薄明のエンプティ
この作品は、「夜明けのフラジール」の続編にあたる作品です。前作を読まなくても問題はありませんが、前作の核心にあたる描写などがございますのでご注意ください。
何もない草原の中、舗装された一本道を疾走する馬車の姿があった。大型の乗合馬車である。町から町へと移動するごく一般的なものであるのだが、乗客は少なかった。馬車内には老婆が一人。屋上席には青年と、少女が一人座している。
少女の視線の先で、草がそよそよと揺れている。頬に当たる風の冷たさも随分和らぎ、冬から春に近付いているのだと、彼女は実感する。
「……この先、かぁ」
十代半ばの少女であった。
胸元まで伸びる金糸の髪は光を浴びてきらめいて、空より深い青の瞳は澄んでいる。小綺麗な服装に身を包んだ彼女は、小さく溜め息を吐く。吐息は、まだ微かに白い。
「この先に、君の知己がいるのだったか」
少女の言葉を受けて、彼女の隣に座る青年が応えを返した。顔の上半分を覆う仮面を着けた、長身の青年である。その傍らには、彼の長身を優に越える長い棒のような包みが置かれていた。見るからに異様な容貌ではあるのだが、発せられる声は思う以上に穏やかである。
「私、というか……母さんの知り合い、なんだけどね」
「成程」
短い会話の間に、御者が馬に鞭を振るう。少女が視線を上げれば、城壁に囲まれた町の姿が見えた。馬車は城門の前まで進んでいき、ゆっくりと止まった。
老婆が馬車から出て行く姿を眺めながら、少女は記憶にある町の名前を思い出しつつ口を開く。
「ん、と。この次が目的の町だよ。名前は確か……」
「あんた達、ムネモシュネに行くのかい?」
会話の最中に割り込んできた枯れた声に、少女と青年は下を覗き込んだ。先程馬車を下りたばかりの老婆が、杖をつき、此方を見上げていた。エスターテは眼下から発せられた問いに、首を縦に振って肯定を返す。
「ええ、知人に会いに行くんです」
「やめておきなよ。あそこは今、おかしな事になってるんだ」
老婆の言葉は、確かに此方を案じるから来る忠告で、少女は眉をひそめた。隣の青年は変わらず穏やかな声で、老婆に問いかける。
「……というと?」
「あの町には、魔女が住んでるんだよ」
少女の心臓の音が、殊更強く刻まれた気がした。咄嗟に立ち上がろうとした彼女の手を、優しく包むぬくもりがあった。青年が続けて問う。
「何故、魔女がいると?」
「数日前から、あの町に行った人間は、一人残らず帰ってこないからだよ」
「帰って、来ない……?」
少女が老婆の言葉を反芻すると、皺だらけの顔を険しくした老婆は大きく頷いた。
「ああ、そうさ。誰一人、帰ってこないんだよ。旅人だけじゃない。この町に住む人さえも」
「……」
「だから、悪いことは言わない。あの町に行くのはやめときな」
少女は俯き、暫し考え込んでいたものの、やがて結論が出たのか、顔をあげて口を開く。
「ありがとうございます、おばあさん。でもそれなら、尚更行かないと」
老婆は更に何かを口にしようとしたが、空を切り裂く鞭の音がか細い声をかき消してしまう。大方御者が焦れたのだろう。
馬の嘶きと共に、遠ざかっていく城壁と老婆の姿を眺めながら、青年が少女に話しかけた。
「いいのか、エスターテ」
「うん。特に問題はないかな」
青年にそんな言葉を返した後、彼女は誰にも聞こえないように、小さな声で呟く。
「私だって、魔女だもの」
その声は彼女の意図した通り、誰の耳に届くこともなく、風の中に溶けて消えた。
***
ムネモシュネは、忘却の町と呼ばれている。
別段魔女とは関係のない、良く言えば穏やかな、悪く言えば何もない町だ。それでも、その平穏な日々が、忘れたいほど辛い記憶を和らげてくれる。故に、忘却の町。
エスターテは、そう聞いていたのだが。
「あなた、誰よ!?」
「君こそ誰なんだ!? 俺は君なんか知らないぞっ!?」
左を見れば、金切り声で言い争う二人の男女。
「ここ、どこ……!? あの人は……あの人はどこにいるのぉ……っ!?」
右を見れば、地に伏し啜り泣く若い娘。
覚束無い足取りで、子を探す親の姿もある。頭を抱えて膝をついたまま、動かない男の姿もある。阿鼻叫喚の地獄絵図といっても差し支えない、喧騒に包まれた町がそこにはあった。
「……なんだか、すごい事になってるね」
エスターテは周囲を見回した後、静かな声でそんな感想を口にする。喧騒と無縁と謳われる町に喧騒が訪れている、というのは中々見られない光景だろう。
彼女は懐から小さな宝石を取り出すと、手を口元に持っていき、小さく息を吹きかけた。一連の動作を流れるように終わらせて、彼女は何事もなかったかのように、町の奥に向けて歩き出す。
「エスターテ?」
「ジュラ、置いてっちゃうよ」
エスターテが振り返って手招きをすると、二、三歩遅れてジュラも歩を進め始めた。追い付いた彼の顔を、エスターテは横目で見やる。仮面をつけている故にわかりにくいものの、なんとなく釈然としていないのが読み取れた。
「……エスターテ、これは……」
「間違いなく、魔女の仕業だと思う」
エスターテは周囲を見回して、小首を傾げてジュラを見つめる。察しがいい彼はその動作だけで納得してくれたのか、一度頷いて何も聞かなくなった。何せ、魔女とばれたら一大事である。下手なことは言えない。
鮮やかな赤い煉瓦造りの町並みは風情を感じさせるものの、この騒動の中では霞んでいる。泣く娘の傍らを通り過ぎ、殴り合う二人組の横を抜け、あてどなくさ迷う男を追い越していく。初めて来る町ではあるが、エスターテの歩みに迷いはない。彼女の足下で、掌程の大きさの鼠が先陣を切って進んでいたからだ。動きは生物の所作でありながら、その体は硬質で、煌めく色はエメラルドのそれだ。
「この先に、……?」
人気の無くなってきた路地を進みながら角を曲がり、エスターテは首を傾げた。道の先に、大きな館がある。だが、館の鉄扉は錆び付き、窓は割れ、壁には罅が走っている。庭は雑草が生え、荒れ放題の有り様。かなり長い間、人が住んでいないのは明白だった。
