二 わたしは、恋をしている
ラファエルには、弟がふたりいたと言う。故国で起きた内戦で、ふたりとも犠牲となり、それをきっかけに、両親は残された家族で国を出ようと決意をしたのだそうだ。
「でも、途中ではぐれてしまって」
国を出る長い人々の連なり。石畳で舗装された道などあるはずもなく、その道行きの途中、小さな妹たちの脚は追いつかなくなった。彼女たちを守りながらの両親たちの足取りも必然的に鈍ってゆき、兄たちとともに助け合いながら歩いてはいたが、「先に行って待っていて」という母の言葉に、別行動を取るしかなかった。だが、それから一度も両親や妹たちの顔を見ることはなかった。様子を見てくると言って戻った兄の一人もそれきり音沙汰はなく、残された兄とともに、人々の列から後れを取らないよう歩き続けるしかなかった。
そうして気付けば、いつの間にか、残った兄ともはぐれてしまった。
「たぶん、もっとずっと先のみんなと一緒にいるんだとは思うけど」
そう語るラファエルの表情には、半ば諦めの色があった。
彼の話す言葉は外国語だ。ローレライがかつて話していた言語とはもちろんリズムの取り方や単語の変化の仕方もまったく異なっている。
だが、意味はちゃんと伝わってくる。
ローレライが判るのは、外国語だけではなかった。
何百年の時を経て、この地の人々の言葉自体も転がるように変化をし、いまでは生きていた当時とはまったく違うといっていいほど変わってしまった。
なのにどういう理由か、変化しきった母国語も知らないはずの外国語も、意味を理解することができていた。
理解などしたくもないのに、頭は勝手に理解をしてゆく。
たまに聖堂内から漏れ聞こえる人々の会話を耳は拾い、その内容を聞き取れてしまう現実。それは、拷問にも思える残酷な仕打ちだった。
どんな情報も、理解ができなければ鳥のさえずりと同じ、ただの音だ。理解さえできなければ、自分はただここに〝在る〟だけの存在で、羨む思いも切ない想いもしなくて済んだのだ。なのに、聞きたくなくとも耳が捉えてしまう人間同士の会話。理解をしてしまうその内容。
受け答えができないのなら、こちらからなにも訴えることができないのなら、会話を聞いてどうなるという? 人間らしい感情を抱いたまま、誰かの言葉など聞きたくなんてない。
すべてを、閉ざしたかった。
耳も、頭の中も、意識もすべて。
それなのに、あらゆるすべてを拒絶しながらも、すべてから切り離されていくのを怖がる自分もいて、会話を意識し、内容を気にしてしまう。何度も何度も羨望や絶望の波に襲われては、会話に興味を持った自分の愚かしさをまざまざと突きつけられ、そのたびごと、心は崩れどんどんと軋んでゆく。
軋んで軋んで、なにもかもが身体から剥がれ落ちてゆくようにすべてを諦めることを覚え、ようやくそういったもろもろの感情の海から何百年もかけて抜け出せたと思った。
なのに。
ラファエルが現れたのだ。
どうしてだろう。
彼の言葉が判るという事実が、途方もなく無性に嬉しかった。
あんなにも恨めしいと感じた言葉への理解。言葉という概念。消えてしまうことなくそれがいまだ自分の中に残っていた事実に、ローレライは喜びを感じるのだ。
彼の言葉が判ることが、嬉しくてならなかった。
彼がこちらを見上げてくれるたび、気持ちは温かく潤む。
胸が温かく感じる一方、けれどそのぶん、底冷えする恐怖が背筋からローレライを締め上げる。
ラファエルは、―――ラファエルも、いずれどこかに去ってしまうひとだ。
人間相手に気持ちを開いても、彼がローレライを気遣ってくれればくれるほど、必ずやってくる別離の時間がそのぶん苦しくなるだけ。
自分は石像。教会の壁に埋め込まれた、石像なのだ。自分自身でこの状況を変えることができない以上、不用意に外界に対して興味を抱いてはいけない。投げかけられる興味に、応えてはならない。
失うと判っている相手。
いつの日か、必ずラファエルは現れなくなる。きっとそれは、突然に。
一日を待ち、十日を待ち、ひと月、半年、一年―――十年。長い長い間未練がましく彼が再び現れてくれることを願いながら百年を待って、それでようやく自分に言い聞かせることができるようになる。
彼はもう、二度と現れることはないのだ、と。
遥かな昔、自分の足元で命を終えていった愛しい青年を思う。
(ねえ、ユリウス。どうしてわたしはこんなにも愚かなんだろう? つらい思いをするって判りきってるのに、どうして待っちゃうんだろう?)
