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三 神からは忘れ去られている



 この地に留まることを選んでくれたラファエル。ローレライが危惧したように、これまでのように時間を見つけては毎日逢いに来てくれることはなくなってしまった。

 ラファエルの顔を見ない一日は、こんなにも間延びした時間の連続だっただろうか。

 彼のいた日々は、空が白く染まりだすと鳥たちの澄んださえずりが聞こえてきていた。頬を撫でる風は愛しむように優しく、天から降り注ぐ日差しも、暖かさと清涼な眩しさを与えてくれていた。

 木々の重なり合う緑が奏でる静かな葉擦れ。

 すべてが、ローレライに微笑み、語りかけてくれていたというのに。

 たった一人の存在が欠けてしまっただけで、世界を動かしていた巨大な輪が(ひず)み、こぼれ崩れてゆくように、目の前のなにもかもが一気に色を失くし、無味乾燥なただのモノになってしまった。

 まだ、木の影はさっき見たところと同じ場所にある。

 ラファエルは、どうしているのだろう。

(怪我とかしてないかな)

 機屋(はたや )の下働きとして働いているのだという。重たい羊毛の(かたまり)を担いで撚糸(ねんし )場に運んだり、糸になった羊毛を今度は別の建物に運んだりなど、とにかく重労働らしい。

 ローレライがまだひととして生きていた頃、この町には機屋はなく各家で糸を紡ぎ布を織っていたのだが、いつの間にか布を織る工場というものができたたのか。

(知ってる、ラファエル? わたしが着ているこれね。初めてわたしが織った布で作ったのよ)

 長い袖とやや詰まった襟元のブラウスに、肩から腰までをゆったりと包む上衣。スカートは、足首を隠すほどの長さがある。この薄桃色の上衣が、ローレライが糸を紡ぎ、染め、布を織り、最初から最後まですべて自分の手で仕立て上げたものだった。

 自分にとって思い入れのある服を着て出逢ったラファエル。そのラファエルが仕事を始めたのが、織物関係だった。

 傍から見たらどこにも関連がないようなものでも、ローレライには共通するものを得た気がして、嬉しくてならなかった。

 些細なことで胸躍るほど嬉しくなってしまうだなんて、子どものようだ。

 自分の中に、そんな瑞々しい感情がまだ残っていたことにも驚かされる。

 愛するユリウスを失い、彼を知る者たちが命を全うし、日が昇り夜を迎えるだけの時間を幾度も繰り返す中で、もはや朽ち果ててしまった感情だったはず。

 ラファエルを想うたび、ユリウスを思い出す。

 石像になってしまった恋人を想い、ずっとここから離れようとしなかったユリウス。

 彼が衰弱して死んでゆくさまは、もう断片的にしか思い出せない。ラファエルが現れるまでずっと、薄情にもずっとずっと長い間、彼が頭に浮かんでくることすらなかった。

 皮肉だと思った。

 ラファエルの存在によって、かつての恋人とのことが、暗い沼の底から浮かび上がる泡のようにぽつりぽつりと思い出されてゆくだなんて。

 風が、また木々の間をすり抜ける音がする。肌を撫でる感触は、乾燥していて素っ気ない。

 雨が恋しい。

 雨に縋りたい。

 雨に、全身を洗ってもらいたかった。

 雨に、泣いてもらいたい。

 木の影は、まだ全然動いていない。

 ラファエルが来てくれる礼拝の日まで、あとどれだけあるのだろう。



 週に一度ある礼拝の日。

 夜が明ける前から、礼拝の日は教会内は準備でざわめいている。だから、待ちに待った礼拝日がやってきたのだとすぐに判る。

 まだ、空は仄暗(ほのぐら)い。

 ラファエルに逢える。

 動けない身体が、まどろこしい。石になった身の内側が、むず痒く痺れている。

 小動物が木々の間を駆け抜ける気配がある。教会の中で、誰かと誰かが話している声がする。

 ただただひたすらに空の色と教会内の気配を窺いながら永遠とも思える時間をやり過ごしていたローレライの前に、ようやく地面を静かに踏みしめながらやって来るひとの気配が現れた。

