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一 デシャールからの青年



 空は、ときどき優しさを恵んでくれる。

 遠く天の高いところで生まれた(しずく)は、柔らかに空気を潤しながら、たくさんの仲間とともに大地へと静かにその身を落とす。

 幾万幾億の透明な滴たちは、白茶けた教会の堂宇(どうう )を濡らし、その石造りの表面の隅々に沁み込みながら流れゆく。

 さらさらと降る細かな雨に森はうっすらと(けぶ)り、雨の優しさとは裏腹に世界はどこか陰鬱に沈んでも見える。

 雨は、嫌いではなかった。むしろ、待ち望んでいる。

 湿り気を帯びた空気は、日に(さら)されて傷んだ肌をしっとりと包み、優しく癒してくれるから。

 肌といっても、彼女のそれは、生身のものではない。

 石の肌、石の服、石に刻まれた髪の流れ。なにもかもがすべて石。

 教会の外壁にたったひとり埋め込まれた石像。それが、いまのローレライの姿だった。

 いまは石の姿でも、ローレライは正真正銘ひとの子として生を受けた。教会内で礼拝に参列している人々と同じく、かつては生身の肌を持っていた。触れれば心地のよい弾力の返る、血と肉でできた瑞々しい肉体を。

 その肉体を失って、もう六百年以上が経つ。あまりにも途方のない時間の重さに、どれくらいの時が過ぎ去ってしまったのか、彼女自身もう数えることを忘れてしまっていた。

 雨が世界を優しく満たすときも、眩しい日差しが大地を焼くときも、冷たい雪が降りしきるときであっても、ローレライはずっと、目を閉じることも叶わないままこの場所に縫いとめられていた。

 教会の一角。それも、誰も目に留めないような、裏手の木々に面した場所。

 何故このような不自然な場所に女性の像が彫られているのか、これまで何度も学者や専門家がやっては来たが、その真実に近付くことができないまま、皆去っていった。結局、現在も納得のいく答えを提示した者は誰ひとりとしていない。

 当然だった。

 なにかの意味があって、何者かがローレライの形をした像を彫ったのではないのだから。

 だから、専門的な視点でどれだけ調べても、最初から答えなど出るわけがないのだ。

 ローレライの真実を知る者たちは、もう、―――どこにもいない。

 誰も、いない。

 誰からも忘れられ、これまでも、この先も永遠に、たったひとりで時の流れを他人事のようにただ眺めやるだけ。

 流行り(すた)りの波に乗せられるようにやって来た学者たちの姿も、いつしか、遠い過去の風景となっていた。

 教会で下働きをする者たちが時折草引きに顔を見せる以外、長いことローレライの前に敢えて姿を現す者などいない。

 時が移り変わりきな臭い時代となるたび、思い出したかのように教会を舞台にして武器を持った人々が現れては争い合い、いがみ合い、命を奪い合ってゆく。

 教会は聖域でもあるが、一方で、人々の剥き出しとなった狂気がぶつかりやすい場でもあった。

 王位継承戦争、宗教の派閥の争い。土地の利権、嫉妬や相続に関わる醜い争い。それらがきっかけとなって引き起こされる大きな争いが起こるたび、ローレライは逃げることも叶わないまま、放たれた炎にあぶられ、襲いくる煙に(いぶ)され、時には矢を射られもした。

 そのたびに、ローレライは雨を乞う。

 雨は、戦火の煤を洗い落としてくれるから。

 頬を雨が伝うとき、泣けているのだと感じられるから。

 涙を流すことすら、ローレライは許されない。

 雨だけがただ、ローレライに涙を与えてくれたのだ。



 どれだけの時が過ぎ去っていっただろう。

 石と化した身体に閉じ込められたローレライの意識は、次第に、とろとろと周辺から溶けるように混濁していった。

 頭の上に鳥が留まっても払うことができず、顔にその糞が落ちても拭うこともかなわない。真っ暗な夜は木々の葉擦れや獣たちの息遣いだけが時の動きを思い起こさせ、誰も姿を現さない日中は時間が極限まで間延びをし、時間の概念そのものが消えてしまう。

