22話
そして翌日。
「えっ、ノクス様が屋敷へやってきた?」
朝、学園に向かうための支度をしていた私は使用人から報せを聞いて驚いた。
ノクスがハートフィールド侯爵家へといきなりやってきたからだ。
私はすぐに用意を済ませると、ノクスの元へと向かった。
と言っても、いつもより時間はかかったのだが。
地味メイクをしなくても良くなったのはいいが、その分他の手順が増えるので、急いでいる時には少しだけ困る。
「お待たせいたしました、ノクス様」
「いや、俺こそ急に来て申し訳ない」
ソファに座っていたノクスは立ち上がって、私の方までやってきた。
そして私を観察すると、ふっと笑みを漏らした。
「ああ、今日も美しいな」
「えっ? あ、ありがとうございます……」
不意打ちの褒めに、私は動揺した。
「な、何で急に私を褒めるんですか……?」
「婚約者を褒めるのは、別におかしなことじゃないだろう」
「そうでしょうか……」
私は首を傾げる。
「きょ、今日はどのようなご用事で?」
「別に、婚約者と一緒に学園へと行こう、というだけだ」
「へっ?」
「というのは冗談だ。マリベルについていくつか連絡することがあるから今日は来ただけだ。馬車の中なら誰かに聞き耳を立てられるということもないだろう」
「な、なるほど……」
少し腑に落ちないところもあったが、私はノクスがなぜやってきたのかは理解した。
迎えに来たのが事務的な用事のためだった、ということを聞いて少しがっかりした気分になったのは気のせいだろう。
馬車に乗り込み、発車するとノクスがマリベルのことについて報告する。
「マリベルについてだが、セレナの事例に基づいて、今までマリベルに婚約者を寝取られていた家が婚約破棄と、マリベルに対する慰謝料の請求を叩きつけたそうだ」
「それは……もう一大事ですね」
「ああ、かつてこれほどまでに一斉に婚約の破棄が叩きつけられたことはない。シュガーブルーム家は国の歴史に大きな汚点を残すことになるだろうな」
シュガーブルーム家は大量に婚約を破綻させた家として。
そして、マリベルは悪女として名前を残すことになるのだろう。
「シュガーブルーム家では対応しきれないかもしれないな」
「はい、昨日発表された経緯に基づいてシュガーブルーム家には慰謝料の請求を入れたのですが、まだ返事はありません」
「まあ、今のところ処理しなければならない問題が多すぎてキャパオーバーしているのかもしれないな」
何せ、十人ほどの男性を侍らせていたのだ。
その相手の家から慰謝料と謝罪を一度に求められているとなると、キャパオーバーしてしまうのもおかしくないのかもしれない。
「ただ、一つ注意しておかなければならないことがある」
「なんですか?」
「マリベルを中心に、今回婚約破棄を叩きつけられた男子生徒や、派閥の生徒が何かを企んでいるかもしれない、という情報が入った」
「それは……」
「奴らは今回の騒動の原因である、セレナを狙って何かをするつもりかもしれないから気をつけてくれ。ということを俺は伝えたかったんだ」
「……はい、肝に銘じます」
私はノクスの忠告を肝に銘じた。
そして学園にやってくると。
「あ」
私はあることに思い至った。
なぜなら、一緒に学園へと行くということは、一緒の馬車から降りてくるところを生徒に見られるということであり……。
「ノクス様……その……」
「ん? どうした」
馬車から降りたノクスが首を傾げながら私に手を差し出してくる。
(婚約を発表するのは一ヶ月後なのにどうして……!)
発表までは婚約のことは隠しておくんじゃなかったのか。
私は困惑していたが、どのみち馬車からは降りなければならない。
私は覚悟を決めてノクスの手を取った。
そして馬車から降りてくると、周囲にいた生徒がわっと騒ぎ始めた。
それも当然、今まで女子生徒を近づけなかったノクスが、初めて女性をエスコートしているからだ。
(もう少ししたら慣れなきゃならないことなんだから……!)
ノクスと婚約すればこれが日常となる。
今のうちに慣れておいた方が良い。
視線を受けながら歩いていると、後ろから耳障りな猫撫で声が聞こえてきた。
「ノクス様っ!」
私とノクスが振り返ると、そこには予想通りというべきか、マリベルが立っていた。
しかしマリベルの顔をよく見てみると、少し顔が引き攣っている。
馬車から私とノクスが一緒に降りてきたところを見て、内心かなり焦っているのだろう。
今一番顔を合わせたくないであろう私がいてもやって来たということは、どうしても情報を得なければならない、と思っているはずだ。
「ごきげんよう、ノクス様」
マリベルはまるで昔から仲が良さそうな口調でノクスに話しかけている。
マリベルとノクスの仲が良いという噂は、マリベルが原因なのかもしれない。
「お二人が馬車から一緒に降りてくるのを見たのですが……お二人はどのような関係なのでしょう?」
そしてマリベルはいきなり本題を切り出してきた。
私とノクスの関係がどういうものか知りたくてしょうがなさそうだ。
もちろん、婚約の発表はまだ先なので、私からは何も言わない。
「私、ノクス様とセレナ様がそれほど親しい間柄とは知らなかったので、とても驚いてしまいました。お二人はどのようなきっかけでお知り合いに?」
マリベルは何とか私とノクスから情報を引き出そうと、次々に質問してくる。
しかし私もノクスもそれには答えず無視している。
マリベルの笑顔が少し崩れるのが分かった。
流石にしつこいと思ったのか、ノクスはマリベルに向き直ると、冷えた声で言い放った。
「俺に気安く話しかけるなと言ったはずだが?」
ノクスはマリベルを睨みつける。
黒氷の王子に相応しい、凍えるような目にマリベルは気圧されていた。
最近のノクスを見て勘違いしていたが、やはりノクスは誰も寄せつけない氷の王子なのだと再確認させられる。
「し、失礼しました……」
マリベルは真っ青な表情でノクスに謝罪する。
「さっさと俺の前から失せろ」
ノクスは冷たくマリベルを追い払う。
マリベルは唇を噛み締めると、私とノクスを追い越して建物の中へと急ぎ足で入っていった。
マリベルが去るとノクスはまた優しい笑みを浮かべて私に向き直る。
「さ、行くか」
「は、はい……」
今更ここで別れて学園に行きましょう、という提案は私にはできなかった。
だから私はノクスと一緒に建物の中に入ったのだが……。
(し、視線がすごい……!)
昨日など比にならないくらいいに視線が集まっている。
それもこれも私の隣で私以外には見せない笑みを浮かべているノクスがいるせいなのだが……。
歩いていると「見て、あのノクス様の表情」「あんなに優しい笑顔……初めて見た」「素敵……」と声が聞こえてくる。
そして私の教室に到着した。
ここでノクスとはお別れとなる。
「じゃあ、また後で」
「あ、はい……」
そして私に別れの挨拶をすると、ノクスは自分の教室へと歩いていく。
去っていくノクスの背中を見て、私は首を傾げた。
「……ん? また後で?」
その言葉の意味は後ほど分かることになる。
「セレナ。一緒に昼食を摂ろう」
昼休み。
ノクスが私のいる教室へとやって来たからだ。




