世の中、先立つ物が大事
手入れの行き届いた薔薇園には、幾重にも馨しい香りが重なっている。小ぶりの薔薇から大輪の薔薇まで、計算された美しい配置で並び、時折吹いてくる風が花弁を揺らせば、中心にある四阿はどのような香水にも勝るいい香りで満たされていく。
初夏のちょうどよい気候の中でお茶を飲んでいるのは、第一王子の婚約者であるアリアナ・フランシス侯爵令嬢である。その向かいには第一王子であるジョアンが座り、王子の隣には生母でもある側妃のディアーナが二人に交互に話しかけていた。
一見すれば、婚約者同士の交流と同席する母親、という何の変哲もないお茶会の一幕であるが、大理石の立派なテーブルを挟んで向かい合う二人は会話らしい会話をほとんどしていない。アリアナは礼儀としてジョアン王子に対して挨拶をしたが、それに対する返答はなかった。取り繕うように側妃が着席を促した後は、ほとんど側妃が一人で喋り倒していた。時折ジョアン王子が相槌を打ち、アリアナが失礼のない程度に応対をするだけ。おおよそ、婚約者同士の席とは思えない。
「アリアナ、婚約を解消してくれないか」
唐突なジョアン王子の申し出に、側妃は言葉を失った。だが、告げられたアリアナの方は動じることなく、薔薇園に合わせたローズティーを優雅に口に含んだ。一応婚約者である相手とのお茶会そのものはただの苦痛だが、最高級の紅茶の味はとてもいい。侯爵家とはいえ、取り立てて特産品もなく、堅実な領地経営をしているフランシス家では手の出ない品だ。
そんなアリアナの姿に、意気消沈したと勘違いしたのか、ジョアン王子は申し訳なさそうに目尻を下げる。金髪に甘く整った顔立ちの王子がそのような表情をすると、老若男女問わず魅了する憂いを帯びた顔となる。麗しい絵画のようにも見えるが、アリアナの関心はいかに美味しいままローズティーを飲むかに注がれていた。
「もちろん、何年も婚約していた君をそのまま放り出すような可哀相なことはしないよ。王妃には出来ないが、側妃として迎えてあげよう。慰謝料代わりに、割り当てる予算も大幅に増加する。どうだ?悪い話ではないだろう」
「何を言い出すのですか」
ぽかんと固まっていたディアーナ側妃が慌てて息子を睨みつけた。
「母上、私は真に愛する者と結ばれたいのです。家同士の都合で選ばれた者との結婚は不幸しかもたらさない。それに、私なりの誠意として哀れなアリアナに側妃としての地位を与えようとしているのです。感謝されこそすれ、責められる謂れはないと思います」
そうだろう、と同意を求めてるように見てくるジョアン王子の視線をさらりと受け流し、アリアナは茶菓子として供されていたアーモンドクッキーを口に含む。ローズティーに合うように調整された甘味の味が広がり、それだけで幸せだ。何やら自分に酔った人がピーチクパーチク言っているようだが、どうでもいいことだった。
そんなアリアナの態度が気に入らなかったのか、ジョアンは眉を吊り上げた。
「おい、聞いているのか?」
辛うじて怒鳴り散らすことだけは思い留まったようだが、子どものように不機嫌な顔になっている。それでも、麗しい顔に変わりはないのだから、美形は得だ。
「お断りいたしますわ」
面倒だなと内心思いながらも、アリアナは淑女らしく微笑みと共に返した。
「なんだと!私とルチルの真実の愛を邪魔すると言うのか」
ルチル・ブランド子爵令嬢の名前が出て来て、ディアーナ側妃は手に持っていた扇を折らんばかりの勢いで握り締めた。第一王子と親しい学友と言われているが、その実は、傍目も気にせずに不適切な距離で会話をする相手だ。婚約者のいる異性相手にあり得ない距離感であるが、それをジョアン王子が咎めることはなかった。ルチル嬢は長い銀髪を持つ素晴らしい美貌の持ち主で、金髪に蒼い瞳を持つジョアンと並び立つと太陽と月のようだと周囲からも言われている。
