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花嵐

作者: 天都しずる

 濃い鉄錆の匂いが鼻につく、不快な夜だった。

 格子窓から入り込む夜風はしっとりと甘い。油っけのない、乾燥した肌を包むように撫でていく風は春の兆しだ。牢獄に繋ぎ止められてより三度目の春。まったく目出度くのない話である。

 美夜子は冬の間中散々凍傷に悩まされ続けた足を僅かに動かす。自分の意思で体を動かすのは久しぶりで随分と難儀したが、踝より上に感じる冷ややかな鉄が動く音を聞いて安堵した。まだ筋力はあったらしい。

 小さな鉄の輪は太く、重々しい沈黙と存在感を持って左足首に纏わりついている。部屋の柱に埋まっている鎖は蛇のようにのたうち鉄の輪へと繋がっていた。

 座敷からは瑞々しいい草の匂いが奪われて久しい。深く深呼吸しても取り込めるのは糞尿が混じったすえた匂いであり、世辞にもいい場所だとは言えないだろう。美夜子とてこんな場所に好き好んでいるわけではない。

 文明開化の足音に男も女も浮かれ気分で、やれ蒸気機関車だのガス灯だのとしたり顔になり西洋かぶれになりつつある明治六年。こんなご時世に美夜子は前時代的な座敷牢に閉じ込められたまま春を迎えようとしていた。

 緋色の振袖を目に留める。最後に美しく着飾った時のまま一度も着替えを許されなかった体は三年のうちに伸び、丈が随分と足りなくなってしまった。母親に選んでもらった時にはあった金糸銀糸も今はほつれて部屋のあちこちで埃をかぶっている。

 日に一度美夜子に食事を運ぶ飯炊き女は日増しに洋装へと染まりつつあるというのに、ゆくゆくは婿を迎え家の主となるはずだった美夜子はこの様だ。怨嗟の一つも出したいものだが久しく会話などしていないせいで声を出す自信はない。

 十六の娘が粥一杯で日一日を過ごすのは酷だ。

 椿のように美しくなるだろうと褒めそやされ将来を期待された美夜子も栄養不足には勝てず、四肢は骨が浮くほどまでに細くなっていた。今の身を煮られたとて出汁すら出ないに違いない。

 だがそれももう終わりだ。

 昏く笑う。これが自分に迎えられる最後の春だと美夜子には分かっていた。

 立ち上がれるほどには下肢に力が入らず、這いずって格子窓へと近付く。部屋中の何もかもが色褪せ朽ちてもこれだけは残り続けるだろうと苦く確信させる頑丈な格子の奥に、大きく丸い月が見える。

 紅い月。一目で美夜子の心を奪った月は天辺から輪郭をなぞって血を滴らせているように大地に向かってあえかな光を落とす。唾を飲み込む。唐突に湧いた水への欲求に喉をかきむしりそうになった。その手の平に濃い闇が落ちた。

「これは面白いものを見た」

 聴覚を心地良く刺激する低音に顔を上げる。

 格子窓の向こうでにたりと笑う、闇。月を背負うように立つ――否、浮かんでいる闇は逆光でも影でもなく真実闇そのものの色をしていた。

 夜空を流れる銀色の髪と青白い顔だけがぼうっと浮かび上がっている。

「こんな貧相な女が世の中に存在するとは。まったく、旅はしてみるものだな」

 誰、と言おうと口を開き咳き込む。こんなことになるなら独り言でも何でも言っておくのだったという後悔を胸に、しゃがれた声で「だれ」と問うた。問うた後で言い直す。

「あなたが、おに?」

 恐らくは男なのであろう長身を見上げる。

 闇が柳眉を一寸上げた。「あぁ、そうか」

「この国では我等はオニと呼ばれているんだったな。そうだ、オニだ。ヴァンパイア、ノスフェラトゥ――呼び名は多くあるがそんな説明がいるわけではなかろう」

 己が鬼であることを肯定する男に美夜子はいっそ清々しいまでの気持ちで笑んだ。

「わたしを食べに来たのね」

 頬がひりひりと痛むのを感じ、もう三年もこんな風に笑っていないのだと気付く。しかし心を満たす充足感はすぐに打ち消された。

「食べる? ……ふむ」

 沈黙が落ちる。月のように紅い瞳が細まり美夜子をじっと見下ろす。妖しく光る眼差しがぞくりと寒気となって背筋を駆け抜けたが、痛みを伴うわけでもないのでこちらも同じように見返す。すると、男は何かに気付いたように一瞬間を置いた。

