運命の暗転1
「…ああ、私は心配でたまらんよ、あの子は私の宝物、だから必死で守らないと…」
南東区の中でも南端に近いところにある一軒家、一人の中年の女性が机に伏せてぶつぶつと呟いていた。魔術師が呪文を唱えるが如く、小言が部屋に木霊した。
窓の外枠へ目を凝らすと一匹の大きな蜘蛛がせっせと作り上げた一軒家で寛ぎ、御馳走が糸に絡みつくのを只管に待っていた。蜘蛛は心理学上での意味は拘束する母親、彼女は完全にそれに準えた教典的な母親だった。ガラッと窓を開けて蜘蛛の巣にいる主を握り潰す。
私は…あの子を守ると決めたのだから、邪魔する者はすべて排除しないと!
手を開けば潰されて体液が掌中に広げた蜘蛛の死骸が転がっていた。
―。
ロレンツと買い物をしているアレッタはやけに嬉しそうだ、ルンルン気分で町中をスキップしていた。買いも袋の7割近くは彼が手に引っ提げている。「今日は何作ろうか?」「そうだね、ロレンツの好きなものでいいよ」「わかった」
妙にざわついている南西区の人々、詳しくは知らないが凶悪な人物がこのタナトスに紛れ込んでいるらしい。飛び交う噂の中に「リベラでゴミ捨てなどの仕事」「顔半面に火傷の痕」「ナチュラルサイコパス」「人的非道すぎる」「自分の快楽の為なら犠牲を厭わない残酷さ」が耳に入った。
出てきたキーワードの中から記憶の本棚に閉じ込められた該当する人物を思い出そうと頭を回す。リベラでゴミ捨て…。顔半面…。まさかそんなわけないだろうと思いどうでもよさそうに鼻を鳴らして買い物の続きに入った。林檎を一つ片手に艶や色合いを確かめる。デザートはこれともう二つくらい果物追加してもいいかな。
「あと何作ろうか?ロレンツ」
正面に後ろで腕組をして前を歩いているアレッタが俺に声をかけてくる。
「そうだな、パスタとかはどうだ?久しぶりに食べたくなってきた」
「そうしよっか」
ドンッ。
彼女の肩が通りすがりの女性にぶつかってしまう。二人はバランスを崩して膝から地面に倒れ込んでいく、痛そうに自分の擦りむいた部位を確認する前にアレッタは相手の女性に気をかけてきた。自分より他人、そういった点では彼女に好感を持てる。
「あっごめんなさい」
「こちらこそ…」
オレンジ色の髪をした女性は誇りを払って眼鏡を掛けなおしている。
「何しているんだアレッタ、子供じゃあるまいし」
「子供じゃないよ!」
すくっと立ち上がった眼鏡をかけている女性はじっとこっちを見てきた。俺の顔に何かついているのを指摘でもするのか、生憎パンくず一つも付いていないんだが。ロレンツが見つめる女性が出してくる言の葉を当てようとしていたがその予想は外れたようだ。
「あれ…もしかして、ロレンツ?」
「?」
「私よ、クロエよ」
「…クロエか、久しぶりだな」
少しの時間が経ちロレンツ宅にて。
ジュウウウウ~。熱されたフライパンの上で潰されたトマトが焼かれて音を鳴らす。その横では塩を入れ沸騰させた水がたっぷり入った大きめの鍋が同じように高い火力で底面を焦がしていく。水分を抜きつくされて曲げればすぐに折れてしまいそうなほどのパスタを煮沸された熱湯に通して潤す。
「改めて自己紹介するわね、私はクロエ、クロエ=フロックス」クロエが
「幼い頃にロレンツと同じ孤児院にいた仲間よ。えっとアレッタちゃんだっけ?」「はい」
「何年ぶりだ?クロエ」「それはこっちのセリフだよ、ロレンツ。会えて本当によかった…」「おっ、おい!?」「無事でよかった、ジェシーと同じく死んじゃったかと思ってた。本当によかった」「…」
アレッタの嫉妬している焼き付く視線を背中から感じる。可愛いところあるなと思い込み、眼下に広がっているまだ料理として完成していない食材たちを見下ろす。
トマトスパゲティとフレッシュサラダ、銀杏切りにした林檎、へたを取ったイチゴなどの果物の盛り合わせ。お腹を空かせて席で待っているクロエとアレッタの元へと料理を持っていく。湯気と共に立ち込めるいい匂いが部屋中に広がる。
「いつからタナトスに居たんだ?」「数年前、今では花屋を営んでいるわ」
久々に会ってみて話したいことが頭の中にある皿にどんどん盛り付けされていき、山盛りにつまされた疑問を答えで噛み砕きたいという欲望が微かに蠢いている。何故ここに居るのか、孤児院は今どうなっているか…。話についていけないアレッタは黙ってスパゲティを口に運んでいる、口の周りに付着したトマトソースをティッシュペーパーで拭い取った。
「この街であったご婦人に暫くお世話になっていたの、いい人だったわ。花のことを色々と教えてくれていたわ」「なるほど、それで花屋を営みたいって思ったのか」「そうよ」「いいな」ガラスのコップに注がれた冷水をごくごくと飲み干していった。飽和状態でガラスに着いた水滴が掴んだ掌に移っていてほのかに冷たい。
ある程度料理を平らげて食事も終了間近、思い出話や今ある生活の話に浸っている。一人寂しく心細くなってしまっているアレッタも会話の渦に巻き入れていく。
「ロレンツは今何をしているの?」彼女に同じ質問を返される。「義肢製作整備店でちびちびやっているよ、給料少ないけどいい仕事だ」軽く陰口をたたいたが、すぐさま悪いイメージの殻をぶち破る。
久々の楽しい会話に水を差すのはあれだが、気になっていたことを思わず聞いてしまう。
「…急に話変えて悪いけどよ、孤児院はどうなってる?」
「…潰れたよ、グリア先生が逮捕されたから」




