの一日を過ごした。

 ロッカーやゴミ箱を探しているすずみをケイも手伝って探したが見つからず、諦めかけたところで木ノ葉がすずみとケイを呼んだ。

「届け物だと」

「あ、教科書! よかったー!」

「なあ、コレどこにあった?」

「え? 外掃除してたら、植木のとこにばさーっと、ね?」

「うん、クラスと名前書いてあったから。破れてるかもしれないけど……」

「……ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げてすずみはかばんにしまっていく。届けられた砂まみれの教科書がケイの目に焼き付いて離れなかった。


「悲惨、ないわー」

「やりすぎじゃねえ?」

「いじめってこと?」

「でもさあ、誰ができんだよ?」

 その次にはノートが破かれていた。

 悲鳴を上げたのはケイで、すずみは顔色一つ変えずにほうきとちりとりで片付けていた。

 提出するものも一緒くたに破られており、お前最近どうしたんだ? と教師に叱られているのをクラス中が遠巻きに見ていた。

 すみません、と謝るすずみにケイは胸が痛んだ。


「なんなんだろうねー」

「案外ストーカーとか?」

「えーちょっときもちわるくない?」

 体育の終えて教室に戻ってくると、制服がなくなっていた。

 これには教師も首をひねって、すずみはひとりジャージで授業を受けていた。

 こんなときまで姿勢いいんだ、とまっすぐに伸びた背筋にケイはかなしくなった。

「おい、届け物」

 木ノ葉がすずみとケイを呼ぶ。

 今度は下駄箱の近くで体育帰りの生徒が見つけて、名札を見て届けに来たという。

「大丈夫だった? ていうか砂だらけだけど大丈夫?」

「一応はたいたんだけどねー、制服ないって困るどころじゃないし」

 三年の先輩は口々に心配してくれたが、すずみは「……ありがとうございました」と相変わらずだった。


 その次には上履き、ローファーがなくなって、見つかって。

 体育のジャージも制服も、靴も持ち物も、日に日にどこか擦り切れたり、泥が付くようになった。

 帰り道にもどうしてかあった水たまりをトラックに撒き散らして泥だらけになっていたとか、鉢植えが落ちてきていたとか。ほかのクラスの目撃者からの噂も混じって尾ひれもついて、すいすいと広がった好奇心はすずみを遠巻きにしてひそひそと指をさした。

 そして決定的な事件が起きた。

 移動教室の途中で、剥がれた校舎の壁がすずみめがけて落ちてきた。

「一宮!」

 ケイが教科書を忘れたと借りに行っているのを待っていた木ノ葉がとっさに抱えて避けたので事なきを得たが、降ってきたのはコンクリートの一メートルそこらの塊。まともに当たっていたら無傷ではすまなかっただろう。特に風が強かったわけでもなく、老朽化対策として校舎全体の修繕工事がされたのは去年。剥がれた、というよりも、剥がしたような壁の断面の不自然さが不気味だった。

「木ノ葉! いいいいい一宮さんは?!」

「なんでああいうときにお前いねーんだよ!」

 ばあか! と綺麗な飛び蹴りをくらったケイは、保健室に連れて行ったと木ノ葉にきいて慌てて走る。いつも通りの無表情な目ですずみは「大丈夫」とだけ呟いた。

 担任の神宮はやる気のない世界史教師なのだが、このときばかりはぼさぼさの髪を困ったようにかきながら「ったく修繕工事したばっかだろーに、災難だったなあ」と彼なりの労りの言葉を口にしていた。すずみは頷くだけで「大丈夫です」の一点張りだったのだが、神宮は養護教諭のおばさんに「驚いてると思うんで、少し休ませてやってもらえますか?」と頼み「そりゃそうでしょう、じゃああなたたち次の授業の先生に伝えておいてね」とすずみの抵抗も軽くあやして、ケイと木ノ葉は神宮に背中を押されて保健室を出た。

 あー、と神宮が頭をかきながら口を開く。

「……なあ、一宮って何かあったのか知らないか?」

「?」

「何かって?」

「あー……最近あいつなんかぼろぼろな気ィするのは俺だけ?」

「……先生そういうこと聞くんすね」

「紺野は何、けなしてんの?」

「若干見直しました。教師にとってはもめごとって避けたいんじゃないすか?」

「ったくなんで最近の生徒は悪知恵っつーか妙に聡いっつーか……」

「先生、学校にスペアの教科書とかってない?」

「宮尾はもう敬語でもないしね。なに、スペア?」

 そゆことね、と事態をおおよそ把握したらしい神宮は深々とため息をついてうなだれた。

「お前らが見てて見当は?」

「ないっすね、おかしいんすよ」

「何が?」

「全部、授業中にやられてる。侵入者とか?」

「あー……生徒にはできないのね?」

「サボったって限度あるし、早朝もだから生徒の線は薄いっすね」

「ったくあーもー……」

「ところでなんでおれらに聞くんすか?」

「え、だって一宮が誰かと一緒にいるのってお前らくらいしか知らないし」

 三年の二宮は別として、と神宮は髪をガシガシかいてケイと木ノ葉に言った。

「おれじゃほんとどーにもなんねーから、頼んだ」

 いっすよ、と木ノ葉が、わかった、とケイが頷いた。


 ――なんか、おかしいよね?