あなたはここに存在をしているのだ。
ラファエルにじっと見つめられると、そう認めてもらえている気がする。
心は、朽ち果ててはいないのだ、と。
その感覚は嬉しくて気持ちは満たされて、明日を待つことが楽しみでならない。
そう期待を抱いてしまうのは、いけないことなのだろうか?
「ああ、そういうことでしたか」
ラファエルが声をかけてくれるようになって数週間が経ったろうか。彼のものではない、第三者の声が聞こえてきた。意識をそちらに向けると、司祭の恰好をした初老の男性がラファエルのそばにいた。
「おはようございます、司祭さま。あの、いつもここに寄らせてもらってるラファエルと申します」
ラファエルは難儀をしながらも、この国の言葉を少しずつ身につけていっている。いつものようにローレライの足元で彼女に話しかけてくれていたラファエルだったが、突然現れた司祭に、はっと身体を緊張させた。
司祭は、笑みを浮かべて小さく頷いた。
「ここ何ヵ月か、裏手にばかりまわって時間を潰している人物がいると聞いて、なんだろうと思ってたんですが、そうですか、この石像に興味を持ってくれていたんですね」
司祭は、共通語を交えてゆっくりと話してくれるので、ラファエルもなんとか理解ができるらしい。
彼の声はあくまで穏やかで、ラファエルを責めるような色はまったくなかった。司祭の目がローレライへと流れると、再びラファエルもローレライに目を戻した。
こちらを見上げる司祭の眼差しは、あたたかい。
「珍しい格好ですし、珍しい場所にある。外壁は雨風で傷んでいるのに、この石像はたぶん彫られた当時のまま、綺麗なままでいる。不思議な像です。なのにほとんど者は、この像があることすら気付いていないのですよ。ここに勤める者たちも含めてね」
「僕は、なんだろう……、なにかがあるんだって感じて、ここに来たんです」
なにかに、誰かに呼ばれている。そんな感覚が、この国の国境を越えたあたりからしていたのだという。
初めて聞く話だった。
ラファエルが口にした、呼ばれているという感覚。
意識はずっと、重たい霧の中をたゆたっていた。誰かを呼んだ覚えもなければ、なにかを求めた覚えもない。なのに、ラファエルはなにかを感じ取っていた。感じ取ったなにかを辿った先に、ローレライがいた。
教会の壁に半ば埋もれている石像を一目見たその瞬間に、心を絡め取られたのだ、と。
自分の珍しい格好が、大昔に受けた学術調査で学者たちを悩ませていたのをローレライは思い出す。
左手を胸に添え、右手は軽く上げてなにかを遮ろうとしている。後退りをしているような足。小さく驚いた顔。そしてあまりにも写実的な姿。
神話的や伝説的な意味があってのことではないから、事情を知らない彼らには、自分の専門分野から懸命にその答えを導き出そうとしていた。
せめて作者の名が判ればそれを手掛かりに調べていけるのだが、こんなにも実際の人間をありありと模した像を彫ることができているのに、制作者の名はどこにも残っていない。
―――残っているはずがないのだ。
ローレライは、誰かによって彫られた石像ではないのだから。
なによりも、誰ひとりとして、人間が石像になるだなんて思いもしないのだから。
「ずっと迷ってたんですけど、ここに、留まろうって決めたんです」
ラファエルは司祭に話しながらもその眼はまっすぐにローレライに注がれていて、彼女に向けて伝えているのは明らかだった。
「この像があるからですか?」
「もちろん、それもあります。ですが……家族がどうなったのか、ちゃんとこの目で確かめたいという思いもあって」
故国から逃れる道行きで家族と離ればなれになったラファエル。この地でその隊列の最後までを見届ければ、なにか納得がいくのではないのかと、彼は考えたのだ。
ラファエルがここにいてくれる。
彼の決断に、ローレライの胸はときめく。ローレライを見つめる彼の眼差しは甘く、柔らかだ。見つめられて、いっそう胸がきらめいてくる。
「仕事も決まったんです」
「そうですか。それはよかった。この像も、喜んでいることでしょう」
