お前… そうしてはいけなかった
中野のダグアウトからハヤトが抜け出し、本塁に向かって歩き出した。ヘルメットを片手に、バットを軽く引きずりながら。
現在の打撃ステータス:コンタクト64、パワー25、ピッチ認識11。
観客のざわめきが一気に広がった。
「おい、見ろよ。あいつだよ、試合中ずっとダグアウト近くでバット振り続けてたヤツ」
「ふん。どうせバカなことするだけだろ。司堂相手じゃどうしようもねえよ」
ハヤトは視線を前に固定したまま歩き続けた。
(好きに言えよ。俺はこの挑戦、後悔なしで受けて立つ。)
ファウルラインを越える頃、マウンドを見上げた。
(これが一番確実だ。一流の投手相手に自分がどこまで通用するか試せる。ウエスギの死球で出番が回ってきたのは不運だけど… やっぱり野球神様は俺の味方なんだな。)
司堂がしばらく動いていないことに気づいた。グローブをだらりと下げ、自分の手に視線を落としている。
(ん? どうしたんだ、あいつ?)
マウンド上、司堂のグローブの中で指が震えていた。ほとんど風にかき消されるほど小さな声で、何度も繰り返した。
「お前… そうしてはいけなかった」
掌を見つめたまま、その言葉が彼を過去へ引きずり込んだ。
——
小学校。昼休み。校庭は乾いた草とチョークの匂いがした。
アキオがしゃがみ込み、ミットを構えてにやっと笑った。
「やっぱセイヤの球、速いよな」
セイヤが軽く振りかぶって投げた。ボールがミットに鋭く収まる音が響く。
「そうか? でもお前以外、学校で俺の球受けられるヤツいねえもんな」
アキオが手を振って笑った。「それって俺としかキャッチボールしないからじゃね?」
「まぁ… それもあるけど」セイヤが耳の後ろを掻きながら照れ笑い。「お前が後ろにいないと、思いっきり投げられないんだよな」
「うわっ、やめろよ気持ち悪い」
「言うなよ」セイヤの声が少し低くなった。「なあ、アキオ… これからもずっと一緒に野球やろうぜ?」
アキオが肩をすくめて笑った。「俺、野球好きだから別にいいけど」
「じゃあ俺たち二人で、日本最強のバッテリー目指そうぜ」
「いいね。セイヤとならできそうな気がする」
「だろ?」セイヤが大きく笑った。「絶対忘れんなよ、この約束」
「はいはい、わかったって」
チャイムが鳴った。休み終わり。二人は並んで教室に戻った。
放課後、いつもの帰り道を歩きながら、近くの公園でキャッチボールしようと寄り道した。
公園に近づくとアキオが足を緩めた。「自販機で飲み物買ってくる。何かいる?」
「いらねえよ。俺の水筒まだ水残ってるし」
「じゃあ先に行ってろ。すぐ追いつくから」
「わかった。公園で待ってる」
セイヤが先に公園に着いた。
すると叫び声が聞こえた。
年上の三人組が、同じ制服の少年をフェンスに押しつけていた。唇の端から血がにじんでいた。
セイヤは迷うことなく動いた。
「オイ!」
声が大きすぎた。まるで馬鹿みたいだった。
それでも前に出た。「放せよ。何してんだ?」
一人が地面の泥だらけのサッカーボールを指した。「このガキのボールで服に泥かけたんだよ。見てみろこの汚れ」
「だったらここに来なきゃいいだろ。ここ公園だぞ。そういうこともある」
最初のパンチが飛んできた。脇腹。次に顔。
痛みが爆発した。地面に叩きつけられ、息が詰まった。
「まだ何か言うか?」
セイヤは肘をついて起き上がり、睨みつけた。
もう一人が顔を近づけた。「その口、どうした? 急に黙ったな?」
セイヤは何も言わなかった。目がすべてを語っていた。
一瞬、相手が怯んだように見えた—が、すぐに顔をしかめた。「チッ。こいつの顔見てるとムカつく。帰ろうぜ」
足音が遠ざかった。
セイヤは地面に倒れたまま、息を荒げていた。指が土の中で何か固いものに触れた。
石。
握りしめた。
許せねえ—
体を起こし、腕を大きく振りかぶった。
だがその瞬間—
「セイヤ—やめろ!」
アキオが目の前に立っていた。目を見開き、手を広げて。
セイヤは凍りついた。「お前—」
石が指から滑り落ちた。
だが腕の勢いは止まらなかった。
振り抜かれた。
衝撃が間違っていた。重い。決定的な。
アキオが崩れ落ちた。
世界が音を失った。
そして—
「なんで…?」セイヤは膝をつき、這うように近づいた。「なんで飛び込んできたんだよ!」
アキオの頭の下に血が広がった。目が弱々しく開く。
「…あれ投げたら」震える声で囁いた。「今日、キャッチボールできなくなるだろ…」
セイヤは激しく首を振った。アキオの目が閉じていく。「いや—いや、約束しただろ—お前… そうしてはいけなかった」
「セイヤ!」
三宅の鋭い声がキャッチャー位置から響き、突然の静けさを切り裂いた。
スタジアムが一気に戻ってきた—歓声、照明、圧力、すべての視線。
司堂は自分が過呼吸していることに気づいた。
スコアボードが光っている。
すでに1ストライク。
中村ハヤトは打席に静かに立ち、視線を前に据え、バットを構えていた。
その静かな決意が、司堂の胸に苛立ちと何か別の感情を突き刺した。
再び腕を上げた。
インコース。インコースに投げるな。
指が動かない。体が覚えている。
リリースが遅れた。ボールは大きく外れ、完全にアウトサイド。
ボール1。
観客が即座に反応した。
「どうしたんだあいつ?」
「怪我か?」
「あの球、ぜんぜんストライクゾーンじゃねえぞ」
ハヤトはグリップを強く握り直した。
(やっぱり何かおかしい。でもここで緩められない。)
司堂が再び構えた。振りかぶり。投げた。
また外。アウトサイド。
ボール2。
スタジアムのざわめきが大きくなった。
誰も予想していなかった。ここで。今。
司堂は腕を下げた。手が今度ははっきりと震えていた。
「…くそ」
次の球はゾーンにすら近づかなかった。
ボール3。
三宅はキャッチャーギアを着けたまま構えの姿勢で、マウンドに向かって低く、しかしはっきりと言った。「セイヤ… 無理しなくていいぞ—」
「黙れ」司堂が呟いた。
スタンドの佐久間はノートにペンを走らせながら眉をひそめた。(こいつらしくねえな。あの死球が引き金か? どうして? なぜ?)
考えが終わる前に—
司堂が投げた。
また大きく外。
ボール4。
ハヤトはゆっくりバットを下げ、一塁に向かって歩き始めた。振り返って一度だけマウンドを見た。
(何が起きたのかわかんねえ… あいつ、全然いつもの司堂じゃねえ…)
黒峰は今、深刻なピンチに陥っていた。エースが目の前で崩れた。守備陣にとってフィールドは急に広く感じられ、すべてのグローブに重いプレッシャーがのしかかった。
中野のダグアウトでは喜びは控えめだった。ウエスギの負傷がまだ重くのしかかり—誰もが初の出塁を全力で喜べなかった。
試合は続く。
だが黒峰にとっては、状況が悪化し続けていた。