 神に祈ることは、もう最初の何十年かで諦めてしまった。

 助けてとどれだけ叫んでも、動くこともなにかを伝えることも叶わない。ならばいっそ死なせてくれと心の底から強く訴えても、気付けばいつの間にか意識が存在している自分を自覚している。数えきれないほど神に救いを求め、そのたびになんの変化もない自分に落胆をする。懲りずに神に乞うてしまう己の愚かさを何度も突きつけられ、何度も絶望した。

 果てのない時が過ぎるのを()む力も、使い果たしていた。目の前の光景に過去の記憶を重ねて懐かしむこともなくなった。

 なにが自分の記憶なのか目の前で起こった出来事なのかそれすらも判別できないほど、彼女は長い間この場であらゆるものを見つめ続けていた。

 一日が終わり、ひと月が過ぎ、季節がめぐる。成長した木々が高く伸びあがり、枯れ、また新たな芽吹きを得てそれが再び森となる頃、硬い石の目が捉えるのは、ぼんやりとした色彩の群れだけになっていた。

 色の濃淡の塊は、黒い闇に塗り潰され、時に青白い輪郭を闇に浮かび上がらせることをしながら、次第に白く透明に澄んだ鮮やかな色の濃淡を再び現してゆく。その繰り返しは、あまりにも他人事として彼女の前で移り変わるばかりだった。

 その、透明な光があたりを満たしてゆくときだった。

 いつもとは違う色が、視界に入ってきた。

 それは彼女の前にじっと佇んでいる。

 なにをするでもない、ただ、じっと暗い色がそこにはあった。

 何日もそれが続くと、さすがの彼女も目の前に広がる光景に現れた変化に気付く。

 濃い色がある。

 最初に意識を引いたのは、色の濃さだった。

(……?)

 それは、じっとこちらを見上げていた。顔の中心から向けられるまっすぐな強い眼差しが、彼女の意識を次に引いた。

 ひと。

 人間が、自分を見ている。

 これまで、何百年も、ずっと誰も見向きもしなかった。

 それなのに、足元に佇むそのひとは、紛れもなくこちらを見つめている。

 どれだけその視線を受けていただろう。

 その人間は静かに踵を返すと、ゆっくりとした足取りで去って行った。

 鳥でも留まってるのだろうか。

 感覚がないとはいえ、判る範囲で全身に意識を延ばしてみる。

 鳥の気配も虫の気配も感じられなかった。

 いつもと変わらないままで壁に貼りついているだけの自分。

 あの視線は、なにを見ていたのだろう。

 それは、何十年、何百年ぶりかに感じた、自分の中の小さな引っかかりだった。



 あの人間は、いったいなにがあって自分を見上げていたのだろう。

 その疑念混じりの小さな胸の引っかかりは、あたりが暗くなって色が闇に沈んでしまってからも彼女の意識を占めていた。

 色が戻ってきたら、またあの人間は現れるだろうか。

 そんなほんのりした胸の疼きが生まれたことに、彼女は前向きな興味よりもむしろ、うすら寒いものも感じてしまう。

 なにかを期待して、どうなるというのか。

 あれが現れなくなったとしても、自分になにができるというのか。現れたとしても、なにができる?

 きっとあれも、これまで通り過ぎていった過去の風景同様、自分の前から消えていってしまうというのに。

 期待をする虚しさを痛いほど何度も経験しているというのに、それなのに、あたりが少しずつ明るくなるにつれて、彼女の胸は、愚かにも知らずはやってゆく。

 はたして、この日も、その人間は彼女の前に現れてくれた。

 人間は、今日もじっと彼女を見上げていたが、

「あの」

 いつもと違い、声をかけてきたことだった。

「僕……、わたしは、ラファエルと言います、聖女さま」

 柔らかな声が紡いだのは、その人間の名と、彼女への呼びかけだった。

 彼女は驚くとともに強い違和感を覚えた。

(わたし、に、言っているの? なんで、どうして?)

