1 出会いは香る
1 出会いは香る
とんとん、扉をたたく音がしてねずみが「はーい」と出て行くと、ねこがねずみと目が合うように身体をかがめていました。びっくりしたねずみは挨拶も忘れて「どうしたんですか?」と聞くと「神さまの酒盛りがあると聞いたんだけど、いつなのか知らないかい?」とねこがいうのでねずみは「い、い、一月二日です!」と答えました。実は、ねずみはねことずっと話をしてみたかったのです。自分とは違うしなやかな身体に、軽やかな身のこなし。綺麗な毛色に目と声。ずっと勇気が出なくて話せなかったねこにいきなり話しかけられて、ねずみは言い間違えたことにも気づきません。「そうか、ありがとう」ねこがさよならをして帰っていくと、ねずみは我に返りました。間違いに気づいて大慌てです。扉を開けても、もうねこはどこへ行ったのかわかりません。
「大変だ! ねこさんに間違った日にちを教えてしまった!」
☆
ふわ、といい香りが授業を子守唄にまどろむケイの鼻をくすぐった。
教室の窓際、前から三番目が宮尾ケイの席だ。
ひょろっとした長身を器用に曲げて、完全に半分夢見心地だ。伸ばしっぱなしの長い前髪で両目が隠れてしまっている。ううんと伸びをして、大きなあくびをするとまた机に乗せた腕をまくらにうつらうつら。
今日のように天気のいい日には、開けた窓から気持ちのいい風が入ってきて、日当たりも良好という、居眠りには最高の席だ。高校二年になってから、初めての席替えでここを引き当てたケイは運がいい。ケイたちの教室では夏には日が当たりすぎて暑いだろうし、冬に窓のそばは寒いだろうから。
運がいい、というのはケイにとって別の理由も含まれていたけれど。
――あ、またこの匂い。
机に突っ伏したまま、体勢を変えて頭を乗せていた腕に頬を乗せる。シャンプーとは違うような、とぼんやり彼女を伺う。
ケイの前の席、窓際の前から二番目の席。
姿勢よく背筋を伸ばして真面目に授業を受けているのは、一宮すずみ。
色素の薄いブラウンのショートヘアが風にさらさら揺れている。日が当たるとその髪が少し金色に見えるのを、後ろの席のケイは知っている。小動物のような小柄な見かけによらず、運動神経抜群に加えて頭脳明晰。彼女は絵にかいたような文武両道をいく、学校一の優等生だ。
でも、彼女はいつも一人だった。
女の子にありがちな団体行動を取らない彼女は、休み時間や昼休みは淡々と予習に励むか教室にいないかで、放課後は帰宅部なのでさっさと帰っていく。
声をかければ無視こそしないけれど、相当つっけんどんな物言いでしか話さない。愛想笑いすら浮かべることはなく、いつも無表情で淡々としている。嫌われているわけではないけれど、彼女のそっけない態度から仲良くしようとするものはいない。たとえ近づこうとしても冷たくあしらわれておしまいだ。
いつもつまらなそうにしている女の子。
それが、すずみの周囲からの印象だった。――でも、彼女を後ろの席から見ていたケイは、違う印象を抱いていた。
前の席に座るすずみに、ケイは恋をしていた。
いい匂いだなあ。――机に突っ伏して、うとうとしながらケイは思う。
すずみの後ろの、この席になってから、ケイはふとしたときに香る彼女の匂いが気になっていた。
いい香りだけれど、落ち着くというよりはなんだかむずむずしてくるような、不思議な香り。それはどうやらケイにだけのようで、それとなく友達に聞いても誰もそんなことを思ってはいなかった。
なんなんだろうな、とつらつら思考を遊ばせて、ケイはそのまま心地いい睡魔に身をゆだねた。
「おいミケ、起きやがれ」
すぱこーんと小気味よい音で頭を叩かれて呻く。いつの間にか授業は終わっていたらしい。
ミケ、とはケイのあだ名だ。宮尾とケイの頭文字を取って、ミケ。
「いって……なに?」
「今日の課題。数学。お前ならやってあるだろ?」
狐のような細い目でにやっとわらうのは紺野木ノ葉。
灰色がかった長い髪を後ろで結わえているのが妙に似合う、物知りで情報通なケイの友人だ。あまり多く友達を作らないケイと、浅く広く誰とでも付き合いのある木ノ葉は小学校からの腐れ縁だ。ケイをミケと呼び出したのも木ノ葉。ケイはあくび混じりに伸びをしてノートを渡す。