エスターテは館の赤錆た門扉をかじり出した宝石の鼠を拾い上げながら、溜め息を吐く。
「……場所、間違えたかな」
「いいやぁ」
二人の背後で、女の声がした。若いともとれる、老いているともとれる、不可思議な声が。
「間違っちゃいないさ、我が同胞。此処には確かに、我が師……お婆様が住んでいたからね。今は旅に出ていないけど」
そこまで告げると声の主は、だから、とそれまでの声色を消して、困ったように話しかける。
「君の護衛、どうにかしてくれない?」
エスターテが振り返ると、外套を被った若い娘がひらひらと片手を振って笑いかけた。その首元には、頭くらい簡単に切り落としてしまいそうな大きさの刃が、ひたと据えられている。ジュラが手に持つ長物を包む布はいつのまにか剥がれ、剣とも槍ともつかぬ武器が陽光を浴びて、鈍く刃を光らせた。
「気配を消して背後から近寄るのは、感心しないな」
やわらかな声で、ジュラが告げた。凶悪な武器をその手に握っているとは思えない、剣呑さが微塵も見当たらない彼の言葉に、娘が露骨に顔をひきつらせる。
「……ジュラ。武器を下ろして」
エスターテが彼の横に歩み寄り、武器を持つ手に自らの手を添えた。
「確かに、このひとは私と同じ。……でも、こんな場所でそんな事を言うのは、些か無用心だと思うけど」
「あはは、大丈夫よぉ。町中こんな調子なのに、一体誰が、私達の会話に耳を傾ける余裕があるっていうの?」
笑いながら言うものの、彼女の声に嘲る色はなく、ただ純粋に事実だけを含んでいた。確かにこの混乱と喧騒に包まれた町の片隅の会話など、誰も気に留めないだろう。
「……この町で起きたこと、知っているの?」
「まぁ、他の人よりは知っていると思うよぉ。私もちょーっと曖昧なんだけどね」
聞きたい?
その問いにエスターテが首を縦に振ると、唇を三日月に歪めて娘が笑う。
「事の起こりは……多分、半年前から、かなぁ。なんだか急に、物忘れが多くなる人が増えたんだよね」
「物忘れ……?」
「うん。買い物に行ったのにお金を忘れちゃったとか、料理を作ってて、お塩を入れ忘れちゃったとか、その程度の些細な物忘れ。君らもあるでしょ?」
肩を竦める娘の言葉に頷くと、彼女は嬉しそうに笑った。
「まぁ、段々と物忘れがひどくなってく人を見てさ、流石に私もちょーっとおかしいかなぁって思って調査してた、みたいなんだよね」
「……みたい、というのは?」
ジュラが尋ねる。娘は笑顔で振り返るものの、その足は半歩下がっていた。心なしか顔色も悪い。彼の行動が響いているのは明白だった。彼女はばつが悪そうに頬をかくと、ジュラの問いに答える。
「どうにも、私もそこら辺の記憶が曖昧でね……まぁ、詳細は後で話すよ」
「……でも、話を聞いている限り、町の人は忘れっぽくなっていたみたいだけど、あんな風にはなっていなかったんでしょう?」
「うん。こんな風になったのは、昨日からだからねぇ」
さらりと、娘は答えを告げた。あまりにあっさりと返ってきた言葉に二の句が告げないエスターテを置いて、娘が話を続ける。
「昨日、大きな魔獣が出たんだよ。全く見たことの無い奴だったから、災厄の魔女ではない……あれは、別の誰かの魔獣だねぇ。あいつが現れた次の日には、この有り様ってわけ」
「……突然だったんだね」
「それでは、騒ぎになっても仕方がないな」
「……まぁ。騒いでる奴等は、記憶があるだけマシだろうさ」
娘が低い声で囁いた。先程までの暢気ともいえた声の調子が唐突に消え失せ、冷え冷えとした響きが露になる。
エスターテの脳裏によぎる、地に伏したまま動かない人間の姿。
それだけで、わかる。わかって、しまった。
エスターテは、震える唇で問いかける。
「……どれくらいの、人が?」
「この町に住むのは400人全員。町中で騒いでる奴等はここ数日、ムネモシュネにやってきた人達。30人強。……これだけ言えば、わかるよね?」
ジュラが息を呑んだ。
大切なものの記憶がない。それでも、他の記憶はある。悲しいだろう。混乱する、事だろう。けれど、それでも、生きていけない事はない。だって、ひとは忘れる生き物だ。辛い記憶も、幸せな過去も、平等に忘れられる。記憶の一つや二つが消えたところで、人間が生きられないなんてことはないのだ。
だが、もしも。
人間が、生まれた時から現在に至るまでの記憶を奪われたのだとしたら。その時、人間はどうなってしまうのか。
エスターテが同胞を見上げて、唇を動かそうとした。その瞬間、衣を裂いたような甲高い悲鳴が響き渡る。
「何だ?」
この混乱の渦中で、聞こえたのは女の声だった。
それだけで、察するに余りある。エスターテは咄嗟に駆け出した。次いでジュラも彼女を追って地面を蹴る。エスターテは外套の懐を探り、小さな布袋を握り締めて角を曲がり。
「離してぇッ!! いやっ、助け……ッ」
「うるせぇ!! おい、お前ら! こいつは魔女だ!! こいつが俺達に何かしやがったんだ!!」
一人の男が血走った目をして、地に伏せて咽び泣いていた娘の髪を掴み、大声で喚く光景を、見た。
「エスターテ、彼女は」
「……違う。彼女は、魔女じゃない」
エスターテは低い声で囁き、布袋を握り締める。
あの娘は、魔女ではない。だが、そんな事はあの男にとって、関係が無いのだ。
嫌な空気が、広がっていく。覚えがある。病的で狂気的な熱が浸透し、人々の心を燃え上がらせるまでの、微かな沈黙。
「おい、この女も魔女だ! いつの間にか俺の家に入り込んでたんだ! なんか変な魔法を使ったに違いない!」
女と言い争いをしていた男が、彼女の手首を掴んで叫ぶ。それを見て、男達が次々と女達を指差しだした。まるで、この狂騒に乗り遅れるわけにはいかないと、言わんばかりに。
「殺せ、殺せ!」
「殺せ! 魔女を殺せ!!」
「魔女狩りだ!!」
