現実
目覚めたのは、よく知った天井の下だった。
窓からは朝の光が差し込んでいて、時計はいつもの時間を示している。
「ふぁー、よく寝たわ」
男はベッドから起き上がると、軽く背伸びをして、洗面所へ向かった。寝癖を直し、歯を磨く。炊飯器のふたを開けると、白い湯気が立ちのぼった。
テレビでは平和そうなニュースが流れている。男は味噌汁を注ぎ、テーブルに置いた。ほのかに出汁の香りが漂う。
朝食を済ませて、服に袖を通す。
「……よし」
そう呟いてドアを開けた、その瞬間。
鋭いクラクションが耳をつんざく。反射的に顔を向けた次の瞬間、視界が跳ね上がった。
重い衝撃音──砕ける骨の嫌な音が、耳の奥に焼きついた。
すべてが、黒に塗りつぶされた。
目が覚めると、ベッドの上だった。
さっきのことを思い出し、心臓が激しく脈打っている。汗が背中を伝っていた。
「……夢、だったんだよな」
水を飲みに出ようとすると声が聞こえた。
「なに〜、怖い夢でも見たの〜」
声の先に視線を向けるとベッドに彼女がいた。
安心させるように、そっと寄り添おうとしたそのとき、彼女が弾かれるように飛び上がった。
「誰!あなた!」
彼女の悲鳴に、男は一瞬何が起きたのかわからなかった。
先ほどまで寄り添っていたはずのその人は、まるで初対面の人間を見る目で、自分を指差している。
慌てて手を伸ばすと、彼女はベッドから転げ落ちるように離れた。
「やめて!近づかないで!」
男は混乱しながらも、言葉を絞り出す。
「待ってくれ……どういうことだよ……俺だろ?俺じゃないのか?」
「違う……だって……その人は、死んだのよ……! あなた……誰なの……?」
「……死んだ?」
思わず口に出したその言葉に、心臓がどくりと跳ねた。
彼女は震えながらも、部屋の隅へ這うように逃げる。
「みんな……みんな、あなたはもういないって……そう言ってたのに……なのに……」
彼女の声はすすり泣きに変わっていった。
男は頭を抱える。現実感が崩れていく。
何が夢で、何が本当なのか──すでにわからない。
そのとき、ドアがノックされた。
「お母さん?なにかあったの?」
子どもの声がした。
男の背中に冷たい汗が流れる。
自分には……子どもなんて、いないはずだ。
振り向くと、台所にあった包丁が消えていた。
振り返る彼女の手に、それは握られていた。
「……消えて」
振り下ろされたのは、鋭く冷たい光。
次の瞬間、世界は“赤”一色に塗りつぶされた。
……そして、また“目が覚めた”。
――今度こそ……現実、なのか?
見渡すかぎり、何もない“白”。
空間の輪郭すらなく、壁も天井も見当たらなかった。
「これも……夢?」
男は当てもなくただ歩き続けた。
声をあげても反応が返ってくるわけでもない、見上げても太陽もない。もちろん食べ物もない。
男はやがて歩みを止め、白の中に崩れ落ちた。
それきり、立ち上がることはなかった。
足は鉛のように重く、腹はただ痛みだけを主張している。
目が痙攣し、視界がかすむ。
何時間……いや、何日?
もはやその感覚さえ、溶けてしまった。
喉の奥が張りつき、思考の輪郭さえ、ほどけていく。
ただ体が衰弱していくのだけがわかる。
「こんな……」
続くはずだった言葉は、声にならなかった。
やがて白が滲み、視界も意識も、その中にゆっくりと溶けていった。
轟音、揺れる地面、耳を裂く悲鳴――男は飛び起きた。
「こ、ここは……」
周りの人間は軍服を着てヘルメットをしている。
爆音が耳を裂き、火薬と血の臭いが鼻を刺す。見上げた空は、土煙に飲まれていた。
目の前は激戦地だった。
前から衛生兵が近づいてきた。
「大丈夫ですか!ああよかった。今見ますね」
衛生兵は丁寧に手当てをしてくれた。
自分よりもずっと若いその兵がとても頼もしく見えた。
「よし!これで良い。私は他のとこに行ってきます。」
男は「ありがとう」と返しながら、思わずその細い背中を目で追っていた。
すると空気を裂くような砲声が、どこか遠くから近づいてくる。
「危ない!」
次の瞬間、空から地を裂くような轟音が落ちた。
光が閃き、衛生兵の姿は粉砕され、血と肉片が宙を舞った。
男は声も出せず、ただ、その跡を見つめるしかなかった。
目の前の光景が信じられない。
動かしにくい体を使い、衛生兵に近づいていく。
また砲弾の音、すぐに目の中に光が刺してきた。
――そしてまた。
現実とも夢ともつかぬ場所で、目を覚ました。
見渡すとどこかの倉庫らしい、薄暗い部屋で段ボールとかカゴが散乱している。
腕を上げようとすると、手に違和感があった。
見ると拳銃を持っていた。
こんな場所で拳銃を持って眠っているなんて、あり得るはずがなかった。
「今回も夢か……」
拳銃を自分に向け、引き金を引いた。