一年のときから演劇部のエースとして大活躍している木ノ葉は「学校は部活をする場所、もとい演劇をする場所だ」と断言して、まともに勉強しようとしない。腹立たしいことに赤点は入学してから一度もとったことがない。「取ったら補習じゃん。演劇できねー」それだけの理由で試験は見事にパスしてみせるのだ。
天は二物を与えず、なんて冗談だとケイは思っている。
整った容姿はもちろん、狐のような細い目すらチャームポイントに見せられる、人からどう見られるか、どう見せるかのポイントを的確に押さえる想像力と器用さ。それに加えて幅広い役柄をこなす演技力を持った木ノ葉は、舞台で見事に化ける。二年のいまでは名実ともにエースとして大活躍している。飄々としているが、本を読んだり映画を見たり、身体を鍛えたり、見えないところでもストイックに努力していることをケイは知っている。
情報通なのは昔からのことで、演じることに繋がる人生勉強だとかいって、もうほとんど趣味なのだろう。くだらないことからとんでもないことまで、学校内の出来事や人物のことならば木ノ葉の手にかかればあっさりと真相が手に入る。どんな方法を使っているのかは誰に聞かれても「企業秘密」と教えない。ケイはそもそも聞く気がないので聞いたこともない。そんなの楽しいか? いつかこう聞いたケイに彼はわらって答えた。
――人間のさ、上っ面の下。どんな重くて暗くても、本物があるならそれが見たい。
すずみが放課後さっさと帰る理由や彼女のことをすらすら教えてくれたのも木ノ葉だった。
なんでも習い事をいくつも掛け持ちしているらしい。
『華道、茶道に始まって、小学校に入る前から習字とそろばん、ピアノに英会話、バレエに通っていて、相当賞も取ってる。そろばんでは段まで取ってた。まったくどこのご令嬢だって話だが、まあ仕方ねーか――それからはピアノに加えてサックス。水泳、合気道も長いこと続けてたみたいだ。弓道にボクシング、スケボーまでかじってる。かじっただけならまだほかにもあるぞ? いまは華道と茶道をメインに、花嫁修業ってところか?』
すずみの家が大きな屋敷だというのは有名な話だ。すずみの祖父がいまの当主だという。
当主が何かすら、一般庶民のケイにはわからないけれど。
『地元じゃ超有名な由緒正しいお家柄だ、あの有名な先輩の家はすぐ隣。家族経営の食堂だよ、聞いたことくらいあるだろ? 一宮んとこの誰が先祖かってのはひた隠しにされてっけど、わらえる話ならあるぞ? なんでも一宮の家はその先祖がやたらねずみ贔屓だったとかで、でけえ立派なお屋敷の中はネズミーランドみたいになってるらしい。だからもしかすると外人なのかもなー、案外。それにしたってネズミーランドまみれって、先祖に合わせた好みにしてはおかしい気もするけどな』
どうやらその話は本当のようで、すずみの個人的な持ち物はすべてネズミーランドのねずみ一色だった。不思議なことにはちみつ好きのくまや、青くて小さなハワイのモンスターなどの、ねずみ以外のキャラクターは一切見られなかった。――尋ねる友達も、彼女にはいなかったけれど。
木ノ葉いわく「あの有名な先輩」。二宮潮。
綺麗な赤毛のふわふわした長い髪がよく似合う、グラビアアイドル顔負けのスタイルと愛らしく整った顔立ちで、学校一の美人で人気者だ。性格の方はそんな外見にも関わらず、非常に情に厚く、さばさばと男前らしい。ケイの耳に入ってくる噂だけでも、悪いものをひとつも聞いたことがない。
いとこのすずみを溺愛しているのは噂にもならない。一目瞭然の周知の事実だからだ。
一年のときはすずみを知らなかったケイは「すずみーん!」と満面の笑みで突然教室に現れて、すずみに抱きつく潮を初めて見たときは、ほんとうに驚いたものだ。驚いていなかったのは一年や中学から知っているものと木ノ葉くらいで、あとはケイと同じく唖然としていた。そんな潮にも、すずみは顔色ひとつ変えない。それでもされるがまま、会話を成立させている辺りに親密さが伺えた。
授業が始まると、ケイは陽のあたる窓際でうつらうつらと半分夢の中。
日にきらめくすずみの髪が風になびくと、ふわりとあの香りが夢うつつのケイの鼻をくすぐる。
少し前だったっけ、とケイは思い出す。
誰かが学校に来る途中で子猫を何匹か拾ってきたことがあった。
きゃあきゃあと女子たちは騒いで、なでたり触ったりしていたけれど、すずみは決して近づこうとしなかった。でも、可愛い可愛いと代わる代わる抱いていた女子たちの腕からするりと抜け出した子猫は、一目散にすずみに飛びついた。