エスターテは息を吐く。どこか諦めにも似た、およそ少女らしくない冴えた声で、背後のジュラに言う。
「息を止めて」
次いで、握り締めていた袋の口を開き、追い付いてきた娘に問いかけた。
「貴女、風の魔法は使える?」
「使えるよ」
「なら、吹き飛ばして」
エスターテは袋を持った手を、勢いよく横薙ぎに払う。布袋の中に入っていたと思しき粉が、宙を舞った。やれやれと肩を竦めた娘だが、ふぅっと小さく息を吐く。
瞬間、吐息は一陣の風となって吹き荒び、エスターテやジュラの髪や服の裾を靡かせながら、宙を舞う粉を巻き込み町中へと広がっていった。風が通り抜けた途端、奇妙な狂騒に荒ぶる人々が、声もなく崩れ落ちていく。風が通り抜けると順番にその場に倒れていくその光景は糸の切れた人形に似ていて、どこか滑稽だった。
「うわ。結構強烈なもの使ってるね、君」
「これが一番手っ取り早いから」
エスターテがばら蒔いたのは、微睡み草と呼ばれる植物の根を乾燥させ擂り潰したものである。所謂睡眠薬。不眠の時に用いられるのだが、用量を間違えたならば、永遠の眠りにつくことになってしまう程の劇薬でもあった。
「これからどうする」
ジュラが問いかけた。相も変わらず穏やかな声で。その声が、内心逸るエスターテの心を冷静にしてくれる。彼女は振り返ると、自らを見据える同胞に、真正面から向き合った。
「教えてほしい。この町を襲った、魔女の事を」
「……言うと思った」
娘は苦笑を溢し、徐に鞄を探り出す。そうして差し出してきたものを受け取って見ると、それは古い革の手帳だった。
「それに、記憶を奪られる前の私が調べてた魔女の情報、書いてあるから」
「……ありがとう」
娘がエスターテの頭を撫でる。僅かばかりの逡巡の末、彼女は口を開いた。
「私はここに残るよぉ。全員眠っている以上、魔物にでもやられたら可哀想だからね」
「……いいの?」
「仕方ない。放っておくのも、寝覚めが悪いからねぇ」
エスターテに向ける娘は、苦笑のような、諦念のような、そんな、哀しい表情をしていた。
「でも、気を付けなよ。魔獣にせよ、記憶を奪うにせよ、魔術系統としては相当に稀少例だ。確実に魔女が二人いると考えた方がいい」
「そう、だね」
エスターテは頷くと、懐から一握りの宝石を取り出した。ルビィ、サファイア、アメジスト。陽光に煌めく宝石に、エスターテがそっと息を吹き込めば、彼女の掌の上で三つの宝石がとろりと溶けて、混ざり合って、一つの形を作り出す。硝子細工が生まれる様子に、似ていた。
硬質な音と共に煉瓦道に降り立ったのは、アメジストの仔猫である。陽に当たる度、赤や青に煌めいて、美しい。
仔猫が音もなく歩き出す。そのしなやかな歩みは、まさしく猫のそれだった。
「ありがとう。貴女も、気を付けて」
娘に別れの言葉を告げて、エスターテが猫のあとを追う。それに続こうとしたジュラだったが、娘が何か言いたげに此方を見上げていることに気付き、僅かに首を傾けた。
「……俺に、何か?」
「人間がどうして、同胞と共にいるのか、知らないけど」
魔女の娘の視線が、眠る人々の合間を縫って進む少女へと向けられる。その体は恐ろしく華奢で、些細な衝撃で砕けてしまいそうだった。
「あの子を、守ってあげてね。彼女は、『欠落の魔女』だから」
「ああ」
ジュラが即座に頷いたのを見て、娘は微笑を浮かべる。眩しいものを見たような、そんな微笑みだった。
彼は娘に一礼して踵を返すと、エスターテの元へと歩を進めていった。
***
町を出て、もう半日程になる。
宝石の仔猫は、町から離れた山の奥へと歩いていく。如何に春が近付いたとはいえ、流石に山の中はまだ雪深い。防寒具を着込んではいても寒さは厳しいもので、手袋に包まれている指先は段々と悴んできているし、露わになっている肌を突き刺す空気はひどく冷たい。雪は一歩踏み出すごとに膝まで沈み込み、小柄なエスターテはその度に脱出に手間取った。何度もジュラに引き上げられ、最終的に彼がエスターテを軽々と自分自身の肩に担ぎ上げてしまった。情けなさに彼女は歯噛みするが、ジュラは微かな苦笑を零すだけだ。それがまた、なんとなく悔しい。
「目的の方には会えなかったが、いいのか?」
「……うん。母さんの事、伝えようと思っただけだから。いないなら、それでいいんだ」
現状、エスターテにもジュラにも、やりたいことも行きたい場所もない。目的がなかったから、目的にした。それだけの話だ。
エスターテの言葉に「そうか」と返したジュラだったが、不意に、改まった様子で声をかけてくる。
「エスターテ、聞きたいことがあるんだが」
「……ん、と。魔女の事?」
「ああ」
肯定の声は、僅かに躊躇いの色を帯びていた。
「災厄の魔女、欠落の魔女、という言葉を、彼女から聞いた。……意味を、聞いても?」
「うん。……あ、ジュラ、あの子が休憩場所を見つけてくれたみたい。そこで休もう?」
エスターテの言うあの子というのはアメジストの仔猫の事だ。猫の見目の割に創造主の望みに忠実な彼は、あまり雪が積もっていない場所を見付けてにゃあと誇らしげに鳴き声を上げる。
ジュラから降りたエスターテがいそいそと布を敷いて座れば、猫がその膝の上に寝転がった。彼女の隣に座ったジュラが、武器を包む袋とは別の、白い包みを差し出せば、少女の顔が俄に輝く。
「少し遅いが、昼食にしよう」
ジュラが差し出した包みを開けば、中には小さな籠に詰められたサンドウィッチがあった。卵とハム。エスターテの好きな具材だった。
ぱっと少女の表情が華やいだが、すぐ隣で楽しそうに笑うジュラの姿を見て、表情が凍り付いた。
「どうぞ」
差し出してきたサンドウィッチを無言で受け取り、ちびちびとかじり出す。数秒の沈黙の末、エスターテが絞り出すような声で囁いた。
「おい、しい。……ありがと」
「どういたしまして」
エスターテは咳払いをして、ジュラを見上げる。僅かに赤みを帯びた頬のまま、問いかけた。
「災厄の魔女と欠落の魔女の事について、知りたいんだっけ」
