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最後の剣客

作者: ドラキュラ

時代劇小説を今夜、投稿するつもりのドラキュラです。


本当なら4月には連載開始する予定が大幅に遅れてしまいましたが、その前に私が尊敬する方の小説を書いてみました。



1886年---明治19年11月10日。


その日は冬が間近と迫った為か、息を吐くと白くなり歩くと風が肌を突き刺すような鋭さを持っていた。


しかし、然る場所は酷く熱気に溢れていた。


然る場所は東京府麹町区紀尾井町に在る伏見宮貞愛親王ふしみのみや さだなるしんのう邸である。


見渡すと老若男女を問わず居り、何やら色々な行事が執り行われているではないか。


そして・・・・それを静かに見つめている人物が居た。


その人物は大勢の人間を従えているが、その様子は誠に人の上に立つ者の尊厳を極めており不自然さが無い。


寧ろ逆に自然であったが・・・・それもそうだろう。


彼の人物こそ200年以上に渡り日本国を治めていた徳川家に代わり、日本国を治めている「明治天皇」その人なのだからな。


「陛下、如何でしょうか?」


側近と思われる一人が陛下に問いを投げた。


「実に良い・・・・して"例の準備"は?」


「出来ております。きっと陛下も御満足いただけると思っております」


「そうか・・・・・・・・」


陛下は静かに頷くが、心中は違う。


『果たして・・・・出来る者は居るか?』


古の時代では出来た者は居たとされているが、天下泰平の時代から激動の時代を経た今・・・・再び天下は泰平になろうとしている。


つまりは・・・・戦から遠ざかり、惰眠を貪ろうとしているのだ。


いや、惰眠ではなく・・・・更なる飛躍を求めての準備段階に入ろうとしている。


しかし、だ。


既に古の時代から武器は大きく変わり・・・・今では刀ではなく、銃が強くなっている。


それは激動の時代---即ち幕末の「戊辰の役」で証明された。


だからだろうか・・・・・・・・?


陛下は考えたのである。


『この新時代に・・・・古の技に達した者は居るのか?』


そう思ったのだ。


だが、それは億尾にも出さず邸内で行われている弓術、試斬、能楽、狂言等を見る事で満足そうに頷いたり微笑む。


そして・・・・時は来た。


一人の者が据物台に載せた桃形兜を恭しく運んで来て、広くて何も無い場所に置くと一斉に皆は披露していた術を止め、静かに間隔を取った。


陛下達も用意された席に腰を下ろし、その様子を見守ると・・・・3人の男が前に出て来て跪いた。


「右から御紹介します」


側近が耳元で現れた3人を紹介した。


立身流の辺見宗助。


鏡新明智流の上田馬之助。


「そして直心影流の"榊原鍵吉"です」


「ほぉ・・・・あの男が」


陛下は最後の男の名を聞いて眼を細める。


榊原鍵吉・・・・・・・・


この名前は聞いている。


いや、辺見宗助も上田馬之助も知っている。


辺見と上田は警視庁武術世話掛の最初に声を掛けられた傑人だ。


ただ鍵吉は2人より少しばかり違う。


この榊原鍵吉なる者は、江戸麻布の広尾なる場所で御家人の子として生を受け5人兄弟の面倒を長子として見ながらも下谷根岸から狸穴の道場にまで通ったと言う。


広尾からなら程近いが、下谷根岸からでは遠くて不便故に移籍を男谷から勧められたが「入門した以上は移籍しない」と告げ通い詰めるほど根性が強い。


そして剣の腕前も上達したらしいが、家が貧乏故に費用が掛かる免状は求めなかったらしい。


しかし、それを憐れんだのか男谷の方が費用を工面し・・・・彼は7年で免許皆伝を得た。


たった7年で免許皆伝を得る程の実力を持つ鍵吉は、それから20年後---安政3年(1856年)3月、27歳の時に江戸幕府が設けた講武所の剣術教授方に師である男谷精一郎から推薦され、その後は師範役になった。


それから4年後の安政7年(1860年)2月3日には、時の将軍である徳川家茂公や大老の井伊直弼達の前において模範試合を行い、その時に家茂公に気に入られ個人教授の任も任されたのである。


