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手をつなごう

作者: 照岡葉子

 水に誘われていた。

 ぼくの前を歩く女の子は、どこかに自分の意思を置いてきたように、ひきずるような足取りで歩いていた。

 それでいて、心なしか楽しげで、ぼくはそれを純粋に怖いと思った。

 彼女の肩の上で揺れる髪が、ぼくは見ていられなかった。

 彼女の揺れる上半身が、ぼくは見ていられなかった。

 それでも声をかけることもしなかった。

 あのときの不安や怒りは、もうこの心にはない。

 ただ、静かで深いかなしみだけが、ぼくの心に横たわっている。

 雲間から神聖で真新しいオレンジ色のひかりがさす。光の線は目が醒めたばかりの街へと視線を落としている。

 風はぼくらの間を無邪気に駆け抜ける。

 ぼくらの背後には、風になびかず、確かな影がひっそりとついてくる。

 はらはらと手放された葉がぼくの視界のはしを落ちてゆく。

 さわさわと、優しい音色が耳に届く。

 目の前にいるこの人が、いつか、近い先、こうしてすっと手放されて消えてゆく、と思った。

 そんなの、きっと会ったときから思っていた。

 あのときの彼女と今の彼女とでは、やっぱり決定的にちがう。けど、それでもきちんと、この人は今もまだ、あのときから大切に持っているかなしみを失っていない。

 ぼくはかなしみを奪うことも、取りのぞくこともしてあげられなかった。

 ぼくの片手に持つ本が、とても重たく感じた。

 ぼくはこの本で、どうにか彼女を繋ぎとめられると思っていた。

 でも、そんなの、できやしないことも知っていた。

 だからせめて、と。

 ぼくは背後で息をひそめている不安から逃げるように、彼女に駆け寄り、彼女のとなりに並ぶ。

 彼女はぼくを見ない。

 その先にあるはずであろう、水の予感だけを信じて見つめていた。

 ぼくもその先を見つめる。

 金色に縁取られた雲の後ろには、ひかりがひそんでいる。

 その下に、きっと水辺がある。

 かなしいままで、ぼくらはひかりにさらされていた。

 ぼくには水の気配は分からない。

 きっと、ずっと分からないままだ。



 ひかりが急にそわそわと足取りを速めた。

 ぼくの少し手前を歩く彼女は、長い毛並みを金色にきらめかせながら、ぼくを急かすようにしっぽを振る。

 ずいぶん歳はとったけれど、それでも彼女の身体は大柄なので、成人したぼくでもひきずられてしまう。

「どうしたのさ」

 緊張を含めながら、ぼくは光に問いかける。

 光は何かその先に見つけたようで、その方向を一心に見つめて足早に向かう。

 光とは、休日は昼間にも散歩に付き合ってあげられる。光はとても長く生きているから、少しずつ散歩の距離は短くなっている。とはいっても、今でもそれなりの距離を散歩しないと、夜でもまだまだそわそわしているのだ。