「ああ。君が、嫌でなければ」
「大丈夫。……『災厄の魔女』というのは……この世に人間のみならず、魔女にさえ災厄をもたらした三人の魔女がいて、その三人を、『災厄の魔女』と呼んでいるの」
エスターテが小さく息を吸うと、朗々と語り出す。歌うような、声で。
「『災厄なりし、一の魔女―――其は災厄を運ぶ者
災厄なりし、二の魔女―――其は災厄を産み落とす者
災厄なりし、三の魔女―――残る一人は、災厄そのもの』」
「……それは?」
「災厄の魔女についての詩、だって。あの人が言っていたのは、二人目の魔女の事だよ」
エスターテが膝の上の猫の喉元を撫でれば、ごろごろと喉を鳴らす。
それを眺めながら、彼女は言葉を続けた。
「彼女は、魔物を産み落とし、世界中に広げた。彼女の産み落とした魔物のせいで、多くの人間も、魔女も死んだ。だから、彼女は災厄の魔女と呼ばれるの」
「……成程、道理で見覚えのない生き物がいるのか」
「魔物を産み出すのは、稀有な魔術系統で、」
言葉が、半ばで止まる。ジュラがひどく静かに立ち上がり、武器を構えたからだった。包みはいつの間にか剥ぎ取られ、剣のような、槍のような、長大な刃がぎらりと光る。
「エスターテ、動かないでくれ」
淡々と、青年が告げた。硬直するエスターテの真横で、刃が揺れて。
風を切る音がエスターテの頬を切り、次いで、金属音が鼓膜に届く。刃はエスターテの眼前で、その獣の侵攻を食い止めていた。
獣は、獅子に似ている。漆黒の毛に包まれた体躯、黄金に煌めく鬣。瞳は赤く、牙は刃の如き鋭さで、ジュラの武器に喰らいついていた。
ぞっとした。「これ」は、エスターテを狙ったのである。ジュラがいなければ、彼女の喉は噛み千切られていただろう。
「悪いが、彼女は餌じゃあない」
涼やかな声でそう言うと、ジュラは勢いよく踏み込み獣を弾き飛ばす。相も変わらず、恐るべき膂力である。巨大な猛獣と戦える人間は数多くいれども、単純な力のみで獣を押し出せる人間は、そうはいまい。同時、彼はエスターテの腰を片手で抱いて、獣とは反対側に跳んだ。
エスターテはジュラの首にしがみ付く。浮遊感と、同時に獣の唸り声が届いた。獣は巨躯に反したしなやかかつ俊敏な動作で着地し、即座に二人の後を追ってくる。その、速さと言ったら。障害物が多い山中をするすると潜り抜け、ジュラとの距離を縮めてくる。
主人を守る為に目的を達する方が賢明と察したのか、仔猫が地を蹴り走り出した。
「遅かったな、随分と」
ジュラの発言は、ひどくのんびりとしたものだ。瞬発力故に強靭な跳躍力で飛び掛かる獣を、片手で構えた武器でいなすと、すぐさま仔猫の後を追う。
「此処が件の魔女の領域なら、もう少し早く現れると踏んでいたが」
「……余裕が、無いのかもしれない」
「余裕?」
ジュラの言葉に答えずに、エスターテは懐に手を差し入れた。片手で宝石を掴み上げ、息を吹きかける。石は仄かに煌めくもののそれだけで、常のように動物に変じない。
エスターテが宝石を投げつけると同時、魔獣が吠える。咆哮と呼ぶよりかは、衝撃波に近しかった。
「……ッ」
周囲の木々が大きく軋む。地面に罅が入る。身体的に脆弱なエスターテだけでなく、頑強なジュラであろうとまともに受ければ重傷を負うのは間違いない。
だが、エスターテの投げた宝石が、その衝撃を緩和する。ぴしりと不快な音が響く都度、煌めく石に亀裂が走った。
少女は眉をひそめる。エスターテの魔力の籠もった宝石は、たかが咆哮では崩れない。であればこそ、わかる。あの獣には、魔力が宿っているのだと。
「あまり、もたないな……」
「それなら、手早く済まそう」
ジュラは足を止める。エスターテを降ろし、武器を構えなおした。獣もまた咆哮で仕留められないと踏んだか、低い呻きを漏らしている。
剥き出しにした牙がぎらりと光る。赤い目は血走り、獰猛な光を宿している。手負いの猛獣、そんな言葉がエスターテの脳裏によぎり、内心で首を傾げた。何故だろう。怪我など追っていないそれに対して、そんな事を思うのは。
対峙するジュラは穏やかだった。獰猛な獣を前にして、尚。獣が地を蹴る。雪を飛ばしながら、此方に向かって走り出す。
刃にも似た爪が閃いて。巨大な顎が口を開けて。
「悪いが、ご退場願おうか」
一閃。
彼が振るったのは、それだけだ。それだけで、事足りた。
刃が獣の胴体を薙ぎ払う。赤い血が迸り、白い雪を斑に、乱雑に汚す。弾き飛ばされた獣は木々に叩き付けられて、やがて雪に塗れて転がった。
「やった……?」
「……いや、仕留め損ねたな」
敵意は消えない。赤い瞳は変わらず殺意を揺らめかせ、半開きの口からは呻きが零れ落ちている。
だが、ジュラが負わせたそれが、致命傷なのは明白だった。
止めを刺すべく、ジュラは雪を蹴る。周囲を警戒しながら、武器を振り被った。獣の首を、落とそうとする。
斑に染まる白の雪に、武器の影が落ちた。黒い影が、蠢く。
「ジュラっ!!」
影が、盛り上がる。黒いフードを被った人物が、雪をはらはらと散らしながら、ジュラにほっそりとした手を伸ばした。
何故だか、死神を想起させる。
「―――」
ジュラが武器を振るえば終わりなのに、それでも彼は動かずにいる。動かない、ではなく、動けないのだとわかった。
エスターテが駆け出した。宝石を握りしめ、雪を撒き散らしながらジュラの元へと走っていく。
フードの合間から見える、細い顎に、薄い唇。病的なほど、白かった。雪よりも、百合よりも。
「 」
何事かを、囁いた。聞こえたのは、ジュラだけだろう。
唇の動きが止まると共に、陽炎のように彼女の姿は消え失せていた。代わり、手負いの獣が牙を剥く。ジュラの喉元に狙いを定め、赤い花を咲かせようとする。
エスターテは手を伸ばす。間に合えと、届けと、一心に念じながら。
失うのは、二度と。御免だったから。
「つ、あ……ッ!」
