第3話|それでも、踊りたい
音楽が止まった。
激しく降り注いでいたビートの余韻が、暗い商店街のシャッターに跳ね返り、静かに消えていく。
理月はスマホを操作して画面を落とした。
肩で荒い息をつきながら、深く曲げていた腰をゆっくりと起こした。
額を伝う汗の雫が、コンクリートの床に点々と染みを作っていく。
「……やっぱり、見間違いじゃなかった」
メイは暗がりの奥に足を止め、静かに声をかけた。
「メイちゃん?!」
背後から聞こえたメイの声に、理月ははじかれるように振り返った。
動揺のあまり、日頃の余裕に満ちた低音はどこかへ消え、情けないほど声が裏返っている。
メイは暗がりの奥から、一歩、また一歩とゆっくりと歩み寄ってきた。
街灯の光に照らされた彼女の瞳は、確信に満ちて静かに輝いている。
「踊ってる時のその笑顔が、本物なんですね」
理月は言葉を失った。
何かを言い返そうと開いた唇が、かすかに震え、また閉じる。
さっきまで全身から放たれていた熱が、一瞬にして冷え込んでいくようだった。
「今のダンスを見て……3年前まで全国大会を総なめにしていた、あの『須賀理月』さんですよね」
「……」
「変に聞こえるかもしれませんが、理月さん、好きなものを諦めるには、まだ早すぎ——」
「何も分かってないくせにっ——!」
刹那、空気が凍りついた。
昼間、精肉店のカウンター越しに見せていた穏やかな青年の顔は、そこにはいなかった。
理月の表情から放たれる冷え切った圧に、メイは思わず足を止める。
鋭い視線が、逃がさないとでも言うように彼女を射抜いていた。
自分の激情に気づいたのか、理月の瞳がわずかに揺れた。
彼は焦ったようにメイへ手を伸ばしかけたが、それよりも早く、背後の暗がりから聞き慣れた声が響いた。
「理月。女の子を怒鳴りつけたら、怯えるのが当たり前じゃない。あんた、ただでさえ背が高くて威圧的なんだから」
理月の背後から、母親が現れた。
彼女は硬直しているメイに歩み寄り、日だまりのように穏やかな微笑みを向けた。
「外は暗いし、うちに入りなさい。すぐそこだから。ね?」
その瞬間、張り詰めていた糸がふっと切れた。
ぐうぅぅ——
静かな夜の商店街に、メイの腹の音が盛大に鳴り響いた。
「……飯、食ってねぇのか?」
理月の、呆れたようでいてどこか気遣う声に、メイの顔は一気に真っ赤になった。
***
理月の家に招かれ、メイは夕食をご馳走になることになった。
「メイちゃん、こんなに遅くまで出歩いてたら、ご両親が心配なさるわよ」
「一人暮らしなので……大丈夫です。いただきます」
メイは小さく頭を下げ、箸を取った。
ついさっきまで緊張で食欲などなかったはずなのに、温かいご飯がすんなり喉を通っていく。
向かい側に座る理月は、先ほどのことを気にしているのか、メイと目を合わせようとせず、黙々と茶碗を口に運んでいる。
母親はそんな息子の様子を面白そうに眺め、メイにも優しい視線を向けていた。
「娘がいたら、こういう感じかしらね」
メイは少し間を置いてから、静かに顔を上げた。
「……すごく美味しいです。ありがとうございます」
家の中には、食器が触れ合う音だけが響く、穏やかな沈黙が訪れた。
ただ、メイはこの温かな空気に甘えるつもりはなかった。
メイは箸を置き、背筋を伸ばして口を開いた。
「理月さんが、あの『須賀理月』だったこと——今さっき、やっと気づきました」
メイは言い終えると、悔しそうに拳を握りしめた。
プロデューサーを名乗りながら、これほどの逸材に気づけなかった自分自身の未熟さが、何よりも許せなかったのだ。
