煮詰めた罪を、点す
残酷な表現、報われない献身が含まれます。ご注意ください。
暗雲が立ち込めている。見た目の重さとは裏腹に、月の肌を撫でながら。幾重にも折り重なった雲の帳は月光を遮断し、地上には闇が訪れていた。そんな、夜のこと。文字に起こせぬ咆哮が、荒野に一軒建つ古家から響いていた。――精神を削る不協和音は世界から剥がれた苦しみで、それでも愛おしく耳に残る響きは、母性を揺さぶる産声のように。
煤けて廃れた家の中、大人がすっぽり入りそうな大鍋の、赤い油膜の張った水面がごぽりと揺れる。ごぽりごぽり、ごぽり。気化した液体が宙に還っているわけではなく、強烈に鉄臭い液面から何かが這い出そうとしていた。
この家の主となった少女は、分厚い魔導書を片手に、その様子を固唾を飲んで見守っていた。背後の床に描かれた魔方陣は燐光を放ち、小さな背のシルエットを大鍋に投げかけている。
――嗚呼全くの偶然だった。あるいは奇跡とも。天秤を傾けた女神は少女に微笑む。
少女は何かを喚ぼうとしたわけではない。無の空間から生命を、人を、創ろうとしただけだ。けれど、けれど。禁忌に触れるその所業と、無垢な瞳で見つめる大鍋の底に凝った罪は、生命よりもより原始的で、生命よりも魔力に満ち溢れた存在を引き寄せた。
太古から在り、そして、この大陸でも幾度となく聞き交わされた御伽の存在。人はそれを精霊と、天使と、そして悪魔と、呼ぶ。
細く、もろく、繊細な。概念の糸を縒り合わせて交差させて、そうしてその端から解けていく――織物に例えられるそれは、この世界の仕組み。視るもの、聴くもの、感じるもの、その全てを構築するのはものの在り方、すなわち概念であり、複雑に絡み合った布状のそれらに包まれて此処が在る。其処が在り、彼処がある。そうして時折、その布から解けて現世に剥がれ落ちた概念は、ものに宿ることで精霊となる。天使となる。悪魔となる。呼称は地域や概念により異なるが、その本質は同じものだった。
赤い液体にどろりと花が煮溶けていた。その色は艶やかな花弁が溶けただけではなく、底でちろりと光る結晶は辰砂だろうし、刺激のある湯気は一掴みの唐辛子からだった。唇に点せばその詞に魔力を与え、眦に点せばその視線を魔眼たらしむもの。其はまじないの道具。ありとあらゆる「あかきもの」を蕩かした魔女の紅。
熱く湯気立つ紅が揺れる。ごぽり、ごぽりごぽり。
「――――!!」
息継ぎの合間にそれの赤い口中が見える。丸い歯が並ぶ化け物じみた口。紅に体を濡らして鍋の縁に手をかけたのは水掻きの残る五本の指で、顎から短い喉にかけては魚の鰓のようなものが苦しそうに喘いでいた。
「―――……?」
それはぎょろりと少女を見る。紫色の瞳は齧れば果汁の溢れる新鮮な果実に似ていた。
「……ま、マ」
どこにあるかも分からない声帯で、先ほどまで叫び狂っていたその口で。それは呼ぶ。
己の母となる存在を。己の母となるべき存在を。
「ママ、ママ……マ、ま!」
そうしてその声に、少女は笑って返事をした。
「そう、わたしが…わたしが、あなたの”ママ”よ!」
心臓は早鐘を打ち、瞳はキラキラ瞬いて。少女はその”子”を、抱き上げた。
いつか自分がされたように、いっとう嬉しかった記憶のように。
***
ぐったりと濡れた紅を落として綺麗に洗えば、それは実に奇妙な体をしていた。
限りなく白色に近い無垢の色、概形は人の子に近かったが耳は獣のそれ。つんと上を向いた鼻先は丸く、大きな瞳はよく熟れた葡萄だった。喃語を発する口は柔らかく色付き、顎から首にかけては鰓が、指と指の間には水掻きが発達している。上半身に帯状に広がる鱗はどうやら爬虫類のそれのようだった。ぐるりと大蛇に巻き付かれたように一周して足先に終着する。肩甲骨の辺りには羽根を毟られたかのように無残な翼の原型がひょろりと伸びていた。
