私がいなくても大丈夫なのでしょう?
「君との婚約を、今日をもって解消する」
卒業記念舞踏会の最中だった。
大広間の中央で、第二王子ルシアン殿下がそう告げた。
周囲から、ざわめきが広がる。
私は手にしていたグラスを静かに置いた。
「理由を伺っても?」
「君は優秀すぎる」
「……はい?」
予想していなかった答えに、私は思わず瞬きをした。
殿下は眉間に皺を寄せた。
「君は何でも自分でやってしまう。王子である私に相談もせず、勝手に予定を決め、勝手に人を動かし、勝手に問題を解決する」
「殿下がお忙しいので、私が代わりに、と」
「そういうところだ!」
殿下が声を荒らげる。
「君と婚約して三年になる。だが私は一度も、君に頼られたことがない」
「……」
「婚約者というのは、もっとこう……互いに支え合うものだろう?」
私は少し考えた。
確かに、殿下にお願いしたことはほとんどない。
王宮の晩餐会の席順。
隣国から来る使節の宿泊先。
王都の孤児院への冬用毛布の配布。
殿下が出席する式典の時間。
護衛の配置。
婚約発表の文面。
そういったものは、私が管理していた。
けれど、それは殿下が「王子としてやるべきこと」を邪魔しないためだった。
それに最低限の伺いは立てていたはずだが。
「申し訳ありません」
私は頭を下げた。
「私が出過ぎたようです」
「分かればいい」
殿下は満足そうに頷いた。
「それに、君なら一人でも大丈夫だろう?」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に、ほんの少しだけ空洞ができた。
「……そうですね」
私は笑った。
「きっと大丈夫です」
婚約が解消された翌朝。
私はいつもの時間に目を覚ました。
侍女が予定を読み上げに来ることはなかった。
朝食の後に王宮へ向かう必要もない。
殿下の予定表を確認する必要もない。
各部署から届いた書類を整理する必要もない。
隣国の使節団が予定より二日早く到着するという連絡を、殿下に伝える必要もない。
「……暇ですね」
口に出してから、自分で少し笑った。
私は伯爵令嬢である。
貴族令嬢なのだから、暇なら刺繍でも読書でもすればいい。
そう思って書斎へ向かった。
机の上には、古い手帳が一冊置かれていた。
三年間使い続けたものだ。
ページをめくる。
『四月三日 殿下、午後二時に財務局との会議』
『四月五日 南街区の孤児院に毛布を追加』
『四月七日 殿下、剣術大会の視察』
『四月八日 殿下、昨夜の晩餐会について国王陛下から注意』
最後のページを開く。
そこには、今日の日付が書かれていた。
『九月二十四日 予定なし』
私はしばらく、その文字を見つめていた。
そして手帳を閉じた。
「……本当に、何もないんですね」
その日の昼。
私は庭でお茶を飲んだ。
誰にも呼ばれない。
何かを確認する必要もない。
初めて、自分のためだけに淹れた紅茶だった。
少しだけ、ぬるかった。
でも。
「おいしい」
そう呟いた。
三日後。
王宮から一通の手紙が届いた。
差出人は王太子殿下だった。
内容は短かった。
『一度、王宮へ来てほしい』
私は少し迷ってから、断りの返事を書いた。
『婚約解消に伴い、私には王宮へ出向く理由がございません』
「殿下に対して断りの連絡を入れるなんて、非常識でしょうか。......まあ、あの方なら許してくれるでしょう」
結局書き直しをせず、王宮へと提出した。
翌日、すぐに返事が来た。
『分かった。ではこちらから伺う』
そして午後。
王太子殿下が、私の屋敷を訪れた。
「久しぶりだな、リディア」
「ご無沙汰しております」
応接室で向かい合う。
王太子殿下は、机の上に数枚の書類を置いた。
それらには見覚えがあった。
「これは君が作ったものか?」
「はい」
「南部の穀物輸送計画」
「はい」
「王都の医薬品備蓄表」
「はい」
「今年の冬に不足する可能性がある薪の予測」
「……はい」
私は首を傾げた。
「何か問題がございましたか?」
「逆だ」
王太子殿下は深く息を吐いた。
「問題がないことが問題なんだ」
「?」
「君が婚約を解消してから、王宮の業務が妙に滞っている」
「……そうなのですか?」
「そうだ」
殿下は一枚の紙を取り上げた。
「南部への救援物資が、二週間遅れている」
「まあ」
「医薬品の発注が重複している」
「それは大変ですね」
「国境視察の日程が、三人の官僚から別々に提出された」
「……」
「そして我が弟は昨日、三件の会議をすっぽかした」
私は少しだけ目を伏せた。
「それは……私にはもう関係のないことです」
「そうだな」
王太子殿下は頷いた。
「だから、君を責めるつもりはない」
その言葉に、私は少し安心した。
ところが。
「ただ、一つ聞きたい」
「はい」
「君は、本当に自分が何もしていなかったと思っているのか?」
