36話
「セレナ・ハートフィールド様」
声をかけられたので顔を上げると、そこには男子生徒が立っていた。青い髪が特徴的な、優しそうな印象の男子生徒だ。穏やかな笑みを浮かべて、紳士っぽく胸に手を当てている。
見知らぬ男子生徒の登場に、人見知りなジュリエットは肩を小さく縮めてしまった。
「なんでしょう」
せっかく楽しく談笑していたのに邪魔をされて、私は少し眉根をひそめてその青髪の男子生徒に何か用事があるのかと尋ねた。
「僕はイザーク・コルベールと申します」
コルベール。私の記憶が正確なら確か伯爵家だったはずだ。名前は知っているが、彼とは面識がないどころか、コルベール家とハートフィールド家自体に交流すらあまりない。そんな彼がなぜ突然話しかけてきたのか……私にはなんとなく理由に検討がついていた。
イザークと名乗った男子生徒は穏やかな笑みのまま続ける。
「今日はとても天気が良く、テラスでお昼を食べるのにはぴったりですね。良ければご一緒できないでしょうか」
私はイザークにはバレないように、小さくため息を吐いた。
というのも、最近こういう人間が多いのだ。公爵家に爵位を上げたハートフィールド家と親交を得ようと、私に対して話しかけてくる人間が。私の声色が冷たかったのも、私に話しかけてきた目的が見え透いていたからだ。
特に私が一人でいるときに多い。今日はジュリエットがいるのだが、どうして話しかけてきたのだろう。
「あの……」
「君、ハートフィールド様と話がしたいので、少し席を外してもらってもいいかな」
「えっ……?」
私が口を開こうとした瞬間、イザークはジュリエットに向かってそう言った。話しかけられたジュリエットがビクリと肩を震わせる。
(へー、そういうことするんだ……)
私の心のなかがグツグツと沸き立ってくる。どうしてジュリエットがいるのに話しかけてきたのかが疑問だったが、ジュリエットは男爵家。伯爵家の自分ならいつでもどかせると、そう考えていたということだ。このイザークという名の男子生徒は。
ジュリエットは私の大切な友人だ。そういうことをするなら容赦しなくても構わないだろう。
「あのですね」
公爵令嬢としての、戦闘用の笑みをニッコリと浮かべる。
「彼女は、私の友人で、今は談笑中です。私の大切な人に向かって「どけ」とはどういう了見ですか? そもそも私はあなたと話すと言った覚えはありません」
「……」
イザークの笑顔が少し揺らいだ。
「第二に、今は食事中です。食事中に横から話しかけてこないでください」
これだけ言えば大抵の人間は帰っていく。イザークもそうだろう、と私は思っていた。
しかし……。
「……これは申し訳ございません。大変失礼いたしました。ウィンザー嬢。このとおり謝罪します」
イザークは笑顔を取り繕ったまま、私に謝ると、次いでジュリエットに深々と頭を下げ謝罪する。
「ハートフィールド様、無礼をお詫びいたします。ですからどうか、このイザークに名誉挽回の機会を頂けないでしょうか。もちろん、都合のつくときで構いません」
まずい。このイザークという男子生徒、相当やり手だ。知らぬ間に話す機会を設ける流れに誘導されてしまった。
ここまで平身低頭で謝罪しているのに突き放してしまうと、今度は私の方が礼儀知らずということになってしまう。
今思えばはじめにジュリエットに失礼な態度を取ったのも、この流れに持ってくるためだったのだろう。
非常にまずい……!
私が内心とても焦っていると。
「だめだ」
夜の帳のような、美しい黒髪。透明感のあるアイスブルーの瞳。
私は自然と頬が緩んでしまう。
その声の主の名前を呼んだ。
「ノクス様」
イザークの背後にはノクスが立っていた。急いでやって来たのか、少し息が乱れている。
テラス席にいた周囲の生徒も「ノクス様」「ノクス様だわ」とにわかに騒がしくなった。
「ノ、ノクス様……」
イザークの笑顔がついに崩れ、後ずさる。
「セレナは俺の婚約者だ。もし話がしたいなら、俺も同席するが……それでも構わないなら良いだろう」
全てを圧倒するようなオーラを放ち、ノクスはイザークにそう言った。イザークは少し逡巡を見せた後、落ち着きを取り戻したのか取り繕った笑みを浮かべた。
「いえ、出直します。ハートフィールド様。ジュリエット嬢。本日は大変失礼いたしました」
イザークは最後に次につなげる可能性を潰さないようにか、もう一度謝罪して去っていった。イザークが去っていったのを確認して、ノクスは私に向き直る。
「大丈夫だったか、セレナ」
「はい、大丈夫です。ですが彼は少しやり手でしたね。焦りました」
「セレナが焦るか。まあ、お前も抜けてるところがあるからな」
「ん? 違いますよノクス様。彼がやり手だったんです。あと私はしっかり者ですから」
「いやいや」
「いえいえ」
ははは。ふふふ。私とノクスは笑い合う。
ひとしきり笑い合って、私はノクスに質問した。一旦なにも聞かなかったことにしましょう。私はしっかり者なので。
「それでノクス様、どうしてこんなところにいるんです」
「俺がいるのは嫌か?」
ノクスがテーブルに手をつき、顔を近づけて質問してくる。
うっ……暴力的なまでに整った、美しい顔が間近にある。私は照れるのを隠すように目をそらした。
「そうではなくて……生徒会の仕事があるのではなかったのですか?」
「俺の可愛い最愛の婚約者が男に言い寄られているかもしれないと思ってな、すぐに全部終わらせて飛んできたんだ」
「もう……」
私は何も言えなくなってしまう。
息をするようにこんなことを言うからズルい。
「俺とは会いたくなかったか?」
それに、分かってて聞いてくるんだから……卑怯だ。
「……会いたくないわけないじゃないですか。婚約者に」
ノクスがフッと表情を緩める。
「……ひゃぁ……これが噂の……」
そんな小さな消え入るような声が、私の耳に届いてきた。
私はジュリエットの方を向く。ジュリエットは両手で真っ赤になった顔を覆い、そして両手の指の隙間から私達のことを覗いていた。
「あの、ジュリエットさん。噂って……?」
「へっ!? あ、えっと、いや、違うんですこれは別に悪い噂とかではなくて、リリス様から伺っていた……あっ、なんでもないですっ!!!」
ジュリエットは口を滑らせたことに気がつくと、慌てて口を閉じた。なるほどなるほど、後でリリスにはどういうことか聞かないと、と私は心の中のメモに書き込んだ。
「それにしても、最近ああいう輩が多くなってきているな。もっとガードを固くするべきか……」
考えながらぶつぶつと呟くノクスに、私はむっと頬を膨らませた。
「私はしっかり者なので大丈夫ですよ。それよりもノクス様だって、最近他のご令嬢が近寄ってくるじゃないですか。ノクス様のほうがもっとガードを固めるべきです」
「俺はセレナ以外見ていないから問題ない」
「それだったら、私だって同じです」
「……ひゃぁ〜」
またジュリエットからそんな声が聞こえてきた。
「ま、警戒するに越したことはないだろう。最近はきな臭い噂もあることだしな……」
「きな臭い噂ですか?」
私はその噂とはなんなのか質問する。
「いや、まだ確定ではないから心配する必要はない」
ノクスはそう言うと、ポン、と頭に手を乗せてきた。
その日は、それ以上何も聞くことが出来なかった。




