四 狼族と吸血鬼族と人間と
何百年も何百年も遙かな昔。
ここ、ブラウウェル国には、人間の他に、狼族と吸血鬼族が存在した。その三つの種族は決して仲が良いとは言えなかったが、お互いに相手を過度に刺激することのないよう、わきまえるべきところはわきまえて、長く共存をしていた。
だが、なにがきっかけだったのか詳しいことははっきりしていない。おそらくは、ほんの些細なことがきっかけなのだろう。狼族と吸血鬼族が容赦のない争いを始めた。
狼族は条件が揃えば普段の人型から身体を狼へと変化させることができる。そうして吸血鬼族は、その名のとおり血を糧とする種族だが、基本的には他の種族の血を吸うことはないと言われている。
そして、ごくまれに、吸血鬼族の中に、異能の力を持つ者が生まれる。
人間であるローレライ。
彼女の恋人は狼族の青年、ユリウス・ミシュカだった。
狼族と吸血鬼族が争いを繰り広げる中、ふたりは出逢った。人間と基本的に人型で暮らす狼族との恋愛は珍しいことではなかった。人間と吸血鬼族との恋愛もあるが、狼族とのそれに比べれば圧倒的に数は少ない。
不穏な空気がふたつの種族に流れる中での恋愛。狼族であるユリウスが争いに巻き込まれてしまうのではという危惧に、いつもローレライは怯えていた。
夏が始まろうとしている頃だった。
ローレライは十九歳となり、ふたつ年上のユリウスともども、互いに結婚を意識するようになっていた。そんなある日、教会の裏手をユリウスと散策しているときだった。
突然、吸血鬼族の青年、ブレフトが木々の間から現れたのだ。
ブレフトは、希少な異能の力の持ち主だった。そうして、別の種族同士の恋愛を忌み嫌っていることで有名だった。
ここしばらく、視界に入り込む姿や噂話でブレフトの存在を身近にしていたため、近寄らないよう気をつけなければと自分に言い聞かせていた。だが、彼には、なんの力もない人間の警戒など、まったく意味がなかったらしい。
想いを寄せられている、という雰囲気は当然なかった。純粋に、狼族と人間との恋愛を嫌悪する昏い情念をまき散らしている。
ただでさえ危うい状態にある吸血鬼族の出現に、ユリウスは気色ばむ。
「逃げろ」
背中にしたローレライに、彼は小さく告げた。
「な……なに言うのよ」
争い合っているのは狼族と吸血鬼族だ。その当事者たちだけ残して、ひとり逃げられるわけがない。憎悪にまみれたブレフトがユリウスを攻撃しようとしているのは、あまりにも明らかだった。
置いていけるわけがない。彼が怪我をするかもしれないと思うだけで、全身が粟立ってくる。
首を振るローレライに、今度は強く「早く」と言葉が続く。
「置いていけない」
「誰か呼んできて。司祭さまが中にいるはずだから」
それはローレライを逃すための言葉でもあったが、言われてみると、もっともな内容でもあった。
「絶対。絶対に死なないでよ?」
「当たり前だ莫迦、なに言ってるんだよ。ローレライを残して死ねるか」
「……ん」
一歩、足を動かしたときだ。
「だァからァ、そういうのが鬱陶しいンだよッ!」
害意にまみれた声がローレライの身を竦ませた。地獄からの声かと思えるほど、おどろおどろしかった。
思わずブレフトへと顔を動かす。
こちらに向けて両手を差し出す彼の姿を目にした瞬間、全身にぶつかってくる、強い衝撃があった。
(―――え?)
視界が弾け飛んだ。勢いよく背中がなにかにぶつかり、そのまま冷たい感触にずぶりと呑み込まれてゆく。
(え……?)