そんな二人が出会ったのは、貴族の子弟が通う王立の高等学園だ。小さな社交界とも言われる学園での三年間で大人になる準備をするのだが、この二人はただ仲を深めることに終始していたようだ。卒業後に自由がなくなるのは仕方のないことだが、学問は落第スレスレの成績をどうにか保つのが精一杯な状態で交流に力を入れるのは甚だ不適切と言わざるを得ない。いいや、そもそも、仮にも正式な婚約者がいる身で他の異性と仲を深めること自体が倫理に悖る行為であることは明白だ。
当然、国王陛下や王妃殿下の耳にも入り、苦言を呈されたと聞いている。しかしながら、ジョアン王子は更にルチル嬢への愛を深めていった。
(元々、殿下は地味な私をお嫌いですしね)
アリアナが第一王子の婚約者に選ばれたのは、ただの偶然だった。王家には王子が三人いる。第一王子の生母はディアーナ側妃だが、その下の王子お二人は王妃様の御子である。ご成婚後、なかなか世継ぎに恵まれなかったため、側妃が迎えられ、第一王子がお生まれになった。
正式な王妃殿下の御子はいるが、生まれ順では側妃腹の王子が一番上であり、生まれ順を重視するこの国では一番王太子に近いのが第一王子である。
そんな第一王子の婚約者なのだから、近隣の王家か国内の公爵家から迎えるのが当然なのだが、何故か第一王子と釣り合う年頃の高位貴族の令嬢の数が極端に少なかった。いたとしても、王家に王女がいないため、国同士の付き合い強化のために幼い頃から近隣諸国の王族やそれに準ずる家柄の令息と婚約が調っていた。公爵令嬢は全滅で、仕方なく侯爵家から選定を進めて行ったが、侯爵家でも年齢の釣り合う令嬢がアリアナしかいなかったのだ。他は、五歳以上年上だったり、十歳以上年下で、流石に第一王子妃には難しいだろうと判断された。
アリアナも両親も婚約内定の報せは寝耳に水だった。フランシス侯爵家は歴史こそ古い家柄であり、領地は豊かな穀倉地帯であるが、ただそれだけなのだ。おまけに代々子沢山で、高位貴族とは思えぬ質素な暮らしをしていた。貧しい生活を送っていた訳ではないが、高位貴族はそれなりの付き合いがあり、かかりも多い。使用人も最低限だったし、服も上の兄弟や親戚のお下がりを直したものばかりだった。唯一お金をかけてくれたのは教育だろうか。継ぐ領地のない子が生涯にわたって生活に困らぬ手段は、官吏か騎士になることだった。幸いなことに、フランシス侯爵家はそれなりの実績のある官吏を代々輩出しており、勉学に励む素地もある。お陰でアリアナの兄たちはかなり上位の官吏になっていた。
だが、煌びやかさとは無縁である。高位貴族としての教養やマナーはしっかりと叩きこまれていたが、それは恥をかかない程度のもので、自分のために仕立てたドレスはデビュタント用の一着のみ。アクセサリーも、リメイクこそしているが祖父母よりも更に上の代から継いだものばかりだ。
おまけに、アリアナは自分でも分かるほどに地味な容姿をしている。茶色い髪に、濃い緑の瞳。特筆すべき点のない凡庸な顔立ちの中、残念な感じで目付きだけが少々鋭い。そんなアリアナの顔を見て、ジョアン王子はあからさまにがっかりした。最初から上手く行くはずもない婚約だったのだ。
それでも、ディアーナ側妃は必死だった。気まずい沈黙の流れる二人の間を取り持ち、国王陛下とアリアナの両親に婚約を認めさせた。何としても息子に箔をつけさせたいディアーナ側妃が半ば無理に押し通した婚約である。
「誤解なさらないでくださいませ。私は、真実の愛を貫くことは素晴らしいことと思っておりますわ。婚約の解消は謹んでお受けいたします」
婚約して五年以上経つが、ジョアン王子とまともに言葉を交わしたのは今日が初めてではないだろうか。挨拶を無視されることから始まり、少々強引なディアーナ側妃のアシストでも交わすのは三語がせいぜい。同い年だから学園にも同時期に通っているはずだが、学園では顔も合わせない。それは、実力順に分けられたクラスのせいでもあるが。
「私がお断り申し上げましたのは、側妃になる、という点ですわ」
そもそも、この国は基本的に一夫一妻制だ。国王のみ、世継ぎが十年出来なければ側妃を娶ることを許されてはいるが、王子や王の兄弟の身分では認められていない。つまり、第一王子が二人の妻を迎えることは不可能なのだ。