 その頃、一部始終を見ていた生徒たちから一気に話が広がっていった。

 突然始まったあれこれは、すずみに対する嫌がらせであることは明らかだった。

 それにしてはやることが小さいというか、地味すぎる。しかし毎日続くと、陰湿さが際立ってくる。いくら当人でなくても、見ているだけで気が滅入ってくるのは仕方ないともいえる。誰も教室にいない時間の体育や移動教室などの間に机がひっくり返されていたりするので、誰がやっているのかわからないが、教室に出入りしていることは確かなのだ。挙句のコンクリート落下である。

 気味が悪い、とクラスメイトはすずみを本格的に遠巻きにした。「とりつかれてるみたい」そう、クラスの一部がすずみをわらいだすと、残りは便乗するか見て見ぬふりをするかで、――すずみはいよいよ一人ぼっちになった。

 もう誰もすずみに声なんてかけない。

 指をさして、くすくすわらうだけ。

 なんなんだろうな、と眉根を寄せる木ノ葉にこたえずにケイは始業のベルと同時に机に突っ伏した。

 日当たりのいい、昼寝には絶好の時間なのに、ケイの口からはため息がこぼれた。


 そんな嫌がらせが続く毎日にも、すずみは顔色ひとつ変えなかった。

 昼休みに黙々とチーズ蒸しパンをかじる横顔は、いつもと変わらないように見える。

「……大丈夫?」

「なにが?」

「その、教科書とか」

「へいき」

「そっか」

「……」

「……」

「……無理してまで来なくていい」

「無理なんかしてないよ?」

「……」

「……」

「……え、ちょっと」

 慌てたようなすずみに首を傾げたケイは、泣いていることに気付いた。

「あ、あれ? なんでだろ」

「ど、どうしたの?」

 蒸しパンを膝に置いて心配そうにケイを見るすずみに、ケイはぼろぼろ泣きながらなんとか口を開く。

「一宮さんが、」

「……?」

「一宮さんが、泣かないから」

「え?」

「なんであんなに毎日されてて、泣きもしないし誰も頼らないんだよ」

「……」

「あんな目にあったら、ふつうは、さ、辛いでしょ?」

「……」

「なんでもない、とか、そんなわけないのに、」

「……」

「なんで、泣かないの。だからおれがこんな、かっこわるい」

 そっと、ケイの頬に何かが触れた。すずみがタオルハンカチでケイの涙を拭っていた。

 ぐずぐず鼻をすするケイに、すずみは「使って」とハンカチを渡した。またもやネズミーの、可愛らしいたんぽぽ色のハンカチだった。

「宮尾くんは、」

「ん?」

「やさしいとこで育ったんだね」

「どういうこと?」

「……」

「?」

「何でもない。え、」

 またもケイがぼろぼろ涙をこぼすので、すずみは驚いてあたふたし始めた。どうしたの? とケイの頬にまたハンカチを当てる。

「またそうやって、なんでもないっていう」

「そんなことで……」

「そんなことじゃない、なんで、」

「……宮尾くんてよく泣くの?」

「んなことないよ」

 弟の世話を焼く姉のように、ぐずぐずと泣くケイの髪にそっと触れて、よしよしとすずみがなでる。ケイは嬉しさよりも、こんなときでさえ自分のことよりケイのことを気遣う彼女がいじらしくて、どうしていいかわからなくて、いま辛いのはすずみなのになんで自分が慰められているんだろうと情けなくてくやしくてまた涙がこぼれて止まらなくなった。