固まってしまったすずみにはお構いなしに、子猫は身体をこすりつけて、離れようとしなかった。残りの子猫たちもすずみにまっしぐら。膝に、足にまとわりついてにゃあにゃあ猫なで声でべったりくっついていた。固まっているので猫が苦手なのかと助け舟を出そうとしたケイは、すずみが恐る恐る手を伸ばして子猫を抱き上げるのを見て、そのまま成り行きを見守っていた。
ころんとすずみの膝に寝そべって、ごろごろと甘える子猫があまりに気持ちよさそうだったのと、いいなあなんて女子たちが群がる前にちらりと見えたすずみの表情が、――子猫に向けるまなざしがとても優しかったから。
うっかり、見蕩れてしまったのだ。
それからのケイは、香りにつられてすずみを見つめていた。
そして、彼女の色んな表情に気が付いた。
つっけんどんな物言いだけれど、頼まれれば丁寧に勉強を教えていること。
誰もやりたがらないようなことを、一人でも真面目にやっていること。
ため息を聞こえよがしにつきながらも、困っているひとがいれば手伝うこと。
しっかり者で、責任感が強くて、真面目で、無愛想なのにお人好し。
そんな彼女に、彼は気付けば恋をしていた。
ケイは満ち足りた気分で欠伸をひとつ。
そのあとすぐに当てられて、数学教師に頭を叩かれる羽目になるのだが。
☆
「おはよう」
「……」
聞こえなかった振りは何度目だろうと、ケイは小さな背中を見つめた。
席替えであの香りに気づいて、自分の恋心にも気付いて、ケイは何とかして仲良くなろうとすずみに話しかけ始めたのだが、いかんせん全戦全敗だ。あわよくば仲良くなってあの香りの正体を探りたかったケイだが、それどころか、いまだに朝の挨拶すら返してもらえない。
そんなケイを、クラスメイトは呆れたような同情するような目で見ている。二年の初めに、ほとんどの女子は全員がすずみに話しかけて素っ気なくあしらわれている。クラスどころか学年も問わず誰にでも話しかけて話を広げられる木ノ葉でさえ、まともに会話が成り立たない。そもそも返事しねえし、話す気が微塵もねえもん。とっととどっか行けって言いたいのだけはしっかり伝わってきたと木ノ葉はカラカラわらっていた。あんなのどうにもならねえって。慰めているのか面白がっているのか、ケイが話しかけ始めてすぐの頃にすずみに取り付く島もなく追い払われた木ノ葉が言った。
人懐っこいケイは、持ち前のマイペースさで毎朝おはようと言い続けているが、いまのところ報われそうにない。――が。
昼休みのチャイムが鳴るのをケイは秒針とにらめっこしながら待つ。――来た!
「一宮さ……あれ?!」
ケイはチャイムと同時にバッと立ち上がるとすずみを呼ぶが、その頃には前の席はもぬけの殻。すずみは教室の出口から出て行くところだった。
「一宮さん! ちょっと待って!」
机を避けながら走るケイにクラスメイトが「がんばれー」とエールを送る。
ケイはときどきめげながらも、昼休み以外にも休み時間にもすずみに構おうとするので、彼女はさっさと逃げてしまう。
休み時間は別だ。
『ねー、一宮さん。次の授業の予習してきた?』
『……』
『古文って課題より予習のほうが多いよね』
『……』
『竹取物語とかさー、一宮さん好き?』
『……』
『あれ、富士山の由来ってオチだけど物寂しいよね』
『……』
『一宮さんて本とか読む? 漫画、とか読まなそうだけどどう?』
『……』
『おれは音楽聴くほうが好きなんだけど、一宮さんは家で何するのが好き?』
『……』
どんなに後ろから話しかけられても、すずみは思いきり無視してやり過ごす。
なあミケ、虚しくならねえの。そう呆れ顔で木ノ葉が言っても、きらきらと表情を輝かせて「問題ない!」というミケと、徹底して無視を貫くすずみに、いっそ見事だとクラスメイトは面白そうに二人を見守っている。
そんな彼女も、昼休みは別だ。
ねこがねこじゃらしを追いかけるようにすずみを追いかけるケイから、彼女は全力で逃げる。さすがのすずみも昼休みに延々話しかけられるのは避けたいのだろう。ケイもなかなか素早い動きで追いかけるのだが、学校一の優等生の呼び名は伊達ではないようで、毎回撒かれてしまうのだった。小柄な身体はほんとうにすばしこくて、曲がり角を曲がるときなんかは、ほんとうにぶつかるんじゃないかと思う角ぎりぎりの小回りを見せる。しかも思いきり走りながら、だ。ケイにはそんな真似ができるはずもなく、廊下の向こう側の壁に体当りするようにして駆けていくのだが、その頃にはもうすずみの姿はない。見失うと肩を落として、ケイは教室に戻る。それを席替え以降ほぼ毎日繰り返していた。