「何故だ?貴族女性にとって、王族に嫁ぐことは名誉なことではないか。潤沢な予算も与えられるのだぞ。贅沢も許される。そのような夢のような身分を断るとは……」
信じられない、というように目をみはるジョアン王子だが、アリアナは苦笑した。
「失礼ながら申し上げますが、私に何も利点がないからでございますわ。王家に入るということは、自分の私財を持てなくなるということと同義です。側妃の身分でお腹は膨れませんでしょう」
食に困ったことはないが、贅沢とは無縁だった。流行の甘いお菓子などほとんど食べることは出来なかったし、珍しい他国の香辛料などは目にすることもなかった。
「いや……食事は王族の物が供されるが……」
「あまり上品な言い回しではないですが、あえて申し上げますと……世の中、先立つものが何よりも大切ですわ」
この世界はお金である。実家がもう少し領地経営が上手ければ、あるいは、商才があれば、好きな時に好きな物を食べ、好きなだけ服飾品も買えたはずだ。なにせ、身分だけは上から数えた方が早い。だが、悲しいかな、フランシス侯爵家は官僚としての才はあっても、その他の才にはあまり恵まれなかった。ある意味、誰かの下で働くことで真価を発揮する者達の集まりなのだろう。
「先立つもの……」
「端的に申し上げれば、金銭でございますね。側妃の身分になりますと、確かに予算は割り当てられますが、それは税金ですわ。使った分は収支報告書をしっかりと記載し、領収書も提出しなくてはなりません。自分の好きなお菓子一つ、欲しい本一冊、気軽に買えなくなってしまいますわ。そのような窮屈な生活は、私には合いませんの」
「いや……菓子や本くらいは自由に買えると思うが……」
ちらちらと隣に座るディアーナ側妃の顔色を窺いながらジョアン王子は消えそうな声で話す。
(お困りになることくらいは分かってらっしゃるのね)
ジョアン王子が嫌っているアリアナを側妃に迎えようとしている理由はただ一つだろう。政務をやらせるためだ。王宮の教師たちから匙を投げられる程に成績が芳しくない第一王子からすれば、代わりに政務をやってくれる人間を確保することは必須事項である。
アリアナは学園での成績も上位を維持しており、妃教育も既に修了している。まだ実務経験はないが、補佐を行ったことはあり、特に問題はなかった。
「ええ、確かに真面目な本でしたら堂々と収支報告書へ記載出来ますわ。ですが、娯楽小説などはとても買えません。皆さまからいただいた大切な税金を使うのですから」
「だが……私との婚約が解消されれば、もう嫁ぎ先もないだろう」
アリアナは十八歳になる。高等学園の最終学年だ。この国の平均初婚年齢は二十前後で、高等学園修了と共に婚姻する者も多い。つまり、現段階ではほとんどの貴族子女は婚約者がいるということだ。この時点で婚約が解消されれば、歳の離れた老人の後妻に入るか、生涯独身かの選択になる可能性が高い。
「殿下、お考えが古いですわ。女性が嫁がないと暮らしていけなかったのは、祖父母の代くらいのことでございますよ。確かに貴族女性の就業先は限られておりますが、それでも生涯困らないだけの収入を得ることは出来るようになっておりますわ」
「アリアナ、側妃の身分があれば、一生困ることはありませんよ」
懇願の表情で見つめてくるディアーナ側妃に、アリアナは満面の笑みを浮かべた。
「私は官吏になろうと思っておりますの。王宮官吏になれば、生涯食べていけますわ。万が一途中で身体を壊しても年金がいただけますし……一番上の兄に頼んで領地の片隅にでも置いてもらえれば老後も困りませんしね。今年の官吏登用試験にはまだ間に合いますから、今日からは試験勉強に切り替えますわ」
「わざわざ試験を受ける必要はないでしょう。王太子付きの官吏として採用いたしますわ」
猫撫で声で微笑むディアーナ側妃。彼女もまた、息子がろくに政務など出来ないことを理解している。正妃だろうが側妃だろうが、側近だろうがいい。アリアナを手放したくないのだ。