エスターテの右手に、熱が迸る。燃え上がるような痛苦。痛みは熱なのだと、知ったのはいつだっただろう。そんな感傷がエスターテの内に生まれて消えた。
ぱたぱたと血が、細い手首を伝って雪を汚す。それを見て、激痛に呻きながらも間に合ったのだと安堵した。
「っ、エスターテ!!」
ジュラの声から、余裕とも取れた穏やかさが消えた。青年の武器を持たない手が伸びて、獣の牙を掴む。
間近にいたからこそ、エスターテにもわかる。
「……ッ!?」
ジュラから、殺意が迸っていた。
刹那、彼が握り締めた牙が音を立てて砕け散る。さしもの獣も驚いたか、彼女の腕を喰らう口から僅かに力が抜けた。その僅かな合間を察知したエスターテが、喰らい付かれた腕を無理矢理に引きずり出す。
ジュラが刃を振り下ろした。獣の体を袈裟切りに切り裂き、先ほど以上の膨大な血が周囲を赤く染め上げる。その有様は凄惨だった。知らない人間が見れば、きっと腰を抜かすことだろう。
だが、彼はそれ以上獣に頓着することなく、エスターテの体を抱え上げ、踵を返して走り出す。
「……ジュラ?」
ジュラは答えない。こんな様子を見るのは初めてで、エスターテはおろおろとジュラを見上げた。
怒らせて、しまったのだろうか。だが、何故怒らせたのかがわからない。
「ジュラ、ジュラ。怪我、してない?」
「……君が、それを言うのか」
沈黙の果て、返された言葉は。どこか、苦しげだった。
「……すまない。油断、した」
「ううん。私も、記憶を奪う魔法と魔物を創る魔法の事しか、考えなかったから。他の魔法、使えるなんて思ってなかったから……お互い様、だよ」
「そういわれると、俺も困るんだが」
つらつらと言い募るエスターテに、ジュラがほのかに苦笑する。声も常の物に近い、穏やかさを取り戻していた。
血が滴る彼女の腕を見やり、ほんの少し驚いたように息を呑んだ。
「魔力を帯びた宝石の、防護か。こんな事にも、使えるんだな」
「うん。私だと、食い千切られてしまいそうだったから」
それでも、完全に防御できたとは言いづらい。腕は残っているものの、傷自体はかなり深い。血もまだ止まっていないのだ。下手をすれば失血死もあり得るだろう。
「止血、しないと」
「……治癒をしないのか?」
「自分には、使えないから」
エスターテは事もなげに答えた。片手でポーチを開き、止血用の布を取り出そうとするその手つきは慣れたもの。だが、その手を優しく押しとどめる腕があった。
「俺に、やらせてくれないか」
「え……でも、」
「頼む、エスターテ」
響きは、哀願にも似ている。エスターテは首を傾げながらもその響きに抗えず、布と薬を彼に手渡したのだった。
***
はふ、と零れた吐息を噛み殺す。
「すまない、痛んだか」
目前の青年の言葉に、エスターテは否定を返す。痛いのは、確かだ。ただ、突き刺すような痛みを癒すように触れてくる、指先のあたたかさが心地いい。
戦いの後。宝石の仔猫がいつの間にか戻ってきていて、二人に安全地帯を教えてくれたのだった。
二度目の休憩は、ほんの少しだけ静かだ。
「痛むなら、我慢せずに言ってくれ」
魔物に襲われて怪我をした。そんな、単純な話だ。こういう事はよくあった。時たま、人間に魔女とばれて石を投げつけられることもあった。
傷だらけで眠る事も少なくはなかった。けど、今夜のように傷に手ずから薬を塗ってくれて、優しく労ってくれる人がいるというのは、初めての事だった。
「ジュラ、ありがとう」
だから、エスターテは感謝を口にする。すると、何故だか彼は息を呑んだ。
「……責められると思っていたんだが」
「責める? ジュラを?」
エスターテの唇から、思わず上ずった声が零れ落ちる。立ち上がろうとしたのだが、それはジュラに止められた。
「ジュラは私を助けてくれているのに、どうして責める謂れがあるの?」
「……そうか」
当然のことを、言ったつもりだった。だが、ジュラの声は少しばかり暗くなってしまう。困った、とエスターテは内心で首を傾げる。彼が負う責任を、どうすれば、軽くしてあげられるだろう。
ジュラが包帯を巻き始めた。彼の指のぬくもりが消えて、ほんの少し残念だなんてエスターテは思う。そんなことを思っている間に、彼は手際よく包帯を巻き終えてしまった。
「ありがとう、ジュラ」
「……どういたしまして」
ぼんやりと焚火を眺めている内、エスターテの唇から言葉がぽつんと落ちる。
「あの獣、追ってこなくてよかったね」
「腱を切ったからな。追いたくとも、追えないんだろう」
さらりと、青年が答えた。次いで、少女が疑問を口にする。
獣から、恐らくは獣の主だろう魔女の話へ。
「ジュラに、何をするつもりだったんだろうね」
「それは……殺す、つもりだったんじゃないか?」
「ん、でも。最初に狙ってきたの、私だったけど……あの魔女は、ジュラの方に行ったでしょう? 私を殺すなら、あの時は絶好の機会だったと思う、けど」
ジュラを殺すよりも、エスターテを殺す方が遥かに簡単だったように思う。同胞だから襲わない、そんな理由はムネモシュネの町で魔女が襲われた時点で捨てていた。
それに、彼女は咄嗟に出てきたようにも見えたのだ。何故かは、わからない。故にその可能性も、消した。
「自分の魔法に、よほどの自信があったのかな」
僅かな妬みを織り交ぜながら、エスターテは呟く。
彼女には、辿り着けない領域だった。彼女がまともに扱える魔術は、『生命』の魔術系統だけ。それ以外の魔術を使えない魔女に、自信など生まれる筈もない。だから、欠落の魔女なのだ。だから、欠陥品なのだ。魔女でありながら、他者を害する魔術を、自らの身を守る魔術を、使えないのだから。
内心で自嘲するエスターテであったが、ふと、ジュラからの返答がないことに気付いて顔を上げた。
ジュラは、硬直している。
「……ジュラ?」
「エスターテ、申し訳ない話だが」
エスターテが彼の名前を呼ぶと、彼はようやく仮面越しに彼女を見た。どうにも、戸惑っているような雰囲気で、エスターテも戸惑ってしまう。