もはや追いかけるケイと逃げるすずみは一種の名物のようになっていて、ケイはがんばれよーと購買のパンやらを貰うこともあった。賭けまであるという。もちろん、賭けの対象はすずみがいつ捕まるかである。すずみが何を話しかけても無視するのを分かった上で「ほんとうはミケのことどう思ってるの?」と本心を問いかけるものも現れるくらいだった。相変わらず無視するかそっけなくあしらう彼女だったけれど、ケイは彼女が誰かと話していることがなんだか嬉しかった。――男子がからかうときは別。威嚇するように追い払うケイを面白がってすずみに話しかける男子もいたので、すずみの周りはケイが話しかけるようになってから賑やかになっていた。
また逃げられた……とうなだれるケイに木ノ葉が首を傾げた。
「ミケってマゾだっけ?」
「違う。黙れサド」
「ほーお……しっかしそんなにいいか? ガン無視何回目だよ」
「……会話くらい、したい」
「追いかけるから逃げんじゃね?」
「追いかけなかったらそこで終わるじゃん!」
「あー、否定できない。例の匂いは?」
「廊下じゃ追えない。犬かおれは」
「似たようなもんだろ」
「……なんであんなに逃げるのかなあ」
「いや、ああも全力で追いかけりゃ逃げるだろ」
「木ノ葉、袋小路ってうちの学校にないかな」
「袋のネズミにしてもお前逃げられただろ」
ソウデシタ、とため息をつく。一度、始めのうちだからかルートを考えずに逃げていたらしい彼女を廊下の突き当たりまで追い詰めたことがあったのだが、にらみ合いの末、ケイの一瞬の隙を突いたすずみは、空き教室を使ってケイをうまくまいて逃げていった。それ以降彼女は曲がり角の多いルートで、絶対に突き当たりには迷い込まなくなった。
昼休みに弁当代わりのコンビニおむすびを頬張る木ノ葉の向かい側で、ケイは母親お手製の弁当をつつきながら唸る。
指についた米粒をぱくっと食べて木ノ葉はにやりとわらった。
「ミケ、ノート貸して?」
「また? お前ちょっとは自分でやれよ」
「おれは演劇部が忙しいんだ。テスト落とさなけりゃいいだろ」
突然のことにも慣れたもので「次の古文?」と聞いたケイに狐のような目を細めて木ノ葉はわらうだけ。
「毎回毎回、なんでおれなんだよ?」
「お前が一番安定して課題やってあるし正解率もいいから。」
ほら、古文。とケイはノートを差し出した。ありがと。……お前一回赤点取ればいいのに。 縁起でもねえな、んなもん取ったら部活できねー。お前っておれのこと相当こき使ってるよね? んなことねーよ、――でも、そんなにミケが嫌だったならもう借りるのやめよっかな。
どっちだよと呆れるケイに、木ノ葉がにやりとわらう。
「いつも見せてくれるミケにいいこと教えてやろうと思ったんだけどなー」
嫌なら仕方ないかー、残念だなあーと棒読みで繰り返す木ノ葉。
「いいことってなんだよ」
「ん? ミケの知りたいコト?」
「おれの知りたいこと?」
そ。と鼻唄でも歌いだしそうな木ノ葉はケイの耳にこそっと囁いた。
――ミケの愛しの一宮が、昼休みにどこにいるか。
「木ノ葉知ってんの?!」
「んー、まあネ。」
「なんで知ってんの? つーかどこ?!」
「んー? じゃあ、ほらほら」
ノート、と語尾に音符がつきそうな木ノ葉が手を出す。ばしっとノートを叩きつけるように渡したケイに「もう一声、六限の英語もよろしく」としれっとわらう木ノ葉に「あーもうわかったよ!」持ってけドロボー! と英語のノートも叩きつけた。ほくほくと目を細めて木ノ葉はケイに耳打ちした。
「え、うちの学校って、」
「んー? そんなことより、いまから行けば間に合うんじゃね?」
意外な場所に首をかしげていると木ノ葉が時計を指さした。まだ昼休みは半分ほど残っている。ちょっと行ってくる! とケイは食べかけの弁当箱を包んで走っていく。行ってらっさーいとひらひら手を降って、木ノ葉はやれやれと頬杖をつく。見送るまなざしは柔らかい。
なんだかんだ、仲のいい二人だった。口には決して出すことはないが。
――あ、この匂い。
木ノ葉の言った通り、確かに鍵は開いていた。
『屋上。一宮は毎日昼休みはそこにいる。うちの学校はフェンス高いし管理甘いんだ』