(ルチル嬢も、殿下と似たり寄ったりの成績ですものね)
更に言ってしまえば子爵令嬢だ。アリアナと違って高位貴族の教育を受けていない。王子妃教育を受けるのも一苦労だろう。なにせ、全ての王子妃教育の基礎は高位貴族の教養や素地なのだ。ディアーナ側妃ご自身も、侯爵家の出だったはずだからその点はしっかりと理解している。
「不正で官吏になったと思われるのは不本意ですわ。堂々と試験に合格して官吏になります。不肖の私が受かりましたら、試験合格者の配属希望をお出しくださいませ」
少々傲慢かも知れないが、アリアナには官吏試験に合格する自信はある。兄たちやその知り合いから過去問を譲ってもらって解いたこともあるが、十分に合格点を取れるだけの学力はついていた。
「そうですか。それなら……」
折られることを免れた扇を広げてディアーナ側妃が笑う。とりあえず、政務に関してはどうにかなりそうだと思っている顔だ。もっとも、息子を見る目は鋭いままだから、この後で新たな婚約者候補を巡って一波乱ありそうだが、アリアナの知ったことではない。
「官吏になるだなんて……アリアナはそれでいいのかい?側近であっても、異性ならば適切な距離が必要になるのだよ」
「当然のことですわ。もし、私が殿下の側近に採用されましたら、いくら元婚約者とはいえ、節度を持ってお仕えいたします」
「え……」
何を言われているのか分からない、とでも言うように秀麗な顔が間抜け面を描く。
「いや……君は私のことが好きなのだろう?」
「何をおっしゃっているのか分かりません」
挨拶しか交わしていない相手に、どうやったら好意を持てるのだろうか。五年もあったのに、一度も公の場でエスコートをされたこともなければ、誕生日の贈り物一つ貰ったこともない。「たまに挨拶をするだけの知人」、その程度の認識だ。それでも、王の裁可を得た婚約だったから、アリアナは失礼のないように誕生日や季節ごとにお祝いの品や手紙を贈った。一度も返事が来たこともないが、義理さえ果たしておけば、こちらの有責にならないだろうという思惑からだ。それ以上でもそれ以下でもない。
「そんな……いや……この婚約は……」
愕然とした様子の元婚約者にアリアナは何の感情も持たない視線を向けた。
(頭の中がお花畑……どころか砂糖菓子で出来てらっしゃるのかしら)
もしかすると、母君から「アリアナ嬢がどうしてもあなたと婚約したいと言っているのよ。女性に恥をかかせてはいけないわ」などと言い聞かされていたのかも知れないが、それを鵜呑みにするあたり、王太子としての器ではないだろう。
「私、試験勉強が忙しくなりますので、こちらで失礼いたしますわ。美味しいお茶をご馳走になり、大変ありがたく存じます。ディアーナ側妃殿下とジョアン第一王子殿下に祝福を」
身体に染みついた高位貴族の一礼と共にアリアナは四阿を後にした。供された一流のローズティーと茶菓子をちゃっかりお腹の中に収めて。
(婚約解消は予想通りだったけど、王宮のお茶とお茶菓子は惜しかったわね)
実家では食べたことも飲んだこともなかった一級品の味を思い返しながら、アリアナは両親への報告と婚約解消の手続きのことを考えて薔薇の小径を優雅に歩いて行った。
一年半後。
アリアナは、王宮にいた。無事に官吏登用試験に合格し、王太子付きの官吏であり、側近の一人に起用された。試験の点数が堂々の一位だったから当然のことである。
「やっぱり勉強は大事よね」
ふふふ、と笑いながらアリアナが見つめるのは少しずつ貯まり始めた金貨だ。ずしりと重みを増して行く袋を夜毎に触るのが最近の楽しみである。
「こんなにお給金もいただけて……本当に最高だわ」
王太子の側近だからか、待遇もいい。新人なのに官吏用宿舎の一人部屋が割り当てられている。家具も多少古びているが、相当高価なものを使っているのだろう。寝台はふかふかだし、机の使い心地もいい。
食事は食堂でそれなりに豪華な食事が三食提供されるし、掃除洗濯は専門の業者が行ってくれる。業務だけに専念出来る日々は、アリアナの「誰かに仕える才」を飛躍的に伸ばした。