「!? ローレライ!」
ユリウスの裏返った悲鳴が聞こえた。目の前の彼はこちらを振り返り、驚愕に顔色を失っている。
ブレフトの嗤い声が聞こえた。
「ざまァみろ! 狼と人間が嗤わせやがる! 莫迦な人間め! 永遠にそこで愚かな狼が朽ち果ててゆくのを見ていればいい!」
「なんてことをッ!」
絶望に満ちたユリウスの悲鳴とともに、狼型となった彼の身体がブレフトにぶつかる。
荒々しい咆哮をあげ、容赦もなしにブレフトを両前肢で押さえ、首筋を狙って牙をたてるユリウス。抵抗をしながらもブレフトもまた、異能の力でユリウスを攻撃する。
(危なッ、……!?)
叫んで、異変に気付いた。
声が、出ない。
声だけではない。身体が動かない。反射的にあげていた手を下げようとしても固まっていて下がらない。ユリウスのもとに行こうと足を前に出そうとしても、地面に縫いとめられたように、一歩どころか浮かすこともできない。
なにも、身体にすべての意思が伝わらない。
(……? なに? どういうこと……?)
教会裏手で突如起こった騒動に、聖職者たちがなにごとかと姿を現した。その全員が、目の前で繰り広げられる死闘と、身動きのできないローレライに言葉を失くし、呆然となった。
「なんだ、これは……」
そう言葉を落としたのは、誰だったか。
その声がきっかけとなったのか、全身傷だらけで首に牙を深く沈められたブレフトがよろよろと起き上がり、木々の向こうへと後退りながら逃げていった。追いかけようとしたユリウスだったが、数歩行ったところで足を止め、ローレライの元へ戻ってきた。
彼もまた、全身傷だらけだった。ブレフトの持つ異能の力は、相手が獣型となって全身が毛で守られていても、自身が素手であっても、関係なく攻撃することができるからだ。
だが、それだけではなかった。
それだけであるはずがなかった。
「ローレライ……」
人型に戻る力すら使い果たしたのか、獣型のまま、ユリウスはローレライを見上げてくる。
(大丈夫? ねえ、大丈夫なのユリウス……!)
「ああ、なんてことを……」
「ユリウス……なのか?」
離れたところでふたりの戦いを見ていた聖職者のひとりが、恐るおそる狼姿のユリウスに問いかける。
「はい。すみません、このままで」
「いや、いい。横になっていなさい。―――それで……、どうしてこんな……、ローレライ、なのか……?」
壮年の聖職者が呆然とこちらを見上げてきた。彼だけでない。この場に集まった者たち全員が、魂を抜かれたような真っ白い表情になってこちらを見上げていた。
立場も年齢も、髪の色も瞳の色も違う彼らの、一様に、信じられないものを見るその眼差しが、下のほうにある。
―――見上げられて、いる?
ローレライには、その意味が判らなかった。自分の身長は、同年代の娘たちよりも低い。なのに、大の男たちから見上げられているだなんて。
(ね……。どうしてわたし、こんな高いところからみんなを見下ろしてるの?)
自分の膝よりも下にある彼らの頭。
微塵も動かない身体。
(ユリウス……! ねえ、ユリウス……!)
掠れ声さえ出ない喉。
(なに、なにこれ。ねえ!)
恐ろしいものを見る底知れぬ冷たさが、彼らの表情に浮かび上がってくる。
「ローレライです」
静かに答えるユリウスの声には、まるで現実味がない。
その場の一同が、息を呑む。
「ブレフトか?」
訊いたのは司祭だった。頷くユリウスに、
「なにがあったのです」
厳しい声で問う。
「なにも。ただ……、ここを歩いていたんです、ローレライと。いきなりブレフトが現れて、狼と人間が嗤わせると……」
それだけですべてを理解したのだろう。痛ましげに司祭はローレライを見上げた。
「あの者が異なる種族同士の恋愛を忌み嫌っていたのは知っていました。そういう恋人たちに危害を与えていたということも。ですが―――」
硬い表情で吐息を落とすと、堪えきれないようにローレライから視線を外した。
「まさかこんなことまでしでかすとは」
(こんなこと? こんなことって、なに? 司祭さま! ユリウス!)
