29話
そしてしばらく落ち着いた後、私はノクスに質問した。
「もしもの話なんですけど……私が怒って婚約を解消するって言ったらどうするつもりだったんですか?」
「これだ」
ノクスはある紙を取り出した。
「それは……婚約の時の契約書ですか?」
「ああ、この契約書に書かれている条項なんだが」
私はノクスが指差しているところを見る。
そこには『婚約を解消する際は、両者の合意のもと解消する』と書いてあった。
ということはつまり……。
「もしものときはこの条項を使って、なんとか引き留めるつもりだった」
ノクスは胸を張ってそう言った。
「というのはほんの冗談だ」
「えぇ……」
いや、全く冗談に聞こえない。
本当の目的を隠しながら偽装婚約を持ちかけてきたあたり、もしかしたら本当に考えていたかもしれない。
それぐらいノクスが私と婚約するのに本気だった、ということがひしひしと伝わってくるのだ。
「本当に冗談だ。俺が偽装婚約を持ちかけたのは何でだと思う?」
「私と婚約するための建前、ですか?」
はじめに婚約と聞いたときは驚いたが、その後ノクスが偽装婚約というクッションを置いたことで、かなり心のハードルが下がったことは確かだ。
「それもある。だが、本当はセレナの意思を尊重するためだ」
「えっ?」
私のため?
ノクスは頷いて説明する。
「よく考えてみろ。王族である俺が本当の婚約の話を持ちかけたらそれは強制になってしまう。俺に自由をくれたお前に、無理やり婚約を申し込むようなことはしたくない。だからこそ、俺は自由意志で婚約を結べるように、それでいていつでも婚約を解消できるようにしたんだ」
ノクスは「偽装婚約という建前があれば、いつでも婚約解消できるからな」と付け加えた。
「だから、本当に婚約を解消したいときはそう言ってくれ。俺はその意志を尊重する」
ノクスは言葉の上ではそう言っていたものの、表情はどこか心配そうだった。
「大丈夫です。今のところは婚約を解消するつもりはありませんから」
だから、私はノクスがしっかりと安心できるようにそう言った。
「そうか……それは良かった」
ノクスは安心したように息を吐いた。
今日から、私とノクスは本当の婚約者となったのだった。
そして翌日、とある発表が王家から出た。
それは「ノクスの婚約者を選ぶパーティーを主催する」というものだった。
まだ婚約者のいない貴族の女性を集め、そのパーティーで選ぶというのだ。
もちろん、すでに私が婚約しているので結果は決まっているのだが、他の貴族の女性はそんなことを知るはずもない。
結果、貴族社会では今回のパーティーは一つの大きなイベントとなった。
今まで頑なに婚約者を選ぼうとしてこなかったノクスが、ようやく婚約者を選ぶ気になったのだ。
しかもパーティーの参加者の中から選ぶとなれば、下位貴族の自分にもチャンスがあるかもしれない。
学園の中ではパーティーの話で持ちきりだった。
一番の有力候補とされているのは、マリベルと私だった。
マリベルは先日の一件があるものの、何故かあの後「ノクス様とマリベル様は喧嘩するほど仲が良い」という謎の噂が流れて、まだまだノクスとマリベルの関係は続いている、と学園では考えられていた。
そして私は短期間でノクスと急速に仲を深めた令嬢として話題になっているようだ。
それに合わせて、私の方は「婚約者がいなくなった途端ノクス様にアプローチをかけた悪女」という中傷のような噂も流れているらしい。
私が教室で一人、次の授業の用意をしている時だった。
いつも休み時間になるとノクスが迎えにくるとはいえ、どうしても一人になる瞬間はできてしまう。
マリベル派閥と思われる女子生徒の話す声が後ろの方から聞こえてきた。
「ねえ、聞いた?」
「あれでしょ?」
「婚約が破談になってすぐなのに、ノクス様のパーティーに出るらしいわよ」
名前こそ出していないが、明確に私のことを話していた。
「もしかして、自分が選ばれると思ってるのかしら」
「選ばれるはずなんてないのに、本当におかしいわね」
「それより、恥ずかしくないのかしら。少し親交があるからって婚約者に選んで欲しいと厚かましくお願いするなんて」
「私だったらそんなことできないわ」
彼女たちは私に聞こえるようにくすくすと笑い声を上げる。
名前を出さないことで言い逃れをしているあたり、性格が悪い。
そんな風に嫌味を言われつつも、私はパーティーまでの学園生活を過ごしていた。
ある日、私は一つ思い至って、ノクスに質問する。
「何で参加者の中から選ぶなんて言ったんですか?」
「そっちの方がマリベルとシュガーブルーム家に大きな打撃を与えることができる」
マリベルに恨みがあるのは私も一緒なので、その気持ちは共感できるのだが、やり口が結構えげつない。
最後に期待を持たせて、それをバッサリ刈り取るのはかなり相手にも効くだろう。
「今まで散々あの親子のせいで迷惑を被ってきたからな。これくらいしても構わないだろう?」
「うわぁ……」
思わず私が引いてしまうくらいに邪悪な笑みだった。
その邪悪さから今までどれだけノクスがマリベルに対して怒りを募らせてきたのかが思い知れる。
「俺が何度も婚約しないと言っているのに、近寄ってきて猫撫で声で媚びてくるのに飽き足らず、しまいには俺とマリベルが仲がいいと根も葉もない噂を学園中に流した恨み……ここで晴らさせてもらうぞ」
ノクスはここにいないマリベルへ向けてそう言った。
そして事件が起こった。
それは私とノクスが学園の廊下を一緒に歩いている時だった。
廊下を曲がった先で、マリベルとエリオットが向かい合って立っていた。
その周囲を何人もの生徒が野次馬として取り囲んでいる。
エリオットはマリベルの前に跪いており、マリベルに向かって花束を差し出した。
「マリベル様! 僕と……婚約してください!」
野次馬たちから驚きの声が上がった。
エリオットはついにマリベルに婚約を申し込んだのだ。
私からすれば、やっとか、という印象だった。
今までエリオットがマリベルに恋心を寄せていたのは確実だったし、そのせいで私との婚約が破談になったのだから。
ずっと躊躇っていたようだが、やっとマリベルに対してプロポーズするらしい。
しかしマリベルはエリオットの行動が予想外だったのか、目を見開いて固まっている。
そしてマリベルはエリオットの背後にノクスがいることに気がつき、すぐに我に返ると、しゅん、としおらしい表情になった。
「その…………ごめんなさい。エリオット様はただの友人だとしか思ってなくて……」
しかしマリベルはエリオットのプロポーズを申し訳なさそうな表情で断った。
「これからも友人として付き合っていければと思うわ」
「……そう、ですか」
プロポーズは失敗したようだ。
周囲の生徒は恐れずマリベルに対してプロポーズしたエリオットを讃えるように拍手していた。
しかし反対に、私は冷めた目でそれを見ていた。
マリベルにしても、あんなに気があるような態度を取っていて、いざとなれば友人としか見ていなかったというのは悪質極まりないだろう。
それに、エリオットを讃えるなんてどうかしている。彼はずっと不貞行為をはたらいていた訳で、とても賞賛されるような行為ではないはずだ。
なぜ美談のようになっているのかが理解できなかった。
「ノクス様、行きましょう」
ただエリオットとはもう無関係なので、どんな風に生きようが興味はない。
プロポーズを断られ、落ち込んでいるエリオットの横を私とノクスは横切って行った。
エリオットは私に気づいたようだったが、流石に私に声をかけてはこなかった。