 ぼくとしても、冷たさが漂いはじめた夜に散歩に行くのは、少し気が滅入ってしまう。

 太陽は頭上からささやかに温かさを降りちりばめている。

 風が少しずつ冷たさを含み始めたころ、ぼくは光に連れられて、なつかしい顔を見た。

 家からそう遠くないこの散歩コースは、小さい頃から慣れ親しんだ道だ。細い道に隣接された家々は穏やかな陽気に照らされて変わらず佇んでいる。

 秋になればオレンジ色の実をつける木の葉っぱが、塀の向こう側から顔を出していた。

 その下で、女の子が空を見上げていた。

「あれ、ふみちゃん」

 ぼくが声をかけると、その女の子がしずかに振り返った。

 光がしっぽを振りながら駆け寄った相手は、ぼくの同級生、史ちゃんだった。

 彼女の家はぼくの家の近くなので、小さい頃、よく彼女とぼくは遊んだ。

 史ちゃんはとても大人しい女の子だ。どこか、さみしさだとか、かなしさだとかを含めた瞳が印象的だったのをおぼえている。

 ぼくはあの頃から史ちゃんの顔を見ると、とてもどきどきしていた。不安になるのだ。

 彼女の暗い瞳は、どこを見ているのか分からなかった。

 ぼくは史ちゃんにじゃれつこうとする光を、リードを引っ張って止めながら、史ちゃんを丸くした目で迎えた。

 こんなところで史ちゃんに会うとは思わなかった。

 高校を卒業してからは接点は絶たれ、近所といっても全く顔を会わせることが無くなってしまった。

たかしくん、久しぶり」

 史ちゃんは無表情に言った。

 高校を卒業してから会う史ちゃんは、ぼくの記憶にある史ちゃんとそう違ってはいなかった。髪が少し長くなっているくらいで、相変わらずとても大人しい容姿のままだ。

 ただ、その暗い瞳は、さらにいっそう深い暗闇を含んでいるようだった。

「光ちゃんは昨日会ったばかり」

「あ、そうなの」

 どうやら史ちゃんと光はこっそり会っているようだった。

 史ちゃんは光に一歩近づき、手をのばす。光は嬉しそうに史ちゃんに頭を撫でられている。

「光ちゃん、今年でいくつになったの」

「え、いくつかな。もうずいぶん長いけど」

 ぼくは久しぶりに話す史ちゃんにどきまぎしながら、考えるふりをする。

 光とおなじ目線の高さにしゃがんだ、史ちゃんの小さな頭を見つめながら、何故かきまりの悪い気分になりながら、何を喋ろうか、迷う。

 ぼくは答えを探すように史ちゃんから目をそらし、葉がおちはじめた木を見上げた。

「史ちゃんは、どこかに行くところだったの?」

 慌てた口調でぼくは史ちゃんを見て問いかける。

「私も散歩」

「いつも散歩なんてしてるの?」

「そうね」

「ぼくもふだんここを通るけど。今まで会わなかったね」

 ぼくはなにげなく言って、笑いかける。

 史ちゃんは光をまだ撫でていた。

 光を見下ろすその顔に影がかかっている。

 少しだけ微笑んでいるように見えるけど、どこかかなしそうにも見える。

「いつもちがう道を歩いているの」

 少しの沈黙を置いて、史ちゃんはそう言った。

「そうなんだ」

 ぼくは頷いて納得した。

 光が史ちゃんの顔に鼻を近づけ、ふんふんと匂いをかいでいる。

 史ちゃんはくすぐったそうに小さく笑った。

 そして光の頭から手をはなし、ぼくを真っ直ぐにみた。

「久しぶりに会うと、何を話したらいいのか、なんだか迷っちゃうわね」

 史ちゃんは言った。

 ぼくはそのときにやっと思い出した。

 史ちゃんはとても暗い瞳をしている。それに、表情も乏しい。小さなころからぼくはずっとそう思っていた。でも、一緒にいる時間が長くなるにつれて、少しずつ分かるようになってきたのだ。