 あれ、とすずみが涙を拭っていた手を止めた。

「宮尾くん、目の色が――」

「なんでもない!」

 大きな声に驚いたらしいすずみが、ごめんなさいと呟いて黙り込んでしまう。

 沈黙に耐えかねて謝ろうとしたケイの口からは言葉ではなく言葉にならない声と涙しか出なくて、すずみはまた頬に触れた。

「……よく泣くね」

「うるさいよ」

「そんなことも言うんだね」

「木ノ葉にはもっと適当だよ」

「ねえ、宮尾くん」

「なに?」

「綺麗だねって、言おうとしたんだよ」

「?」

「目の色。気に障るならもう言わない」

「……ほんとに?」

「うん。お月さまみたいで、不思議な色」

「……木ノ葉とは、小学校のときに仲良くなったんだ」

「そうなんだ」

「目の色とか、変だーって言われるおれのこと、あいつだけはかっこいいっていてくれて、それからずっとこんな感じ」

「そっか」

「一宮さんは?」

「なにが?」

 ケイはすずみに不思議な色と言われて、つい口からこぼれた。

 ずびっと鼻をすすりながら、ほとんど止まった涙の残りを拭う。

「何か香水とかつけてるの?」

「香水?」

「違うの? ならシャンプーとかかなあ」

「何の話?」

「一宮さんて、なんかいい匂いするんだよね。女の子だから?」

「……」

「あ、気に障ったらゴメン」

「……泣き止んだ?」

「あ、うん。これ洗って返すから」

「べつにいいよ」

 いやいや、とかばんにしまって、ケイは恥ずかしさを紛らわせようと適当に口を開いた。

 大泣きした手前、何か話していなければ蘇ってきた恥ずかしさにどうにかなりそうだったのだ。

 ほんとうに、それだけだった。


「あんなに泣いたのなんか久々だったなあ、映画とかだとたまに泣くけど」

「いつも泣いてそう」

「いや、さっきのはほんとうに珍しいから!」

「ふうん?」

「信じてないよね?」

「だってすごい泣いてた」

「それは、――なら一宮さんは泣かないの?」

「泣かない」

「ずっと?」

「ずっと。」

「……でもさ、辛いときってないの?」

「ないよ」

 頑なな言葉は拒絶されているみたいで、ケイはつい言ってしまった。

「あんな、――あんないじめみたいの受けてて辛くないわけないでしょ?」

「なんでもない」

「そんなんだからいつも一人でいるんじゃないの?」

「すぐに泣けるような宮尾くんにはわからないよ」

「なんだよそれ? 話してくれればいいじゃん」

「言いたくない」

「言いたくないことはきかないよ、愚痴とかでも」

「いい」

「……なんでそんなにさあ」

「……好きに、好きなだけ泣ける宮尾くんにはわからない」

「決めつけなくてもいいだろ」

「頼んでない」

「なんでそうやってそっけないかなあ、そんなふうだから嫌がらせとかされ、――あ」

「……そこまでわかってるなら、もうほっといて」

「ごめん! いまのは言いすぎた、ほんとにごめん!」

「わたしは初めからいて欲しいなんて頼んでない」

「そんな言い方することないじゃん!」

「いやなら構わないでってはじめから言ってる」

「なんでそんな一人になるたがるの?」

「一人がいいから」

 食べかけていたチーズ蒸しパンを黙々と食べていくすずみにケイはぽつりと尋ねた。

「一宮さんて、なんでわらわないの?」

「……ら、」

「え?」

 風にかき消されそうな声に、ケイはすずみを見た。凛と伸びた背筋、髪と同じ色の目は遠くを見つめている。遠くの空色の、その向こうを。

 ふいと顔をそらしたすずみは最後の一口を食べ終えると「ごちそうさまでした」と手を合わせて立ち上がる。

「一宮さん?」

「……何でもない、関係ない」

 そのままどこかへ行ってしまったすずみを追いかけようとケイは弁当の残りをかきこんだ。彼の勘違いでなければ、彼女は風に紛れてこう呟いたはずだった。

 ――約束したから。

 遠くの空色の、その向こうを見つめて。


 それからケイは顔を合わせづらくて、屋上の屋上に行かなくなってしまった。

 なんで泣かないの? 本当はそう聞きたかったケイは、同じことかもしれないと思った。


 ☆


「……なあ」

「なに?」

「いい加減鬱陶しいんだけど」

 うるさいやいとケイはだんまりを決め込んだ。昼休みの教室で、うなだれたケイは机に額をこすりつけてああだこうだと唸っている。屋上の屋上に行かなくなってからずっと木ノ葉の前ではこの調子だ。話を聞いてくれオーラに耐えかねた木ノ葉が心底面倒そうに口を開いた。

「……言いすぎた」

「は?」

「一宮さんに」

「謝れよ」

「……」

「あんだけ追っかけたくせに。でもまあ、」

 意味深に言葉を切る木ノ葉に首を傾げたケイに、彼はとてもいい笑顔で話くらいは聞いてやるよとわらった。

 部活終わってからだから、待ってるか交差点のコンビニで待ってろと言われたケイは、木ノ葉の部活を見学させてくれと言った、久しぶりに彼の演じる姿を見たかったのだが、基本的にお披露目までは部員以外入れてくれないのだ。今回もたぶん駄目だろうな、と思ったケイの予想を木ノ葉は少し考えて笑いとばした。

「お前にはちょうどいいや。特別に見せてやるよ」


 演劇部は本番こそ舞台を使うが、基本的には広い教室を使っているのでケイが膝を抱えて座っている場所なら十分あった。

 筋トレや発声練習を一通り、そして始まったのは木ノ葉の持っていた台本「ロミオとジュリエット」だった。

 ケイは小道具と一緒に置かれた台本をちょっと開いてみた。

 敵対する家柄の息子と娘が恋に落ち、引き裂かれて死んでしまう悲劇――のはずだが、台本には(仮)と書いてある。おおまかな筋は知っていたのでぱらぱらとページをめくりながらケイは思う。

 ――周りはきっと許してくれたのに、なんで難しく考えるんだろ。

 台本を手に部員たちはそれぞれの役を演じている。とりあえず原作に沿った物語を演じて、そこからアレンジを加えるのだろう。木ノ葉のお披露目を兼ねた演劇部は去年の文化祭でいばら姫のその後を描いた舞台で大喝采を浴びている。ケイたちの学校の演劇部のオリジナル脚本は伝統だが、去年の舞台のストーリーは当時一年の木ノ葉が考えたというからケイは驚いたものだ。