傷つけないように清潔な布で抱き上げて、心臓の音を聞きながら、少女は思う。
「……あたた、かい」
かつて少女が渇望した血の巡り。冷たい指先では体温を奪ってしまうと恐れながらも、子供特有の甘い匂いと胸に伝わる熱は抗いがたいほど蠱惑的だった。
そうっと、軽く、撫でるよりも微かな動きで、頬に触れる。
「温かい……温かいわ、あなた、とっても」
指から伝わる熱で溶かされる感覚すら覚える。思わず、といった風に強く抱き締め頬を擦り合わせれば体温と体温が混ざり合い、もはや肌の境なんて分からなかった。
それは、力加減なく抱かれる事に嫌がる素振りも見せず、母音だけで反応し、時には高く笑い声をあげて。畏怖の対照になりかねない異形の姿にも関わらず、無邪気に笑うその顔は少女にはまるで人間の赤子そのものにすら見えた。
「……不思議ね」
こんなにも人の姿かたちからはかけ離れているのにどうして愛おしいと思えるのか、少女は疑問に思っていた。かつて少女が虐げられたのは、人間ではない、と、その理由に尽きたから。
ふと、思う。人間ではないから、異形のそれに嫌悪を示さなかったのではないか、なんて。
「うぁ……」
それ、が小さく鳴いた。まだふくらんでいない少女の胸を、小さな掌で押す。押し付けられたやわらかい唇が服の上から目当てのものを探る。一拍の困惑の後、少女の顔に理解が広がる。そして申し訳なさそうに眉尻を下げ。
「あぁ……ごめんなさい、わたし、ミルクはあげられなくて……どうしよう」
赤子を作るにあたり一通り得た知識。人はものを食べるということ。特に赤子には乳という、子を身籠った女性の胸部から分泌される液体が必要であること。
子を成すことは少女にとって特に難しいことではなかったが、問題は、家中の書物を読み込んでも肝心の乳の構成成分が記されていなかったことだ。成分さえわかれば類似のものは作り出せるが、理解を得ないままに魔法を使えば出来上がるのはただの白い水だろう。
生んでしまえば何とかなる、と、幼い故の無鉄砲さで赤子を創った――喚んだのはいいものの、その後のことは頭から抜けていた。
「ごめん、ごめんなさい……あぁ、どうしよう……!」
少女はじっ、と自らの手を見る。彼女の右手の人差し指には傷があった。召喚陣を描くに当たって自ら傷つけたものだ。
――せめて血を流すことができたら。
少女はため息を吐く。ミルクの成分が血液と類似していることは知っていた。けれど、人体を構成する成分は分かっても、その内の何が、どこに使われているかなんて知りようがなかった。
少女の知識は、この家の中にあるものだけだった。
「……ねぇ、ミルクも、血も、無いけど……」
少女はその、人差し指の傷を、自らの歯で抉った。白く現実味の無い肉の断面は少女の唾液で濡れて、けれどそこからわずかに滲むのは、燐光を放つ、血の代わりの何か。
少女の体を巡る、魔力が実体化したもの。
「……ぁ、ぅ……」
とろ、り、と滴る燐色を、まるで蜜に寄せられる虫のように自然な動作で。それ、は少女の指を小さな手で掴み寄せ、ちゅう、と吸った。柔らかな頬がゆっくりと膨張と収縮を繰り返し、その度に少女は何か、大切なものが流れ出すような気がしたけれど。母乳の代わりに血すら分け与えることのできない少女が唯一何かを施せるのだとしたら。それはそれ、この眩暈すら苦ではないのだった。