 哄笑が夜に響く。

「これは傑作だ!」

 何が傑作なのか分からないが男はより一層高らかな声で笑い、静謐な夜の空気を震わせる。これだけ騒がしければ家人が飛んで来てもおかしくはなかったが、今宵は決して誰も近づかないだろうと美夜子は予感していた。

 座敷牢を訪れる者は鬼だけと家中の人間が信じ、それが為に美夜子はこんな暗い場所で三年も延々鬼に喰われる身の終焉を待ち続けていたのだから。

 男がゆらりと動き両腕を広げる。ばさりと空気を震わせたそれは次第に小さくなり、蝙蝠となって格子をすり抜け、再び人の形を取る。

 這いつくばったままの美代子を見下ろす口元が弧を描く。

「魔眼の効かぬ人間など四百年生きて初めてだ。女、お前何者だ」

 高慢な問いかけに首を振る。

「あなたに食べられるために、ずっとここに閉じ込められているだけ」

「私の目に何の反応もしなかったような奴など、いくら食いたくとも世界中のオニが避ける。とんでもない馬鹿がいたものだ。よりによってお前のような奴をニエになど」

 銀の髪を見る限り海の向こうから来たのだろうに、随分と流暢に話すものだ。

 腕が引っ張られる。水のように冷たい手にぎょっと目を剥く美夜子を余所に男が一寸考えこむように眉根を寄せる。

「女、魚は食べるか?」

 訳の分からない問いである。首を振ると男は少し残念そうに嘆息した。

「魚はいい。あの生臭さは他では味わえん。それを生で食す人間はもっといい。私達のようなヴァンパイアは血を飲まねば飢える。だがその飢えを美味なるワインで満たすには、トゥールはあまりに潔癖すぎた。魚を生で食べる人間がいないからな。その分この国はいい。右を見ても左を見てもどこかにあの生臭い血の匂いがしている。わざわざ観光に来た甲斐があったというものだ」

 饒舌に語る男を呆気に取られて見る。話の一割も理解できなかったが、どうやら男が生魚を食べる人間を探してはるばる海の向こうからやってきたのだということは分かった。そして魚を食べていない美夜子に残念そうな顔をした理由も。

 これでは食べてもらえないかもしれない。終われないかもしれない。

 それは困ると心から思った。終われなければずっとずっと同じ日々が続いてしまう。暗い場所で永遠に春を待ち続けなければならなくなる。美夜子は鬼に喰われる為に繋ぎ止められているのに。

 やめて、やめてそれだけは。

 時を感じられない牢獄に精神がもう限界を迎えている。これ以上は、これ以上は壊れてしまう。

 今も屋敷のどこかで幸せに眠る両親や妹達。ガス灯に照らされるレンガ道で談笑する男女、牛鍋に舌鼓を打つ男達。幸せに満ちたもの達を想像して狂いそうになる夜はもう嫌だった。一人ぼっち、どこにいるとも存在が確かだという保証のない鬼を待ち続けるのは御免だ。

 恐怖に顔を強張らせる。「じゃあ」喉を震わせて懇願する。

「食べなくてもいい。でも、どこかに行く前にわたしを殺して。その後で食べてもいいし、食べなくてもいい。どっちにしてもいいから」

 だからちゃんと殺して。息が絶えて血が全部流れてしまうまで徹底的に。

 男の手を握り強い口調で言い放つ。一体どこに力が眠っていたのかと驚くほどにきつく握りしめた手には痣がつきそうだったが構いはしなかった。いっそ腹を立てて殺してくれればいい。