「ええ。たぶん、喜んでくれていると思います」
(もちろんよ、おめでとう。でも……そうなると、もう、毎日のように来てくれるのは難しくなっちゃうわね)
喜ばしさとともに、同じくらいの寂しさがあった。
「―――司祭さま」
「ん?」
ラファエルは真剣な眼差しになって、司祭に向き直る。
「ずっと疑問に思ってたんですけど、聖女さまの像には、どんな由来があるんですか?」
「由来、ですか……」
難しい表情を浮かべる司祭。
「遠い昔に起こった大きな戦で、それ以前の資料などはみな焼けてしまって。だから、彼女を彫ったのが誰なのか、いったいどんな理由でここにあるのかも、判らないのです」
「戦……ですか……」
痛ましい声になるラファエル。彼自身、内戦によって故国を逃れてきた。
「ここでも、戦があったんですね」
「遠い昔のことだけれどね。―――この国へようこそ。ラファエル」
「はい。ありがとうございます司祭さま」
彼の中ではもう、既に覆されることのない決断なのだろう。ラファエルの表情は、すっきりとしている。
とても大人びた表情だった。
彼はここに根付くことを選び、ここで人生を歩んでゆく。
ああ、とローレライは思う。
嬉しさはもちろんある。だがそれ以上に、彼がここから飛び立った姿を見続けなければならない苦しみの予感が気持ちを重たくさせて、素直に喜べなかった。
彼がずっとここにいてくれることに、莫迦みたいに気持ちは眩しく弾ける。なのに一方で、これから歩んでゆく彼の人生をここで見つめることしかできない自分を思い知らされる。
これまで他人事として滔々と流れゆくのを眺めるしかなかった時間の流れを唐突に突きつけられ、無惨にも引き裂かれてしまう。
また、置いていかれてしまう。
何百年ぶりかに翻弄される、自分ではどうすることのできない心の動き。
そばにいたい。そう強く感じる。
嬉しさと切なさ。
煌めく想いと潰されるような悲しみ。
「―――あ」
ラファエルが小さく声をあげ、空を見上げた。
天から、ぱらぱらと音をたてて滴がこぼれ落ちてきた。
「あぁ、降ってきましたね」
雨が、降ってきた。
まるでローレライの想いに共鳴したかのように。
(あぁ……)
確かな雨粒がぽつりとローレライの目元に落ち、次に落ちた滴がそれを頬へと流れ落とす。
(これは)
―――恋だ。
頬を流れる淑やかな雨が、ローレライの代わりに涙を流してくれる。
(わたしは、恋をしている)
降り出した雨に追いやられるように、ラファエルは慌てて踵を返した。だがその背中はすぐに止まり、彼こそが彫像のような白い顔がこちらを向いた。
(……ありがとう、ラファエル、ありがとう)
伝わるはずがないとは判りきっている。けれど、胸の底からほとばしってきたたくさんの想いがローレライを揺さぶって、言わずにはいられなかった。
瞬間、ほんのりとラファエルの頬が緩んだ。
(え……?)
石像と化したローレライの唇は動かない。喉が震えることもない。だから音として声が伝わるはずがないのだけれど、まさにそのタイミングでラファエルは表情を和らげたのだ。
偶然かもしれない。
きっとラファエルはなにかを考えていて、それで偶然同じタイミングで柔らかな表情を浮かべただけなのだろう。
なのに。
たったそれだけで、胸は熱く震えた。
今度こそ去ってゆくラファエルの背中を見つめ、ローレライは雨に打たれゆく。
優しい雨だった。
昂ぶった気持ちに沁み込んで我に返らせてくれる雨。
痛いほどに判っている。
どれだけ彼を想おうと、誰よりもなによりも強く彼だけを想おうと、自分は教会の壁に埋め込まれた石像でしかないのだと。
届く想いではない。
もう自分は、人間ですらないのだから。
大好きな雨。いつもだったら、やっと湿り気に身を浸らせることができるとほっと安堵ができるのに。
なのに。
自分は、ラファエルとともに雨宿りをすることすらできない。
雨は、こんなに残酷なものだったのか。
それともこの雨は、ユリウスの嘆きとでもいうのだろうか……?