 史ちゃんはちゃんと表情を変えている。

 今だってほら、照れたような顔をしている。

 ほんのちょっとの変化だ。

 それが、人よりちょっと分かりにくい、ってだけ。

 ぼくはやっとあの頃の感覚を思い出して、にっこりと微笑んだ。

「光の散歩、少し付き合ってくれない?」

 言った途端、光が何かを理解したのか、はしゃいだようにしっぽで空気を切っている。

 史ちゃんは驚いたように身を固くした。

「散歩に?」

 聞き間違えたわけでもないのに、史ちゃんは聞き返してきた。

 ぼくも少し後悔した。

 久しぶりに会って嬉しいからって、女の子と一緒に散歩だなんて、ナンパみたいじゃないか。

 どう取り消そうか、えっと、と口ごもった。

「うん。そうね、光ちゃんの散歩、してみたい」

 史ちゃんは小さく肩をすくめて、そう言った。

 光が嬉しそうにくるくると踊った。

 ぼくは思いがけないの返事に目を丸くした。

「えっと」

 その先に何も続かないのに、ぼくはそう口にして、何か言わなきゃ、と思った。

 けれど光がぐい、とリードを引っ張り早速歩きだしてしまった。

 史ちゃんは小さく笑いながら、光のとなりを歩く。

 ぼくは光に連れられるまま、歩くしかなかった。

「えっと」

 ぼくはずいずいと進んでゆく光を小走りで追いかけながら、何を話そうか思い悩んだ。

「いつも……いつも、この道を通って、角のお店を曲がって、ぐるっとまわっているんだ」

 どもどもしながら、なんとかいつもの散歩コースを説明する。

「思ったより長い道を散歩しているのね」

「うん。歳をとってても、体力はまだまだあるからね」

「じゃあ、子供の頃は大変だったでしょう」

「あのときはずっとお父さんが散歩してたんだ。ぼくはたまについて行くぐらい。光、引っ張る力、すごいから。高校になってからかな。一人で散歩に行けるようになったの」

 光は構わずずいずいと進んでいる。

 細い道の端に流れている川が日に照らされて、反射が泳いでいた。

 たまにアスファルトからのぞくささやかな草をふん、とかぎながらも、光は歩くのをやめない。

 今日はとても元気そうで、いつもよりはやく歩いているように思えた。

「史ちゃんはいつも違う道を散歩しているって、どうして?」

 緊張がとけてきたぼくは、何気なくそう尋ねた。

 しかし史ちゃんは、その顔に頬笑みをたたえたまま、固まったように思えた。

「公園をさがしているの」

「公園?」

 史ちゃんは真っ直ぐに、この先歩いてゆく道を見つめていた。

「小さいとき、行ったはずの公園」

 太陽に薄い雲がかかり、史ちゃんの顔をしずかに隠した。

 光はまた草を見つけ、今度は立ち止まった。

 ぼくも、史ちゃんも、同じように立ち止まった。

「大きな公園じゃないの。小さな公園。それほど多くない数の、遊具が、あってね」

 史ちゃんは向こう側を見つめている。

「すべり台はよくおぼえているの。音が鳴るのよ。すべると、音が鳴るすべり台なの」

 史ちゃんは向こう側を見つめている。

 史ちゃんは今、その公園を見つめている。

 ぼくはその史ちゃんの見ているものを想像して、胸をざわざわと騒がせた。

「史ちゃんは、その公園を探しているの」

「そう。私はその公園を探して、歩いているの」

「この近くに、公園なんて、あったかな」

 ぼくは言い知れぬ不安に耐えられなくなって、史ちゃんから目を逸らした。

「分からないの。でも、ちゃんとおぼえているの」

 史ちゃんはぼくを見たようだった。

 視界の端に、史ちゃんの小さく笑った赤い唇が見える。

「何か深い思い入れがあるの?」

「ない、と、思う」

「でも、探しているんだ」

「ええ。誘われているんだと思う」

「誘われる?」

 その言葉に大きなひっかかりをおぼえ、ぼくははっと史ちゃんを見てしまった。

 ぼくと史ちゃんの目が合う。

 くらやみを含めた史ちゃんの瞳はぼくを眺めていた。

「私ね、針金虫に寄生されているのよ」

 太陽が消えてゆき、黒い雲だけがぼくらの上に覆いかぶさっていた。

 日がなくなると、いっきに空気が冷たくなった。

 光がしっぽをたらして、ぼくの足元に近付いてきた。

 川できらめていた反射はいつしか消え去り、黒い水だけが流れていた。

「ふいに誘われるの。水のある方へ」

 ぼくは口を一つに結んだ。

 史ちゃんの口は弧を描いていた。

「公園を見つけたら、水辺へも行けるような気がして」

 史ちゃんはそう言って、口を閉じた。

 その場から足を放し、それを雲が追いかけて、追いぬいた。

 随分長い間消えていた太陽が顔を出し、また少しずつ周囲に温かさをまきはじめた。

 史ちゃんに追いつこうと、光がおそるおそる歩き出す。

 ぼくはまた、光にリードを引っ張られて歩き出す。

「……その虫は、悪いものなの」

 太陽は温かくぼくらを見下ろしていた。

 ひかりの背中を見つめながら、誰に言ったわけでもなく呟いた。

「さあ。でも、あんまりいいものな気はしないわ」

「……」

「みんな、気のせいだ、って言うのよ」

 ひかりの背中にささやかな日があたり、ひかりが気持ちよさそうに目を細めながら歩いていた。

 もうすぐ、道には曲がり角が訪れる。

 史ちゃんも光も歩くのをやめてはくれなかった。

 ぼくだけがのろのろと二人の後ろについてゆく。

「針金虫なんていないっていうの。でもね、いるんだろうなあ、って、どうしても思うの。私の頭には針金虫が寄生していて、私を水辺へと誘っているの。そうじゃなきゃ、こんなにつらいはずがないんだもの」

 史ちゃんの背中にもささやかな日があたっていた。

 弱々しい太陽は、少ししかぼくらの世界をあたためられない。

 史ちゃんが曲がり角に立つ。

「たぶんきっと、違うのね。寄生された私の世界と、他のひとたちの世界って」

 諦めたように史ちゃんは笑った。

 ぼくの世界にはそれでも少し、日が当たってくれている。

 史ちゃんの瞳はくらやみのままだ。

 史ちゃんの瞳には、黒々とした線がうようよと漂っている。

 史ちゃんの世界には、日のひかりは届かないでいる。

 たぶんきっと、違うんだろう。

 ぼくと史ちゃんの世界って。

「違っていても、思いやることはできるんじゃないかなあ」

 ぼくは呟いた。

 この心に深いかなしみを抱えながら。

 世界が違っても、ぼくには史ちゃんのかなしみが届いているような気がした。そう思えるような気がした。

「そんなにかなしそうな人に、ぼくは突き放すような言葉は言えないよ」

 力なく呟くと、史ちゃんは目を丸くした。

 光が今度は、史ちゃんの足元へと寄り添う。

 史ちゃんはそれに気がついて、光の頭を撫でた。

「そう……そうなの……」

 史ちゃんは小さく言った。

 光は目をつむってしあわせそうに頭を預けていた。

 そのとき、確かにぼくにも史ちゃんにも、ひかりの背中にも、同じように太陽の日が降り注いでいた。



 その日、ぼくはひかりがぴーぴー鳴く声を聞いて、外に出た。

 休日はいつもお昼も一緒に散歩ができるのだけど、それは正午のベルが鳴ったときだ。

けれど、そのベルよりも少し早く、ひかりが外でそわそわし始めた。

 ぼくは何かあったのか、と不安に駆られながら玄関の扉を開いた。すると、光は玄関先の自分の小屋の前で、しっぽを振ってぼくを迎え入れた。そして、まるでぼくに目線で訴えるかのように、道路の方へ視線を送る。

