異世界、初心者
何日か続いた吹雪の後で、久しぶりに眩しい太陽が顔をのぞかせた。冬の寒く湿った空気は、お天道様の光に照らされ、今日はスッキリと清々しい匂いを放っていた。
部屋の中では暖炉の火がパチパチと燃えていて、まだ一歳を迎えたばかりのジェシーを暖かく安全に包んでくれていた。
ジェシーは身体を支えていたテーブルから手を離すと、思い通りに持ち上がらない足を一歩、二歩と前に進めた。
明るい窓の向こうから聞こえてくる動物の鳴き声が気になったのだ。
居間のソファに座って編み物をしていたジェシーの祖母は、目の端でジェシーのヨチヨチ歩きを捉えた途端、驚いて飛び上がった。
「あれまぁ! ジェシーが歩いたよ!」
膝に乗っかっていた毛糸の玉が、マルタが立ち上がると同時に絨毯の上をコロコロと転がっていく。
「ファベル、ほらこっちに来て見て!」
マルタは持っていた編み物をテーブルの上に放り投げて居間のドアに飛びつくと、作業場にいる夫に向って大きな声で呼びかけた。
木の柱にホゾ穴をあけていた祖父のファベルも、古女房の弾んだ声を聞くとすぐに、ノミと金槌をその場に放り投げた。そして急ぎ足で居間に駆けつけると、窓の下に立っている可愛い孫の姿を見つけた。
なかなか歩かなかったジェシーが、とうとう自分の足で一歩を踏み出したらしい。
「おぉ、とうとう歩き出したか」
ジェシーはファベルの声を聞いて振り返った。
木くずのいい匂いがするファベルを見つけると、ジェシーは口からツゥーとよだれを垂らしながら、大好きなじいじに向かって両手を差し出した。
「じーじ、んまっまん、ぶぶっ」
「うーん、あいかわらず何を言ってるのかわからんが、じいじと言うのは上手くなったな。よしよし、ほれ抱っこしてやるぞ」
「もう、孫には甘いんだから。せっかく歩けたんだから、抱き上げないでよ。もうちょっとだけ立たせてみたら? 何も持たないで、初めて一人で立ったのよ」
マルタがなるべく長く孫の雄姿を見ていたいと思うのも無理はない。
ファベルにしても、その気持ちはよくわかった。
「んー? それじゃあ、ばあばのリクエストに応えて、もう少し立っちしてみるか、ジェシー?」
ファベルが、抱いていたジェシーを床におろすと、ジェシーは小さく揺れる身体のバランスを取りながら、再び何も持たずに一人でしっかりと立つことができた。
「「おおーーーっ!」」
思わず拍手をする老夫婦を真似て、ジェシーも笑いながら小さな手をパチパチと叩いて拍手をした。
けれどその拍子に、危ういところで均衡を保っていたバランスが崩れ、ジェシーはステンっと尻もちをついてしまった。
「やぁあああぁー」
痛みよりも転んだことに驚いたのか、ジェシーは大声を上げて泣き出した。
「あらあら、痛かった? ジェシー大丈夫よ、大丈夫」
「よしよし、じいじが抱っこしてお外に連れてってやるぞ。ほれ、ジェシー、抱っこちゃんだ」
祖母も祖父もジェシーの名前を呼びながら、すぐに助けの手を差し出してくる。
ん?
ジェシーって、だぁれ?
あ、わたしか……?
でもわたしの名前って、ヨ……?
うぅんと……そうだ、ヨーコ! ヨーコじゃなかったっけ??
この時が、陽子にとって初めての自我というか、前世の記憶の目覚めだった。
それから六年の月日が流れたが、ジェシーはこの世界に生まれてきた人たちとはちょっと違った成長をするようになる。
他の子といちばん違っていたのは言葉の習得だ。
「ご飯」「みかん」「眼鏡」「時計」と、新しい言葉を覚えるたびに、全然聞いたことのない言葉が頭に浮かんでくる。
そしてその言葉が表す映像も、見たことのない食べ物だったり物だったりするのだ。
ジェシーが赤ちゃんの頃に覚えた言葉で、その違いにもっとも困ったのは「時計」だった。
六歳の誕生日を迎えたジェシーは今年、基礎学校に入学した。
学校の近くには、摩訶不思議な時計がある。
授業が終わったジェシーは学校を出て、町役場の前にある広場を横切っていた。この役場前の広場には、3メートルほどの高さがある時の塔が建っている。
「やっぱり何度見ても、あっちの世界の時計とぜんぜん違う。これでちゃんと時間がわかるのが不思議だなぁ」
時の塔の中には大きなガラスの入れ物が備え付けてあるので、塔全体が午後の日差しを浴びてキラキラと輝いていた。
そのガラスの器にはたっぷりと水が湛えられていて、水中を青く光る妖精が何匹も泳いでいる。これは、いつ見ても異様な光景に思える。
この世界では時間が知りたければ、ガラスの中で泳いでいるこの『時の妖精』に尋ねるとすぐに教えてくれる。
そのため、この役場前を待合場所に指定する人も多い。そんな住む人たちのニーズに合わせて広場にはいくつものベンチが置いてあった。
たくさんあるベンチには、チラホラと人か座っていたが、右手にある木の下のベンチで休んでいた人がジェシーに気づき、手荷物を持って立ち上がったのが見えた。
あれ、母さん?