 いつもは礼拝の後に来てくれるのに、今日は始まる前に来てくれたのか。

 そう期待に胸を弾ませていたのだが、現れたのはラファエルではなく、白髪混じりの頭をした男性だった。

 この教会の司祭だ。

 落胆を覚えるものの、珍しい、とも思った。

 ラファエルが司祭と初めて言葉を交わしたあのときから、彼は、時折ローレライのもとへと足を運ぶようになっていた。だが、忙しいはずの礼拝前の時間に来たことなどなかった。

 司祭は足を止め、じっとこちらを見上げてきた。

 その、まっすぐな眼。

 どきりとした。

 深いしわの中から見つめてくる眼には、どこまでも深い慈しみの色があった。

「もしかすると、あなたが誰なのか、判る日が来るやもしれません」

 穏やかな低い声が耳に届く。それは本当に小さな声で、きっと考えていたことがつい口からこぼれてしまっただけかもしれない。

 それでも、ローレライの意識は一瞬はっと覚醒をする。

 ラファエルの存在があっても、それでローレライの気持ちがすべて満たされるわけではなかった。贅沢かもしれない。けれど、ラファエルの存在が呼び起こした欲望は、かえって時に深い寂しさを思い知らしめてくる。

 司祭の言葉は、遠い昔の学術調査以来誰もが存在を忘れていたローレライを、ラファエル以外の誰かが―――司祭自身が気にしてくれていることを意味していた。

 自分に興味を抱いてくれるひと。

 自分をここに繋ぎ止めてくれる、もうひとりのひと。

 ラファエルよりもずっと年上の司祭。おそらくはラファエルよりも先に天に召されてゆくだろう。それでも、数十年という短い時間でも自分を認めてくれる存在が増えたことが嬉しくて、心強くて、この孤独な毎日の時間をともに支えてくれる味方を得たような強い後ろ盾を感じずにはいられなかった。

 司祭が呟いた言葉。

 耳に届いたその言葉を考える。

 大昔、戦によってこの教会は炎に包まれたことがある。ローレライの時代の文書はそのときに焼けてしまったはず。実際、司祭自身もそう言っていた。だが、なにかが見つかったのだろうか?

 ローレライが本当は人間で、ローレライという名であることが本当に判る日が来るのだろうか?

 それ以上なにも言おうとしない司祭の目を、ローレライは静かに見つめ返した。

 ―――結果は、判りきっている。

 だから、期待しないことを学んだのだ。

 どんなに可能性が低くても、ほんの僅かでも期待をしてしまったら、そのあとに訪れる失望に胸を(えぐ)られるだけ。この何百年かで学んだのだ。

 判りきっている。

 自分が思い描くすべては、ことごとく裏切られてしまうのだと。

 この、心を満たす淡い想いも、無惨に切り裂かれてしまうことは、重々承知している。

(ありがとう司祭さま。でも、もう期待はしたくないの。ずっとこれからも何百年も、ここに閉じ込められ続けるしかないのよ)

 司祭が自分を気にかけてくれることは嬉しい。

 万にひとつ、ローレライが誰なのか判ったとしても、ここから解放する手段が見つかるわけではないのだ。

 神が気まぐれを起こさない限り、そんなこと、ありえない。

 そうして神は、ローレライのことを忘れ去ってしまっているのだ。



 太陽が空の半分に差しかかろうとする頃、礼拝を終えたラファエルがいつものようにやって来た。

 初めて声をかけられてからもう何年も経っていた。

 最初の頃は少年の名残りが強く残っていたラファエルも、いまではどこから見ても精悍で、立派な好青年である。

 故国をともに脱出した家族たちの行方は、その隊列が流れてこなくなっても判らず、「どこかにはいるんだろう」と、彼はたくさんの意味のこもった表情で、己が下したけじめを語ってくれた。

 家族を探しにこの国を出ないのは、彼自身がつけたけじめがもたらした結論でもあった。

 ラファエルは、変わらずローレライのもとへと通ってくれる。週に一度の礼拝の日は、礼拝が終わるとまっすぐにやって来てくれるのだ。

 ひたむきに通ってきてくれる彼ではあったが、さすがに何年もそんなことを続けていると、町の人々から奇異の目で見られるのではないかとローレライは不安になってもくる。ただ足を運んでローレライを見上げるだけならいざ知らず、声に出して語りかけているのだ。白い目で見られ、変人と噂されてしまったら?