 ハッピーエンドなんてご都合主義だと鼻でわらいそうな木ノ葉の考えたその物語は間違いなくハッピーエンドだったのだから。

 そのことについてケイに聞かれた彼は「そこまでひねくれてねえよ」と呆れた顔をしていた。

 ――幸せになったっていいだろ、作り話なんだから。

 なければ作ればいい、何かにつけてそう口にする木ノ葉は、確かに幸福を作ってみせた。

 この悲劇も、木ノ葉だったら幸せにできるのかな。ケイは剣を手に朗々と台詞を読み上げる木ノ葉を見ながら、らしくもないため息をついた。


「プレミアム。」

「……普通の三つは?」

「プレミアム三本。」

「……」

 わかったよ! とやけになったケイがコンビニで木ノ葉にチキンを買って、近くの神社に寄り道することにした。

 ツツジの咲く、もう葉桜になった大きな木が一本だけの小さな神社はケイと木ノ葉が小学生の頃からよく寄り道していた場所だった。ほくほくとチキンをかじる木ノ葉の隣で、ケイは九十九円のスポーツドリンクを開ける。「のど渇く」という鶴――もとい木ノ葉の一声で購入した品なので飲めるうちに飲んでおこうという算段だ。ケイが一口二口飲んだところで木ノ葉が手を差し出したのでしぶしぶ渡す。「ごちそうさんです」とわらって、木ノ葉が口を開いた。

「で? なんだよ」

「あー……」

「はいはい迷ってる間に口動かせ」

「……例えばさ、お前が誰かに、」

「却下。お前のちっこい脳みそで例え話とかしなくていい。さっさと話せ」

「……一宮さんにひどいこと言った」

「だから謝れば?」

「……」

「何言ったんだよ?」

 ケイは木ノ葉にすずみとの一部始終を話した。――もちろん自分が泣いたのは端折って。

 怒らせたかもしれないこと。それ以上に、ケイの言葉にすずみが傷ついたであろうことを。聞いた木ノ葉はため息に乗せて一言。

「お前、さいてー。」

「……ほかに言い方ないの?」

「あれ、罵ってほしいんじゃねえの?」

「……」

「おれは、このままお前がログアウトしてもいいんじゃねえかって思うよ」

「え?」

「だって一宮は一人でいたいんだろ? あそこまで一人でいたがるなんて、過去にトラウマでも負ったのか知らねえけど――異常だろ。お前と追っかけっこしてる頃の一宮は、浮いてたけど丸くなってたじゃん。でも、嫌がらせかいじめがなんかでクラスのやつらが離れてって、一人になって、お前まで離れてくなら、一宮はめでたくお望み通りの一人に戻れるだろ。」

 木ノ葉は淡々と事実を紡ぐ。

「一宮はただ、一人でいることを望んでる。お前が構わなくなれば、礼は言われないだろうけど感謝はされると思うぜ?」

 確かに、すずみはひとりでいることを望んでいた。――それでも。ケイは知ってしまったのだ。

 昼休みにケイが行くまで、チーズ蒸しパンに手をつけずに待っていてくれるすずみを。

 泣き出したケイの涙を拭ってくれるすずみを。

「お前がいなくなって清々してんじゃね? そもそも寄ってくるから面白がってただけかもしんねえし」

「ちょ、一宮さんはそんなんじゃ――」

「はあい、ストップー。」

 おどけたような木ノ葉に、ケイは「はあ?」と眉を寄せた。

 ほんとに世話が焼けるっつーか、もっかいプレミアム三本奢りじゃね? 心底呆れた、と雄弁に語る目で、木ノ葉はケイの背中を蹴飛ばした。

「お前もほんとに馬鹿だね。言えるんじゃん。そのまま愛しの一宮んとこ行って、続き言ってこい」

「……」

「お前が構うのが一宮の日常にしたんなら、そのまま貫け。追っかけるくらいしかミケにはできねえんだからさ」

 ぐだぐだ落ち込んでる暇があったら追っかけ回して来い。明日からは、昼休みもおれは部室に行くから構ってやんねえと言われて、ケイは思わず素直に「ありがとう」と言いかけたのだが、

「あ、でもぐだぐだのお前が潮先輩にしばかれんのもいいかもね」

 それも見てみたいからどっちでもいいや、と目を細くしてわらう木ノ葉に台無しにされてしまったのだが。


 ☆ 


「ただいまー」

 家に帰った傷心のケイを出迎えてくれたのは、大きな大きな招き猫だ。

 身長が百八十センチ少々のケイの胸くらいまで高さがあるので、百五十センチはあるだろう。玄関にででんと鎮座するその招き猫は代々受け継がれてきたものらしいが、いつからあるのかはわからない。

 招き猫は、右手を上げていたらお金、左手は人や客を招くとされている。

 両手を挙げているものは人とお金の両方を招くそうだが「お手上げ」のようにみえるので嫌うひともいるらしい。

「ただいま、タマ」

 そんな「お手上げ」の招き猫を、小さな頃からケイは勝手にタマと呼んでいる。浮かない気分で帰ってきたときには、タマの頭を撫でると少し気持ちが晴れた。

 ハロハロキティの玄関マットを踏んで居間に入れば、大きなラグにはハロハロキティとその彼氏のダニーくんがプリントされている。食器棚ではチェシャ猫がにんまりわらっているマグカップなどが並んでいる。そのほか浴室にも、寝室にも、一軒家のいたるところに猫のグッズが置いてある。ケイも小さい頃は基本的にネコミミのついたパーカーを着せられていた。映画のDVDの類は見事に猫絡みの作品だらけ、本棚だって同じことだ。