何よりも、安心しきった顔で指を吸う我が子の愛しさが、胸を揺らす。早まる鼓動は嬉しさの為か、それとも。
「ね、おいしい? おいしい、かな。だとい、い……な……?」
――くらり、少女は倒れる。何とかそれを庇いながら、初めての感覚に恐怖と近いものを感じていた。立ち上がろうにも座り直そうにも、手足に力が入らない。なんと表現すればいいのか、比喩するならそう正に「血の気を失った」ような。
未だに指先を食み続けるそれを胸元に引き寄せながら、少女は身体が求めるままに瞼を閉じた。頭は妙に冴えているのに、それを動かすための動力が足りない。
せめて、せめてこの子は守らないと。だって私はこの子の――
抱え込むように抱き締めて、自らも脅威から身を離すように背を丸め。意識を手放したその姿は、奇しくも胎児のそれと酷似していた。
***
微睡む意識の中に、少女の記憶が投影される。帯状に連なる一連の景色の中でいっとう古い、始まりの記憶は、床の上、複雑な陣の只中での目覚めだった。
――召喚に似た儀式、けれどそれは「喚ぶこと」ではなく「換えること」。
置換の術式には幾つか異なる目的が存在する。より上位の種を生むためのもの、新たな種を生むためのもの。そして一際異端とされ、禁忌とされたもの――人間の創造。
下等の生物に周囲の土地の魔力を巻き込んで、より上位の生物へ昇華する。始めは魚から、肺を得て、皮膚を得て、胎に子を宿せるようになり、最後は。
荒野に佇む古びた家屋の、積まれた本と散らばる紙片の只中。木製の床の上に、魔方陣が描かれていた。複雑な文様を描く赤い色は「魔女の紅」。本来は少量ずつ、魔術の補助に使用する紅を大量に使い描かれた複雑な陣の中央には、浅黒い毛色の山羊が倒れ込んでいた。辛うじて、といった風に呼吸を繰り返し、濡れた半月の瞳でじっと、魔方陣の外に立つ魔女を見つめている。
この家の主であり魔方陣を描いた本人である魔女は、紅に濡れた手を拭うこともなく、何枚も繋げられた長い羊皮紙の束を持ち、やや興奮気味にそれを読み上げていた。
紡がれる言の葉は生命の意味を、構造を、存在を解き明かしたもの。魔女の長年の研究の成果であり、過不足無く、またこれ以上ない生命に対する呪い。生命そのものを全て紐解いた上で、全く違う形へと編み直すための言霊。
ぶるり、と、山羊の体が震える。骨格が変わる、異質な、痛々しい音が響く。体中の毛は抜け落ち、蹄のあったそこには細く白い指先が。栗色の髪は長く、華奢な体を隠している。
唯一、揺れる半月の瞳だけはそのままに。
――否。
「……あぁ、本当に……」
魔女は膝から崩れ落ちる。這うように、少女に近付いて。
「アベリア……なのね……」
剥きだしの、細い肩を、抱き締める。驚くほど冷たい肌に、魔女の体温が移る。言葉も未だ知らない彼女だったけれど、熱い、と思った。
もちろん彼女は他の誰か――魔女の知る人物ではない。過去現在未来、いずれの時代に生きる人間であってもその精神を喚ぶこと、創ること、そのどちらも可能なはずがない。
……ただ、姿かたちを真似ることだけは。
だから彼女は、アベリアになった。
魚であり蛙であり蛇であり、鳩であり山羊であった彼女はその日、少女の姿と、かつて誰かのものであった名を得たのだった。
魔女は少女に名を与えたのと同じように、自らのことも名前で呼ぶように言った。少女は――アベリアはけれど、与えられた服に袖を通しながら、応える。
「でもね、わたしを生んだ人は、わたしのお母さんだと思うの。ね、そうじゃない? お母さん」
生まれたばかりだというのに少女と呼べる体躯を持ち、聡い頭脳を持つアベリアは、無邪気にそう言った。