 ローレライ自身、もしも近所に石像に話しかけてばかりいる男性がいたら、関わり合うのも怖くて、避けてしまう。

 ラファエルにそんな目を向けるひとがいるかもしれないと思うだけで、胸は苦しくなって、思考は停止してしまいそうになる。

 来て欲しい。

 けれど、ここに通うことでラファエルの印象が悪くなってしまうは嫌だ。

 礼拝に来てくれる、ただそれだけでいい。

 教会内での気配を感じられるだけで―――、

(―――……いや)

 すぐそばにラファエルの気配を感じながら、そのまま顔も見せず去ってしまうだなんて、()えられそうにない。

 いつものように向かい合って、「じゃあ」と気軽な言葉をかけてもらいたい。

(ごめんね、ラファエル)

 もしも声を出せたのなら、言いたくなくとも、もうここに来るべきではないと言わざるをえなくなる。それができない状況が、ローレライには幸運にすら思えてしまう。

 ラファエルの名誉にかかわることなのに、なにもできないことに感謝している。なんて自分は身勝手なのか。

 そんなローレライの心情などもちろん判るはずもなく、ラファエルは一週間の出来事を話してくれていた。

 普段はこちらの国の言葉を話す彼だったが、ローレライに語りかけるときだけは、母国語を口にしていた。もしかするとこれは、母国を忘れないためのこだわりなのかもしれない。

 いつものように楽しげにいろんなことを話してくれていたラファエルだったが、なにかを思い出したのか、ふと目を輝かせた。

「聖女さまは、狼族(おおかみぞく)とか、吸血鬼族(きゅうけつきぞく)とか、知ってたりするんですか?」

(―――!?)

 耳に飛び込んできた単語に思考が追いついた瞬間、背筋がぞくりとした。

 生身の身体だったら、鼓動は止まっていた。

 まさかこの時代で耳にするとは思わなかった。

(どうしてそれを……)

 ラファエルの口が紡いだそれらの単語は、もう何百年も耳にしたことのないものだった。単語だけではない、彼らの存在自体、もう、ずっと長いこと目にしていない。

 両者とも、何百年も前に滅んでしまった種族たちだ。彼らが存在していた事実すら、現在では知る者がいないと思っていたのだが。

 狼族と吸血鬼族。

 懐かしい響きだった。

(ユリウス……)

 ローレライの恋人だったユリウスは、まさにその狼族のひとりだった。

「司祭さまが礼拝のあとに教えてくださったんです。何百年も昔、このあたりでは狼族と吸血鬼族と人間とが一緒に暮らしていたのだ、と」

(ええそうよ。ええ、そう。でも……どうして司祭さまはそのことを知ったのかしら? いままで誰も知らなかったのに)

「教会の床石の下から、たくさんの古文書が見つかったみたいなんです。司祭さまが物を落としたかで偶然石に穴が開いたんだそうです」

(床石の下から……)

 教会の床石の下に封印されていたのなら、戦火にさらされたとしても、灰になることもなければ破り捨てられることもない。

「意外と言えば意外ですけど、ありがちすぎてかえって盲点ですよね、床石の下だなんて」

(そうね)

 ローレライは、自分の声にならない声が、実はラファエルに届いているのではないかと最近感じることが多い。彼自身、「まさかそんなことないよな」と半信半疑で呟くことがあるから、もちろん口で紡ぐ言葉としては伝わってはいないのだろう。