 ぼくもその視線を追うと、そこには史ちゃんがいた。

 史ちゃんはぼくに見つかったことに気付くと、唇をきゅっと結んで目を丸くし、やがていつもの無表情に戻る。

 史ちゃんの瞳は、やはりどこか、かなしみをたたえている。

「こんにちは」

 史ちゃんからあいさつをしてくれた。

「こんにちは」

 ぼくもあいさつを返した。

 史ちゃんはその返事を受け取ると、何も言わずにそそくさと歩きはじめた。

「あ、待って」

 ぼくは思わず声をかけた。

 何が待ってなのか、ぼくにも分からなかった。

 でも、前に会ったとき、史ちゃんが言っていたことに、ぼくはまだ胸がざわざわしていた。

 史ちゃんは今日もきっと探しているのだ。

 記憶の中の公園を。

「ぼくも」

 そう言いかけて、かっと気恥ずかしさが湧きあがってきた。

「……光も、散歩に行きたいって」

 ぼくは顔が熱くなるのを感じた。史ちゃんに顔が見えないように、光を見ながら小声で言った。

「……今日は、あの山へ、行こうと思って」

 史ちゃんが真っ直ぐに腕を伸ばして、すぐ近くにある山へと指をさす。

「そうなんだ。すぐ、すぐに支度するね」

 ぼくは慌てながら散歩の準備をした。

 光は嬉しそうに吠えながら、ぼくを急かしていた。


山に行く、と言ったときどうしてぼくは止めなかったのだろう、と、ここまで来て考えていた。

真横に広がるのはひろいひろい畑。

 その畑には白い花が点々と咲き、太陽のひかりを穏やかに享受していた。

 光が目線が同じくらいの木々の間に首をつっこんでは、くしゅん、とくしゃみをする。

「ダニがつくよ」

 ぼくは注意した。

 光は滅多に来ることのないこの場所にそわそわしながらも、楽しそうに探索をしている。

 史ちゃんは白い花をその黒い瞳で見つめていた。

「もうすぐでその花も落ちていくね」

「ええ。この季節は花の顔が見れなくなってさみしいわ」

 史ちゃんが言う。

 かろうじて残るこの花たちも、もっと冷え込めば落ちてゆく。

 光が、史ちゃんが見ていた花をふんふん、と嗅ぐ。

「このあたりはたまに猪が出るから危ないね」

「そうね」

 史ちゃんは素っ気なく答えた。

 史ちゃんはたまに、こういう危ない場所に平気で入っていくことがあるんだろう。

 ぼくは腰を折って花を見つめる史ちゃんを見下ろしながら思った。

 勇気がある、というより、無謀、といえる。

 真冬の朝にたまに、猟銃の音がするようなところだ。

 本当に猪は住んでいるのだろう。それでも寒くなり始めたこの時期に山に登るだなんて。

 そんな史ちゃんの姿を見ていてぼくはかなしくなる。

 史ちゃんは、どうしても自分を大切にはしないのだ。

「ねえ史ちゃん、やっぱり降りようよ」

 ぼくは気弱に史ちゃんに言い放った。

「こんなところに公園はないよ。光だって……」

 と、また光を理由にこじつけようとしたが、当の彼女は見慣れないこの場所をえらく楽しんでいる様子だった。

 こんなこわい場所に立っているのが自分だけのような気がして、ぼくは急にさみしくなった。

 おずおずと後ろから史ちゃんの顔色を覗うと、史ちゃんの横顔は怒っているように見えた。

「ねえ隆くん、雪がつもっているわ」

 史ちゃんはぼくの言葉を聞いてないようなふりで、ふいに立ちあがり、妙に明るい顔で真っ直ぐに腕を伸ばして指をさす。

 ぼくは気が乗らないまま、史ちゃんの白く細い指の先を辿り見る。

 小さな山々に囲まれ、そのなかでひとつだけ大きな青い山が、ぼくと目が合った。

 その山はふてぶてしく地上にあぐらをかき、頂上には細やかな白い雪たちを降り積もらせて着飾っていた。

「私ね、晴れの日はいつもあの山を見ているのよ」

 史ちゃんは強い口調で言った。

「そうなんだ」