 ここまでくるとほとんど崇拝に近いよなあ、とケイは思う。


 ケイの家は、猫が先祖だ。

 干支になれなかった猫の子孫。


 ケイは化け猫ではない。昼寝が好きだったり多少猫らしいところはあるけれど、れっきとした人間だ。

 有名な昔話の、ねずみに一日遅れた日にちを教えられて、十二支になれなかったねこ。それがケイの先祖らしい。

 初めてその話を聞いたとき、ケイは幼稚園児ながらに「ねずみもねずみだけど、大事な手紙ならちゃんと見ればよかったのに」と思ったのを覚えている。その感想はいまでも変わっていない。

 どうして猫から人間になったのかはわからないが、母方の家が干支外れの猫の子孫だった。その母だけではなく、猫又を先祖に持つ父親は猫のキャラクターというよりは妻であるケイの母親を溺愛しており、ケイの家には母親の好みの猫のあれこれが溢れかえっている。さすがに高校生の息子にはネコミミのパーカーや、肉球柄のパジャマを着せようとしないので、ケイはごく普通の生活を送れている。親戚とはお盆や正月に会うけれど、だからといって子孫だから云々ということは言われない。

 ――あ、ひとりいたか。ケイは思い出す。

 父親の兄、ケイの叔父にあたる人は、酒が入るとねずみに対する恨みつらみを誰かしらとっ捕まえて延々と絡むのだ。――ネズミーランドの何が楽しい、あんなネズミだらけの場所のどこが夢の国だ。悪夢もいいところだ、なんて金の無駄遣いだ。バカバカしい。だいたいやつらは害虫と同じだろう! あんな、ハムスターを飼うなんて正気の沙汰じゃない。怖気が走る。気味が悪いわ。あのアメリカの、ねずみが猫を馬鹿にしたようなものなど作ったやつの気が知れん!

 ファンもアンチも同じことっていうのにな、と嫌でも聞こえる声に隠れてため息をついたのは記憶に残っている。

 ファンもアンチも、特別視するならそこに違いはない。

 好き嫌いは同じことで、無関心こそがファンの対義語だと、言っていたのは母親だったか。

 叔父はあの干支はずれの猫の子孫だからと何かにつけてケイに絡みたがるので、ケイは幼い頃からうまいこと隠れてやり過ごしていた。追いかけてくるひとは昔から苦手で、ケイは大きくなると親戚の集まる場所にはあまり顔を出さなくなった。父親も実の兄ながら気が合わないようで、うまくごまかしてくれた。避けられるなら、うまいこと避けちゃえばいいのよと、母親はのんびりわらっていた。

『逃げることって案外悪くないものよ、向き合わなきゃいけないことなら、そのうちまた鉢合わせるから』そう、わらった。


 だから、会うのは何年ぶりだろうとケイはため息をかみ殺しながら考える。

 家に帰ったケイを待ち構えていた叔父は、挨拶もそこそこにケイを座らせた。家にいた母親をちらりと見ると、困ったようにわらってお茶を入れている。母親も叔父が苦手なのだ。そもそも一族で叔父を好いているものがいるのかも怪しいが。

 叔父が口火を切る。とっとと用事を済ませて帰ってくれとケイは大人しく頷いた。

「干支のねずみの子孫がようやく見つかった」

 やつらは人間に紛れて暮らしている。いまこそ、我らの恨みを晴らすときだ云々と機嫌よくしゃべり続ける叔父に、ケイは欠伸を噛み殺しながら、お茶を飲む。巻き込まないでくれないかなあ、というケイの願いは粉々に打ち砕かれることになる。

 叔父がもったいぶるように咳払いをして告げた。


「ケイ、お前の高校に一宮すずみという生徒がいるだろう。そいつが干支のねずみの子孫だ」


 え? お前と同じクラスらしいじゃないか、気付かなかったのか? え、はあ。まあまあ、クラスが同じでも男の子と女の子じゃ話すとも限りませんし。

 なんだかんだと聞いてくる叔父に適当な返事を返していると、母親が会話を引き継いでくれた。

 二人の会話がどこか遠くのことのように聞こえた。


 ケイは彼女の香りを思い出す。

 さらりと揺れるブラウンの髪、凛と背筋の伸びた後ろ姿からふわりと香るあの匂い。

 うっとりするけれど、落ち着くのではなくて、どこかうずうずしてくる不思議な香りは――美味しそうな、匂いだった?

 目眩をおさえて、ケイはすずみの後ろ姿を思う。

 今日のやりとりを。

『いい匂いするね、シャンプー?』

『……』

 言葉に詰まっていた彼女を思い出す。――そりゃあ、言えるわけないか。

 ケイが猫だとは気づいていないとは思うが、よく考えてみれば小柄な身体にすばしこい運動神経、知能の高さ。ちょっとした仕草が小動物みたいだったこと。思い返せばすべて、すずみがねずみであった証拠に思えてくる。

 木ノ葉が、すずみの先祖がねずみ贔屓だったと言っていたのを思い出す。

 まさか彼も先祖そのものがねずみだなんて思いもしないだろう。

 ケイは誰にともなく、心の中で問いかけた。


 じゃあこの気持ちは――恋じゃなくて、食欲? 



