第4話|奪われた夢
去年の6月のある日。
日本最大級の男性アイドル所属事務所『STARZEN』本館上層部。
役員のみが出入りを許される会議室。
ガラスパネル越しに見える東京都心。
6月の重苦しい雨が降り注いでいた。
広くて冷え切った会議室の真ん中。
制服姿のメイと、彼女とよく似た空気をまといながらも、より都会的で冷徹な中年の女性——STARZENの代表プロデューサーであり、メイの母の諸星静香とが、大きなテーブルを挟んで向き合っている。
「今日、ここに呼んだ理由は分かっているわね」
静香はシルバーの眼鏡を掛け直し、書類をめくった。
紙をめくる音だけが室内に響き、そのたびメイの拳に力がこもる。
「はい、分かっています」
静香は書類ファイルを滑らせるように差し出した。
「自分の目で確かめなさい」
メイは黙って受け取った。
***
——諸星メイ、規定違反による立ち入り禁止処分
——諸星メイは、以下の規定違反により、今後STARZEN全施設への出入りを全面的に禁ずる
太字で記された処分概要。
ページをめくると、違反内容と日時、状況が並んでいた。
初耳の内容はなかった。
事前に「やるな」と釘を刺されていた件も含まれていた。
それでも、
——私は諸星静香の娘なのだから、多少は見逃してくれるかもしれない。
という甘い期待を完全には捨てきれなかった。
だが、出入り全面禁止という処分の重さには納得がいかなかった。
「しっかり目を通しなさい。読み終えてから話を進めるわ」
丁寧だが冷たい口調。
メイは唇を噛み、最後まで読み切った。
「……読み終わりました」
「そう」
静香は視線を落としたまま告げた。
「結論から言うわ。今日付で、貴方は理由を問わずSTARZEN全施設への立ち入りを禁じます。異論はある?」
違反は事実だった。
だが——
処分は、重すぎると感じていた。
だから、メイは口を開いた。
「私の間違いは認めます」
そして、続けた。
「でも、この処分は不当です。やりすぎです!」
静香の眉がわずかに動いた。
「会社が準備してきた今回のオーディション番組が、どれほど重要なものか理解しているの?」
声は低く、圧迫感を帯びる。
「貴方の勝手な行動で、長年準備してきた企画が崩れるところだった。『番組の公正性』に関わる規定違反は、前例がないほど重いのよ」
メイの胸が締め付けられる。
「公平を期すために、出演練習生と距離を置くよう命じたはずよ」
静香の鋭い視線が、まっすぐメイを貫いた。
「それを貴方は無視した」
メイは言葉を失った。
オーディションに出演する練習生にアドバイスをしたのは事実だ。
今思えば——
それは超えてはいけない『介入』だった。
それでも、メイは顔を上げた。
今、問題なのは自分への処分だけではない。
「でも……凛のステージをあんな風に台無しにするなんて、どう考えても酷過ぎます! やってはいけないことだったはずです!」
メイの瞳は怒りで震える。
「現場のスタッフも、他の練習生たちも、全員の反応が良かった。完璧なステージだったんです!……なのに、どうしてあんな放送をしたんですか!?」
訴えるような声に、涙の気配が滲んだ。
しかし、静香の表情は揺れない。
「それが、プロデューサーの責任というものよ」
冷たく、明快な回答だった。
静香は続けた。
「貴方の感情的な介入で公平性が崩れた。そして、その代償を払わされたのが——凛だった」
「意味が分かりません!責任を取るなら、私だけでいい!」
メイの声が荒れる。
しかし静香は、淡々と言い切った。
「プロデューサーはステージに立たない。失敗のツケを払うのは、常にステージに立つ者。それがこの業界のルールよ」
メイは息が詰まるような感覚に陥った。
「……凛が受けたペナルティは、私のしたことに対して重すぎます」
「重さを決めるのは、貴方じゃない」
静香はきっぱりと言い放った。
「会社が決めるのよ」
まだ高校生のメイには、あまりにも不条理だった。
静香は構わず言い切った。
「上の決定に従う。それが社会なのよ」
「……私の処分は受け入れます。でも、凛のステージだけは、返してあげてください。もう一度だけ、チャンスを……」
しかし、静香は静かに首を横に振った。
「凛も今日付で、STARZENの練習生ではないわ」
その瞬間、メイがテーブルを回り込み、静香に駆け寄った。
そして、彼女のジャケットの裾をぎゅっと掴み、泣き叫ぶように声を上げた。