 紅い目が丸くなる。

「姿を見た時から驚かされてばかりだが」

 まじまじと美夜子を凝視した男がぽつりと呟き、にいっと笑う。

 まろやかな白の鋭い牙がちらちら覗く。

「私を前に死を願うか。贅沢な女よ」

 胸の奥で揺れる篝火のような男の苛立ちを感知しながらも美夜子は頷いてみせる。

「あなたじゃなきゃわたしを殺せない」

 この機会しかないのだ。男にとっていくら贅沢な願いだろうと譲れない。

 腕を掴む男の手に力が入る。

「私に抱かれて永遠の愛を欲しがる女は星の数ほどいるだろう。恍惚に満ちた顔で私を呼び、命の終わりに歓喜する女も多くいた。魔眼に魅入られた結果だ。だがお前は違う」

 くつくつと喉の奥で低い笑い声がする。

「魔眼を寄せ付けず、私に魅入られたわけでもない。悦楽に堕ちたわけでもない。願うのは己の死のみ。ハラキリの話を聞いても思ったが、つくづくこの国の人間は面白い。闇の眷属にも勝る絶望に狂ったか。望まれれば望まれる程叶えてやる気は失せてしまうものを」

 骨が浮き出た腕を撫で、男が「だが」と続けた。

「私を前に喰われてもいいと自ら身を差し出す女を無下にもできんな。魚を食していないとはいえ、これだけ細い女だ。栄養がなさすぎて意外と美味いかもしれん」

「……舌、大丈夫?」

「友にも同じことを言われた。お前達は気が合うのかもしれんな」

 生臭さといい栄養のなさといい、あえて不味そうなものを求めている男の口ぶりに問うてみると悪食は他と競争する必要がなくて楽だと笑われた。「時に女」

「私は贅沢な人間を殺してやる気など毛頭ない。代わりに永遠を与えてやろう。人間でもヴァンパイアでもない、いつでも死ねるが何もしなければ歳も取らないイキモノに」

「――いや」

 びくりと指先を震わせる。死よりも永遠に怯えを孕んだ声を上げる美夜子を見てますます男は楽しげにしながら、指先を美夜子の人差し指へと這わせた。

「案ずるな。お前のその絶望に免じ、私が慈悲を持って提案してやろう」

「なに?」

「ここから出る気はあるか」

 え、と口の端から声が溢れた。

「当家はメイドを募集している。今ならフランスまで攫ってお前を私のメイドにしてやってもいい。衣食住に給金ぐらいは約束しよう」

「めいど?」

「この屋敷にもいるだろう。料理や掃除をする女だ」

 あぁ、と納得し次いで「なんで?」と訊く。殺すだの殺さないだのという話だったはずなのに、何故雇われる話になっているのか。

「この国の女は十分堪能した。そろそろ本国に帰らねばヴィンフリートが寂しがるからな」

「びん、ふりーと」

「私の舌を心配した友の名だ」

 そう言うと男はついてくるか否かを辛抱強く待つ。鬼というのは短気ですぐに人間を殺すものだと幼い頃から聞かされていた美夜子はそれに微かな驚きを覚えながらも、格子窓の外を見た。

 丸々と肥えた紅い月が照り光っている。あの月を格子なしで見られたなら。

 判断するのにさほどの時間は掛からなかった。

「いきたい。あなたが、つれていってくれるのなら」

 生きるか、死ぬかという大事よりもここに留まるか外に出るかで決めた美夜子は浅はかと罵られても否定できぬ速度で自分の一生を男に託した。永遠の意味は知らなかったが、このよく笑い驚き衣食住を保証してくれる男についていってもいいのではと思えた。死ねないのなら外に出るしか道はないのだ。

「いい返事だ」

 真っ赤な舌で唇を舐め男が美夜子の背中を撫でた。体を支えるような仕草の後、つむじに、こめかみに唇が触れる。次第に熱を帯びる頬に丁寧に唇を滑らすと、男は美夜子の指を口に含んだ。

 手は水のように冷たいのに口内だけ焼けるように熱い。

 息を呑む。その瞬間にぷつりと指の腹が切れるような鋭い痛みが走った。い草の先端に切られたような細い傷から流れる血を、男が口の中で指を転がすように舐めながら奪っていく。

「味見だ。不味すぎて吐きたくはない」

 不遜に笑う目が潤んでいる。恍惚の眼差しを受けるのは男の方であろうに。

 衣擦れの音が耳朶を打つ。今度こそ美夜子を食らう気なのか再び落ちた唇に肩を強張らせる。頬に落ちた接吻が唇へと移る。水を浴びせられているような冷たい唇が何度も美夜子のそれを啄み、熱を持った舌で舐めていく。