アベリアが魔女を母と呼ぶ度に歪む表情の理由はけれど、賢いアベリアの理解の外にあるものだった。
「……本当に鏡写しのよう。……アベリア、は、素晴らしい魔女になるよ」
姿見の中に少女を立たせ、魔女は細い肩に手を置いた。魔女が実年齢よりも老けて見えるのは、年若い少女と並んだ所為か、はたまた、豊かな栗色の髪に混じる白髪の所為か。
並べば二人はとても良く似ていた。栗色の髪も、華奢な骨格も。血の繋がった親子と言っても通じるだろう、その程度には。唯一違いを見せるのは、少女の瞳だけだった。
三日月を横に倒したような瞳孔は、魔女とは違う。人間とも違う。
鏡越しに、ふ、と、目が合う。
「……さ、アベリアには期待しているの。勉強して、たくさん成長して、貴女の可能性を見せて頂戴」
すぐに解かれた視線だったけれど、少女にはそれが誇らしくて。瞳孔の切れ方は違うけれど、赤い、まっすぐな虹彩の色はお揃いで嬉しかった。
「はぁい、お母さん!」
ぴょん、と跳ねて、魔女の後ろを追う。
それはきっと、彼女の人生の中で一番幸せな瞬間だった。
***
ひとつきが経ち、ふたつきが経ち、みつきが経ち。
その異質は、やがて顕著に。
豊かな髪の全てが銀色になってしまった魔女と、あの時から寸分違わぬ姿の少女。もちろん、少女を生みだすことに全力を注いでしまったために魔女の老いが著しいこともあるが、それ以上に。年頃の少女がそのままの姿を保つなど、通常であれば有り得ないことだった。
どれだけ食べても肥えることはなく、髪は伸びず、肌に垢がつくこともない。
アベリアの身体には、代謝、というものが備わっていなかった。
「アベリアはもっと上手く魔法を扱った」と、それは魔女の口癖だった。始めは激励として、後に誹りとして。それは美化された奥底の記憶からの言葉、あるいは魔女自身に何度も刷り込まれた呪いの言葉だった。
そんな言葉をかけられてしまう程アベリアの魔法が拙かったかと言われれば、それは違った。知識や体験に見合わず、息をするように魔法を使う姿は並みの魔術師にも引けを取らないほど。書物からの知識はほとばしる魔力の些細な調整に過ぎず、出力の大きさやそれを操る感覚は生来のものだった。
――それは当然のこと。いくつかの生命と魔術を経て人の紛い物を成した彼女の体に流れるのは、血ではなく、魔力そのもの。手を握り、開くように。水を浮かせ風を吹かせ炎を生むことなど造作もなかった。
けれど彼女にかけられる言葉はいつも、アベリアとの比較だった。
「……いつになればわたしは、アベリアを超えられるのかしら」
ある日の言葉だった。いつも通りの勉強と試行錯誤の中、深いため息を吐いた魔女に、アベリアは何気なく問うた。彼女が産まれて1年目の、祝いの一つもない、彼女自身だけが記憶していた誕生日のこと。
「……お前は――お前は、アベリアを超えることなんて出来ないよ」
与えられた名も、呼ばれなくなって久しかった。……最後に髪を梳いてもらったのはいつだったか。服を着せ替えてもらったのは、食べ物をもらったのは。
お前には成長がない、と魔女は言った。
手のひらの上に芽生えさせた蔦をまた無に還して。少女は魔女を見る。
「……こんなに、こんなに頑張ってるのに? まだ足りないの?」
ぼたぼたと、空中から無造作に魚を蛙を蛇を生みだして。それらは床で跳ねまわる。息を継ごうと必死に踠いて空を掻く。
「いのちだってうみだせるのよ。ご本で読んだわ、いのちを生み出すのは難しいことなんだって、1から100を生みだすのはすぐに出来るようになっても、0から1を生むのはたいへんに難しいんだって、それでも」