ここまでだと苦労した幼少の時代が報われたと言えるが、時代は激動へと進んでおり泰平の生を彼には与えなかった・・・・・・・・


慶応2年(1866年)7月に家茂公は大阪城において死去し、それから2年後の慶應4年(1868年)には戊辰の役が起こった。


この戦いで徳川家は明治政府に敗れ、政権交代は完全に朝廷の手に戻った訳だが、鍵吉は戊辰の役に参加はしていない。


ただ慶応4年5月15日(1868年)に江戸上野(現在の東京都大東区)において起こった「上野戦争」において彼は「輪王寺宮公現入道親王(りんおうじみや こうげんにゅうどうしんのう)」こと「北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)」の護衛を務めた。


そして彰義隊が敗北すると越前屋佐兵衛なる人物と共に三河島まで宮を背負い逃げたのである。


『彼の男の腕・・・・まさに聞いた通り大木だな』


陛下の眼に映った鍵吉の腕は宮から聞いた通り・・・・大木並みに太く、あれから放たれる諸手突きは想像を絶する威力だろうと思った。


実際に彼と試合をした人物の証言があり、それを聞いた事も思い出す。


相手は同門である男谷派の天野将曹という人物で、二条城内において新規お召し抱えの際に試合したらしいが、天野は新規お召し抱えの意地もあってか面や胴を打たれても「参った」とは言わなかったらしい。


ここ等辺は非常に根性があると認めるべきだろうが・・・・鍵吉の方から言わせれば「諦めが悪い」と映ったのは言うまでもない。


止めとも言える諸手突きを鍵吉は天野にくれてやると、天野は見事なまでに引っくり返り漸く参ったと言った。


この逸話からしても・・・・・・・・


『彼なら・・・・出来るか?』


甲冑師では最高と評される「明珍」作の桃形兜を・・・・斬れるか?


「ただ今より"兜割り"を執り行う。3名とも名と流名を名乗らい!!」


進行役と思われる男が前に出て高々に声を上げると3名は立ち上がり名前と流名を名乗った。


「1番手の辺見宗助。流名は立身流!!」


「2番手の上田馬之助。流名は鏡新明智流!!」


「・・・・3番手の榊原鍵吉。流名は直心影流男谷派」


2人が高々に名乗ったのに対し、鍵吉はボソリと呟くように名乗ったが・・・・腕同様に声も太くて胆力が込められていた。


陛下は鍵吉の声に益々・・・・期待に胸を膨らませた。


そして据物台に置かれた明珍作の桃形兜の前に3人は立つと静かに目礼し、1人目が大刀を鞘から抜いて立つ。


1番手は辺見だった。


辺見は大刀を頭上高く構える型---上段に構えると静かに摺り足で歩み寄り・・・・真っ向から振り下ろした。


渾身の力を持って上段から振り下ろされた大刀を見て誰もが斬れると確信したが・・・・・・・・


ガギィン!!


凄まじい鉄が跳ねたような音が鳴り、続いて辺見の身体が僅かに後ろへ下がった。


桃形兜には傷一つ無い所を見れば一目瞭然・・・・辺見の大刀は傷一つ負わせるどころか、逆に跳ね返されてしまったのである。


「・・・・・・・・」


陛下は辺見を見たが、辺見は無言で黙礼すると下がった。


しかし、心の底では悔しさと屈辱で満ち溢れている事だろう。


このような大勢の前で恥を掻いたのだからな。


いや、きっと・・・・この場には居ないが、日本国の剣客と言う剣客が泣いているに違いない。


戊辰の役が始まる前から刀より鉄砲の時代は既に確立されており、そこに日本国は遅れていた。


というのも「刀は武士の魂」という言葉を旧幕府が考えた点も否めないし・・・・あの大小2本が武士達にとっては遺された唯一の拠り所だったのだ。


その唯一の拠り所も明治に入ると「廃刀令」によって消えて行き、剣術道場も看板を下ろしてしまった。


江戸時代から武士は食うに困っていたが、明治になると更に厳しい冬の時代になったのは容易に想像できよう。


そんな彼等を救済しようと鍵吉等を始めとした者達は「撃剣興行げっけんこうぎょう」なる見世物商売を行ったが・・・・焼け石に水みたいな感じで然して意味は成さなかった。


ここに来て兜割りを行うのだから・・・・いわば剣客たちにとっては最後の「晴れ舞台」と言えよう。


つまり全国の剣客たちが祈らずにはいられないのに辺見は失敗した。


それが・・・・陛下には酷く憐れに見えたが、まだ2人が居る事もあり直ぐに再開された。


「2番手、上田馬之助!!』


辺見に続いて上田が前に出て、大刀を引き抜く。


こちらも上段に構え、桃形兜を真っ向から斬ろうとしているが、辺見と違い足腰に力を入れると思い切り駆け寄り・・・・凄まじい勢いで振り下ろした。


出来たか?!