屋上の扉をそうっと開けたケイの鼻を、あの香りがくすぐる。
ケイの学校は飛び降り及び危険防止で屋上のフェンスが高い。十メートルほどのフェンスの上のほうは手前に傾いているので、乗り越えるのは難しい。乗り越えられないことはないが簡単には登れないので、夜中か早朝に忍び込みでもしない限り、そんな労力を割いている間に誰かしらに見つかってしまう。
ケイは辺りを見回すが、すずみどころか人の姿はない。それでも、すずみの香りは間違いなくこの近くから感じられる。首を傾げたケイはふと気がついて、さらに上を見上げた。
梯子を上ると、見慣れた後ろ姿を見つけた。
「あ、やっぱりここにいた」
「?!」
びくっと振り向いたすずみは、警戒するようにケイを睨みつけた。食べかけのパンを持ったままなので、ケイにはあまり意味があるように思えなかったけれど。
屋上の扉の上。扉の裏の梯子を上った、屋上の屋上にすずみはいた。やっぱり、一人で。
「一緒に食べていい?」
「嫌です」
一刀両断されるも、ケイは梯子を上ってごろんと横になった。
「ここ、いいね。眠たくなってくる」
「……」
「一宮さんてパン食なの?」
「……」
すずみがどいてくれと言おうにも、ケイは梯子のすぐそばに寝転がっている。
「……あの」
「なに?」
「どいてくれませんか」
「もうお昼食べたの?」
「どいてください」
「ここいいねー、一宮さんも日向ぼっこしてけば?」
「……」
そのままのらりくらりとかわして、ケイは毎日昼休みに屋上の屋上を訪れるようになり、毎日お昼を一緒に食べるようになっていた。
おかげでケイは、木ノ葉に半永久的に課題のノートを見せることになってしまったが「安いもんだろ?」と言われてしまえば返す言葉もなく。代わりに木ノ葉はすずみ絡みの噂の真偽や、ケイからの依頼は無償で調べて確かめることを約束した。
「一宮さんてなんで逃げなくなったの?」
もういつも通りの日常になった屋上の屋上で、ケイは気になって聞いてみた。
自分が来るとわかっていたはずなのに、すずみが屋上からいなくなることはなかった。ケイが来ればもう屋上の屋上にいた。場所を変えなかったのは来てもいいってことだったのかな、と甘い期待に目を輝かせるケイに「ほかの場所は一人になれなかったし、どうせ見つかるから意味がない」とすずみはため息混じりに答えた。若干遠い目をしていたのはケイの気のせいではないだろう。しつこいと友人が太鼓判を押すだけあって、ケイはいくら無視されてもつっけんどんにあしらわれてもめげることなく、毎日昼休みには屋上の屋上に通い続けたのだから。
それに、と少し近い空を見上げたすずみは、空色の視界と吹き抜ける風に目を細めた。
「ここは気に入ってるから、宮尾くんひとりのせいで変えるのは癪だったの」
「……いまさらだけど、そんな邪魔だった?」
「いまでも相当」
「いまでも?!」
「いまでも。」
彼女はそう頷いて、両手で持ったチーズ蒸しパンをかじった。
すずみはいつの間にか砕けた口調で話すようになり、敬語はほとんどなくなっていた。言葉の端々に刺が残ってはいるが、ちゃんと会話になっているのは始めの頃を思えば感慨深い。ケイはいつも通りの弁当から卵焼きをつまむ。隣のすずみはいつも通り、黙々とチーズ蒸しパンをかじっている。
二人の座る位置も、数メートル空いた背中合わせから隣同士になっていた。
「一宮さんてチーズ蒸しパン好きなの?」
「……」
「おれいつも弁当だから米なんだよね。米好きだからいいけど」
「……」
「……ひとくちちょうだい?」
「いやです」
相変わらずそっけないままではあったけれど、そこに親しさが感じられるのはケイの気のせいではないはずだ。
食べ終えると、二人はごろんと横になって空を見上げた。いまでは、食べているときと同じように並んで寝転んでもすずみは離れていかなくなった。
「きれいだねえ」
「……ん」
二人の視界が空色だけになる。聞こえるのは風の音と、互いの声だけ。
気持ちのいい日差しに、ケイがうつらうつらし始めた頃、不意に強い風が吹いた。
「あ」
「!!」
ばっとスカートを押さえて、身体を起こしたすずみがケイを睨む。
「……見た?」
「あ、いや、見てないよ?」
「……」
「見てないって」
「……」
「……た、たぶん」
「変態。」
「え?! あれは不可抗力――」
「やっぱり見たんだ」
「……あ。」