「うるさい!」
キンと響く声で叫んだ魔女の靴が、跳ねまわる魚を踏み潰す。身が赤く飛び散り、少女の足元に臓物が貼り付く。
「何を言おうと、お前は出来損ないだよ」
お前には成長がない。魔女は何度も繰り返した言葉を、また、吐き捨てた。
……少女には手があった、足があった、頭があった。細胞があった、核があった、遺伝子があった。
けれど、それだけだった。
自己複製も、細胞の分裂もない。ただその体を保つだけの生命機構を、魔女は出来損ないだと断じた。
「お前には次が無いんだ、私はあの子の先を見たかっただけなのに……どうして。お前は、お前は、ただの合成獣と何ら変わらない、」
涙を流し、蹲るその背を見て。
少女は、生みだした生き物達の中でただ、佇んでいた。
***
魔女は、少女の生命としての在り方を否定した。
だから、少女の目標は「アベリアを超えること」から「生き物になる」ことに変わった。
生き物になるにはどうすればいいのかしら。
呼吸はしてる、心臓だって動いている。けれど成長だけが、足りない。身体を一回り大きく再構築してしまえばいいの? ――いいえ。きっとそれは、成長ではないでしょう。
ふと、胸に手を当てる。なだらかに曲線を描く身体の輪郭をなぞり、最後は胎に、辿り着く。薄い体の、一番やわらかい部分。骨にも守られない、皮膚という麻袋に詰められた臓腑。女の体を模した造りならばきっとそこには、子を宿すための器官があるのだろう。
あぁ……――子を、生めばいいの?
子を生すことを成長の一過程とする民族の話を、本で読んだことがある。そして幸いにも、彼女にはその術があった。いのちを宿らせるにはあまりに薄い胎ではなく。自らと同じように、魔術を以ていのちを生む術が。
天井まで届く本棚と、そこかしこに積まれた本の山、散らばった羊皮紙の数々。そのどこかには、彼女を生んだ術式もあるのだろう。
だから、アベリアは。いつの間にかやめてしまった魔術の勉強をもう一度、再開することにしたのだった。
朝が来て夜が来て。夜が過ぎ去って朝が過ぎ去って。まるで人形のように微動だにせず、アベリアは部屋の隅で本を読み続けた。幸いなことに彼女の理解力は素晴らしく、魔力によって編み上げられた身体は疲れを知らなかった。初めこそ、窓から見える空の色で辛うじて寝たり起きたりを繰り返していたが、二つの夜を飛ばしたところで、この身体には睡眠すら必要ないのだと悟った。
ならば後はもう、ひたすらに。
時々投げつけられる暴言も、憎々しげな視線もあまり気にならなかった。子供を生せたなら成長を認めてもらえると、そう思い込んでいたから。見た目にも歳にも見合わない頭脳を持ちながら、思い込みで走ってしまうところは相応に幼かった。
読んで、読み耽って、読み込んで。読み解いて、読み尽くして。
アベリアは、生命を、理解した。
そこからは早かった。
かつて自分が生まれた魔法陣に重ねるように、自らの親指を噛み切って、流れ出す燐光で陣を上書きする。元の陣が、生命の分解、再構築のためのものならば、アベリアが描くそれは、生命の発生のための陣だった。
魔力を凝縮させていのちの形を作る。
召喚でも置換でもないその魔術は、理論上は可能で、そして禁忌とされることだった。
魔女の紅を使わず自らの魔力を使ったのは、「自らの力で」子を生したと、胸を張るため。
分厚い本を片手に、陣に向かって手を伸ばす。読み上げている姿は形だけ、練り上げた呪文は全て頭の中に展開されていた。