ジェシーを見つけた母親は嬉しそうに手をふると、重そうな荷物を持ってこちらに歩いて来た。
母親のアネーロが金色のふんわりとした巻き毛を風になびかせながら側までやってくる。顔を見るのは二週間ぶりだ。母親が留守の間、弟と一緒におじいちゃんの家に預けられるのは慣れているが、やはり母さんの顔を見るとホッとする。
「ジェシー、お帰り。今日は早かったのね」
同じようにアネーロも、娘の元気そうな様子を見てホッとしていた。
今回は、学校に行き始めたばかりの娘を置いて出かけなければならなかったので、一人でちゃんと学校に通えているのか心配だったのだが、どうやらそれは杞憂だったようだ。
小さい頃からどこか大人びていたジェシーは、瘦せ気味な身体にもかかわらず病気もせずにここまで大きくなってくれた。今も自分に似た緑色の目を生き生きと輝かせながら、嬉しそうに出迎えてくれている。
「母さん! 帰ってきてたの?」
ジェシーの弾んだ声を聞くと、アネーロは長い旅路の果てにやっと我が家に帰って来たんだという気がした。
ジェシーの母親は町でも評判の器量良しだ。髪も目もジェシーと同じ色合いなのに、とても血が繋がっているようには思えない。
ジェシーはこう言ってはなんだが、ちょっと貧相な身体つきをしている。
母親のアネーロは、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる、ボンキュッボンのダイナマイトボディだ。かたやジェシーは、瘦せっぽっちで手足だけがひょろ長い。
転生手続きをした時に、そこそこの見た目をお願いしたと思っていたのだが、何でこうなったんだろ?
ジェシーは母と自分の身体を見比べると、いつも魂管理センターのダーシャに文句を言いたくなってくる。
母はこのルースの町で雑貨屋を営んでいるが、月に一度は近隣の村を周って移動販売をしている。
今回の移動販売は、隣村にいる父親に会いに行くので、訪問する村を減らすかもしれないと言っていた。それで予定よりも早めに帰って来たのだろう。
アネーロは荷物を持ち替えると、ジェシーと手をつなぎ、家の方へ歩き始めた。
「さっき帰ってきて、竜車を小屋に預けてきたわ。もうそろそろ学校が終わる時間かなと思って、ジェシーを待ってたのよ。一緒に帰りましょう」
「うん。そうだ、父さんは元気だった? 怪我をしてなかった?」
「ジェシーったら心配性ね。ルイスは強いのよ~、あそこは中級ダンジョンだから、余裕そうだったわ」
母親はケロリとした顔でそう言うと、大丈夫よとでもいうようにジェシーの頭をポンポンと叩いた。
この世界で生まれ育ったジェシーは、母さんがそう言うのはもっともだと思っている。Aランク冒険者の父さんが中級ダンジョンごときでヘマをすることはありえない。
けど、日本で生きてきた陽子としては、どうにも心配でたまらない。
だって、ダンジョンだよ。
自分の父親が魔物と戦うためにダンジョンに行くのが日常って、信じられる?
まぁ、地球のサラリーマンも会社で魔物みたいな人たちと戦っていたのかもしれないけどさぁ。
冬の終わりを告げるような暖かい陽の光が、ゆっくりと話をしながら歩くジェシーたちを照らしていた。
「日差しが強くなってきたわね。そろそろ毛糸の帽子はやめて、学校に行く時には縁のある帽子をかぶった方がいいんじゃない? また鼻の上のソバカスが赤くなってるわよ」
「ガーン、本当?」
そう、この美人な母親とジェシーが一番違っているところが、このソバカスだ。
陶磁のように白く透き通っている母親の肌に比べて、ジェシーの顔の上には小さなソバカスがこれでもかと散らばっている。
いったい誰に似たのか、残念なことこの上ない。
家族は「まだ六歳なんだから、見た目なんか気にしなさんな。これから成長していくにしたがって女の子らしくなっていくよ」と言ってくれているが、この身体になった元凶に思い当たるところのある陽子としては、将来に期待できそうにない。
【来世は、美味しいものをどれだけ食べても太らないスリムな身体がいいなぁ】
あの時、陽子が要求した「願い」が、どこをどうすればこんな容姿にいきつくんだろう?
スリムとガリガリは違うよね。それにこんなにたくさんのソバカスなんて注文してないし。
でもあのダーシャだからなぁ。
もっと具体的に言っとけばよかった……
ジェシーはまだ知らない。
女神見習いだったポンコツダーシャの勘違いは、こんなものではなかったのだ。