 荒い息を一つ吐き出す。耐え切れず男の肩を掴んだ。

 そういえばと聞こえたのはその時だった。

「主になるというのにまだ名乗っていなかった。私はアンヴェールだ。終生覚えておけ」

「……美夜子」

 相手の名に釣られて美夜子も名乗る。ミヤコとやや変わった音で名を呼んだアンヴェールが忍び笑いを漏らす。

「ここから出た後、何かしたいことはあるか。あるいは欲しい物でもいい」

「? したいこと」

「これから長らく働かせるのだ。契約報酬をいくらか渡しておかねば主の名折れだ。どうだ、何かないのか」

 首筋にさらさらと溢れる銀糸に触れ、美夜子は寸の間考える。

 外に出る以外何も欲しい物などなかったが。

「桜」

 もし願いが叶うなら見たいものがあった。

「桜が見たい。満開の桜が沢山咲いてて、みんながお花見をしていて、わたしもそこにいるの。おひさまがあたる場所で桜を見るの」

「サクラ? あぁ、春に咲くあれか」

 馴染みのない花なのかアンヴェールが怪訝そうな顔をした後にやはりと呟いた。

「贅沢な女だ」

 今度は苛立ちのない声音で放ち、鎖骨に接吻する。きつく吸われ小さな悲鳴を上げる間にも点々と痣が作られ、肩の曲線を滑った唇がやがて目的の場所を見つけたとそこに跡をつけた。

 口がやや大きく開かれる。にゅっと現れた牙の先端が肌に触れ、ぷつりと突き刺さり、すぐに抜かれる。後からは血の珠が浮かび上がる。

 指を舐めた時より大きな傷ではあるが、人が血を失って死ぬには不十分な傷。だが血を流すには十分過ぎる穴から赤い球が汗のようにぷっくりと浮かぶのをアンヴェールが見逃さず舌で舐めとる。たっぷりと唾液を含ませた舌が肩を舐める度に、ぴちゃりと大きな音が耳に響いた。

 青白い顔が紅潮していく。吐き出された息が次第に荒くなる中でアンヴェールの長い指が着物の襟に引っ掛けられ大きくずらされた。表情こそ余裕を浮かべていたが、性急な男の仕草からは余裕などまるで見えなかった。

 血が美味かったのだ。そう気付いた美夜子はやはりこの鬼は悪食だと内心でひっそり笑い声を漏らした。

 くらり、目眩がする。血が足りない。体が訴える言葉に耳を傾け、内側でぽっと宿った熱の正体が分からず怯えていると唇が離れる。と、途端に強い眠気が襲ってくる。

「吸い過ぎたか。だがこれでお前は永遠だ」

 目尻を赤く染めたアンヴェールが傷跡を指の腹で撫でる。

 ぐったりとした身を支えきれず、アンヴェールの手を頼って体を預ける。

「眠れ」

 耳に心地よい音が言葉を紡ぐ。

「起きたら満開のサクラとやらを見せてやろう。それで契約は成立だ」

 鉄の輪が爆ぜる。あぁ、こんなに足が軽かったんだと思いながら美夜子は目を閉じた。

 夢が忍び寄る。真っ赤な月を引き連れて。

「   」

 アンヴェールの声が囁く。だがもう聴力も思考も働く気がない。美夜子の意識は深淵に引きずり込まれていった。銀の鬼が最後に落とした接吻が夢だったのか現実だったのか分からぬまま。

 春が始まる。夜が終わる。深いふかい眠りに就いて。


◇ ◇ ◇


 翌日、家人が牢へと粥を運んだ時美夜子の姿はそこにはなかった。

 残されていたのは壊された鎖。壁一面を破壊し尽くされた座敷牢からは死体はおろか生き物の気配はなく、美夜子は鬼に喰われたのだと町中の噂になったが、確証を持つ者は誰一人いなかった。

 鬼に喰われた娘の話で騒然とするレンガ道を二つの人影が歩いて行く。

 ガス灯の光に晒されているものの暗い夜道は歩きにくい。だというのに迷うでも躓くでもない二人の男女は颯爽と道行く人々とすれ違っていく。

 銀髪の男に連れられるその女が消えた娘と同じ名で呼ばれていた、まさか男にかどわかされたのではという者もあったが、結局真実は闇の中。桜の花びらに埋もれて今も掘り起こされていない。

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