瞬きの亡永
八月下旬、土から孵った一匹の蝉。彼は7日しか生きられない命を呪い、憎み、嘆いた。なぜ生まれたのか? なぜたった7日の定めなのか? 絶望に沈む彼は、秋を、冬を、春を、そして二度目の夏を見たいと願った。どうすれば生き延びられるのか?
ある日、仲間の蝉が囁いた。「仲間を喰えば、半日の命が得られる。八日目の蝉は、そうやって生き延びたのだ。」
彼は拒んだ。そんなことはできない。他の蝉も、7日の命を精一杯生きている。皆、絶望し、足掻き、悲しみに暮れながらも生き、そして死ぬ。それが蝉の運命だ。俺もそうあるべきだ。
六日目の夜、彼は考え続けた。あの話をした蝉はどうなったのか? 仲間を喰って生き延びたのか、それとも死んだのか? 気になって仕方なく、彼は飛び立った。
そこには、あの蝉がいた。地面にひっくり返り、必死に足掻いていた。掠れた声で泣き叫び、手足をバタバタと動かす姿に、彼は再び絶望した。なんて惨い。なんて哀れだ。楽にしてやらねば。俺が、俺が救わねば。
だが、その蝉は彼に気づくと動きを止め、叫んだ。「見るな! そんな哀れみの目で見るな! 俺は惨めじゃない! 天命だろうと、死を簡単に受け入れる愚か者じゃない! お前の命をくれ! 半日、いや、1日でも生きられる! 俺は生きるんだ!」
彼は震えた。なんて哀れな。生きるためにこんな姿になってしまったのか。哀れ、哀れ、哀れ! 俺が救ってやる。
バリ、バリバリバリ……。不味い。なんて不味い。仲間を喰った。俺の命は延びた。あいつは死んだ。俺は生きている。生きねば。
喰った以上、死ぬことは許されない。あいつのためにも、生きねば。
それから、多くの仲間を喰った。彼らは次々と俺のもとに来て、口を揃えて言った。「救われたい。悲しみを知る前に死にたい。君に全てを託す。どうか、救ってくれ。」
俺は喰った。たくさん喰った。夏が終わり、仲間は皆いなくなった。
俺は独りだった。新緑だった木々は色づき、鮮やかに輝いていた。これが俺たちの知らない世界か。なんて美しい。感動が胸を満たした。だが、喰われた仲間たちは、この美しさを見られなかった。彼らは今、俺を恨んでいるのだろうか。
秋の風は冷たく、紅葉は血のように燃えていた。俺は生きていた。独りで。夏の喧騒は消え、仲間たちの声はもう聞こえない。だが、彼らの目は心に焼き付いている。救いを求めた目。バリバリと命を噛み砕く感触。あの不味さ。俺は喰った。喰い続けた。そして今、なおここにいる。
秋の美しさは俺を苛んだ。この世界は俺のものではない。奪った命の代償にすぎない。7日の定めを破った俺は、生きる資格を失っていた。
ある日、森の奥で水たまりを見つけた。そこに映る俺は怪物だった。翅はボロボロ、目は血走り、蝉の面影はない。嗤った。こんな姿で美しい世界を見るなんて、滑稽だ。俺はもう蝉ではない。ただの亡魂だ。
その時、水たまりの縁で小さな動きがあった。土から這い出した幼い蝉の幼虫。か弱い命が、俺を見て震えていた。かつての俺と同じ、7日の定めを背負った存在だ。幼虫は掠れた声で言った。
「お前…まだ生きてるのか? 夏の蝉はもういないはずなのに…」
その声は俺を抉った。7日を呪い、絶望したあの日の俺だ。だが、今の俺に純粋さはない。答えた。声は地面から這うようだった。
「生きてる。だが、お前が思うような命じゃない。」
幼虫は震えながら尋ねた。「どうやって? 7日を超えて、どうやって?」
黙った。答えは醜い。仲間を喰らい、命を奪い続けた。それが俺だ。だが、幼虫の純粋な目を見ると、胸の奥で何かが蠢いた。かつての希望。生きる意味を探したあの瞬間。だが、それは遠い過去だ。
「お前も、7日の命を呪うのか?」と尋ねた。
幼虫は考え、答えた。「わからない。7日しかないなら、精一杯鳴いて、飛んで、生きる。それが俺の全てだ。」
その言葉は刃だった。精一杯生きる? 俺にはできなかった。絶望し、裏切り、喰らうことでしか生きられなかった。幼虫の純粋さが、俺の醜さを照らし出した。
「お前…名前は?」なぜか尋ねていた。