変態、とすずみは真っ赤な顔でケイを睨む。寝転がってたんだから仕方ないよ! 見たんだから変態。ええ、そんな横暴な! 慌てて謝りながらなだめるケイにすずみはスカートを押さえたままむくれていて。
相変わらず、そっけなくて無表情のままではあったけれど。
それでも、毎日の昼休みを楽しみにしているのはケイだけではなかった。
☆
一匹の猫が夕焼けに染まる道を駆けていた。
「見つけた……!」
息を切らして大きな屋敷の門をくぐると、そのまま叫んだ。
「干支の……干支のねずみの子孫を見つけました!」
そこは干支はずれの猫の分家の中心にあたる家だった。
現在の跡取り、本家はケイの家なのだが、彼らは猫を愛するだけでねずみに報復しようなどとは考えていない。分家がいくら言っても当の母親はおっとり微笑むだけ、少々脅かしても同じことだった。そもそも本家は代々そんな性格のものばかりだった。
――だって、何もされてはいませんから。
先祖が干支を外されたというだけで、先祖が一日遅れて顔を出したというだけで、同じく干支になれなかったほかの獣たちから笑われる。それでも気にもとめなかった。伸び伸びとわらって、のらりくらりとかわして報復なんて考えない。
腹の虫がおさまらない分家は、ずっと、何百年も干支のねずみの子孫を探していたのだ。
分家といっても、干支はずれのねこを支持し、ねずみへの報復を企むねこたちの集まりだったでしかなかったが、ひっそりと、しかし確実に広がって、いまや先祖に猫を持つ人間と人間を先祖に持つ猫が手を取って、大規模な組織になっていた。
「間違いないか?!」
「はい、あの匂いは間違いなくねずみのもの」
「住処は?」
「ここから遠くありません、確かめてきました」
「そうか、そうか……ついにやったぞ!」
分家の猫たちは、いまこそ笑いものにされてきた恨みを晴らすときだといきり立つ。
「今度は、ねずみを笑いものにしてやろう」
にたあっと笑う、上座にどっかと座る組織の頭は、ケイの叔父だった。
彼も、分家の者たちも、その顔こそが醜いなんて知らないまま。
報復が始まった。
何百年の時を経て、運命が動き出す。
☆ 木ノ葉の見解
紺野木ノ葉はロミオとジュリエットが幸せになりたかったのなら、もう少し信用に足る人物を味方につけて、時間と手間をかけて周りを落としていくべきだったと思っている。
仮死状態の薬だの隠れ家だの、協力者はそこそこ使えるアイテムを持っていたのにも関わらず、ツメがあますぎる。仮にも命をかけた賭けに出てもいいと思えるひとの絡むことならば、しつこいくらいに繰り返し繰り返し吟味して確認して事に臨むべきであっただろうと木ノ葉は思うのだ。
――そもそも、家を捨ててもいいと思うなら戦えばいいだろうに。
家柄の苦悩なんて木ノ葉にはわからないが、そんなに愛したのなら、親を泣かせてでも生きて貫いてやればよかったのにと思わずにはいられない。そこまで家の名に縛られるなら、捨てちまえばよかったのにと。逃げてしまうつもりだったのなら、殺し合いさえ辞さないつもりなら、面と向かい合って何度でも許しをもらえるまで頭でもなんでも下げることだってできただろう。仮死状態になる薬を飲めるのなら、短剣を腹に突き刺せるのなら、親に歯向かうことができないはずがない。
むしろ、歯向かえば良かったのだ。
一途な思いは周囲に届く。周囲を変える。――木ノ葉の友人が、クラスメイトを変えたように。
――周りから固めてって、同情票を稼いで、あとはどれだけ幸せかって、生きて見せつけてやりゃよかったんだ。
子供が死んで泣くような親なら、歯向かわずに死ぬよりは、大喧嘩して絶縁しようと生きていれば和解できる日が来るかも知れないのだ。
木ノ葉は簡単に死を選んだように思えて、そこだけはロミオとジュリエットに同感できなかった。
生きて、生きて、生きて、最後にわらっていれば勝ちだと彼は思う。
木ノ葉は自分の生き方も性格も褒められたものではないと思っている。自我がないことが自我という、実に曖昧な「木ノ葉」を彼が誰より嫌っている。強い意志で演劇に打ち込んでいるように見えるのだろうが、木ノ葉はお手本を手当たり次第に貪ってきただけ。
あー、また落ちてる。木ノ葉はため息混じりに苦い笑みを浮かべた。
自分がときどきひどい虚無感に襲われるのを、木ノ葉は自分で分かっていたので、もう慣れていた。
誰かを愛することが、死んでもいいくらいに――幸福?