「吸血鬼族にこんな力があるだなんて聞いてないッ」
ユリウスが叫ぶ。お互い争い合っていることもあり、相手の種族の特性は学んでいる。
「彼は、特別です。異能の力が突出しすぎている。制御方法を学ばせて悪用はするなと言い聞かせてはいましたが……。まさか、こんな……。生きている人間を壁に埋め込むなど、なんと罰当たりな」
司祭の言葉に、ローレライは耳を疑う。
聞き間違いだろうか?
生きている人間を壁に埋め込む?
それは、
(わたしの、こと……?)
動かない身体。茫然とした皆の眼差し。
そんな莫迦な。
「元に戻れますよね?」
傷が痛むのだろう、荒い息でユリウスは司祭に尋ねる。
難しい顔をしたままで、司祭は頷こうとはしない。
「遥か昔にも、ブレフトのように生きた人間を石像にしてしまう異能の力を持った吸血鬼族がいたそうです」
(石像? なに、なんなの石像って!)
壁に埋め込むだけではないと?
ローレライは訴えるも、誰にもその声が届くことはなかった。
司祭の言葉に、全員が耳をそばだてる。
衆目が集まる中、司祭は首を横に振った。
「本人であっても、元に戻すことは叶わなかったそうです。それに、これはただの伝説として話が伝わっているだけで、その石像が存在したという事実はどこにもないのです」
(判らないよ、どういうこと? ねえ、司祭さま。わたし、ここにいるのに石像って! ねえ! 助けてよッ)
「じゃあローレライは」
「探しましょう、皆で。必ず彼女が元に戻れる手段はあります。神を信じて方法を探しましょう、一刻も早く」
ユリウスの言葉を皆まで言わせず、司祭は声を大きくした。力付けようとしたのだろうが、かえって虚しくその場の空気は沈んでゆく。
ユリウスは、ただじっとローレライを見つめ続ける。
「なんでこんなことに……」
(ねえ、判んない。なんなの、なにが起きたの、ユリウス。教えてよ……!)
ただ、ユリウスと一緒に教会の裏手を散策していただけだったのに。
将来に続く確かな絆を感じながら、幸せな気持ちで一歩一歩を歩んでいただけなのに。
どうして。
判らない。
なにもかもが、理解できなかった。
―――結局、誰もローレライを元に戻す方法を見つけることはできなかった。
見つかったのは、当のブレフトがユリウスに咬まれた傷が原因で命を落としていた姿だけ。
ユリウスは傷が癒えるまで、癒えてからもずっと、ローレライのそばにいた。夏の容赦ない陽光に晒されても、冬の凍てつく風が吹き荒れる中も、ずっとずっと僅かも離れようとはせず、そばにいてくれた。
月日の移り変わりは残酷だ。
次第にユリウスは衰弱をしてゆく。
根が生えたように決してローレライのそばから離れようとしなかったユリウスも、ついには命の果てを迎えてしまう。
ローレライが元に戻る手段が見つからないユリウスに、もう諦めて己の幸せを別の形で求めたらどうかと言う者たちもいた。
だが、ユリウスは頑として首を縦に振らなかった。
(ユリウス……、もういいよ。もういいから)
日に日に憔悴してゆくユリウスを見つめ続けることは苦しかった。ずっとそばにいて欲しいと心の底から思いながらも、彼の幸せを潰しているのではという思いも少しずつ芽生え始めていた。
けれど、石像となってしまった自分になにができよう。
「ごめんな。許して欲しいなんて思わない。けど、……天国でなら逢えるんだろうか?」
心細さをそう吐露することもあったユリウスは、ローレライが石像となって数十年後、彼女の前で静かに生涯を閉じた。
狼族である彼は、その種族の慣習に沿って別の場所に葬られることになった。
行かないでと亡骸に縋りつきたかった。独りにしないでと、彼の身体を運びゆく者たちを止めたかった。
―――それなのに。
