馬車の幌
ここに一つナイフがある。
輝く白銀色の刃と神秘的な装飾の柄を持つナイフ。刃は指をあてるだけで血がにじむほど鋭くて、柄は滑らかなしっとりとした触り心地がとても手に馴染む。
その中でも特に目を引いたのは柄の装飾。すっごく綺麗なのだ。光沢のある青緑色の金属に、水色と青のステンドグラスで描かれた不思議な模様。それに大きい宝石が三つ四つはめ込んであって、寒気がするほど芸術的。
幌の隙間から射し込む薄明かりにかざすときらきらして宝石みたい。戦闘用より儀式用なのかもしれない、とっても神秘的。
「………きれい」
光に当ててしばらく眺めたあと、どうせ切れないと思っていた幌に気まぐれで刃をあててみた。
分厚い皮製の幌が、サクッと切れる。
「え、わっ!」
予想外の出来事に驚いた。パックリと開いた幌から光が差し込んで、薄暗かった帆の中が明るく照らされる。
「━━逃げれ、る?」
幌に閉じ込められて、出れなかった。幌がなければ出られる。
冷えた体があったまった。元気が出てきた。心が晴れた。手を急いで動かして幌を切る。
サック、サック
まず幌を小さな四角に切り取り、外を見た。カアカアと鳴くカラスの声に泣き声罵声が遠くに小さく聞こえる。暗い目をした男が道ばたに転がっていて、死臭と腐臭が相変わらず鼻を突く。
ゴトゴト揺れてたから分かるけど、やっぱり移動中みたい。
「まあいいわ、さっさと逃げましょう」
自分が通れるぐらいの大きな四角に切り取ろうとした、そのときーーーー
ギィィィィィィッ
「うきゃあ!」
いきなり大きな音を立てて馬車が止まった。大きく馬車が揺れてバランスを崩し、思わず奇声をあげる。
「ってめ!危ねぇなバッキャロ!死んじめぇくそガキ!!」
聞こえたのは男の罵声。
「あぁ?うっせーよ、ちんたら走ってるのがわりいんだろ!」
少年の罵声も聞こえる。
「んだとこらぁ!いってくれんじゃねぇか、おぉてめえんより百倍速く走れるんだよ俺らの馬は!」
「走ってみろってんだ、どうせ口だけなんだろ!?」
「おっら、見やがれ!!」
バシーンッ
バッヒィィィィンッ
大きなムチの音。馬の鳴き声。
ガダダダダダッダッダッダッダダッ━━━━━━━━━
馬車がいきなり走り出した!!反動で幌にぶつかる。ビリッと何かの裂ける音がして、その突如私を襲った浮遊感。
「キャッ!」
どすん!と馬車から落っこちた。
強い痛みと肌にあたる湿った地面の感触。
起き上がったとき、すでに馬車は遠くの方に走り去っていた。
「…なんだてめぇ?」
頭の上から投げかけられたその声に答えず、私は走り去る。
あいつらにまた捕まりたくない、その一心で。自分の右手にあのナイフが強く握りしめられていた。
それがいいことなのか悪いことなのか、今の私はわからない。
走り疲れて薄暗い道のそばで座り込んだ。手に持ったナイフが地面にあたり、カランと音がした。
これから先、私はきっとこのナイフで人を傷つける。スラム街に逃げてまでどうして罪を重ねるのだろう?本当にバカだ、何してるのよ………
「っくしゅん!」
そんなことを考えていたら体が冷えてきた。
スラム街はもともと大都市だったのが、えと…なにかで衰退したものらしい。だから高い建物が多くて年中日陰で寒い、と習ったことがある。
冷えた空気がドレスの破れたところから肌を刺す。この格好じゃ風邪を引くだろう。
「あ」
薄汚れた皮の、コート?が落ちていた。それに包まり壁にもたれる。
「うぅ……」
コートから血の匂いがする。
怖くて思わず持っていたナイフを握りしめた。動いたナイフがオレンジの光を反射する。
いつの間にか夕方になっていたみたい、夕日がスラムを照らしていた。同じように夕日が沈んでいるあの国は今どうなっているのだろうか。
昨日より笑顔が増えているかな、お父様の死体はどうなっているかな。
あの国が、あの政治が終わってよかった。
でも、私の代わりに身代わりになってくれた女の子が罪を被ったまま、新しい国が始まるのかな…
「ごめんね、許して」
届かないのに、届くはずないのに、呟いた。頰に涙が伝う。
「う、ぅう。グス、ごめんなざい、ごめんなさっ」
しばらくして、泣き疲れて眠くなってきた。でも寝たら夢に身代わりになってくれたあの子が出てくる気がする。
あの子はもう死んじゃったかな、出てきたらなんて謝ろう………
これから私が傷つけるのを私だけにするから、どうか許してください。眠る直前、疲れた頭がふと呟いた。