少しの好奇心と、期待。興奮に充ちた顔で朗々と、高らかに詠唱するその口は――唐突に、塞がれた。
「!?」
温かな手は萎びた皮膚に似合わない力強さで、アベリアの声を奪う。
「やめなさい! その魔術にどれだけの魔力を消費すると思ってるの……! もう、お前を生み出した時のように、大地に魔力は溢れて居ないんだよ…!」
そのまま魔術を行使すればアベリアの中に流れる魔力が枯渇しかねないと、魔女は嗄れた声で叫んだ。
まだ、心配してくれるのかと。少しだけアベリアは嬉しかったけれど。
「もう……もう、私の目の前で死なないで……アベリア……!」
その名の指す、少女は。自分ではない。同じ音を持ちながら、アベリアの原型となった少女。
この期に及んで自分の姿を通して誰かを見続ける「お母さん」に、幼い精神は耐えられなかった。
ただ、認めて欲しかっただけなのに。
自分の動きを止めようとする腕と身体を振り払おうと身を捩る。若い身体が振るう力には叶わず、老いた魔女は容易くよろめいた。それでもなお伸びてくる腕を払い、距離を取ろうと胸を強く、押した。
筋力の衰えた細い脚が傾く。倒れかけの上半身を支えようと腕がばたつく。ふらついた足はぐらぐらと紅を湛えた大鍋に当たり、そして。
――ごぽ、り。
赤色の中に沈むその手に、腕を伸ばすことは出来なかった。一瞬の内のことだった。それでも、何度も助けられるタイミングはあったのに。
どうしても、どうしても。
「ぁ……ぁ……、ごめん、なさい……」
放心した様子で、床に座りこみ。煮える鍋を見つめることしか出来なかった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。眠っていたのともまた違い、窓の外に流れる朝と夜を、アベリアは確かに見ていた。けれど、それが何回過ぎ去って、その間に何が起こったのか、全て夢のようだった。傍らには煮える鍋、目の前には僅かに燐光を放つ魔方陣。深い、諦めのような感情に支配されて、手も足も投げ出していた。
――……、……ぁ…………ぅ……ぁ……、
沸騰する鍋の音の合間に、微かな声を聞くまでは。
それは家のどこから聞こえているのか、それとも幻聴なのかははっきりしない。途切れ途切れの風の音にも聞こえたが、アベリアは、赤子の泣き声だと思った。
もう、それしか縋るものがなかった。認めてもらおうと思っていた母親を手にかけて。生きる気力もなかったが、衰弱して死ぬにはあまりに丈夫な体を持っていて、体内に流れる魔力が流出するか、あるいは回復不能なまでに身体を痛めつける必要があった。死なないでと願われたのは彼女ではなかったけれど、自らを殺せるほどの精神力もなかった。
だからアベリアは、再び立ち上がった。魔導書を拾い上げ、詠唱する。魔方陣に手をかざし、いのちを、生もうとした。
それは、アベリアが生きるために必要な理由付けだった。
生まれた子は、たくさん大事にしてあげよう、わたしがママになって育ててあげるんだ、と。
そうして、我が子の顕現を待っていたアベリアだったが、それが喚ばれてきたのは魔方陣の中ではなく、ごぽりごぽりと赤い湯気を吐く鍋の中。その上それは生き物ではなく、概念だった。
それでも、それでも。
抱き上げたその身体が温かくて、笑う顔が泣き声が愛おしくて。
それは間違いなく、アベリアの子供だった。
煮詰められた罪は、「親殺し」。罪の中から這い出た概念は「赤子」だった。