 ☆ 神宮先生の考察


 世界史担当の神宮は、ロミオとジュリエットが幸せになりたかったのなら表と裏を使い分ければ良かったのだと思っている。いくらなんでも若さを通り越して子供のように猪突猛進に突き進んでいく姿はなるほど素晴らしいが、それで愛するひとを亡くしてしまっては意味がないだろうと。


 家に縛られる気持ちは彼にもわからなくはない。だが、ロミオとジュリエットの死の真相を聞かされてあっさり和解して純金の像を立てる両家も両家だと思った。いくら名だたる巨匠の作品でも賛否両論あるこのエンディングだが、神宮個人としては、賛否両論を起こしたかったのではないかと思っている。

 家柄なんてくだらないとあっさり和解するのなら、二人が死ぬ前にどうして和解できなかったのだと神宮は思う。

 純金の像を建てるときにまた揉めそうな気がすると言ってしまえばそこまでの話だか。

 ――でも、伝えられるときにありったけの気持ちを伝えるのは悪くない。

 刹那的であるかもしれないが、彼はロミオとジュリエットの生き様が少し羨ましくも思えた。

 自分には、絶対できないからだ。

 あれこれ考えて、きっと自分なら仮死状態の薬やらという怪しげな道具は使わないだろう。飲むとしても相手には飲ませない。危ない橋を渡るのは御免だが、どうしても渡るしかないのなら、最小限の人数が渡るべきだと彼は思う。

 ――ったく、認めてもらえなければ、持久戦か、相手に委ねるとかさ。

 反対され続ける関係を保つのは簡単ではない。彼が耐えられたとしても、相手が憔悴してしまうようなら、一緒にいることが苦痛になってしまうならば。

 ――相手が無理だって言ったら、俺は手を離すんだろうな。

 それを優しさと呼ぶのか、冷たいというのか、他人任せというのか、彼にはわからなかったけれど。


 愛するひとが、幸せでいることが自分の幸せなら。と彼は思う。

 愛するひとに、自分の人生を背負わせているのと同じだよな。


 自分で自分のこと幸せにできないなら、そんな面倒も見れないガキじゃあ、――フィクションがお似合いだ。




「おれじゃほんとどーにもなんねーから、頼んだ」

 何を頼むのか神宮が自分でもわからないまま口をついた言葉に、紺野と宮尾は頷いた。

 昼休みになっていくらかのんびりとした空気の職員室で、神宮は自分の机から窓の外を見上げた。

 屋上には、影がひとつきり。

 彼の席からはちょうど屋上が見えるのだ。すずみが入学してからずっと屋上で昼休みを過ごしていたのを知っていた。始めのうちは影が二つになることもあったが、色からして潮であることが見れば分かった。それでも、すぐに影はひとつになって、増えることはなかった。いつも一人でいるのかと思っていたら、二年になって自分の担任するクラスになって、本当に一人きりでいることが分かった。

 個人面談のときなど、話す機会があれば神宮はすずみに聞いてみたものだ。

『なー、なんで一人でいるんだ?』

『……』

『勉強つーか、一宮は運動まで成績抜群なんだけどなあ。学校楽しいか?』

『……す、』

『ん?』

『ひとりじゃないとだめだからです』

 答えになっているのかいないのかわからない言葉ひとつきりで、そのあとは押しても引いても同じこと。三者面談に現れるのは決まって代理の、祖父の付き人か何かで、伝言代わりの手紙にはいつも成績について優秀であるか否か尋ねる文面がしたためられていた。進路はどの大学が狙えるのか、どのレベルなのか――すずみの学校生活について尋ねる言葉はひとつもなく、付き人がとりあえず型をなぞるように聞いてくるだけ。それにもすずみが問題ないと答えてしまうので、神宮がわざわざ引っ掻き回すのはためらわれた。すずみの声には、突き放すような、そんな硬さがあったから。

 すずみが裕福だけれど厳しい家の子供だということは分かった。

 神宮の一番苦手な、普通の家だった。

 彼は厳格な父親がすべてを支配する家庭に生まれた。核家族で、大人しい母親と兄との四人暮らし。小さな頃から通信教育だの習い事だのに兄弟揃って通わされ、うっかり期待に応えてしまえた兄と延々比較されながら育った。挫折を数えればおおまかに人生を振り返ることができるといってもいいくらいには劣等感に苛まれながら成長した。父親の一挙手一投足、一言の言葉の声音やまとう空気を伺い、言われるがままに従って息を殺していた。そして、出来損ないだと早々に彼に見切りをつけた父親に反抗するように、中学と高校は自堕落に過ごしていた。とはいっても、なんとなくゆるく過ごしていただけで、父親から隠れるように息を殺して日々を暮らしていた。

 そんな矢先、両親ご自慢の兄が志望大学に落ちた。一浪して、二浪して、三浪して、――そして折れた。

 部屋から出てこなくなってしまった兄が、娯楽も、出来たかもしれない友人も、何もかも捨ててずっと一心不乱に勉強していたのを知っていた彼は、ようやく解放されるのではと思った。やめちまえばいいのに、そう思ったし、扉越しにこっそり声をかけたときに言ってもみた。彼は比較されてこそいたが、両親に隠れて、いつもこっそり褒めてくれた兄を慕っていた。もういいんじゃね? ……そうか? 兄さんの人生だろ? ……。俺みたいに好き勝手してても生きてはいけるし、兄さんならうまくやるだろ。