そういえば「愛しています」を「死んでもいい」と訳した文豪もいたっけか、と木ノ葉はつらつらと思考を遊ばせる。「月が綺麗ですね」はいくらなんでも奥ゆかしすぎるだろうと苦笑い。
なければ作ればいい、木ノ葉のルールだ。
自分がないなら作ればいい? きっと、気づいていないだけであとはスイッチだけだ。
死んで綺麗に終わらせるなんてまっぴらごめんだと木ノ葉は下を出す。
愛する準備は、もう十分お手本を見たはずだから。
「んー? そんなことより、いまから行けば間に合うんじゃね?」
意外な場所に首をかしげているケイに木ノ葉は時計を指さした。昼休みはまだ半分ほど残っているのを見て、食べかけの弁当箱を包んで走っていくケイに「行ってらっさーい」とひらひら手を降って、木ノ葉はやれやれと頬杖をつく。
しつこいのに目をつけられたもんだとクラスメイトに若干同情する。普段はのんびりとしたマイペースな性格から天然にも思われるケイは、一度決めたら相当に頑固なのだ。それが一途どころか、いっそ執念深いと呼んでもいいようなレベルであることを木ノ葉は知っている。
それを、少し羨ましく思っていることをケイは知らないだろう。
他人である「誰か」にそこまで執着できるケイを、理解できないと思う反面羨んでいることも確かだった。
木ノ葉はどんな役にもなれるけれど、誰かを愛することも、誰かを憎むことも、役になりきればの話。
ごく普通の――普通に冷めた家庭で育った木ノ葉は、人の心が変わりゆくものだと身を持って知っていた。自分への期待がどんな形をしているか、手に取るようにわかってしまう彼は、望まれるままに周囲の期待通りの「木ノ葉」を作り上げた。
当たり障りなく、けれどそこそこ羽目を外したお利口さん。
小学生の頃には同級生の考えていることなんて手に取るようにわかってしまうものだから、――驕っていた、酔っていた部分があったのだろう。自分の周りにいるのはすべてがゲスト。もてなし、満足させるべき観客だと、道化の役者気取りでいた。
そんな木ノ葉はケイに出会って驚いたのだ。
ほんとうに違っているのに、のんきにあくびなんかしているケイを見て、頭をぶん殴られるような衝撃で――目が覚めた。
自分がただのガキであること、ただ見捨てられたくない一心で、悟ったようなふりして、見栄張って、虚勢でわらっていた格好悪い自分に気がついた。それでも冷静に格好悪い自分を見つめられたのは、のんきに隣で昼寝しているケイがいたからだろう。
あのとき言葉を交わして、救われたのはきっと自分の方だと木ノ葉は思っている。
――しっかしどうしたもんかな。
木ノ葉から見れば、すずみを追いかけるケイは恋する少年そのもの。
そして彼の見立てでは、すずみもケイを嫌って逃げているようには見えない。
ケイには話していないが、すずみの家には両親がいない。
死別ではなく、両親も三人の姉と二人の兄も海外に住んでいるのだ。いまでは結婚や就職で姉二人は家を出たらしいが。しかし、単に両親が海外勤めで、子供を連れていったのなら話はわかるが、それならなぜすずみだけを置いていったのかが木ノ葉にはわからない。すずみは小学校に入る前、物心つく前からいまの家に住んでいるので、実質祖父母に育てられたと言っていいだろう。家族仲が悪いわけでもなく、亡くなった祖母は特にすずみを可愛がっていたそうだから。
木ノ葉の調べた限りで気になるのは、やたらと住む土地を移っていることだった。
大きな屋敷と立派な家柄なら移ることなくずっと特定の土地に代々住んでいそうなものだが、すずみが一緒に暮らすようになるまでは、短ければ三年も住まないうちに土地を離れている。すずみが来てからはずっとこの土地にとどまっているけれど、彼女は小学校は私立だったが、途中で公立に転入し、中学と高校も公立だ。なんだかちぐはぐで、はぐらかしているような、――とそこまで考えて、木ノ葉はふとある人物が浮かんだ。
「ま、将を射んとせば先ず馬を射よってな。あのひとは馬って感じじゃねーけど」
彼はあれこれアタリをつけると、台本を取り出した。演劇にはいくら時間を費やしたって足りないのだ。
演目は「ロミオとジュリエット」。
数日後の昼休み、三年の教室の入口に木ノ葉は立っていた。
「潮ー、お客さんだよー」
「はいはーい」
呼ばれて振り向いた彼女は、アイドルのような愛らしい顔を不思議そうにことりと傾げた。
「突然すみません、二宮先輩」
物怖じすることなく、木ノ葉はいつもの笑みを浮かべてみせた。
「さて、演劇部のエースくんがわたしに何の用かしら?」
渡り廊下に移動して口火を切ったのは潮だった。笑顔こそ浮かべているが、腕を組んで木ノ葉を見る目は鋭い。
「おや、二宮先輩に知っていただけているとは光栄ですね」
「あら、単刀直入にいきましょう? 焦れったいのは性に合わないの」
