五 すべてを閉じる
ローレライがその姿を最初に見たのは、いつだったろう。雪がうっすらと木々の枝を覆っていたその間に見た気がするから、もう半年は前になるのかもしれない。
柔らかだった陽光は、この頃は日によっては焼けつくほどの眩しさをはらんできた。
最初こそ、教会裏手の森に足を踏み入れただけの女性だと思っていたが、毎週のように、―――それもラファエルが来てくれる礼拝の日ばかり視界に入るようになると、さすがに思い至るものがあった。
頭の中が、真っ白になる。。
とうとう、〝その日〟がやって来てしまった。
自分とラファエルとの立場の違いが、ついに目の前に突き付けられる時が来たのだ。
覚悟をしていたつもりだったのに、いざ〝その日〟を迎えてしまうと、情けないほどに動揺してしまう。
彼女が熱心に見つめる先にいる、たったひとりの人間―――ラファエル。
彼は、いまを生きるひとだ。
対して自分は、何百年も教会の壁に埋め込まれ続けている石像―――石。もはや、人間ですらない。
脳裏に、いろんなひとから別の人生を提案されても頑なに首を振り続け、そうして衰弱していったひとの姿が浮かび上がる。
今度こそ、愛しいと感じる相手の幸せを叶えてあげなければならない。
自分の表情を読み取ってくれるラファエル。誰でもない彼になら、己の人生を生きよという思いは伝わるかもしれない。
―――伝えたくなど、ないけれど。
ラファエルには、自分だけを見つめてもらいたいのに。
(ラファエル……)
初めて出逢ったときからの彼を思う。
贔屓目でなくともラファエルは、苦しい時期を乗り越えた重厚さが滲み出るのだろう、この何年かで、精悍で立派な青年へと成長をした。こちらの言葉ももう流暢に話すことができ、いまは文字を独学で勉強をしているとのこと。下働きでしかなかった仕事の立場も上がり、機織り機の修繕も任されるようになったと言う。
この町に根付き、暮らし、日一日と自分の居場所を着実に作りあげている。
どんどん素敵になってゆくラファエル。彼を好きになる女性が現れるのは時間の問題だと思っていた。むしろ、いままでよくそういう影もなくやってこれたとも思う。
頭では。
頭では、そう簡単に思えるのに。
(いや……)
失いたくない。
ラファエルを、失いたくなかった。
この何百年の間で初めて、自分の気持ちをまっすぐ読み取ろうとしてくれた青年だ。
世界への出口を、ようやく見つけたのに。
自分は生きているのだと、自分の命を、存在を改めて認識ができたのに。
神は、希望を与えたところでそれを奪い去ってゆくのか。
どうして―――。
神を憎いとすら感じてしまう。
いまも、教会内では礼拝が行われている。あとしばらくすれば、ラファエルは来てくれる。
ラファエルに、この荒れ狂う嫉妬を悟られずにすむのだろうか。
きっと無理だ。ラファエルは敏いから―――もしくは自分は気付かれやすいから、すぐに伝わってしまう。
こんな気持ちのまま、逢いたくなどない。醜い自分を見られたくない。
けれど―――逢いたい。
逢いたくてたまらない。
悶々としたものを抱えながらラファエルが現れるのを待っていたローレライだったが、例の女性が、いつもの場所に現れた。
生い茂った緑に紛れて本人は隠れているつもりだろうが、ローレライからは丸見えだった。
丸見えなその姿に、ああそうか、と、気がついた。
彼女は、ローレライに見られても構わないのだ。ラファエルにさえ気付かれなければいいのだから。
―――自分は、石像。
この時代に縛られた、息づくも短い命の存在ではない。
他人事のような冷たい思いが、胸の内に広がり沁み込んでゆく。
そうやって、ひとつひとつを諦めていったでしょう?
ローレライは自分に呼びかける。
なにを望んでもダメなの。なにを求めてもいけない。
ただここで、石に閉じ込められているしかないのだ。
(わたしは、石像なんだから)
この時代に関わっても、無駄なのだ。
身をひそめる女性の姿を見つけてからしばらくした頃、ゆっくりといつもの足取りでラファエルが教会の建物の影から現れた。
無意味だと判っていながらも、やはり胸は熱く躍ってしまう。
自分が好きなひとは、どうしてあんなにも素敵なのだろう。
「こんにちは、聖女さま。この前は暑かったですよね、大丈夫でしたか?」
(こんにちはラファエル。ありがとう、いつも気にしてくれて)
いつもと変わらないラファエルの声。その表情。
彼は、あの女性の存在を知っているのだろうか。
もしかすると、と思う。
ラファエルはなにも言わないだけで、本当はあの女性と付き合っているのでは?
(そうなの……? 違う、よね?)