 そして兄は家を出ていった。それだけならああよかったねで済んだのだが、父親は矛先を彼に向けた。

 今度は彼に名のある大学を目指すよう言い渡した。呆けた彼に父親は尚も言う。――もううちに息子はお前しかいない。

 吐き捨てるように言われて、彼は呆然とした。母親も何も言わない。よく耐えてきたものだと兄を改めて尊敬した。


 思い通りにならなければ存在すら認めない。

 兄は死んだことになった。


 家を出よう、自分まで狂う前に。

 高校生だった彼はそう簡単に家を出られはしなかったので、家を出るために家から離れた大学を受けた。父親曰くの「そこそこのレベル」をぎりぎり満たしている大学に無理やり入り、大した理由もなく就職のために教員免許を取って、就職が決まってからは家に帰ることはおろか連絡も絶った。

 兄とは就職した辺りから連絡を取り合うようになったが、会いはしていない。いまはふらりと渡った外国で出会ったひとと結婚して、子供と暮らしていると写真を送ってくれた。幸せそうでなによりだと嬉しくなった。

 いまでも、彼はときどき自分が誰の意思で動いているのか分からなくなる。

 抑圧も十分暴力で、目に見えない暴力なんてそこいらにざらにあると気付いた。――きっと、すずみも。


『あれ?』

 いつもひとつだった屋上の影が、ある日を境に二つになった。

 小さな影と、背の高い影と。

 よく見るとそれが同じクラスの宮尾であることがわかって、神宮はなんだか嬉しかったのだ。

 ――ひとりじゃないとだめだから。

 そう頑なに一人きりを貫いていたすずみの考えが変わったのかまではわからないが、彼女が一人ではなく誰かといることが嬉しくて、神宮は昼休みになると影が並ぶのを楽しみにしていた。

 屋上デートかあ、と考えておやじっぽいのか? と首をひねったりしながら、微笑ましく見守っていた。学生ってのはどうしてあんなに眩しいんだろうなあ、と自分の学生時代を思い出しながらカップめんをつついていると、隣の席の同僚に「何かいいことでもあったんですか?」と聞かれるくらいには、顔に出ていたらしい。「いやあ、なんにもありませんよ」と答える声がなんとなく弾んでいるのを彼がよくわかっていた。――なのに。

 ここ数日の間に、二つ並んでいた影はひとつに戻ってしまった。


 すずみにわけのわからない嫌がらせが連続しているのは知っていた。教えに来てくれる生徒もいたし、嫌でも耳に入る。

 しかもあの学校一の優等生で通っているすずみだ。彼女は知らないだろうが、教科書を忘れたってだけで職員室で話題になっていた。それから提出物忘れ、制服の紛失、そしてコンクリートの落下事故。鉢植えが落ちてきたりもするし、バケツも降ってきたと聞いた。立て続けに起きていた嫌がらせもたいがい困るものだったが、あまりに悪質だ。


 神宮は何度も、無理してこなくていいから、落ち着くまで休むようにすずみに勧めてきた。

 どの道すずみが受けている嫌がらせは、家にいたって終わらないと。

 彼女は始め、嫌がらせなんだがいじめだかわからないその事態そのものを否定した。何もされてない、何でもない。そう言って聞かなかったが、すぶ濡れになったりしているうちに、さすがに何でもないとは言わなくなった。それでも彼女は頑として神宮の言葉を受け入れず、どころか家には絶対連絡しないでくれと頭を下げた。

『絶対家には何も連絡しないでください』

『……一宮、もう家のひとに誰がやってるかも含めて――』

『お願いします! まだ大丈夫だから、この学校にいさせてください』

『ったくもー、わかった。代わりに先生とお約束。いいな?』

 神宮は歯がゆさと――痛々しさに苦虫を噛み潰したような顔で、定期的に話をしにくることと、本当にしんどくて抱えきれなくなる前に逃げることを約束させた。

 なにを話せばいいのかと尋ねる彼女に彼は頭をガシガシかきながら答えた。――話っていってもなにされたとかってのは言いたくなけりゃ言わなくていいし俺もきかね。保健室のおばちゃん先生でもいいんだけど、親御さんに連絡行くような大事になったら困るんだろ? 俺のとこで止めとくから、世間話に付き合ってくれりゃいい。ったく強情つーか、お前も頑固だな。きつけりゃーちゃんと逃げろよ?

 すずみは聞き入れてもらえると思っていなかったのか、彼の言葉が意外だったのか、きょとんとしてからありがとうございますと頭を下げた。小さな子供みたいに、きょとんとした顔は幼くて、彼は思わず苦笑いしてしまった。

 ――誰かがいることは、それだけで救いになる。

 神宮の兄は、子供の写真を添付したメールにそんな言葉をのせていた。彼は子供のことかと思ったのだが、彼の兄は違うよと返事をよこした。――お前がいたから、あの場所で生き延びられた。だからここに来れた。ありがとう。

 そんな兄に素直に言うことはなかったけれど、彼も同じ気持ちだった。生き延びて、そしてがんじがらめにならずに家を出られたのは、兄の存在があったから。

 誰かが、ただそばにいるだけで救いになることもある。絶対ではないが、いないことが救いになることはない。

 いなくなられれば傷を負うけれど、誰かと居たからついた傷ならいつか癒える。寂しいのだって一人じゃなかったんだと思えば悪くないと、寂しくないか? とすずみにさらりと尋ねながら彼は言った。ずっとひとりじゃ寂しいってのも知れないからな、と。

