第二話
「……どうしよう?」
バイトを終えて家に帰る途中、優夢はカバンの中に入っている大金の使い道を考えて大きく肩を落とした。
「と言うか妙な緊張感があるよ……あれ?」
バイト料が入ったとしても必要な分しかお金を下ろした事がない優夢はカバンに視線を移してつぶやいた時、寒気を感じると同時に危険を告げる警笛が優夢の頭に鳴り響き始める。
それは伐に助けて貰った時に感覚に似ており、自分が歪みと言う非日常に見られていると直ぐに理解できた。
(……見えないふり、何事もないように)
優夢は背中に感じる気配に伐に忠告されたようにそれに気づいていないとしようとするが、その動きは酷くぎこちない物になって行く。
「……見つけた」
「ひ、ひい」
それは優夢の動きに気が付いたようで彼女の背後まで近づくと楽しそうに笑った。
その声に優夢は誤魔化す事などできずに小さく悲鳴を上げてしまい、慌てて両手で口を押さえるがすでに遅い。
「……見えてる? 見えてる?」
背中に感じる寒気に顔を引きつらせる優夢。
そんな優夢の姿にそれは楽しそうに彼女の顔を覗き込んだ。
優夢の目には黒い靄が映り込むが、その靄の中心にはまるで先ほど何かを喰らってきたのか赤い血のようなものがにじんでいる。
(逃げなきゃ)
目に映った歪みの姿に優夢の頭の中に鳴り響いている警笛はさらに大きさを増して行き、強張った身体にムチを入れると優夢は振り返り全力で走り出す。
「追いかけっこ? 良いよ。逃げて、逃げて。恐怖は最高のスパイスだから」
優夢が逃げ出した事に歪みは一度、驚いたような声をあげるが、歪みは楽しそうに彼女の恐怖をあおるように一定の距離を取って優夢を追いかけて行く。
「み、見つかったら、どうしたら良いか。聞いてないよ。どうして、黒須くんは教えてくれなかったの」
優夢は立ち止まってしまうと終わりだと言う事は本能で理解しており、足を止める事はないが命の危険がすぐそばに来ている事を伐のせいだと責任を押し付けるように声を上げた。
「……捕まえた」
「ひ、ひい!?」
優夢が公園に足を踏み入れた時、優夢の耳元で歪みの声が聞こえる。
優夢の身体はその声が聞こえると同時に拘束されてしまい、その指揮系統は優夢から歪みに移ってしまう。
「その表情、良いね。凄く美味しそう」
「い、いや!? わ、私、美味しくないです。私なんか、食べたらお腹壊しちゃいますよ!?」
「だけど、まだ足りない。もっと良い声で鳴いてよ」
身体を拘束されてしまい、顔を恐怖にひきつらせて命乞いをする優夢だが、その表情の変化は歪みにとっては食事をする上で最高の調味料でしかない。
さらに自分の味覚に合うように優夢を調理しようとしているのか、靄の一部分は優夢の右腕に巻きついて行く。
「な、何をするの?」
「そうだね。まず、腕から喰いちぎって行こうと思ったんだよ」
青ざめた顔で歪みに聞く優夢。
歪みはその質問に彼女の恐怖を高めるために右腕を喰いちぎると恐ろしい事を言い、優夢の顔は血の気が引き真っ青に変わった。
「……それはずいぶんと悪趣味だな。俺としては腕を喰いちぎるよりは処女を奪った方が楽しめると思うんだ」
「く、黒須くん、何を言ってるんですか!? そ、そうじゃありません。た、助けてください!!」
その時、歪みの優夢への行動を聞こえたのか気だるそうな声でセクハラ混じりの言葉が聞こえる。
その声に優夢には心当たりがあり、優夢は声の主へと視線を向けて助けを求めるように声を上げた。
「……ただ働きは趣味じゃねえよ」
「た、ただ働きとかじゃなくて、見てください。このままじゃ、私、食べられてしまいます」
「知るか。だいたい忠告はしたはずだ。それを守らなかったのは先輩であって、俺には関係ねえよ」
優夢の視線の先には気だるそうに欠伸をしている伐が立っており、優夢は死にたくない事もあり、震える声で助けを呼ぶも、伐はどうでも良いのか鬱陶しいと言いたげに右手の人差し指で耳をほじる。
「う、裏切り者!! 人でなし!!」
「……悪かったな。人である事、とっくの昔に捨てたんだ」
「……」
優夢は伐に向かい彼を責めるように叫び声をあげる。
その様子は恐怖よりも怒りが勝ってしまったようで、顔を真っ赤にして叫ぶと歪みはせっかくの食事が邪魔された事に伐へと敵意を向けた。
伐は優夢の罵倒と自分へと突き刺さる歪みへの視線に小さく口元を緩ませる。
「良いのか? 食事も終えずにノラ猫にケンカを売って、たかが下級の歪みが、そいつを食えば多少は能力が上がるぞ」
「ど、どうして、余計な事を言うんですか!?」
伐は優夢を襲っていた歪みなど敵とも思っていないようで口元を緩ませたまま、歪みに優夢を食うように言う。
その言葉に優夢は顔を真っ青にして伐を責めるように叫ぶ。
「……」
「……俺は前菜扱いか? まぁ、良い。俺も忙しいからな。さっさと片付けてやる」
優夢が叫んだのと同時に歪みは伐に襲いかかった。
しかし、歪みが伐を捕える事などできず、伐は気だるそうに欠伸をしながら、その攻撃を避けるとその視線を鋭くする。
伐の瞳は玩具を見つけてなぶる猫のように楽しげであり、その姿に優夢は先ほど歪みに襲われていたよりも底冷えするような寒気を感じ、恐怖に顔を引きつらせた。
「先輩、いつまでそこで遊んでるんだ? 身体はもう動くだろ?」
「く、黒須くん、う、後ろ!!」
そんな優夢の様子など気にする事はない伐は歪みが放れ、動きが自由になったのではないかと言う。
優夢は身体の自由は確認できたのだが、伐の背後に歪みが襲いかかるのが見えたようで声を上げた。
優夢が声を上げた時にはすでに歪みは大きく広がるとまるで口を大きく開いたかのように赤く、伐を喰いちぎろうとしている。
「……もう終わってる」
「へ?」
「行くぞ」
伐は身に迫っている危険など興味がなさそうにため息を吐くと、歪みの一部はえぐり取られており、その場所からは空間に解けるように黒い煙を上げている。
伐の言葉に意味がわからずの間の抜けたような声をあげる優夢だが、伐は優夢に声をかけた後、公園の出口に向かって歩き出す。
「ま、待ってください。置いて行かないでください!?」
「さっさとしろ……」
優夢は消えて行く歪みへと視線を向けた後に成仏を祈るかのように手を合わせた後、慌てて伐の後を追いかけて行く。
伐は振り返る事はないが何かを感じ取っているようであり、その眉間にはくっきりとしたしわが浮かんでいる。
「……」
その二人の姿を監視する影が一つ。
伐が自分の気配に気がついている事を理解しているのか、伐を追いかける事無く夜の闇に溶けるように姿を消す。