多重障碍者
佐千子が生まれたとき、浜中は医者に呼び出された。ただごとではないと思った。浜中は覚悟を決めて診察室をノックした。固い音が短く響いて、すぐに途切れた。ノックの後の静けさが浜中のこれからを暗示しているような気がした。
佐千子は弱視で、ごく近くのものは見えるが、二メートルも離れると見えない。耳はまったく聞こえず、いつまで経っても言葉を話せるようにはならないと医者は言った。病名はチャージ症候群で、原因は遺伝ではなく、妊娠中の突然変位だと医者は説明したが、「遺伝ではない」という説明は慰めかも知れないと思った。
佐千子はひどく臆病で、いつまでも成長しようとしなかった。ハイハイしようともせず、歩くこともできなかった。歩行器に乗せると怖がってしがみついた。遊びも覚えようともしなかった。いつまで経っても身体も小さいままで、大人になっても幼稚園児くらいの大きさしかなく、膝の上に抱くことができた。胸の膨らみもなく、生理もなかった。佐千子はいつまでも成長しない永遠の赤ん坊のように見えた。
平日の昼間は浜中が会社に行っていたから、佐千子の世話はもっぱら妻の役割だった。夕方帰宅すると、浜中が佐千子の世話をした。
佐千子と浜中のコミュニケーションは主にスキンシップとジェスチャーに拠った。浜中は佐千子を膝の上に載せて、体に回した手で佐千子をくすぐった。佐千子は身をよじらせながら、キャッキャッという奇妙な声を上げて喜んだ。なにかをして欲しいときには佐千子は浜中を引っ掻いた。膝の上に座ったまま腿を引っ掻くこともあったし、身体を回して向き直ってから首に手を回し、首の裏を引っ掻くこともあった。何をして欲しいのかということは、その場の状況から推測するしかなかった。
佐千子は寝かされていることが多かった。佐千子はひどく人懐っこく、目の前まで近づくと浜中の姿を見つけて、ニコッと笑った。佐千子のその笑顔は素敵だった。佐千子は上に向けて両腕を伸ばして抱っこをせがむことがあった。抱上げると、一方の腕を伸ばして行きたい方向を示したり、引っ掻いたりした。
佐千子は温かい風呂が好きだった。膝の上に抱いて湯船に沈むと、佐千子は声をあげて喜び、のびのびと手足を伸ばした。
佐千子を寝かせるのも浜中の役割だった。手足が細く身体が小さい佐千子が布団に入っても布団は温まらなかった。浜中は佐千子に添い寝して、佐千子の脚を浜中の腿の間に挟んで温め、布団も温めた。佐千子は浜中に縋りついて眠った。夜中に佐千子は浜中を蹴り出すことがあった。浜中は敷布団から追い出されたが、時々寝呆けて佐千子から掛け布団を奪ってしまった。
佐千子が十八歳を過ぎて呼び方が「障碍児」から「障碍者」に変わると、障碍者施設が早速入院を勧めてきた。浜中はまだ世話ができると考えていて、預けるつもりはなかった。断ると、翌年にも勧めてきた。
妻は施設に預けたいようだった。佐千子が生まれてから二十年近くの間、妻は自由に外出することができなかった。妻は旅行好きだったが、一度も旅行に出かけたことがなかった。地域のスポーツサークルに参加することもできなかったし、コンサートに出かけることもできなかった。
たくさんの障碍者が順番を待っているのだから、施設の方から誘ってくれるのは特別なのだ、と妻は説明した。それに、好きなときに外泊して帰ってくることもできるのだった。
今は世話ができても、いつまでも世話できるわけではない。浜中は佐千子を入院させることにした。入院した佐千子は、約束通り、時折外泊許可を得て我が家に帰ってきた。外泊のときには十日から二週間の間我が家で過ごした。その間、浜中は、会社から帰宅すると、佐千子の笑顔を見ながら、一緒に風呂に入り、一緒のふとんで寝た。
しかし、感染症が流行るようになると、施設は外泊を許可しないようになった。面会することはできたが、アクリル板越しで、しかも、三メートルほど離れて面会できるだけだった。
浜中と妻は頻繁に面会に出かけた。しかし、佐千子に触ることはできず、スキンシップを図ることはできなかった。浜中と妻は、何メートルも離れた位置から手を振った。佐千子は椅子に腰掛け、その前のテーブルに頬杖を突いたまま、そっぽを向いて浜中や妻の方を見ようとしなかった。佐千子は痩せて、その手足は一層細くなっていくように見えた。
浜中は大きな声で佐千子を呼んだ。佐千子は相変わらず知らん顔をしていた。
浜中と妻は何度も手を振り、何度も佐千子を呼んだ。しかし、佐千子は一度も浜中たちを振り向こうとしなかった。
妻は浜中に、もうわたしたちを忘れてしまうかも知れないね、とポツリと言った。浜中には返事ができなかった。