こんなときですら、石像の自分は指先ひとつ動かすこともできない。
胸にただのひとことも言葉が浮かぶこともなく、目の前から愛する者が運ばれてゆくのを見つめるしかできなかった。
空っぽだった。
なにも、なくなってしまった。
自分の全部が、彼の死とともに抉り取られていた。
夜が来て朝が来る。
おはようと一日の最初にかけられる声がない。寒くはないか、今日は日差しがあって暖かいね。ごめん、お腹が鳴っちゃった。
いつもある何気ない言葉が、見当たらない。
風が吹き、空を雲が覆う。重たく落ちてきた雨粒が、ローレライの頬を濡らす。
(あぁ……)
いつしか自分から気持ちが抜け落ちていたのを、ローレライは頬で受けた水の感触で知る。
まなじりから頬へと流れる水の感触。
己のものではない水ではあったが、その感触は、確かに涙だった。
胸に、なにかが熱くこみ上げてくる。
(ああぁ……)
石となった肌を流れる優しい感触が、いっそう気持ちを揺さぶった。
やっと、やっと泣くことができる。
(ユリウス。ユリウス……)
これからどうしていけばいいのか、ローレライにはまったく判らない。問えるひともいなければ、答えてくれるひともいない。
誰も、いない。
色すらも失くした途方もない不安が、胸の内ばかりでなく、視界のすべてにも広がるばかりだった。
吸血鬼族に石像とされ教会の壁に埋め込まれてしまった娘の話は、一時期世間を騒然とさせた。教会が属する大本山からも調査の人々が押し寄せ、石像を無遠慮に隅から隅まで調べ上げたが、なにもできないまま彼らは帰っていった。
町は、ローレライの像を観光の呼び物としたことで財政が潤ったときもあったが、次第に人々の興味は他のものへと移り、百年も経たないうちに、ローレライの像の成り立ちなど誰も気にしなくなった。
狼族と吸血鬼族の争いは、ローレライの事件をきっかけにしていっそう激しくなり、お互い自滅するようにして数を減らしてゆく。そうして、百年も経たずにあっけなくいなくなってしまった。
人間も、王位継承権、宗教上の闘争、土地の奪い合いなどで争いを繰り返していた。
百年、二百年、何百年が経っても、忘れた頃に人間は似たような理由で戦い合う。
教会という場所柄か、ローレライにも被害は容赦なくふりかかった。
撃ち込まれた砲弾が間近で炸裂して激しい衝撃を受けたことも、教会に火を放たれて煤にまみれたことも、聖職者に向けて放たれた矢が腹部に当たったこともあった。
そのどれも石の肌のおかげで傷ひとつ負うことはなかったが、人間の剥き出しとなった残虐な醜さに、恐怖以上に憤ろしさと無力な思いが湧き起こる。
湧き起こるも、どんな感情や思いに苦しみ喘いでも、ローレライは石像でしかなく、ただ同じ格好で立ち続けるしかない。
なにかを感じて、どうなるというのか。
暗くなる空、明るくなる空。慈しんでくれる雨や凍える風。
どれだけ同じことを経ただろう。
なにを感じても無駄。
自分には声はなく、なにかを伝えようと思っても聞いてくれる者はいない。
石の身体に閉じ込められ、意識はすべての底に沈めるしかない。
神が願いを聞いてくれるのなら、たったひとつだけある。
どうか、死なせて欲しい。
死なせてくれないのなら、せめて意識を抹殺して欲しい。
ただひたすらにそれだけを意識が浮上するたびに願うしかなかった。
同時に、そんな願いなど誰が聞いてくれよう、と冷えた意識が思いを切り裂く。
途方もない諦めが、生まれたばかりの願いをどろりと呑み込んでゆく。何度も何度も愚かにも同じことを繰り返し、諦めの沼底に沈んでゆくばかり。
絶望しかなかった。
ただただ、絶望しかなかった。
そうして、そんな倦んだ日々に現れたのが、―――ラファエルだった。