第一話:プロローグ
ザー…… テレビから流れるノイズが、ある悲劇を報じていた。 硬質で、淡々としたレポーターの声が、夜の静寂を切り裂く。
「――聖ジョアン通り18番地にて、死亡事故が発生しました。バイクの単独事故により、翠陵大学の男子学生一名が、その場で死亡したとのことです……」
その声は、まるで別世界から響いてくるかのように、ひどく遠かった。
――だというのに、俺は、そこにいた。
耳をつんざくような救急車のサイレン。 パトカーの赤と青の回転灯が、周囲のビルに乱反射して、物見高い野次馬の群れを割っていくのが見える。 道路は封鎖されていた。俺が死んだ、その『現場』が。
救急隊員たちが、俺の身体を手際よく搬送していく。 どこか非現実的で、奇妙にドラマチックな光景だった。担架に乗せられる自分の亡骸を、数十人もの住民たちが取り囲んで見つめている。その視線を感じることができた。
身体は硬直し、命の温もりなどどこにもない。 だというのに、俺の意識――と呼ぶべき何かが、ふわりと宙に浮いたまま、恐ろしいほど鮮明にすべてを観察していた。
そして、すべてが消えた。
一つ、また一つと、音が静寂に飲み込まれていく。 サイレンの轟音。パトカーの閃光。レポーターの呟き。 俺の死を眺めていた野次馬たちの、下世話な囁き声さえも。
すべてが、無に変わった。
◇◇◇
「――こ、ここはどこだ!?」
持っているはずのない唇から、声にならない声が漏れる。疑問が、頭蓋の内側で木霊した。 永遠に閉じたはずの瞼を――こじ開けると、真っ白な閃光が目に飛び込んできた。あまりの眩しさに、思わず目を細める。
やがて光が収まると、そこには信じがたい光景が広がっていた。ここは、もう俺のいた世界じゃない。 疑問が、より強い力で思考を殴りつける。いったい、どこなんだ、ここは?
どうして、俺がこんな場所に……?
見渡す限り、青々とした草原がどこまでも続いている。 妙にリアルなそよ風が肌を撫で、いつの間にか伸びたらしい枝毛混じりの黒髪を揺らした。
摩天楼もなければ、排気ガスもない。ただ、遠くに鬱蒼とした森が見えるだけ。 ポケットに入っていたスマホは? バッグの中のノートPCは? そんなものはもう、俺の身体と一緒に、思い出の中に埋もれてしまった。 それに……俺の毎日を彩ってくれた、最高にかわいい、彼女のことも。 こんな形で置いてきてしまうなんて……辛い。本当に、辛すぎる。
「おーい! 誰かいないかー!?」
静寂を破る叫び声が、思わず口をついて出た。おぼつかない足取りで、消えかかった獣道のような場所を歩き、人の気配を探す。
返事はない。 当たり前か。こんな森のど真ん中で、誰が応えてくれるというんだ。
旅の供は、耳慣れない鳥のさえずりのみ。 そして、一つ大きな問題があった。 俺は、全裸だった。 原始的な羞恥心に駆られ、そこらへんの枝や大きな葉っぱを拾い集め、とりあえず尻と前の息子を隠す。
数歩も歩かないうちに、どっと疲れが押し寄せてくる。頑丈そうな大木に裸の背中を預けた、その時だった。
ぐぅぅぅぅ……っ。
静寂の中、腹の虫が盛大に、そして恥ずかしいほど高らかに鳴いた。
「腹減った……!」
思わず呟き、きりきりと痛む腹を両手で押さえる。
生存本能が、思考を乗っ取った。 食べられそうなものを探して、血走った目で森の隅々まで見渡す。だが、その希望はすぐに打ち砕かれた。 この森は、見覚えのある死の罠で満ちていた。
あそこにある、美味そうな黒紫色の実は……ベラドンナ。ヨーロッパ原産の有毒植物。幻覚作用、瞳孔の散大、そして最悪の場合、死に至る。そんな知識が頭をよぎる。
その少し先には、綺麗なピンク色の花を咲かせた茂みが……キョウチクトウか。観賞用としては美しいが、猛毒を持つ。その毒は呼吸神経を麻痺させ、昔は汚職役人の極秘処刑に使われたなんて、馬鹿げた記事を読んだ記憶がある。皮肉なもんだ。
二度目も、馬鹿な死に方をするつもりはない。絶対にだ。
身体を奮い立たせ、再び歩き出す。目的は二つ。人を見つけるか、少なくとも毒のない食い物を見つけるか。
不思議なことに、この世界の陽光は優しい。故郷の国のように肌を焼くぎらぎらとした暑さはない。いつもなら鬱陶しい上着で守っていた小麦色の肌も、今は心地よく日差しを受け止めていた。
南西の方角へしばらく歩き続けた頃、木々の葉の間から反射する光が目に留まった。水面だ。湖だ。 考えるより先に、足が動いていた。残された最後の力を振り絞り、そこへ向かって走り出す。水が、必要だった。
ぜえ、はあ、と壊れた機械のような息が漏れる。熱く重い空気が肺を満たした。 邪魔な雑草や低い枝を乱暴に手で払い除ける。近づくほどに、湖の姿ははっきりと見えてきた。美しい、まさにオアシスだ。
だが、湖畔にたどり着く寸前で、俺の足はぴたりと止まった。 全身の筋肉が、まるで鍵でもかかったかのように硬直する。 そこに、何かがいた。俺の、ズタボロになった理屈では処理できない『何か』が。
(人間? 悪魔? それとも、物の怪か?)
そんな問いが、脳裏を嵐のように駆け巡る。
大木の陰に隠れたまま、俺は凍り付いていた。足元から微かな震えが這い上がり、全身へと伝播していく。これは、ただの恐怖じゃない。
――純粋な、戦慄だ。
目は釘付けになり、瞬きすらできない。 喉がカラカラに渇き、唾を飲み込むことさえ不可能に思えた。 こめかみから、一筋の冷や汗が頬を伝う。 その時、一つの事実が、巨大な槌のように俺の頭を殴りつけた。
元の世界では、神話の生き物なんて一笑に付していた。科学技術の前では、しょせん寝物語のおとぎ話だと。 だが今、ここで、信じなかったはずの俺が――信じることを、強制されている。
そいつは、断じて尋常な生き物ではなかった。 そいつは……とてつもなく、危険な存在だった。