誰もがそう思ったが、よく見れば・・・・上田の大刀は斜めに外れており空しく振り止まっていた。


上田の場合は桃形兜の滑らかな部分に刃が滑り、そして外されたのである。


「・・・・上田も駄目、か」


陛下は残された鍵吉を見る。


いや、誰もが鍵吉を見た。


彼だけが・・・・成功できるか、どうか・・・・・・・・


「・・・・3番手、榊原鍵吉!!」


名を呼ばれた鍵吉は音もなく前に出ると静かに桃形兜と対峙する。


「・・・・2人に比べると刃が短いな」


鍵吉の大刀が辺見と上田に比べると短い事に陛下は気付いたが、それから間もなく鞘から抜かれた大刀を見て・・・・正体を知った。


「・・・・肥後の"同田貫"か」


同田貫・・・・この刀ほど実戦刀という名が相応しい物は無いだろうと陛下は思った。


この同田貫は延寿派の末流とされ永禄の時代から肥後の国---菊池の同田貫を拠点に活躍した一群で、彼の有名な熊本城を築城した地震加藤こと加藤清正の御抱え刀工でもあったとされている。


作風は質素にして剛刀という名に相応しく身幅広くて重ねは厚く、他の刀に比べると重い一振りだ。


それは陛下も実際に持ったから解る。


『あの刀と腕なら・・・・出来る』


陛下は鍵吉の腕なら出来ると確信したように眼を細めるが、心の片隅では・・・・やはり不安だった。


しかし、誰もが鍵吉に成功してもらいたいと願わずにはいられなかったのか・・・・先ほど以上に静寂に包まれている。


ところが鍵吉は一向に動かず、ジッと兜を見つめていた。


恐らく前の2人が失敗した例もあるから慎重に・・・・斬り込む場所を吟味し、そして打ち込む機会を窺っているのだろう。


刹那・・・・鍵吉の足が兜に行き、あっという間に撃剣の間合いに入った。


するとサッと同田貫を上段に・・・・構えずに背中に当て、両脚を大きく開く。


そして・・・・・・・・


「デェェェェェェェェェェェイ!!」


凄まじい気迫に満ちた声と共に同田貫は振り下ろされた。


ガッ・・・・ゴギィィィィィ・・・・グググググググググッ・・・・・・・・


何やら鈍い音が鳴ったが、皆の眼には・・・・同田貫の刃が兜に食い込んでいる所が見えた。


鍵吉も確認すると同田貫を兜から引いて距離を取り残心を行った後に鞘へ納める。


そして吟味役が来て確かめると・・・・・・・・


「き、き・・・・切り口3寸5分(10.605cm)、深さは5分(1.5cm)です!!」


「・・・・そうか、鍵吉は、見事に兜割りをやったか」


陛下は吟味役の声を聞いて安堵の息を吐いた。


それは古の時代に出来た技が・・・・今も受け継がれていると実感したからかもしれない。


こうして無事に天覧兜割りは成功に終わり、鍵吉は伏見宮より金10円(だいたい20万前後)が下賜された。


それから時は流れ明治27年(1894年)9月11日・・・・天覧兜割りを成功させ、直心影流第14代目宗家としての任を全うした鍵吉は、65歳の波瀾に満ち溢れた人生に幕を引いたが死ぬまで髷は落とさず、最後の剣客として過ごしたと言えるだろう。


彼の死により剣の時代---即ち武士の時代は終焉を本当に迎えたと言って良いのかもしれない。


また鍵吉の死から18年後の明治45年(1912年)7月には明治天皇も59歳で世を去った。


こちらの死は武士の時代でなく明治と言う一つの時代が終焉を迎えたと言って良いだろう。


そして時代は明治から「大正」へと変わるのもまた・・・・・・・・・・・・・・・・

                                           最後の剣客 完

この鍵吉氏は、まさに剣客---即ち侍の時代に終止符を打つ為に生まれたのではないかと私は思っております。


だからこそ歴史は、彼に武士としての最後の晴れ舞台を用意し、死に土産とも言える兜割りを用意したと思うのです。


もし、鍵吉氏が居なければ今、剣なる物は・・・・侍は・・・・そう思えてなりません。


この作品で興味を持った方が居れば津本陽氏の「明治撃剣会」か「明治兜割り」を御勧めします。


私より迫力があって緻密な資料を基にしているから読んで損はありません!!

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