 ぼくは気分が沈んだまま、暗く答えた。

「隆くん、楽しくないの?」

 史ちゃんはとんでもないことを不意に聞いてきた。

 ぼくは思いがけない問いかけに、目を丸くして史ちゃんを見た。

 史ちゃんはほんとうに、純粋な疑問を抱えたままぼくの顔を覗き込んでいた。

 その史ちゃんの瞳の中は何かがぐるぐると蠢いていて、普段のあの暗さだけではない、何かが踊り狂っているかのような黒に胸をかき混ぜられる。

「史ちゃん、史ちゃんは、こわくはないの」

「何がこわいというのよ」

 史ちゃんはぼくの問いかけを無邪気に笑い飛ばした。

「こわいことなんてなんにもないわ。こんなにきれいな場所なんだもの」

 そんなことをいうけれど、ぼくには全くきれいな場所には見えなかった。

 点々とする白い花たちも、全部が全部ぼくを見ているように思えた。今の史ちゃんみたいに、口を開いて嘲笑っているかのように見えた。

 ぼくはその視線から身を守るように、身体を縮こませる。

「史ちゃん、今の史ちゃんは、ぼくにはとてもこわく見えるよ」

 危うさを全く感じていない史ちゃんは、とても揺らいで見えて、恐ろしかった。

 史ちゃんは藁が敷きつめられたその地面の上をふわふわと歩きながら笑った。

 史ちゃんは草木の生い茂る山の中へと入って行こうとする。

 ぼくの言葉が何も届いていないような気がして、ぼくは必死になって史ちゃんに言葉を投げた。

「史ちゃん、そっちは危ないよ」

 史ちゃんは笑った。

「史ちゃん、公園はそっちには無いよ」

 史ちゃんは立ち止まった。

「史ちゃん……」

 ぼくは困り果てて、それでもただその場に佇んだまま、力なくリードを握っていた。

 光がぼくの不安を受け取ったのか、かなしそうにぴいぴいと鳴く。

「そっちは危ないよ……ぼくは、史ちゃんがいなくなってしまったらかなしいよ」

 ぼくはそんなことを口にした。

 ずっと小さい頃から予感をしていたような感覚だった。史ちゃんはとても暗い瞳をした少女。いつもかなしみをたたえたまま、いろんな波にのまれそうになっては、踏ん張っているような女の子だった。

 久しぶりに会ったあのとき、史ちゃんが前と変わらない姿だった事に安心をしながら、どこかから来る深いかなしみをぼくはおぼえた。

 史ちゃんはまだ、いろんな激しい波に耐えているように見える。

 いっそのこと、その波に身を任せてしまえばいいのに、と口にしそうになるのを、ぼくは必死で押さえていた。

 その言葉で、今までの史ちゃんをどれほど傷つけるのか、想像できなかったからだ。

「史ちゃん、そっちは危ないよ」

 ぼくはもう一度言った。

 放り投げるように言ったその言葉を聞いて、史ちゃんは振り返らずに言った。

「誰かがかなしむという理由だけで、この地獄は生きられないわ」

 小さく、どこにもあてのない呟きだけが返ってきた。

 それは史ちゃんから発せられたようにも思えるし、山の、まっくらやみから返ってきたような気もした。

 史ちゃんの背中が弱々しく揺れている。史ちゃんの髪が細く細く揺らめいていた。

 ぼくの踏みしめる足元の藁が深い穴に吸い込まれていくような気がした。

 ぼくの足元にくらやみが広がって行く。

 史ちゃんは振り返った。

 史ちゃんはとても暗い瞳をした少女。

 その暗い瞳で、じっとぼくを見つめていた。

 突然、光がわん! と吠えた。

 ぼくも史ちゃんも、弾かれたように目を丸くした。

 光がもう飽きてしまったのか、山のふもとの方へ行こう、と歩き出す。

 リードのたるみがどんどん小さくなり、さきほどの史ちゃんの腕のように、真っ直ぐに伸びてゆく。ぼくたちはその様子を黙って眺め、やがてリードがびん、と伸びきって光の首がしまる。光は一度えずいて、不満そうにぼくを振り返った。