ふと机の上を見ると、一通の封筒が目に入った。隣国の王家の紋章が押された手紙だが、開封することなく暖炉へと放り込む。
「いい加減にして欲しいわ」
あっという間に燃え尽きていく手紙を火掻き棒で掻き回しながら、元侯爵令嬢らしからぬため息をついた。
「私、嘘は言っていないわよ。……本当のことを全部言わなかっただけで」
就職して三か月ほどで届き始めた手紙。そのきっかけは、王太子に随伴して隣国の王宮へ行ったことだろう。
隣国の第二王子が王太子になったお祝いに行ったのだが、そこで元婚約者とその母親に目撃された。
「何故、隣国の王太子付きの官吏になっているのです」
ディアーナ側妃の金切り声にも似た叫びが辺りに響き渡り、国王陛下と王妃殿下が諫めるように視線を向けた。
「いくつかの国の官吏登用試験を受けまして、合格をいただきましたの。その中で、一番待遇が良かった国とご縁がございました」
そう素直に答えれば、憤然として掴みかかってこようとしてきたが、双方の国の護衛騎士たちが間に入り、ディアーナ側妃は引っ張って行かれた。
そんな様子を茫然自失として見ているだけだったジョアン王子。その隣に、真に愛するルチル嬢の姿はなかった。
母国とその周辺諸国は元々一つの国だったこともあり、同じ言語を使っている。そして、どの国も官吏登用試験は広く外国人の受験も認めている。もちろん、自国民より審査は厳しいし、実際の登用に当たってはハードルが高いが、フランシス侯爵家は、幸いなことに、代々子沢山で官吏を多く輩出している家柄だ。それは、周辺諸国にもよく知られているし、親戚の中には外国に官吏として移住してそのまま定着した者もいる。親戚一同の仲はそれなりにいいため、アリアナの就職にあたって保証人になってくれる者がいたことで、就職は選びたい放題だった。
その中で選んだのが、母国の隣の国だった。理由はディアーナ側妃にも告げた通り、一番給金が良かったからである。贅沢を望んでいるわけではないが、自分の裁量で好きに使えるお金が多いのは嬉しい。頑張りが認められたような気になる。それに、仕事もとても充実している。
お金が貯まったら、旅行に行くのもいい。老後に悠々自適に過ごせる土地を探しに行きつつ、美味しい物巡りをするなんて最高だろう。考えるだけで胸が高鳴ってくる。
「……ご自分のお立場をもう少しお考えになればよろしかったのに」
笑いながら、アリアナは同じように隣国の王家の紋章がついた手紙をもう一通暖炉に放り込んだ。
「真実の愛とやらは幻だったみたいですわね」
王宮に仕える官吏である兄の話によると、ジョアン王子はアリアナとの婚約解消後、ルチル嬢と婚約を望んだという。国王陛下はそれをお認めになったが、同時に第二王子を王太子にすることを宣言なさった。
ジョアン王子は、生まれ順とフランシス侯爵家と縁づく前提で王太子候補の最上位にいたが、婚約が解消になったのだから当然のことと言えよう。ディアーナ側妃の生家は侯爵家ではあるが、そこまで大きな権威はない。筆頭公爵家出身の王妃殿下の御子であり、学業成績も優秀な第二王子殿下が立太子されるのも当然の結末だ。
ジョアン王子はブラント子爵家に婿入りするか、一代限りの公爵位を与えられて臣籍降下をするのかを選ばされることになったが、途端にルチル嬢は距離を置いたらしい。ブラント子爵家には優秀な嫡男がいて、いくら王子が婿入りすると言っても爵位を譲ることは難しかったからだ。一代限りの名誉公爵位だけを与えられる元王子とは真の愛を育むことは出来なかったのか、ルチル嬢は結局のところ、歳の離れた辺境伯の後妻になることを選んだ。
「女の幸せは結婚だけではないのですよ」
恨み言と復縁を願う言葉を燃やしながら思い出すのは薔薇の香り。元婚約者もその母も好きになれなかったが、側妃のために丹精された薔薇園とお茶の時間に供されていたローズティーの味は好ましかった。どこからともなく懐かしいその香りが漂ってくる夜の中、アリアナは自らの薔薇色の将来について夢想する。