 ラファエルは懸命にローレライの表情を見つめてくるから、もしかするとその中に、ローレライ自身自覚していなかったごく僅かな雰囲気の変化があるのかもしれない。

 けれど、期待は、しない。

 ただの偶然が続いているだけ。

 一歩も二歩も引いたところで、他人事として感情を封印していかなければ。

 希望を抱かず感情を封印しても、幸か不幸かラファエルはローレライの思考に寄り添う答えをくれる。

「いま司祭さまは六百年くらい前の古文書を読んでいるらしいんですけど、当時は狼族と吸血鬼族というのがここにいて、だけど神の力によってすべて滅ぼされたと書いてあるって。その時代にはもう聖女さまの像はいたそうで、……見たこととかありますか?」

 彼の表情には、隠しきれない興味が浮かんでいた。

(見たことあるどころか、実際に付き合ってたし、わたしをこんなふうにしたのは吸血鬼族なのよ?)

 こちらを見つめる黒い瞳。

「異種族たちに逢ったことが、あるんですね?」

(……その言い方は、好きじゃないわ)

 異種族、と言われてしまうと、ラファエルとの間に遠い隔たりを感じる。彼らは確かに『異なる種族』かもしれないけれど、ローレライにとっては自分と変わらない同じ時を生きた者同士でしかない。狼族は獣形にもなれるというだけ。吸血鬼族はずっと人型のままで自分の種族以外の血は吸わないから、希少な異能の者に遭遇しない限り、なにがあるというわけでもない。

 ―――異能の者に狙われない限り。

 ローレライの脳裏に、何百年も昔に遭遇した吸血鬼族の狂った眼がよみがえり、恐怖に一瞬思考が飛んでしまった。

「怖い、種族だったんですか?」

 いまの恐れが現れてしまったのか、それとも単なる偶然なのか、ラファエルはまさにローレライの思考を一瞬占めた感情を口にした。

(いいえ)

 違う。

(そんなことない)

 ラファエルは、誤解をしている。

 彼らは決して恐怖の対象ではない。

 接する機会を失くしてなにも知ることができなくなったからこそ『異種族』と一括(ひとくく)りにされて、恐怖の対象となっているだけだ。

 そう頭では判っても、自分の大切な存在だけでなく、自分自身をも怖がられたような痛みが胸に生まれたのも事実だった。

(怖い思いはしたわ。でも、本当はみんな、怖いとかじゃなくて……わたしたちと全然変わらないのよ)

 普通に考えれば、石像の表情を懸命に読み解こうとしても、天気の具合や読み取る側の心情でどうとでも解釈できる。欲しい言葉を探せばいいのだから。

 だから、自分の気持ちが届くはずはない、のだけれど。

「―――聖女さまがそうおっしゃるのなら、怖いひとたちではなかったんですね」

 食い入るように見つめていたラファエルの表情が、ゆるりと和らいでゆく。

 泣きたくなった。

 どうして、ラファエルはこちらが欲しい言葉をくれるのだろう。

 どうして、彼と出逢ってしまったのだろう。

 狼族や吸血鬼族たちを『ひと』と言ってくれたラファエルの心根の優しさが、嬉しかった。

 ラファエルはもともとがこの国の人間ではない。だから、何百年も前に実在した狼族や吸血鬼族たちへの根元的な恐怖心というものが、この国の者よりは少ないのかもしれない。

(そうよ。怖くなんてないわ。すごく、すごく懐かしい……)

 もう何百年も姿を見ない狼族や吸血鬼族。どこかで生き続けていると楽観的に期待をしているわけではないが、自分の知らない場所で、自分が知らないだけで本当は……、と、そう思いたくなった。

 脳裏に、ユリウスの笑顔や怒った顔、寂しげな顔がよみがえってくる。

 あの日、この場所で人間として最後に会ったユリウス。

(少なくとも狼族はね、すごく、すごく優しいのよ?)

 天国でなら逢えるだろうかと、切ない声で言ったユリウス。

 ラファエルを目の前にはしていたが、ローレライの目に、かつてのあの時がよみがえってきた。




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