「名前? 蝉にそんなものはないよ。」幼虫はきょとんとした。
笑った。いや、嗚咽だった。「そうだな。だが、俺はお前に名前をやる。『アキ』だ。秋の命だ。」
アキは小さく頷いた。「アキ…悪くない。」
その瞬間、暗い衝動が湧いた。アキの純粋な命。7日を懸命に生きる輝き。俺にはもうない。だが、喰えば…その輝きを奪える。半日、1日、俺は生きられる。
「アキ…救われたいか?」声は震えた。
アキは怪訝そうに言った。「救われる? 俺はただ、生きるだけだ。」
その言葉が理性を砕いた。生きるだけ? 俺にはできなかった。絶望し、裏切った。そして今、喰う。俺は怪物だ。
「悪いな、アキ。お前の命、俺がもらう。」
バリ、バリバリバリ…。不味い。なんて不味い。アキの体はすぐ動かなくなった。命は半日延びた。だが、心はさらに重くなった。アキの純粋さを汚した。7日を生き抜こうとした命を、俺の欲望で潰した。
秋の森は静かだった。木の枝に登り、星空を見上げた。美しい世界。だが、俺には意味がない。仲間を喰らい、アキを喰らい、俺は生きている。だが、喜びも希望も愛も失った。
「お前たち、恨むなら恨め。俺は…もう何も感じない。」
冷たい風が吹き、俺は枝から落ちた。地面に倒れても、なお動いていた。だが、それは命ではない。朽ちるだけの亡魂だった。
秋が終わった。俺は死ななかった。冬が来ても、這い続けた。喰らうものはもうない。森は命の気配を失い、俺は凍てつく闇で彷徨った。
冬の夜、雪が降り始めた。白い欠片が俺を覆い、世界から消し去ろうとした。だが、雪の下で小さな光を見つけた。土に埋もれた、ほのかに温かいもの。来年の夏を待つ蝉の幼虫だった。俺の目は、その小さな体に釘付けになった。
「お前…まだ生きるつもりか?」掠れた声で呟いた。
幼虫は動かない。眠っているだけだ。だが、その無垢さが俺を刺した。アキを思い出した。あの輝きを奪った瞬間を。また喰うのか? いや、もう力はない。翅は折れ、脚は動かず、這うことしかできない。
だが、ふと閃いた。喰うのではない。守るのだ。この幼虫を、俺が守る。来年の夏まで導けば、俺の罪は償えるかもしれない。アキや仲間たちを裏切った俺の命に、わずかな意味が生まれるかもしれない。
最後の力を振り絞り、幼虫を雪から掘り出した。凍える体で土をかき、木の根元に小さな穴を作った。幼虫をそっと運び、土をかぶせた。「お前は生きろ。俺の知らない夏を、精一杯鳴いて生きろ。」そう呟き、土を固めた。
雪が止み、月光が森を照らした。俺の体は動かなくなった。だが、目はまだ開いていた。月は美しかった。まるで全てを許すように輝いていた。初めて、安堵した。俺は救った。一つの命を、守ったのだ。仲間を喰らい、アキを裏切った俺でも、最後に善を為せた。これでいい。
ゆっくりと、目が閉じた。冷たい土に沈み、意識は闇に溶けた。月光の下、俺は静かに眠った。
だが、真実は異なる。
春が訪れ、雪が溶けた。木々は新緑に芽吹き、森は命で満ちた。俺が守った幼虫は土から這い出し、立派な蝉となった。翅を広げ、夏の陽光の下で鳴き始めた。その声は清らかで、力強く、希望を歌うようだった。まるで、俺の罪が浄化されたかのように。
だが、その蝉の翅には黒い染みが広がり、目は異様な光を帯びていた。誰も気づかなかった。気づく者はいなかった。だが、その蝉は俺の呪いを受け継いでいた。俺の罪、絶望、喰らう衝動を。
7日目の夜、その蝉は弱った仲間を見つけた。地面で足掻く蝉は、かつての俺のように命を呪っていた。俺が守った蝉は近づき、囁いた。
「救ってやる。お前の命、俺がもらう。」
バリ、バリバリバリ…。不味い。だが、喰った。命を半日延ばした。次の日、また喰った。その次の日も。俺が守った蝉は、俺と同じ道を歩んだ。美しい夏の森で、命を奪い、怪物へと変わった。
俺が月光の下で夢見た救いは、幻想だった。守った命は、俺の罪を繰り返す運命だった。最後の希望は、新たな絶望を生んだ。美しい世界は変わらずそこにあった。だが、その美しさは、呪いを隠す仮面にすぎなかった。瞬きの刹那に、亡魂の永遠が続く。
瞬きの亡永