夜
今夜は待ちに待った満月だ。僕はあの人の家へと駆け出した。
山を越え鎮守の森を抜け抜け、川を渡るとあの人の家がある。人間の足だと迷う森も狐なら二刻もあれば超えられる。
半人前の妖狐の僕はまだ尻尾が二本しかなくて、満月の夜しか人になれない。華陽姐様や玉藻姐様のような立派な九尾になれたら昼間も人になれるけど、それには三百年くらい時を重ねないと九尾になれない。
森の端の祠まで来て僕は立ち止まった。狐の姿のままでは会えないから、深呼吸する。
そして月の神様にお願いする。
(どうか人の子にしてください……)
すっと力が抜けるように僕の体は変化を始めた。大きな耳も口も小さくなり、自慢の尻尾も消えうせる。茶色の毛皮は黒髪に……なんとも心もとないつるつるとした人間の体に変化した。
これで見かけは人の娘になったはずだ。
祠の中に隠してあった着物を急いで着る。何で人間は体にこんな布を巻きつけるのか不思議だったけど、変化してみて初めて分かった。
最低限の毛しか生えていない人間は着物を着るしか身を守る術がないということが。
着替え終わって走って森を抜けた。村の中でも一際大きなお屋敷に住んでいるあの人は、いつものように月明かりを下で待っていた。
大きな庄屋の息子の太吉はお屋敷の離れに住んでいる。大きなお屋敷のとなりに少しこじんまりした館があって、そこで暮らしているんだという。
病気のために父様や母様、兄弟たちと暮らせないらしい。そのお陰で僕はこっそりと会うことが出来た。
生垣の隙間から体を滑り込ませ庭に入る。
「銀夜か?」
「うん、太吉さん」
ふわりと僕に微笑みかける。それだけでぽぅと頬が熱くなった。
狩人の罠にかかった時、太吉さんは狐の僕を助けて優しく手当てをしてくれた。その時から僕は太吉さんに恋してしまった。
それから満月の夜に山守の娘だと嘘をついて太吉さんに会いに行く。嘘をつくのは嫌だけど本当のことは絶対言えない。
化け狐だって知られたらきっと太吉さんに嫌われてしまう。
満月の夜にこうして話が出来るだけで満足だ。
今夜も太吉さんと色々な話をする。山のことや都に住んでいる姐様のこと。帝のお傍にいられるほど姐様は文で色んな話を教えてくれる。それを太吉さんに話したら大層面白がって笑ってくれた。
ふいに太吉さんが僕の手を握ってくれた。初めて握ってくれた手のひらは温かくてドキドキした。
「銀夜、山を降りないか?」
僕は驚いて太吉さんを見た。今まで見たこともない真剣な顔で僕を見つめている。
「駄目だよ。僕は山の暮らしを捨てられない。満月の夜に会いに来るだけじゃ駄目?」
「姐様は山を降りて都に住んでいるのに?」
僕は首を横に振った。
だって姐様は何百年も生きた力が強い狐だから……力の弱い僕は人と同じに生きられない。
「いや、無理をいってすまなかった。少し欲張りすぎたようだ」
太吉さんの寂しそうな顔に僕の心は締め付けられる。
本当は僕だって太吉さんの傍にずっといたい。でも、そうなるには……
「ごめんね」
僕はずっとずっと覚えている。この月が照らす限り覚えている。
「大好きだよ」
三百年経っても貴方が生きていたことは忘れない。