それを黙って一通り眺め、ぼくらはお互い目を合わせて、照れくさそうに微笑んだ。

「おりましょう。光ちゃんが飽きちゃった、って」

 大袈裟に困ったような顔をして、史ちゃんは光のとなりへ並んだ。

「うん」

 ぼくはただ頷いて、藁で滑ってしまわないように慎重に史ちゃんと光のもとへ歩き出した。

「光ちゃん、ゆっくりね」

 怖がりなぼくに気遣って、史ちゃんが光をしたためる。

 光は自分の名前が呼ばれたので急に喜んで、しっぽで繰り返し空を切り、歩く速度を速めた。

「光、ちょっと、待ってよ」

 リードが突然引っ張られて、ぼくはバランスを崩してしまう。

 ぐるり、と脳みそが追いつかない速度で世界は加速し、やがて青空でどすん、と止まる。

「隆くん」

 史ちゃんが振り返っているときには、ぼくは地面に背中も後頭部もつけて、寝転がっていた。

 恥ずかしい。

 この歳になって転ぶのは恥ずかしい。

 ぼくは真上でぼくを見下している太陽に嘲笑われながら、ぼんやり羞恥にたえていた。

「大丈夫?」

 史ちゃんが覗きこんだ。

 そのあとに視界には光の細長い口が現れ、ぼくの顔をふんふん、とかぎ始める。

「もう、お前のせいだからな」

 ぼくは光の顔をおしのけて上半身を起こした。

 史ちゃんはくすくすと笑っていた。

 ところどころについた藁屑を手で払いながら立ち上がり、もう一度文句を言うように光をこっそりにらむ。

 光は嬉しそうにしっぽを振っていた。

「隆くん、私ね、一度病院に行ったことがあるのよ」

 史ちゃんは言った。

 ぼくははっとして、藁屑を払う手を止めて史ちゃんを見た。

 史ちゃんは白い顔をいっそう白く凍えさせながら、その口元には笑みをたたえていた。

 す、と白く艶めかしい指がぼくの顔へと伸びてきた。

 ぼくはそれをただ目で追うだけだった。

「何日も学校を休んでいてね、それで、母が病院へ私を連れていったの」

 史ちゃんはぼくの頭についた藁をとりあげ、それを慈しむように見つめた。

「女の人が、私を診てくれたのよ。聴診器も何もないの。何か、談話室のような……病院のくせに、そんな気味の悪い場所で」

 史ちゃんが藁を手放す。

 空中に投げだされた藁は風にかろうじて乗りながら、ゆるやかに落下していく。

「いくつか質問をされたの。何だったか、覚えてはいないのだけど。そのとき、私は、めいっぱい人間のふりをしたのよ。私はなんにも寄生されていない、私は今とっても楽しいのよ、って。聞かれもしないことをべらべらと喋っていたわ」

 冷淡に言った。

「私、きっと大女優になれるわね。でも、役者が照明も観客もないところで演技なんて。そんなの、ただの詐欺師ね」

「……」

「結局、風邪薬をもらっておうちに帰ってきたのよ。笑っちゃうでしょ」

 肩をすくめて、史ちゃんは足元、気をつけて、と言って颯爽と山のふもとへと歩き出す。

 ぼくはしばらくその後ろ姿を目で追っていた。

 しばらくして、まだ頭に残っていた藁が風に払われ視界を縦に割いていったとき、はっと我にかえった。

 そして光と並んで、不安定に揺れる背中を追いかけた。

 心の中でたぷたぷと揺れる何かを抱えながら、ぼくは史ちゃんを追いかける。

 ぼくは何か、何か史ちゃんに対して言葉をかけなければならない気持ちに駆られたが、具体的に何を言えばいいのか分からずに、ただ口を馬鹿みたいに開けていることしかできなかった。

