第5話|止まった時間
去年の5月のある日。
ステージから降りながら、雨夜凛は手応えがあった。
呼吸も、振りも、感情の積み上げも——崩れたところがない。
少なくとも今回のラウンドにおいて、自分は誰よりも完璧なステージを披露できたという自負があった。
照明が落とされ、審査員席に向けて顔を上げた。
——きっとお父さんも褒めてくれる。
お父さん——雨夜玲志と目が合った瞬間、凛の時間は止まった。
その視線には、喜びも誇りもなかった。
そこにあったのは、恐怖に近い感情だった。
まるで見てはいけない何かを目撃してしまったかのような、露骨なまでの恐れと拒絶が混じっていた。
その眼差しを認識した途端、凛の頭の中で何かがぷつりと切れてしまった。
その後、オーディションの収録がどう続いたのか、誰が何を言い、どんな指示が出されたのか——
記憶は完全に欠落していた。
***
去年の6月のある日。
オーディションの放送日。
練習室の片隅に集まった練習生たちは、沈黙の中でモニターを見つめていた。
画面の中の雨夜凛は、本人が知っている『あの日の自分』とは別人だった。
完璧だと確信したステージは、無惨な形で切り取られていた。
——誰の目にも『実力不足』としか映らないステージになっていた。
——ああ、そういうことか。
ようやく、お父さんの視線の意味を悟った。
言葉はなくとも、あの眼差し一つですでに結論を下されていたのだ。
不思議と、怒りは湧かなかった。
代わりに、冷え切った納得が心の底に沈殿していった。
どこで間違えたのだろう。
いくら思い返しても答えは出なかった。
レッスンをサボったこともないし、個人練習の時間だって誰よりも長かったという自負がある。
だとすれば——
才能が、なかったのだろうか。
その考えだけが、頭から離れなかった。
隣で映像を見ていたSTARZENの練習生、越智庵が舌打ちを漏らした。
「……これ、おかしいだろ」
庵が立ち上がろうとするのを、隣にいた諸星メイの双子の弟であり、凛の幼馴染でもある諸星カクがそっと制した。
庵の眉間には深い皺が寄っていたが、カクは唇を噛み、〈今はまだその時じゃない〉と言うように首を横に振った。
二人の間で静かな緊張が走った。
だが凛は、モニターから目を離せずにいた。
練習室にノックの音が響き、ドアが開いた。
「凛くん、ちょっといいかな」
スタッフの一人が、凛を手招きした。
***
呼び出された会議室で告げられた言葉は簡潔だった。
練習生契約の解除。
理由についていくつかの説明があったが、凛の耳にはほとんど届かなかった。
担当者が、淡々と告げた。
「今日中に、荷物をまとめてください」
申し訳なさそうな口調であったが、彼もまた、決定を伝えるだけの立場に過ぎない。
「承知しました。お世話になりました」
凛は軽く一礼し、会議室を後にした。
***
練習室に戻り、凛が黙々と荷物をまとめ始めると、周囲の空気がざわついた。
練習室で荷物をまとめることが何を意味するか、誰もが理解していたからだ。
だからこそ、凛に声をかけられる者は一人もいなかった。
「凛」
その場で唯一、練習生ではない立場にいたカクが、そっと声をかけた。
「落ち着いたら、連絡して」
凛は短くうなずいただけで、何も言わずに練習室を出た。
***
1階のロビーで、篠原恒一郎に出くわした。
篠原も、いつものブリーフケースではなく、大きなカバンを手にしていた。
篠原は凛の顔色をうかがい、一つ息を整えてから言った。
「凛くん、今、時間あるかな。一緒にコーヒーでも一杯どうだい?」
凛はうつろな表情のまま、深くうなずいた。
***
STARZEN社屋の近くにあるカフェ。
コーヒーが冷めていく間、二人は言葉を交わさなかった。
カフェ特有の穏やかな喧騒だけが、二人を包んでいた。
焦点の定まらない凛の顔を、痛ましげに見つめていた篠原が先に口を開いた。
「今回のことは……残念だったな」
その言葉は、凛の心にはあまり響かなかった。
篠原は続けた。
「凛くんは何でもこなせる器用な子だ。アイドル以外にも、その才能を広げられる場所はいくらでもある。アイドルだけが人生の答えじゃない」