あと二宮じゃなくて潮でいいわ、と可憐な笑顔のままでさばさばと言ってのける。裏表ありそうだなあとは思ったけどこんなに敵意むき出しにするんだなあ、と木ノ葉は内心で苦笑した。
「オーケイ、了解いたしました。おれはご存知のとおり、演劇部の紺野木ノ葉です。二年で、あなたが溺愛している一宮と同じクラスのね」
「そう。それで?」
「先輩は最近一宮と会うか話をしましたか?」
「それが何?」
「……オーケイ、すぱっといきましょうか。おれも焦れったいのは好みじゃないんで」
「そ。いい心がけね」
「一宮がここ十日ほど毎日のように嫌がらせを受けていることは、知っているんでしょう?」
「……」
「あなたが動かないとは思えなかった。――だいたい今までもあったでしょう?」
潮がぴくりと眉を上げた。
「一宮はどうしていつも一人でいるんです? ほとんど意地のように一人でいようとする。あんなの浮かないわけがない。実際悪目立ちもいいとこだ。小学校からずっと、あなたがちょいちょい顔を出すことで、今回のようなことが起こらないようにしていたんでしょう? 潮先輩を敵にまわそうなんて輩はいませんからね」
「浮いている、ね。それはあのこがわらわないからかしら?」
「表情よりも、あのつっけんどんな物言いでわざわざ人を遠ざけているように見えますが」
「そうね、――でも、いまは違うわ。あなたのお友達が一緒にいるじゃない」
宮尾ケイくん、でしょう? にこりとわらう潮に「そう、ミケってんですよ」と答えながら木ノ葉は内心驚いていた。すずみから聞いてか、調べてかは知らないが、ケイが一緒にいることを知りながら、いままで潮がケイに接触して来ていないことに。――泳がせているにしては、事態が進みすぎている。
木ノ葉はすっといつもの食えない笑顔を浮かべて、なんでもないことのように口を開いた。
「よくご存知で。しかしミケは一宮の後ろの席になってから、妙なことを言っていたんですよ」
「妙なこと? すずみんのことでかしら?」
「ええ、――なんでも彼女からは不思議な匂いがすると」
ぴたりと潮の動きが止まった。
「香水でもシャンプーでもないそうで。不思議なことにおれにはわからないのですが――」
「きみ、」
「はい?」
「なんのつもり? ――いいえ、どこまで知っているの?」
木ノ葉はとぼけるようにわらって潮との距離を詰めた。鼻歌でも唄いだしそうな軽やかな足取りは上機嫌なサインだ。木ノ葉は人の心が移ろうことを知っている。だからこそ、強い感情に惹かれるのだ。例えそれがあたたかいものでなくても。
嘘偽りのない強い心がむき出しになる瞬間が、木ノ葉は大好物だった。
「どこまでってのはこっちが聞きたいんです。先輩と、一宮と、ミケ。無関係じゃありませんよね?」
「三人……?」
「ええ、だって一宮と先輩はずっと一緒じゃないですか。それこそ家ぐるみで離れないようにしているみたいに。そして一宮とミケも、おれが疑り深いだけならいいんですけど、なんだか甘酸っぱい青春ってだけじゃないように思えましてね」
唇に綺麗な指を添えて、潮は言葉を選ぶように口を開いた。
「……あたしが勝手に話していいことではないの。だから曖昧で申し訳ないのだけれど、無関係ではないとしか言えないわ。宮尾くんにそのことは言ったのかしら?」
「いいえ? あいつはいま、自分の無力感に落ち込んでますから」
「なあに、それ?」
「ここのところ、あいつはどんな顔していいかわからないって、昼休みに一宮のところに行かないんですよ」
「きみはそれを見ているだけ?」
「いいえ? だからここに来たんです」
目を丸くした潮は、ふと柔らかな目をして髪を耳にかけた。
あのこが言ったのよ、ため息とともに呟いた。
「あのこが自分で言ったのよ。手を出さないでくれって。」
いまでもあのこが求めてくれるなら、止めるどころか引きずり出して死んだほうがましだって思うまでいたぶってやるわ。愛らしい顔をつまらなそうにゆがめて潮が腕を組んだ。不服そうな、拗ねたような仕草はなんだか幼い。
「宮尾くんと一緒にいたいと言ったのもあのこ。あたしが何を言ったって、昔からあのこは決めたら聞かないのよ。それに、ずっと守っているだけではいけないことも、わかっているつもりなのよ――だから、あたしは手を出さないの。あのこの傷に、せいぜいばんそうこうを貼るだけよ。どんなに歯がゆくてもね」
そんな潮に木ノ葉は思わず吹き出した。
「何よ?」
「いや、おれも同じなんで」
「あら、ならきみはなかなか友達思いなのね」
嫌いじゃないわ、と微笑む潮に木ノ葉はきょとんとして、わらった。
見守るかたちは、ひとそれぞれ。
手元において傷つけるものすべてから守るのも、手を離して帰ってくるのをじっと待つのも、背中を蹴っ飛ばすのだってそうだ。
それは、それぞれが大切を、大切にするかたち。
どんなに練習したって満足にできることはないのは演劇と同じだと、木ノ葉は思った。
愛しければ、どんなに傷ついても何度だって手を伸ばしてしまう。