***
鼓膜を通り脳に突き刺さる鋭さの鳴き声が、半ば強制的に少女を、アベリアを覚醒させる。胸に抱いた温いそれは、小さな手で彼女の指を握ったまま、腹の底からの空腹を訴えていた。アベリアが気を失っている間に彼女に流れる魔力の大半を啜ったであろうそれは、二回りほど肥えたように見える。けれどもう、座ることすらままならない自らの身体のことは、アベリア自身がよく分かっていた。
普段は感じることのない、体内の感覚。僅かに残った魔力が生命機能を維持、回復させようと奔走しているのが分かる。それでも手遅れだと分かる程度に瞼は重く、意識も朦朧としていた。
このまま意識を手放せたのならどれほど楽かと、一瞬のうちに何度も暗く甘い堕落がアベリアを誘った。瞼が落ちそうになるその度に、それの鼓動は血の通わない冷えた肌を温めて彼女を鼓舞した。
――おかあさんと呼ばれた気がして。そして、呼ばれたのなら応えねばならない気がして。
思考すらままなっていない状態で、操られるように体が動いた。既に自分で噛み切った指先を、口元へ。微かに震える唇を開き、丸くて白い歯で挟み込んで。
脂汗が浮くことも、涙が流れることもなかった。ただ、脳天から足先まで鋭利に貫かれたような感覚が走り、指先は熱く肉が煮えるようだった。不快な食感に耐えて咀嚼し、歯で肉を細かく切り刻む。
そうして、ほとんど液状になったところで。アベリアはそれと唇を合わせた。つい先ほどまでアベリアだった肉の成れの果てが、それの口の中に、喉の奥に、消えていく。
彼女の肉体は核となった魚一匹分を除けば全て、魔力から成っていた。血液の代わりに流れる魔力を糧と出来るのならば、その肉体もまた例外ではないのだろうと。理屈ではなく、殆ど本能からの動きだった。
指を順繰りに噛み千切り、咀嚼、口移しで与える。人差し指、中指、薬指。
本来ならば気を失わんばかりの痛みに悶絶しているはずの所業だが、アベリアの表情は歪んでいない。もちろん、ある程度の痛みは感じているのだろうが、顔に浮かんでいるのは慈母の笑みだ。
女を母とし、自らを子とする。赤子というものはそういう生き物だった。赤子というものはそういう概念だった。……多く、剥離した概念は特殊な力を持つ。この場合は――自己犠牲を伴った自らへの献身、だろうか。
血の代わりに溢れる燐光で口の周りを汚し。アベリアは尚、自らの肉を噛み千切り、与え続ける。口移しで肉の破片を受け取りながら、それは視認できる速さで成長していた。……否、成長ではない。また、肥大でもない。そのままの等身で、肥え太ることもなく。ただただ大きくなっていた。
彼女の腕の中でぶるりと震えながら、見る間に大きく、大きく。
身体に対して大きすぎる頭、柔らかい手のひら。通常であればありえない大きさの赤子は、自らに優しく笑いかけるアベリアの頬に手を添えた。
無垢な輝き、純粋な煌めき――知性の無い、獣の瞳孔が少女の瞳の奥の奥、脳髄まで見透かすように、覗き込む。我が子と目が合う嬉しさと魔力不足の狭間に身を置きながら、アベリアは掠れた声を絞り出した。
「……そう、だ、あなたに名前を……かんがえていたの、……」
「あーぅ、んぅー」
赤子の喃語は柔らかく、少女の言葉に覆い被さる。微かに動く唇に顔を寄せ、あー、と――
「あなたの、名前は……、テ、オ……ぁ――――!」
――口を開いて。自らの名を聞き届けたのか、否か。それ、は、小さな少女の頭に喰らいついた。食べるということのみに特化したまるい歯が、唇を噛み千切る。咀嚼の間もなくかぶりつき、下顎を力のままに引き裂いて。ごり、と、骨を砕く音がそれの口内に鈍く響いた。在るべきものを欠いた顔の断面から、乳を飲むように魔力を吸い上げる。
「、…………」