「あのさ」

 ぼくは知らずのうちに弾んだ呼吸を整えながら声をかける。

 史ちゃんは振り返らずに、横目でぼくを見た。

 その瞳はとても冷たいものだった。怒っている様にも見えた。

 少しだけ、困ったような色も見えた。

 今、史ちゃんは後悔している。

 そんな気がした。

「史ちゃん、小学生のころ、ぼくの家の絵本を読むのが好きだったよね」

 些細な記憶の断片を、ぼくは史ちゃんにふいに差し出した。

「いつもさ、飽きもせず、律儀に読んでいた本があったよね」

 ぼくが言うと、史ちゃんの冷たい瞳は驚いたように丸くなり、そして口元は恥ずかしそうにいじらしく笑った。

「ねこのおはなしの……」

「そう」

 ぼくはにっこり頷いた。

 光が「ねこ」という単語に反応し、周りをきょどきょどとみまわした。

「帰りに、貸してあげるよ」

「え、いいの?」

「うん。また読み返してみるといいよ。返すのは、いつでもいいから」

 ぼくは飛び跳ねそうになる心をうきうきしながら抑え、子供のように笑い返した。

 史ちゃんはとても嬉しそうにありがとう、と言って、またぼくに背中を見せて歩き出した。

 史ちゃんの髪が落ち着きなく揺れている。足取りは踊る様に軽やかで、ぼくはその姿に安心した。

 そして、隠しきれない喜びにも、諦めたように肩をすくめて受け入れた。



 その日、私たちは丘のうえを歩いていた。

 穏やかな雲が晴天に広がり、街にささやかな影を落としていた。

 太陽は真上から街を眺めていた。

 私たちは少しだけにぎやかな街並みを見下ろしながら、ゆるやかな坂をあがってゆく。

 今日は光ちゃんは来なかった。

 少し体調がよくないんだ、と、隆くんは肩を落として言った。

 長い沈黙のあと、ごはんでも食べようか、と誘ってくれたのだ。

 正直、私はあまり食事が好きではなかった。

 けれどそれで隆くんの元気が少しでも取り戻せるのなら、と了承した。

 丘のうえにはいくつか小さなレストランが点々としている。

 その中でも一番小さいレストランに入ろうと、扉の前に立つ。

 急いで隆くんが扉を開けた。

 からんからん、と突然叩き起こされたようにベルが鳴る。

「史ちゃん」

 隆くんがふいに私を呼びとめた。

 私がどんよりとした心を抱えながら隆くんを見上げると、横に道を開けた隆くんの前には食事を終えたお客さんが一人、出てくるところだった。

 私は慌てて隆くんにならって道を開けた。

 小柄なその女性はしわのついた顔をぶっきらぼうにしながら、横目で私を見て、冷たく去って行った。

 私はそこでまた、脳みその奥で休んでいた虫たちが動き出すのを感じた。

「史ちゃん」

 隆くんは暗い顔の私を覗きこみ、優しく微笑んで扉を押さえて待っていた。

 その優しさにまた淀んだ水の気配を感じながら、のろのろと店内に入った。

 レストランの中は静かで、私たち以外には二組のお客さんしかいなかった。

 この丘は、景色は綺麗だけど、名所というところでもないので、あまり人は来ないのだろう。

 静かなほうが、私としては助かるけど。

 人当たりのよさそうな顔をした女性の店員が奥の席へと誘導してくれた。

 店内の薄暗さに、くらやみがひそんでいるのを感じる。

 こういうところは、ほんとうに苦手だ。

 身を固くしながら、椅子に座った。

 隆くんは私の向かいに座った。

 隆くんの背後には窓がある。

 かろうじて晴天が見える。

 まだ、雨は降らないみたい。

「鞄、後ろに置いたらどう?」

 隆くんが困ったように問いかけた。

 私は、あ、と気がついたように声をだし、膝の上にのせていた鞄を背中の方にまわす。

 こういうところは、苦手だ。

 膝の上から鞄がなくなっただけなのに、途端にどうしようもない不安をおぼえた。

 見慣れないところでの食事は、うまくできるだろうか。

「どれにしようか」

 私を落ち着かせるかのように、いつもよりゆっくりした口調で、隆くんはメニューを開いた。

 私もおずおずとそれを覗く。

「史ちゃん、あんまり量は食べられないよね」

「そうね」

「余っちゃっても、ぼくが食べれるけどね」

「そう」

 短く返事を返す。

 どれも食べたくない。

 本当は、そう思う。

 こんなにも親しいひととの会食でも、これほど緊張するとは思わなかった。

 胃がぎゅっと収縮するのがわかる。

 目前に広がる料理が、とても食べられるようなものには見えなかった。

「ぼくはパンケーキにでもしようかな」

「あら、ずいぶんかわいい」

 あまり人目を気にしないマイペースなところを披露した隆くんは、ふふ、と恥ずかしそうに微笑んだ。

 私もつられて微笑み返す。

「じゃあ、私は梅ピラフにする」

 隆くんは少し目を丸くした。

 私がその反応に首を傾げると、また恥ずかしそうに微笑んで、店員を呼ぶ。

 さきほどの女性店員がやってきた。

「パンケーキ一つと、梅ピラフを一つ」

「お飲み物はよろしいですか?」

「あ、そうか。ぼくはオレンジジュースでいいかな。史ちゃんは?」

「私も、それ、で」

 とっさの事でどもどもしながらも、なんとか答える。

「じゃあ、オレンジジュースを二つ」

「はい、少々お待ち下さいね」

 早口に店員は言って、奥のキッチンへと戻って行った。

 私はそれを見送り、隆くんの方を振り返る。

 すると隆くんはやけに嬉しそうな表情をしていた。

「どうしたの」

 こちらはあまり慣れない外食でどきまぎしているのに、相手が知らぬうちに楽しんでいると、理不尽だが腹が立つ。

 少しむっとした声で尋ねた。

「親子って、やっぱり似るんだねえ」

 老人みたいな穏やかな口調で、隆くんは呟いた。

「そうなの?」

 私は周囲を小さくみまわす。

 親子連れはいない。

 熟年の夫婦が会話もせずに窓の外から見える空を眺めていた。

 お互いに同じ方向を向いている。そして同じ太陽のひかりが二人を包んでいた。