 自分は教会の外壁に埋められている石像でしかない。これまで、こうやって呼びかけてきた存在など、いない―――?

 いや―――。

(わたしは……、わたしは、……、……ローレライ。そう、ローレライ。『聖女さま』なんかじゃないわ)

 唐突に、誰かの声に愛しげに呼ばれる音の感覚がよみがえり、彼女は自分の名前を思い出した。自分の名とともに(あふ)れるようによみがえってきたのは、淡い色の髪と優しい緑色の目を持った青年の愛しげな表情だった。

 遥かな昔、何百年も昔に、彼だけがここに留まって見つめてくれていた、その事実。

 名前の音の連なりを手掛かりにして、ローレライの中ではっきりとした言葉の概念が目を覚ます。

 これまで、無意識に言葉という概念を閉じていた。閉じなければ、途方もない時間をたった独りで過ごす孤独さに堪えられなかった。

「デシャールという国から来たんです、ええと、ここよりもずっと西にある国です。戦争が起きて、こっちにみんなと逃げてきたんです」

 ローレライにはもちろん知る由もないが、デシャールは、この十数年民族同士の激しい内戦が続いている国だった。

(戦争? 大丈夫? つらいよね)

 この何百年の間に、たくさんの人々が争い合い、もがき苦しみながら命を手放す瞬間を目にしてきたというのに、気の利いた言葉をかけてあげられない。

 もし実際にローレライの声が伝わっていたとしたら、ラファエルはその中身のない表面的な言葉に、失望したかもしれない。

 幸いなことに、彼の耳には鳥の声と風の揺らぐ音しか届いてはいない。

「今日は、天気がいいみたいで、良かったですよね。昨日はちょっと雨が降ったし」

(雨……?)

 言われて、ああそういえば心地の良い湿り気を感じたことを思い出す。

(雨は、好きじゃない? やっぱり、足元がぬかるむから?)

 水たまりによって地面がぬかるむのを、教会の下働きの男だったり戦乱時に行き来した者たちが、顔をしかめて嫌がっていたのを思い出す。

 わたしは、雨は好きなのよ。

 話かけられるだけの声を、けれどローレライは持っていない。持ってはいないが、言わずにはいられなかった。

 ラファエルは窺うようにローレライをじっと見つめていたが、

「わたしは……、わたしたちはこの国に来たばかりで、右も左もなにも判りません。聖女さま、どうか、よそ者でしかないわたしたちに御慈悲を」

(違う。わたしは全然聖女さまとかじゃないの。だけど……今日一日、みんながなにごともなく無事過ごせますように願ってる)

 ラファエルは、ふと口元を和らげた。

「僕……わたし、行きますね」

(え)

 ローレライの胸の奥が、一瞬の邂逅が終わってしまう予感に、引き()れるような痛みを返す。

「また明日、来れたら、来ます。じゃあ」

 だが、すぐに続いた言葉に、胸を一瞬痛ませた思いが、あっけないほどするりと(ほど)けてゆく。

 そんなローレライの気持ちなど判るはずもなく、ラファエルは背を向け、足早に去って行った。

(ラファエル……)

 ローレライの名を優しく呼んだあのひととは似ても似つかない青年。

 黒い髪に黒い瞳。肌は逆にとても白くて、もしかすると日に焼けない体質なのかもしれない。纏っている服は、お世辞にも綺麗とは言えない。戦禍の故郷から逃げてきたのだから、ここで暮らす者以上に洗いたての服に毎日袖を通すことは叶わないだろう。

 それでも、ローレライにとってはこの数百年で初めて見た、眩しい男性だった。『男性』とするには、いまだ少年の名残りが強くはあるが、ローレライの気持ちを強く揺さぶるなにかを、確かに持った人物だった。




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