1:受付
この春、俺は新しい会社に就職した。
大学を卒業して二年。新卒で入った通信系の会社がこのアベノミクスのさなかに倒産してしまい、俺は次の就職口を探していた。
面接を受け、なんとかアパレル系中堅企業のシステム関連部署に採用してもらった俺は、入社直後に上司から指示されたのだった。
健康診断に行ってこい、と。
サラリーマンの義務、健康診断。
前の会社でも年に一回、五月ごろに会社を通して届いた案内にしたがって、近くにある法人専門のクリニックに受診しにいったことがある。
内容は、なんということのない検査の連続。受診票を手にして、身長・体重計測、視力検査、聴力検査にはじまり、血圧検査や心電図、X線検査と続き、最後に採血と簡単な問診をして終わる。
学生時代にもあった検診に毛がはえた程度の内容で、ただ看護師の指示通り動いていればそれで済むものだ。
面倒といえば面倒だが、いちおう義務なので行かなければいけない。
これも仕事のひとつだと思って、俺は会社が指定した市内のクリニックへ足を運んだ。
昼前に行ってみると、どうやら俺が午前中最後の受診者だったらしく、俺の入った直後、出入り口に「準備中」の看板がたてられた。
俺は受付にいた若い女性の看護師に、いまの健康状態や生活習慣を前もって記入した問診票を渡す。看護師は問診票に書かれた各項目を確認しながら、シャーペンを手に尋ねてきた。
「宮内さん、朝食は抜かれていますかぁ?」
「はい、抜いてきました」
「昨日の夕食は抜かれましたかぁ?」
「いえ、夕食は食べましたけど」
「じゃあ、昨日の昼食は抜かれましたかぁ?」
「昼食も、食べましたけど」
「カルボナーラですかぁ?」
「……いや、カルボナーラじゃないですけど」
「えー、そうなんですかぁ。もったいないですぅ。このクリニックの正面にあるイタリアンのランチパスタがとてもおいしいので、おすすめなんですよぉ。ぜひ今度行ってみてください」
「はぁ……まぁ……はい」
「約束ですよぉ。指切りげんまんです。ゆ~びき~りげんまん♪ ウソついたら注射器1000本腕に刺す♪ 指切った♪」
替え歌が怖い。
「じゃあ、昨日のおやつは抜かれましたかぁ?」
「おやつは……食べてないですけど。あの、さっきからパスタとかおやつとか、何か健康診断に関係あるんですか」
受診から五時間は何も食べないように、とは問診票に書かれていたけれど。
ってか、語尾が間延びしているこの人の話し方、すごく力が抜ける。
「はい~。生活習慣の把握のためですぅ」
「はぁ、そうなんですか」
「じゃあ次の質問いきますよぉ。最近大きな病気をしたことはありますかぁ?」
「いえ、ないです」
「近ごろ生活のリズムが変わったとかぁ、そういうことってありますかぁ?」
「まだ入社したばかりなんで、いまのところは特に変わってないです」
「あ、新入社員さんですねぇ? じゃあおやつの食べすぎには注意して下さいねぇ」
「おやつを食べる習慣はあんまりないんですけど……」
「え~、そうなんですかぁ? じゃあビスコとかも食べない感じですかぁ?」
なんでビスコ限定なんだ……。
「ビスコおいしいですよぉ。私も子どものころから食べてますけど、ぜんぜん飽きないんですよぉ。そう思いません?」
言いながら、首をこくっと傾げつつ上目づかいで同意を求めてくる女性看護師。
質問の意図が全く分からない……。
「まあ、おいしいと思いますけど……。最近は食べてないですが」
「いけませんよぉ、ビスコくらい食べないと。カルシウムがいっぱい――あっ、もう時間? じゃあ、続きはあ・と・で・ね♪」
看護師は子猫のような笑顔になりながら、俺の鼻先を人差し指でちょんっとさわると、そそくさと受付の奥へ引っ込んでしまった。
なんなんだ、あの看護師……。
およそ受付とは思えないなれなれしい感じに、俺は戸惑うばかりだった。
そのときは、そうとしか思えなかった。
思えばこのときすでに、このクリニックの「特殊な」健康診断は始まっていたのだった。