「記憶が、奪われたようだ。その魔女の事を、知覚できない」
「……え、」
さあっと、彼女の顔から血の気が引いた。思わず立ち上がろうとして、それをなだめるようにして止められてしまう。
「落ち着け、エスターテ」
「な、なんで、ジュラ、落ち着いているの!?」
仄かに笑う彼はいつも通りの表情に戻っていて、どうにもエスターテには理解できない。
記憶を、奪われた。もしかすると、大事な人の記憶すら奪われているのかもしれないのに、どうして、彼は笑っているのだろうか。
「守るべき君を忘れていなければ、充分だ」
息を呑む。彼が心の底からそう思っていることに、気付いてしまったからだ。
ひどい、話だ。ジュラが遠い過去を大切にしていることを、エスターテは知っているし、目の当たりにした。
いまだに記憶に根強く残る、あの塔は、彼の過去そのものだ。
「そういうのは、だめだよ。ジュラ」
心にもない事を、口にする。
ジュラの言葉が嬉しいと思ってしまう、自分の浅ましさがひどく、憎かった。
沈黙が帳を下ろそうとした時に、にゃあと宝石の仔猫が鳴いた。
「……? どうしたの?」
猫は何かに気付いたように一点を見つめていたが、不意に体を起こして何処かへ駆けていってしまう。二人は顔を見合わせて、仔猫のあとを追った。
仔猫が駆ける獣道、あるいは道なき道を抜けた先にあったのは、切り立った断崖絶壁である。
「……まさかとは思うが、この崖の上……ではないだろうな」
ジュラが呆れたように呟いた。この断崖の上にいるのなら、奇襲や襲撃は難しいだろう。
「それは、大丈夫」
エスターテは仔猫を見る。彼は、崖をがりがりと掻いていた。登ろうとする様子はない。ならば、此処なのだ。
エスターテは断崖を撫でる。するりと指先でなぞった場所に、闇が生まれて、広がって。やがて、断崖にぽっかりと穴が開き、薄暗い洞窟の入り口が姿を見せた。
「この子が此処で止まっているから……此処が目的地だよ」
ジュラが頷くと、エスターテに向き直った。
「行こうか」
「……うん」
二人は、洞窟に足を踏み入れる。入り口はともかく、先に進めば進むほど、段々と闇は色濃くなっていった。エスターテは懐からオパールを取り出して、息を吹き込み魔力を込める。
宝石が輝いて、周囲をほのかに照らし出した。
「魔女は、何故記憶を奪ったのだろうか」
「……私には、なんとも言えない、かな」
魔女がそういうものに偏執しているのかもしれないし、あるいは、別の理由があるのかもしれない。もしかしたら、理由などないのかもしれない。
ただ、ジュラの記憶を奪った事を例外にしても、ムネモシュネの人々の記憶を奪った事には、何か理由があるように思えた。
「……人の記憶など、千差万別だ。同じ時、同じ場所で同じ物を見ても抱く感想は違うように。魔女の求めるものが何にせよ、記憶を奪って得られるものがあるとは到底思えないが」
「……?」
何だろう。エスターテは首を傾げた。今、何かが引っ掛かった気がする。
記憶を奪う魔女。目に見えぬ記憶を、形に出来る、魔女。
ジュラの言葉は正しい。だが、もしも。
もしも、記憶を形に出来る彼女にとって、そうではなかったとしたら。
「エスターテ」
ほんの少し緊張を孕んだジュラの声に、顔を上げる。
ほのかに光る宝石に照らされる、血に汚れた体躯が見えた。エスターテは息を呑む。
あの魔獣だった。黒い毛は血によって更にどす黒く染まり、固まっている。ジュラが与えた傷は癒える事なく、ただ刻一刻と、命を奪い続けていた。それでも、尚、獣は敵意を二人に向ける。否、二人にではない。
「……エスターテ、先に行ってくれ」
「ジュラ?」
「あれは、俺に用があるらしい」
武器を隠す黒い包みを剥ぎ取って、彼はそう告げた。
黒い獣がジュラを睨み、唸り声をあげる。その身に負う傷はどう見ても致命的で、いつ死んでもおかしくない。しかし、瞳には明確な敵意が、殺意が存在していた。だが、その殺意の理由がわからない。
「どうして? ジュラが返り討ちにしたから……?」
「どうだろうな」
そう言いながらも、ジュラには理由がわかっているように思えた。獣と距離を縮めながら、ジュラが囁く。
「先に行って、待っていてくれ。すぐに追い付く」
エスターテは頷いた。本当の事を言えば、先に進んだ所で何かを出来るわけではない。彼女は、戦えないからだ。だが、此処にいた所でジュラの足手まといになるだけで。
だから、エスターテは進む。
「エスターテ」
武器を構えて、ジュラがひそやかにエスターテに告げた。
「俺に出来る事は戦う事くらいだが、君は多くの事が出来る。戦えない事を、気に病む必要はないよ」
息を呑む。時折彼は、エスターテが考えている事を見透かしたような言葉を口にする。その度に、ずるいと思う。彼女の口からついて出たのは、少しばかり意地悪な言葉だった。
「……例えば、何が?」
「此処に至るまでの殆どが、エスターテの為した事だ。それが、答えにならないか?」
「……」
こんな状況にも関わらず、エスターテは唖然としてしまう。やがて、言葉の意味を一言一句理解して。
「……やっぱり、ジュラってずるいよね」
「まぁ、君よりは大人だからな」
苦し紛れの言葉もあっさりと返されて、ただ一度背中を押された。
「さぁ、行くんだ」
「……気を付けてね、ジュラ」
エスターテは走り出す。背後で金属質な音が響き、獣の唸り声が聞こえても、彼女は振り返らなかった。
***
こつ、こつと。なにかが当たる音がした。
「違う。これも、違う」
儚い声で、嘆く少女の声がする。からころと、硬質な、たとえば宝石のような何かが、当たる音が聞こえる。
「どれも、違う。どうして、ないの」
辿り着いた、その先にいたのは。
「どうして」
宝石のような石が無数に転がる地面の上に座り込む少女だった。
珠は全て色が違い、各々が好き勝手に煌めき瞬いている。それでも何故か不快にならなかったのは、瞬きはあまりに小さなもので、星を連想したからかもしれない。それらが洞窟一杯に敷き詰められている光景は、どこか星の海を想起させた。