「どうしてそんなことができるんですか!」
静香は答えなかった。
「夢まで奪って……凛に、これからどうしろというんですか!」
静香の冷ややかな眼差しが、メイを見下ろした。
「凛の夢を奪ったのは、貴方よ。貴方の浅はかな介入が」
心臓が刃で貫かれたような痛みが走る。
静香は追い討ちをかけるように、冷静に付け加えた。
「そもそも『貴方たち二人』に、ここにいる資格など最初からなかった。中高生がこの会社に出入りできたのは、業界を学びたいと私に乞い——そして何より、『私の子供』だったから特別に許されていたに過ぎないわ」
その瞬間、メイの手から力が抜けた。
——貴方のその浅はかな介入が、凛の夢を奪ったのよ。
その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。
静香は、少しだけ声音を和らげた。
「親としての義務は果たすわ。進学も自立も支援する」
そして、冷たく言い切った。
「けれど、STARZENで働く機会は、もう二度とないわ」
***
会議室から出たメイは、うつろなままエレベーターに乗り、1階のロビーへ降りた。
ロビーでは、STARZENの練習生である花岡朔弥が、メイを見つけて駆け寄ってきた。
「メイ、大丈夫か?」
メイは焦点が合わない目で、機械的にうなずいた。
朔弥は、メイの手に傘がなく、スマホしか持っていないことに気づき、自分が使っていた折り畳み傘を差し出した。
「外、すごい雨だよ。よかったら、これ——」
「いい。大丈夫。ありがとう」
メイは傘を受け取ることなく、そのままゲートに向かって歩き出した。
朔弥は、力なく去っていくメイの後ろ姿を見送ることしかできなかった。
彼も同じ練習生として、メイと凛とはそれなりに親しくしていた。
凛の脱落がメイにとってどれほどの衝撃か、痛いほど理解していたのだ。
朔弥は、差し出した傘を引っ込めるしかなかった。
***
建物の外へ一歩踏み出した瞬間、容赦なく冷たい雨粒がメイの頭上に叩きつけた。
「雨、降ってる……」
冷気に打たれ、麻痺していた感覚が少しずつ呼び覚まされていく。
メイは手のひらをかざすまでもなく、自分がどれほど濡れているかを悟った。
髪は一瞬にして、びしょ濡れになっていく。
会議室で浴びせられた言葉が、何度も頭を巡る。
「素敵なステージが見たい」という純粋な善意から出た行動が、一人の人生を台無しにしてしまった。
その耐えがたい罪悪感が、濁流のように押し寄せてきた。
メイはその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込み、声を押し殺して泣き始めた。
子供の頃から、双子の弟と共に3人で育ち、兄妹同然に過ごしてきた凛。
今まで見てきたどの練習生よりも、アイドルとして天賦の才にあふれていた凛。
アイドルでない凛の姿など、一度だって想像したことがなかった。
なのに——
想像もしたくなかった事態を、自分の手で引き起こしてしまった。
小さい頃から「お父さんのような素晴らしいアイドルになる」と語っていた凛に、
「私はプロデューサーになって、凛を一番輝かせてあげる」
と誓った自分が、彼の夢を、未来を、すべて奪ってしまったのだ。
——それが、プロデューサーの責任というものよ。
その重圧を背負うには、自分はあまりにも無力で、幼すぎた。
責任感という見えない枷が首を締めるように、呼吸が苦しくなっていく。
せめて息だけでも吸おうと、メイはさらに激しく体を震わせながら、声を押し殺して泣き続けた。
その時、手の中でスマホが震え始めた。
振動が絶え間なく続くため、メイは顔を上げ、涙でにじむ画面を覗き込んだ。
——凛
メイはスマホを壊れそうなほど強く握りしめ、再び顔を伏せた。
——今さら、私に何が言える……。
振動はようやく止まった。
メイは安堵とも絶望ともつかないため息を漏らした。
しかし、再びスマホが震え始めた。
画面には、またしても凛の名前が浮かんでいた。
「……出ないと、ずっとかけてくるよね」
メイは半分諦めた顔で、震える指を動かした。
通話ボタンをスライドさせる。
通話時間がカウントされ始めた瞬間、スマホ越しに凛の声が届いた。
その声を聞いた途端、メイの瞳からまたしても涙が溢れ出し、彼女は服の袖に顔を埋めて、声を殺してすすり泣いた。
そして、沈黙を破るように、凛の声が静かに響いた。
「メイ、今どこだ?」