 聞いたことはなかったけれど、彼女にとって居てほしい相手がケイであることはわかっていた。居てほしい相手が居るのは幸せなことだと神宮は思う。特別を心に持つことは、きっと支えになる。


 神宮はすずみと週に一回、放課後に世間話をしながら担当する世界史の資料の整理やプリントを綴じるのを手伝ってもらったりしていた。

「なー、一宮は将来なりたいものとかねーの?」

「……」

「あー、進路相談じゃなねーから。お前習い事も相当してんだろ? おれは目的なく土地で大学選んだクチだから」

「先生になりたかったんじゃないんですか?」

「そー、お前に言うのもおかしいけど、実家出たかったからな」

「……あの、」

「んー?」

「家って出たいからって出られるものです、か?」

「……ったく、やっぱりお前もがきんちょなのな。なんか安心」

「……?」

「まー真面目に言えば、育ててもらった恩とか、愛着とかしがらみとか、まあぐちゃぐちゃにはなる。当然だろ、ずっとそこにっつーか、生まれたときからそこにいて、そばにいた場所と人なんだから。なんにも感じねーほうがちょっと心配だっての。――まあ、お前はたぶん気にしすぎ。」

「……」

「なあ一宮、残酷だけどさ、お前が抜けても世界は回る。言ったら、誰が死んでも何かが止まることはない。そりゃあそいつのこと好いてるやつらは泣くだろうし悲しむけど、だからって後追いすんのは稀だしずれてんだろ。悲しみながら、そいつらは生きてく。終わらない。生きてかなきゃならねーもん、まだ死んでなければな」

「……先生は、死にたかった?」

「あーもー。ったく、お前はなんなんだろうねー。そりゃあ人並みにはあるよ? でも死ぬのってさ、意外と面倒なんだよ。生きてくのとそんなに変わらない。そこまで考えられるなら、俺には生きるくらいの余裕があったんだろーけど。悪くはねーよ、いま先生やってる自分もさ――そーだ、一宮は何が好きだ?」

「……?」

「なんでもいーよ。なんか好きな食べ物とか、色とか、好きな子とか? ねーの?」

「……チーズ蒸しパン」

「またあっさりスルーしたな。あー、あの北海道の絵がかいてあるやつ?」

「そう。色も好き」

「へえ、おれ米派だからなー。お前パン派?」

「たぶん。米もすきですけど」

「じゃあー、嫌いなものは?」

「……」

「嫌なもの、あっていんだぜ? ちなみにおれは酒が嫌いだ。のめない」

「……ライチ。」

「チーズ蒸しパンが好きで、ライチが嫌いかー。いいこった」

 よっし終わり! とプリントを積んで肩を回す。うあ、バキバキいってら、歳だと顔をしかめる神宮をすずみが呼んだ。

「せんせ、」

「おー? ありがとな、手伝ってくれて」

「……ありがとう」

 すずみの言葉にきょとんとした神宮は「ったく、あーもー」と頭をガシガシかいて面倒そうにわらった。

「ばあか、がきんちょが気ィ遣ってんじゃねえって言いたいけど、ありがとうが言えるのは大事だな」

 えらいえらいとおどけたように言って、それでも優しい目で彼は「どういたしまして」と飴玉をポケットから出してやった。

「ライチ味なんてのはねーから安心して食べな」

「ミルク味?」

「そー、おれミントも苦手なんだよ」

「いただきます」


 召し上がれーと言って、ころころとほっぺたを片方膨らませて飴玉を転がす愛想のない生徒を兄のような気分で神宮は見ていた。学校一の優等生で、成績優秀、運動神経抜群の絵の中にしかいないような、非の打ち所のない秀才らしいすずみは、実際は馬鹿みたいに頑なで危なっかしい。他人とコミュニケーションを意図的に取ろうとしないし、自分を殺すことに慣れすぎてしまっている。――幼い頃は潮にくっついて顔いっぱいの笑顔を見せていたのにと。

 こんな素直にわらいも泣きもしない子供のどこが優等生なもんか、と神宮は思う。そもそも優等生なんて、聞き分けのいい子供なんてまやかしで、子供が精一杯愛されようともがいてあがいて、すました顔をしているだけだと聞き分けのいい子供だった彼は覚えている。――だからこそ、思うのだ。


 もっと嫌だって、好きだって言えばいい。

 怒って、泣いて、わらって、暴れればいい。

 壊して、直して、また壊したっていい、傷ついてもいいと神宮は思う。

 遠回りでも、茨の道で傷だらけになっても、だからたどり着ける場所や、出会える誰かがいるんだと彼は思う。


 すずみがケイに救われたのは、紛れもない事実だ。

 でも、すずみがいるだけで、きっと救われていたケイもいたはずだから。

 それほどに、昼休みに二つ並んだ影は幸せそうだった。


 迂余曲折を経て、散々な目に遭って、仲違いして――そのオチがひとりぼっちなんて報われない。

 ったく甘酸っぱいというか、もどかしいなと神宮は頭を掻いた。






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