足元に落ちていた、掌大の珠を手に取る。珠は宝石などではなく、硝子玉なのだとわかった。ただ、その硝子の内側に、宝石より尚美しく輝く、赤い星が煌めいていた。
再度、星が煌めいて。心の内を侵食する、光景がひとつ。
男の元に駆け寄って、幸せそうに微笑む「わたし」の記憶だった。
「……」
その瞬間に、理解した。そのおぞましさに、戦いた。
「これ、全部……貴女が奪った記憶、なんだ」
「ええ、ええ。その通りよ、幼い同胞。欠陥だらけの、我らが同胞」
その掌から人々の記憶を取り零しながら、少女が振り返る。微笑みは仄か。鮮やかな金の瞳を爛々と輝かせて。魔女が、其処に立っていた。
「名前を聞かせて。貴女の名前を、貴女の唇から」
「……エスターテ」
名前は容易く、唇から零れて落ちる。そうしなければならないという、奇妙な威圧感があった。エスターテは、続けて問う。
「どうして、人々の記憶を奪っているの」
魔女が歩み寄る、その度に。硝子玉が音を立てる。からころと。その度に、人々の記憶が弾けていく。親子の記憶。友人の記憶。恋人の記憶。硝子の隙間から見える記憶は様々で、からころと音が鳴る度に脳髄で記憶が弾けては消えていく。頭が痛くなりそうだった。膨大過ぎる記憶と、魔女の得体のしれなさに。
「その話は、少し、長くなるわ」
エスターテは動けない。足が地面に縫い付けられたような、束縛感。この少女の見目をした魔女が、それを成している。彼女は唇を、吊り上げた。
「だから、見て。だから、聞いて。私のこと。私達の、事を」
金の視線と、青の瞳が交錯する。
その瞬間に、エスターテの意識は呑み込まれた。
***
黒い獣が、唸りをあげる。
狭い場所でも俊敏さは衰える事なく、むしろ更に磨きがかかり、ジュラに向かって襲いかかる。命を燃やしているようだった。
「不思議に思っていたんだ」
重い一撃を軽々と受け止め、押し返しながら、彼は淡々と呟く。
「何故、魔女は俺の記憶を奪ったのか。正直、彼女が記憶を奪うより、もう一人の魔女が背後から別の魔獣を放った方が安全だったし、確実だった筈だ。エスターテだって、間に合わなかっただろう」
たとえ背後からの奇襲が成功したとして、自身が死ぬ可能性は限りなく低いのだが。ただ、それはあくまでジュラの主観であり、その事実を知り得ない魔女にとっては、奇襲の方が遥かに理にかなっていた筈だ。
「だから、思った。奇襲をしなかったのではなく、出来なかったのではないか、と」
魔女は、二人いた。魔獣を作り出す魔術を扱う魔女と、記憶を奪う魔術を扱う魔女の二人が。
魔獣を見やる。
「……主は、もういないんだろう?」
魔女は二人、いた。今はもう、一人だけ。
ジュラの言葉を否定するように、魔獣は咆哮と共に襲いかかった。ジュラは武器を構え直しながら、思う。
ジュラはかつて、一人の魔女と共にいた。一人の魔女に、呪われた。エスターテによって緩和されているだろうが、それでも尚彼女の残滓は色濃く残っているだろう。
「……ある意味、同じ存在なわけだ」
少なくとも、魔獣はそう思っているのかもしれない。
主に置いていかれた魔獣と、共にいた彼女に呪われた男は。
「まぁ、同情はするが。容赦をするつもりはない」
穏やかに、涼やかに。ジュラは告げる。
「俺の過失とはいえ、エスターテに傷を負わせた。その清算はさせてもらう」
***
魔女が、いたの。魔女が、いたの。
二人の、女の子。同じ顔をした姉妹だった。
物心ついた頃には、手を取り合って逃げていた。
でも、その姉妹は、そんなに仲が良くなかった。おんなじ顔、してるのにね。
姉は人間が嫌いだったの。いつもいつも、恨み言を吐いていた。
妹は逆で、人間が大好きだった。姉の言葉を聞くたびに、反論して。喧嘩になって。
でも、離れようなんて思わなかった。この世界に二人きりって、わかってたもの。
だから、生きてきた。二人きりで。
でもね、妹が、人間達に殺された。
姉は、私は、ひとりになった。
でも、かなしくないわ。だって、やらないといけないこと、あるの。
あの子、最後に言ったのよ。幸せになりたかった、って。
だから、叶えるの。
……だって、あの子が言ってくれた、最初で最期の、我儘だもの。
***
感覚が、唐突に甦る。かつかつと硝子を叩く音が聞こえて視線を落とせば、記憶の珠とは違う、大小様々な宝石が落ちていた。目を瞬けば、ルビィの煌めきが落ちていく。かつん。記憶と宝石が擦れる音が、遠い。
「優しい子。泣いてくれるの? あの子の為に」
魔女の声が聞こえる。頬を這う指は、あまりに冷たくて。
「私はあの子を、幸せで満たして送ってあげたい」
吐息から、死の気配が吹き込まれているかのよう。
「でも、人間の幸福よりも。同胞の記憶の方が。もっと、ずっと、満たされると思うの」
微笑む彼女の瞳には、何一つ映ってはいなかった。目前にいる、エスターテさえも。
「だから、ちょうだい?」
嗚呼、そうなのだ。エスターテは理解した。この魔女の行動の理由を。此処に至るまでの道中、疑問として抱いた事。全て、理解した。
だからこそ。エスターテは、口を開いた。
「……魔女として、貴女に問う」
魔女が首を傾げる。しかし、その表情は空虚なものだ。何も映してはいない。誰も映してはいない。それでも、動きを止めたのは、エスターテが魔女で、欠陥の魔女であったからだ。
エスターテは、問う。
彼女の行動を、見た。彼女の記憶を、みた。彼女の、言葉を聞いた。故に、彼女自身が気付いていないその事実を、残酷な、言葉の刃で、突き付ける。
「―――貴女は、妹の名前を……妹の顔を、覚えているか」
魔女の瞳が、ひび割れた。
微笑みが消える。空虚な瞳に戦慄が走り、目まぐるしく揺れた。
「覚えてるに、決まってる」
断定の言葉と裏腹に、彼女の声は揺れている。