つい、問いかけてしまう。
「……?」
ラファエルの顔に、一瞬、怪訝なものが浮かぶ。
「なにか、あったんですか、聖女さま」
鋭く、彼に見抜かれてしまった。
その瞬間、ああ、と感じた。
ローレライの中で、すとんと落ちてきたものがあった。
もう、それだけで充分なのだ、と。
これ以上を望んではならない。
彼がこうして気にしてくれている。ただそれだけでいい。
ラファエルと出逢えた。
それでいい。
彼を、解放しなければならない。
幸せになってもらいたいから。彼が選んだこの国で、幸せになるべきだから。
(ラファエル。もう、やめよう? すぐそばに見つめてくれるひとがいるじゃない。ふさわしいひとがいるじゃない。もう、……来なくていいから。ね、ラファエル)
ひと言ひと言を胸の内で紡ぐことが、こんなにも苦しいことだとは思わなかった。
ラファエルを手放すような言葉は、紡ぎたくなどない。
ユリウスを失ってから初めて恋しいと、愛しいと感じた男性だ。彼の穏やかな眼差しを失いたくなかった。
だが、彼は現実を生きている人間だ。
懸命に、ローレライは自分に言い聞かせる。
ラファエルは、この国でこの時間を生き、愛するひとを妻とし、子をもうけ、家族に見守られながら大地へと還ってゆくべき存在なのだ。自分とは、あまりにもかけ離れている。
自分の願いなど、叶うわけもないし叶ってはならないのだ。
彼を、縛りつけてはならない。
思いを占めるのは、この何年かでのラファエルの姿だった。笑顔も、仕事で失敗をして落ち込んだ顔のときもあった。
そのどれもが、ローレライには眩しく輝いている。
(ありがとう、ラファエル。こうしていろんな話をしてくれたことは、宝物よ。とても幸せだった。でも今度は……あなた自身が幸せにならなくちゃ。あなたを見つめてくれる存在を、大切にしてあげて)
「聖女さま……?」
(あなた自身の幸せを選ぶの。わたしのところに通ってたら、石像に話しかけるおかしなひとって言われてしまうわ。いまだって、そうなんでしょう? ラファエルがそんなふうに言われるのは嫌なの。だから、もう、来ちゃダメ)
そう語るも、ローレライは自分の言葉が彼には届かないことに、安堵もしていた。
決して彼には正確には届かないと判っているからこそ、そんな状況に甘えて言えるのだ。
(あなたを、見つめてくれるひとがいるのよ?)
「悲しいことでもあったんですか? ……どうして、どうして僕では癒して差し上げられないんだろう」
ローレライの言葉そのものは伝わってはいなかったが、彼女が抱く切ない想いを、彼はやはり読み取ってくれていた。
手放したくない。
でも、解放をしなければ。
ここに来ることで、自分の幸せを見失ってはならないのだ。
目の前のラファエルを意識してしまうと、どんどん気持ちが彼へと流れていってしまう。
だから、―――ローレライは思考を閉じた。
彼と出逢う前のように、意識を深い霧のかかった沼に沈め、耳も目も、すべてに繋がる感覚を閉ざすことを決めた。
遠くで、なにかが自分の殻を叩いている。
ただ、その響きが伝わってきているだけ。それ以上でもそれ以下でも、ない。
「聖女、さま……?」
いつもと違うローレライのよそよそしい様子にラファエルは戸惑いを隠せないながらも、それでもこの一週間の出来事を話してくれたのだった。
ローレライになにがあったのか判らないまま話を終えたラファエル。それでも戻らねばならない時間がやって来て、割り切れない様子のまま去っていった。
その、途方に暮れた背中を目に映しながら、ローレライはこみ上げてくるものを懸命に堪えるしかなかった。
彼が消えた方角をじっと見つめていたローレライだったが、気付けば、木々の間に隠れていた女性が目の前にいた。
容赦のない刺々しい目をしていた。
「ただの石像じゃない。なんで? どうして? どうしてこんな像に話しかけたりするのよ」
険しい表情をたたえた彼女は、忌々しげに言葉を吐き捨てた。
年齢は、ラファエルとちょうど釣り合うくらい。二十歳を過ぎたあたりだろう。赤みを帯びた金の髪が陽光に輝いて綺麗だった。髪がとりまく顔立ちも、目鼻立ちがくっきりとしていて、強い意思を秘めた美しさがあった。
どこからどう見ても美人としか言いようのない女性が、ローレライへの憎しみを口にしている。
やはりそうかと、ローレライは胸が絞られる痛みとともに納得をする。
彼女は、ラファエルのことが好きなのだ。
「物相手に、負けてるっていうの? こんなもののせいで……!」
強く睨み上げてくるその青色の瞳には、憎しみの色しかなかった。
まっすぐにぶつけられる怨嗟の感情。
けれど、ローレライは彼女を憎めなかった。共感しかなかった。
状況は違えど、彼女とローレライは似ている。
ふたりとも、自分の想う相手に想いが届かない。
違うのはただひとつ。
彼女には、ラファエルと一緒になれるという可能性がある、ということだった。