その言葉に、凛はゆっくりと顔を上げた。
「アイドル以外は……考えたことがありません」
その瞳にわずかな生気が戻るのを見て、篠原は穏やかな笑みを浮かべた。
「そうか。それが君の望む人生なら、これ以上は言わないでおこう」
篠原がコーヒーを飲むと、凛もそれに倣って一口飲んだ。
篠原がカップを置いた。
静寂の中に、その小さな音だけが残った。
「アイドルになる道は、STARZENでデビューすることだけだと思っているかもしれない。だが、世界には様々な方法がある」
それ以外の道は考えたことのなかった凛は、篠原の言葉を聞き逃すまいとした。
「プレデビューもあれば、地下アイドルもある。小さな会社から始める方法だってある。正直に言えば、どの道もSTARZENでデビューするよりずっと過酷だし、失敗する確率も高いだろうがね」
しばらく沈黙が流れた。
凛も、STARZENでのデビューが成功への最短距離であることは理解していたため、再び視線を落とした。
その視線の先で、篠原の傍らに置かれた見慣れない大きなカバンが目に入った。
凛は思わず口にした。
「いつものカバンとは違いますね」
「あ、これかい?」
篠原は照れくさそうに笑いながら、カバンを軽く叩いた。
「実は、この話をどう切り出そうか迷っていたんだが、君の方が触れてくれて助かった。俺も今日付で、STARZENを辞めたんだ」
「え……?」
思いがけない知らせに、凛は思わず声を漏らした。
「小さな芸能事務所を立ち上げるつもりだ。名刺はもうできているよ」
篠原は凛に一枚の名刺を差し出した。
——篠原 恒一郎 Unites 代表取締役
凛は思わず、名刺に書かれた文字を口の中で繰り返した。
「Unites……」
「どうかな?うちに来ないか?」
凛は答えず、渡された名刺をただじっと見つめていた。
「メイちゃんも呼ぶつもりだ」
「メイには、STARZENがあります」
篠原は困ったように視線をそらした。
凛が淡々と見つめ返すと、篠原は短く息を吸って口を開いた。
「知らなかったのか。メイちゃんも今日付で、STARZENから出入り禁止になったんだ。……いや、この場合は『追放』と言った方が近いかもしれない」
その言葉に、凛の瞳が大きく揺れた。
「……おかしいです。メイが俺にしてくれたアドバイスは完璧でした。俺が、それを完全には体現できなかっただけで……」
あのステージが脳裏をよぎり、声が震えた。
「俺も詳しい事情は知らない。会社を出る前に偶然小耳に挟んだだけだ」
その言葉を聞いた瞬間、凛の心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
——俺がステージを台無しにしたせいだ。それ以外に、メイが追放される理由など思い当たらない。
そこまで思い至ると、凛の瞳に確かな焦点が戻った。
篠原はその変化を見逃さなかった。
「正直に言えば、うちはSTARZENほどの財力はない。だが、君がステージで輝けるよう、できることは全部やる。……証明しなきゃならないんじゃないか、君自身が」
その言葉で、吹き消されていた情熱の火が再び灯った。
ここで止まれば、お父さんから永遠に認められないまま生きることになる。
ここで止まれば、俺を信じてくれたメイの選択までも、無意味になる。
ここで止まれば——
俺は、逃げたまま終わる。
空虚だった凛の瞳に、強い決意が宿った。
その変化に、篠原は言葉を失った。
凛はポケットからスマホを取り出し、すぐに電話をかけた。
案内音声が流れるだけで繋がらず、一度通話を切った。
だが、もう一度かけた。
今度は繋がった。
「メイ、今どこだ?」
スマホの向こうからは、激しい雨の音しか聞こえなかった。
凛は動きを止め、その音に神経を集中させた。
雨音の隙間から、かすかに響くすすり泣き。
それがメイのものだと確信した瞬間、凛は通話を切り、勢いよく立ち上がった。
「凛くん、どうしたんだ?」
困惑する篠原の目を見て、凛は言った。
「俺のプロデューサーを、迎えに行ってきます」
微笑む凛の黒い瞳の奥に、青い光が宿っていた。