「いいのよ。メイちゃんが毎日お店に来てくれるたびに、この子がダンスに打ち込んでた頃を思い出せて、私は嬉しかったわ。久しぶりに昔の動画まで見返しちゃった。私まで若返ったような気分だわ」
「母さん!」
母親の言葉は止まらない。慈愛に満ちた、けれどどこか寂しげな視線が息子に向けられる。
「理月は責任感が強い子なのよ。お父さんが亡くなって、家業を継がなきゃいけないからって——あんなに大好きだったダンスもすぐに辞めてしまってね。あの時は頼もしい息子だと思ったけれど、今はそれがこの子を縛り付けているようで、申し訳なくて」
その事情の重さは、メイが安易に踏み込める領域ではなかった。
だが、母親は理月をまっすぐに見つめ、背中を押すように告げた。
「家業を言い訳にするのは、もうおしまいにしていいのよ」
理月の肩が、かすかに震えた。
「あんたがダンスを辞めるって言った時、本当に未練がないんだと思ってたわ。でも……」
「母さん、もういいって」
「未練がない子が、あんなに毎日練習するわけないじゃない。メイちゃんが初めて来た日の夜から、毎晩遅くまでシャッターの前で踊ってたの、お母さんは全部知ってるわよ」
隠し通せていると思っていた努力は、母親にはすべてお見通しだった。
理月は視線をそらし、唇を噛みしめる。
「その前だって、週に3回はこっそり練習してたわよね。あんたのスニーカーの減り方を見れば分かるわ」
母親のトドメの一言に、理月は絶句した。
「またあの場所に戻るのが、怖いの?」
理月が最も隠したかった感情が、母親の静かな声によってあらわになった。
居間には、再び重い空気が流れ込んだ。
「理月さん」
メイはそっと口を開いた。
「正直に言うと、何が怖いのか私にはまだ分かりません」
母親の言葉には、メイが知らない過去の断片が見えた。
けれど、この2週間、店で見てきた理月という男は、十分に魅力的な人物だった。
「現役より腕が落ちたのが怖いですか? 私は、さっき見たあなたのダンスと表情に、正直、目を離せませんでした。お肉屋さんの営業スマイルより、よほど本物です」
「……あのスマイル、結構練習したんだけどな」
理月が自嘲気味に呟いた。
そのわずかな隙を、メイは見逃さなかった。
「『辞める』という選択は、本当に100%あなたの意志ですか? そうじゃないから、今まで一人で、誰に見せることなく踊り続けてきたんじゃありませんか?」
メイのまっすぐな追及に、理月は何も言い返せなかった。
心の奥底に押し込み、蓋をしていた欲望が、激しく渦巻いているのが伝わってくる。
「……だから、逃げなくていい。アイドルとして一緒にデビューするメンバーもいます。私もいます——一人になんてさせません」
少女の、あまりにも根拠のない、けれど揺るぎない宣言だった。
理月は言葉を失い、ただ彼女の瞳を見つめた。
その瞳には、彼がかつてステージの上で見ていた光と同じものが宿っているように見えた。
「今度は私を信じて、ついてきてください!」
メイの揺るぎない瞳が、理月を射抜く。
その目を見た理月は、ついに観念したように、困ったような、それでいてどこか晴れやかな顔で笑った。
「……参ったな。そこまで評価してくれるのはありがたいけどさ。もし判断が間違ってたら、どうするつもりだ?」
「その時は、私が責任を取ります」
「は?」
理月の眉がかすかに動いた。
メイは構わず続けた。
「私が作ったアイドルは——私が最後まで、責任を持って守り抜きますから」
迷いのないその言葉に、理月はまぶしいものを見るように目を細めた。
長く彼を縛り付けていた鎖が、今、音を立てて外されたようだった。
「……分かった。今回は信じてみる、『メイさん』」
須賀理月。
彼はUnitesの2番目の練習生となった。