「……?」
質問の意味が分からなかった。
「私は、殿下のお仕事を手伝っていただけです」
「違う」
王太子殿下は首を振った。
「君は弟の仕事を手伝っていたんじゃない」
書類を一枚、私の前へ差し出す。
「弟が仕事をできるように、環境そのものを整えていた」
私は黙った。
「三年前、弟が王族としての責任を果たせるように、君は各部署の担当者を覚えた」
「……」
「問題が起こる前に、原因を調べた」
「……」
「弟が叱られるような失敗をしそうになれば、先回りして修正した」
「それは……婚約者として当然かと」
「違う」
王太子殿下は、少し悲しそうに笑った。
「それを当然だと思っている君自身が、一番危うい」
私は返事ができなかった。
「リディア」
「はい」
「君は、自分が誰かに必要とされたことがないと思っているのか?」
「……分かりません」
本当に分からなかった。
必要とされたことはある。
仕事を頼まれたこともある。
相談されたこともある。
けれど、それは全部「できるから」だった。
だから。
「必要とされることと、大切にされることは、別だと思っていました」
王太子殿下が黙った。
やがて、静かに言った。
「そうか」
それだけだった。
それから一週間。
私は何もしなかった。
いや。
正確には、自分のためのことだけをした。
本を読んだ。
庭を散歩した。
昼寝をした。
街へ買い物にも行った。
そこで偶然、昔から知っている商人に会った。
「お嬢様!」
「お久しぶりです」
「お元気そうで何よりです!」
商人は嬉しそうに笑った。
「そういえば、以前お嬢様に教えていただいた帳簿の付け方、今でも役に立っています」
「私が?」
「ええ。あれのおかげで、店の損失がずいぶん減りました」
私は少し驚いた。
「……そうでしたか」
「はい」
商人は笑った。
「ありがとうございました」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
帰宅すると、また手帳を開いた。
最後のページ。
『九月二十四日 予定なし』
そのページ以降白紙だった手帳。
私はその下に、初めて一行を書き足した。
『十月二日 商人街へ行く』
さらに。
『十月三日 庭で読書』
そして少し迷ってから、
『十月四日 何をするか、その日に決める』
と書いた。
予定を管理することしか知らなかった私が。
初めて、予定を決めない予定を書いた。
それから一月後。
王宮から、また手紙が届いた。
今度は第二王子からだった。
『話がしたい』
私は指定された場所へ向かった。
王宮の庭。
そこには、少しやつれた殿下が立っていた。
「久しぶりだな」
「はい」
「……君がいなくなって、色々と分かった」
私は黙っていた。
「僕は、1人で何でもできると思っていた」
「……」
「違った」
殿下は苦笑した。
「君がいたから、何もできなくても問題が起きなかっただけだった」
私は何も言わなかった。
「もう一度、婚約を結び直してほしい」
風が庭を抜ける。
「今度は、君をちゃんと大切にする」
私はしばらく殿下を見つめた。
「申し訳ありません」
頭を下げる。
「お断りします」
「……どうしてだ?」
「私が、一人でも大丈夫だからです」
殿下が息を呑んだ。
「君は……」
「以前、殿下がおっしゃったではありませんか」
私は笑った。
「私なら一人でも大丈夫だと」
「それは……」
「おかげで、分かりました」
私は庭の向こうを見た。
そこには、秋の花が咲いている。
「私は、誰かに必要とされなければ生きられない人間ではありませんでした」
「……」
「ただ、誰かに大切にされることを知らなかっただけです」
殿下は何も言えなかった。
頭を下げてから、私はその場を離れた。
屋敷へ戻る途中。
私は街角の小さな店へ入った。
以前から気になっていた菓子店だった。
「これを一つください」
焼き菓子を買う。
店員が紙袋を渡してくれた。
「ありがとうございました」
私は店を出た。
秋の風が少し冷たい。
けれど、不思議と寒くなかった。
屋敷へ戻り、自室で焼き菓子を食べる。
甘い。
少しだけ、笑った。
机の上には、あの古い手帳がある。
私は新しいページを開いた。
そして、今日の日付を書いた。
『十一月三日』
その下に、少し考えてから。
『今日は、好きな店で焼き菓子を買った』
さらに、その隣へ。
『誰かのためではなく、自分のために』
そこで筆を止める。
以前の私は、予定を埋めることで安心していた。
誰かのために働けば、自分にも価値があると思えた。
けれど今は違う。
何も予定がなくても。
誰かに頼まれなくても。
私は私として、ここにいる。
だから最後に、一行だけ書き足した。
『明日は、何もしない』
窓の外で、風が鳴った。
私は手帳を閉じる。
そして、初めて。
明日のことを心配せずに眠った。