記憶を手繰ろうとしている。彼女の愛する妹の姿を、探そうとしている。
「忘れる筈ない。忘れている、訳がない。だって、私達、同じ顔だったもの。鏡を見れば、あの子は、其処にいる……!」
「それは、貴女の顔で。彼女の顔じゃない」
動揺を隠そうともしないまま、魔女の白い足がたたらを踏んで。からころと、記憶が揺れる。その様を、魔女は憎々しげに見下ろした。表情とは対照的に、儚い声が、更に細くなる。
「違う、違うっ!! 私、あの子の事、覚えてる……っ! あの子の言葉、あの子の最期、記憶に刻み付けたもの……っ!!」
「……それなら、それ以外の記憶を、」
息を吐く。エスターテは星の海を見下ろして、魔女に問いかけた。
「―――貴女の妹が、貴女を見て微笑む顔を、覚えている?」
声なき、悲鳴が迸る。
音の無い、それでも、わかった。絶叫だった。頭を抱えて、混乱と憎悪に光る金色の瞳で、此方を睨み付ける魔女。
それでも、恐ろしくはなかった。ほろほろと零れ落ちる涙の粒が、ただ、哀しいと思った。それだけ。
「……貴女は、」
「もう、だま―――」
「貴女自身の名前を、覚えている?」
それが、最後。
ぴしりと、亀裂が走る音がした。魔女の、中から。
「わた、私、……わたしの、なま、え、名前……なまえ、は……」
壊れたオルゴールのように、同じ言葉を繰り返し。
「―――」
彼女は不意に、息を吐いた。霧雨のように静か。消えてしまうかもしれないと錯覚を覚える程、静かに。同時に、彼女の顔から全ての表情が抜け落ちた。
「……忘れて、しまったわ。あの子の名前も、……私の、名前も。誰も、呼んではくれなかったから。呼んでくれる人はもう、いなかったから」
「……」
「それでも、あの日の事は、覚えていたの。……幸せに、してあげたかった。愛しいあの子の、最期の、我儘だったから」
少女が、微笑んでいた。儚く、泣きながら。
「でも、わからなかった。どんなにたくさんの人の記憶を集めても。幸せ、探そうとしても。わからなかったの。だって」
頬から滑り落ちる涙が、光と消えて。
「……あの子のいない幸せなんて、知らないもの」
そんな言葉を、口にした。
「貴女の、妹は」
思わず、言ってしまう。
「きっと、同じことを思ったんじゃないかな」
根拠のない、言葉だ。でも、エスターテの言葉に、少女から笑みが消えた。ほろほろと涙の粒を零しながら、嘆く。
「忘れられたら、良かった。あの子の言葉、忘れられれば。あの子の事、忘れないまま、思い出に出来たのに」
光が、弾けた。
魔女の姿が光に溶けて、消えていく。あまりに儚くて、ひどく、哀しい。
それでも、その光景は美しかった。とても。
***
涙に暮れる、少女の姿がある。ひどい怪我を負った自分を抱き抱えながら、悲しげに、悔しげに。彼女もひどい怪我、してるのに。
血塗れの少女達を守るように、大きな獣が寄り添っていた。その瞳は悲しげで、まるで、二人の離別を悲しんでいるように見える。
「なか、ないで」
頬に当たる涙が、暖かい。嗚咽するその姿に、悲しくなる。この人を、置いていってしまうのだと、実感する。
「―――」
名前を呼ぶ。こちらを見下ろした少女を見上げて、笑った。ひどい顔だ。でも、いとおしいと思う。
わたし達、幸せだったよね。そんな陳腐な言葉を口にしようとして、やめる。置いていく者が残す者に託す言葉としては、ひどく残酷だな、と。思ってしまったから。
「幸せになりたかった、な」
意識が急速に闇に落ちていく。少女の声、ひどく、遠くて。
「幸せに、なりたかった。けど、もう、無理だから。貴女が、」
幸せに―――。
これ以上、言葉を口にするのは不可能だった。意識が薄くなる。目を閉じて、口にした言葉を思い返す。
幸せになりたかった。……本当は、二人で一緒に。
そうすれば、きっといつまでも幸せでいられた。
だって、わたし。
姉さんと一緒なら、どこまでだって行けたもの。
***
「……これは」
ジュラの声が、聞こえた。ざり、と地面を踏む足音と共に、彼がエスターテの横に並ぶ。
「……彼女は、何故?」
「限界以上に魔法を使ったから」
硝子玉に罅が入る。ぴしり、ぴしりと軋む音がした。
その度に、記憶が揺らめく。星の海の崩れゆく音が、聞こえる。
「……ムネモシュネの町の殆どの人の記憶を奪うなんて、いくら魔女でも、無茶だったんだよ」
数百人の記憶を奪い、保持し続ける。言葉にすればわかるだろう。一人の記憶さえ持て余すというのに、数百ともなればそれがいかに多大な負荷であることか。あの魔女とて、わかっていた筈だ。
「……それでも、妹の為に幸せを探そうとした」
「幸せ、か。彼女の求める幸せは、この記憶の中には無かったんだな」
ジュラが息を吐く。限界を越えてまで奪った膨大な記憶の海の中、それでも彼女の望む幸せは見つからなかった。なんて、皮肉な話。
硝子玉が、砕け散った。星が瞬く。目も眩むほどの輝きを放つ度、星が洞窟から消えていく。
「……もしも、の話だが」
「?」
赤の星が、消える。
隣のジュラを見上げると、彼は星が消えていく様を眺めながら、エスターテに問いかけてきた。
「辛い記憶や悲しい記憶を忘れさせてあげると言われたら、どうする?」
「……それって、記憶を奪われる時に言われた言葉?」
ジュラが頷き、ぽつりと続ける。
「おそらく町に訪れた人々には、彼女はそう聞いていたんだろう」
エスターテは彼の言葉を聞きながら、投げ掛けられた問を反芻する。辛い記憶、悲しい記憶を忘れさせてあげると言われたら、どうする?
青の星が、消えた。
「……私は、断るよ」
黄色の星が、橙色の星が、緑の星が。硝子から弾けて、強く輝いて、そうして消えていく。主の元へ、戻っていく。
儚いと、思った。
「たとえ記憶が消えた所で、起きてしまった事は消えないもの」
「……そうだな、同感だ」
そうして、二人は星散る洞窟を後にする。
人の気配が無くなった場所で、記憶の星が弾け続けて。
白銀の星が一際強く輝いて、消えた。