幸いなことに――もっとも、この状況を良しと判断する者は居ないだろうが――顎を食い千切られた時点でアベリアの思考は途切れていた。人造とは言え人の身、神経を遡り脳を蹂躙する痛みには耐えられず、防衛反応としてその意識を落とすに至った。次いで魔力の流出が身体そのものの機能を停止させ、一度沈んだ意識はもう、二度と、浮上することはなくなった。
ごくり、ごくりごくり。嚥下する度に白い身体は膨れ上がり、歪な赤子のまま巨大化する。無垢な色に似合わず醜悪なシルエットは、魔力の枯渇した少女の骸をそのまま、焼き菓子のように平らげた。
ぱきぱき、もぐもぐ、むしゃり、と。辛うじて口元に運ぶ他は作法も行儀も関係無く、殆ど本能のままに。
「だ、ぁー」
けぷ、と満足げに口元を拭って。鼻腔をくすぐる重厚な匂いに惹かれるままに、それは部屋の隅に目を向けた。
大鍋に煮詰められた、罪の紅色。凝縮された魔力の湯気は、生きていた少女の体液の次に美味しそうな匂いがした。
「……ぅー」
言葉は無かった。意志も無かった。
ただ、生きようとする本能だけが、成長しようという野生だけが、それを突き動かしている。
熱い鍋肌に手をかけて手のひらが焼ける痛みに泣きながら、掴まり立ちを覚えて。沸騰する赤色にそのまま頭を突っ込んで、ごくりごくりと飲み下す。
――赤く赤く染まった口は、自らの親を喰い殺した罪の証にも見えた。
***
枯渇した大地を、柔らかな四肢が這う。最早赤子と呼ぶべきか迷う程の巨躯となったそれは、しかし一切の成長を見せず、次なる母乳を探していた。
赤子として成長を望み、赤子で居るために成長することが出来ず、矛盾しながら歩みを進める。どれだけ魔力を蓄えたところで成長に帰結しないことは、それにとっては関係のないことだった。
真っ直ぐに、魔力の匂いに惹かれて進むように。得られる筈も無い発達に手を伸ばす。
「――」
……風に紛れ、微かな、本当に微かな気配がする。
遠く、とおく。魔女の家を忌避し、けれど報復を恐れ無碍にも出来ず、細々と交流を続けた街があった。善良な人々が平和に暮らす、温かな街。
――街の中で最も魔法に耐性の無い若い女が何人か、荒野を真っ直ぐに、それを迎えにやってくる。抱きかかえられたそれは無垢に笑うだろう。
明るい声を響かせて、それは街への侵入に成功する。
街の女たちは次々にそれの周りに群れ始める。ハーレムと言うよりは人間揺り篭と表現した方が正しいような、そんな有り様で。
真白き笑顔、純粋な泣き声。その一挙一動に女性は従う。我先にとミルクを、温もりを与えようと幾つもの手が伸びる。
その間放置された町の男たちは面白くない。面白くない、どころか。宗教じみた雰囲気に恐怖し、それの排除に乗り出す。
女たちは、自分が愛した人の自分の息子の自分の父親の、銃弾を剣先を棍棒を、その身で受け止めて。白い白い、無邪気な魂を、身を挺して守るだろう。狂信か、妄信か。……否、そんなものではなく、それは生き物としての本能。母が子を守るという、知性の奥底の直感。例えそれが血を分けた我が子でなくとも、それは間違いようもなく彼女たちの赤子たり得た。
そうして、女たちの柔らかな肉を断った刃はようやく、白く醜悪な身体に届いて、その連鎖を終わらせる。男たちの嘆きと慟哭を最期に聞きながら、それは驚く程紅い臓腑を晒す。
……それは、何時かに起こる悲劇の幻視。それに訪れる終局の一幕だったが――そんなことは未だ誰も知る由が無く。幾つの街を滅ぼした後の末路なのか、今直ぐにでも起きようとしている真隣の未来なのか。
柔らかな手が枯れた大地を往く。肉付きの良い足は土に塗れながら進み続ける。
――在るべき終幕に向かって。