 太陽のひかりは、隆くんの背中にも降り注いでいた。

 やっぱり、まだ雨は降らない。

「史ちゃんのお母さんも、梅ピラフ、好きだよね」

「お母さん?」

 どうして隆くんがそんなことを知っているのだろう。

 私ですら、母が梅ピラフが好きだなんて知らないのに。

 隆くんは呆気にとられたような顔をした。

「史ちゃん、おぼえていないの?」

「何を?」

「史ちゃんとお母さんとで、このお店に来たでしょ。小学生の頃」

「……そうだったかしら」

 全然覚えていなかった。

 家族で外出するだなんて数えるほどしかないから、一つ一つよく憶えているつもりだったけど、そんなことがあっただなんて、知らなかった。

 このお店のことだって、あることは知っていたけど、入ったことはないと思っていたのに。

 私は小さい頃の思い出の欠片を探すように、店内をみまわす。

 やはり先ほどみまわしたときと同じ。

 落ち着いた雰囲気。しずかな店内。穏やかな音楽。薄暗い照明。

 窓際の夫婦は、二人とも机に置かれた料理を、腰を曲げて黙って食べている。夫婦の表情は、暗くてよくわからない。

 私はその光景を、奇妙だと思った。

 小さい頃の私も、こうして怯えて、深くどこかに思い出をしまってしまったんだろうか。

「そのときに、史ちゃんのお母さんは梅ピラフを頼んだんだよ」

「……小学生の頃、といえば、借りた本」

 私はしずかに話題を逸らした。

 夫婦は、腰を曲げて、黒い顔で食事をしている。

「ねこがとっても可愛く描かれているのね。毛糸で描かれたようなタッチも、私、ああいうところを好きになったんだと思うわ」

 私は今の自分を、よく知っていた。

 ああ、恥ずかしい。

 病院に連れだされたときの私が、今ここにいる。

 聞かれもしないことを、べらべら喋って。

 隆くんはかなしそうな目をして私を見ていた。

 あの病院の女の人は、もっと冷たい目で私を見ていたのに。

「史ちゃん……お母さんのこと、怖いの?」

 ふいに隆くんはそんなことを言った。

 私は口をつぐんだ。

 突然そんな話を、こんな場所でふいに言われてしまったら、私は身をぎゅっと固めるしかなかった。

 どうしてそんなことを言いだすのだろう。

「史ちゃん、どうしてか、お母さんにもすごくよそよそしいというか……どこか引け目みたいなものを抱えて接しているようだったから……病院に連れていってくれたお母さんのこと、怖いと思ってるの?」

 私は俯き加減に、目だけ動かして隆くんを見る。

 太陽のひかりが隆くんを縁取り、隆くんの表情は暗かった。

 けれど瞳だけはしっかりと私を見ていることがわかった。

 その瞳の強さはどうしてか、神さまのようだと思った。

「……私、小さい頃、とても敬虔な子だったのよ」

 俯いたまま、懺悔をするように言い訳を探した。

 隆くんは強く私を見ている。

 なんだか自分が悪い事をしているように思えた。

 そして、何を言っても隆くんは許してくれないような気がした。

「ずっと神さまを信じていたの。神さまはほんとうに存在していて、いつも私を見ていてくれてる、って、本気で信じてた」

 膝の上に置いた手が、震えだすのではないかと不安に駆られた。

 こんなことを話して一体何になるのだろう。

 そんな思いがあるのに、不思議と声色は冷淡で、私の表情はちっとも変わらない。

 どこか諦めたような顔をしている。

「それと同時に、私は、お母さんが神さまなんだ、って思っていたの。お母さんの言うことは全部正しくて、全部真理で、絶対に間違ってはいない、って。でもね、こうして自分の世界が少しでも広がると、だめね。神さまはほんとうは神さまなんてものではなくて、ほんとうは、ただの教養のない女のひとだったんだもの。笑っちゃうわ」

 ふいにそれに気付いたのだった。

 ちいさな私は、知らぬうちに大きくなっていて、神さまも、ただの人間に成り下がっていた。

 それに大きな落胆はなかったけど、確か、私はそのとき、溜息をつくこともしないで受け入れていたと思う。

 太陽のひかりは相変わらず強くて、隆くんの表情は暗いままだった。

 少しだけしめったようなにおいがした。

 しばらくしたら、雨雲が遠くの国からやってくる。

 私は気力もなく微笑んだ。

「でもね、なんとなく知っていたのよ。小さな頃の私は、神さまはなにも助けてくれはしないと、知ってたのよ」

 お母さんは私に多くの事をしてくれた。

 けれど私は水辺をさがして歩いている。

 針金虫に寄生されている。

 お母さんはそれを取り除くことはしてくれない。

 神さまはなにも助けてくれはしない。

 太陽に雲がかかった。

 随分と厚い雲だ。

 あのなかには、雨が含まれている。

 やがてこの見降ろした街を水たまりにするだろう。

 私はそこに誘われてゆく。

 でもまだ駄目だ。

 手に力を入れてぐっとこらえる。

 まだ、公園を探さなきゃ。

「史ちゃんのお母さんはふつうの、きれいな人だよ」

 隆くんはやさしく言った。

「だから史ちゃんも、ぼくらとおんなじ人だよ」

 隆くんはやさしく言った。

 しずかに、雨が降り始めた。

 香ばしい梅の匂いと、焼き立てのパンの匂いが、二人の鼻をくすぐった。



 隆くんを見つけた。

 今日は玄関先で会う事もなく、散歩の道中で見つけた。

 隆くんは立ち止って景色を眺め、また歩き出す。

 私が同伴するようになってからは随分違う道を歩いてきたけれど、今日は、あの日会ったときと同じ、いつもの散歩コースを通っているようだ。

 けれど、あのときと違うのは、あの可愛らしい女の子がいないこと。

「隆くん」

 今度は私が声をかけた。

 あのとき私を見つけてくれたのは、あの子の方だったかな。

 まだかろうじて温かさが残っている季節だった。

 今は風が強く、せっかく太陽があたためてくれた空気さえも呑みこんで、この街に寒さを押しつけてくるようになってしまった。

 落ち葉がかさかさと音をたてて、私と隆くんの間をすべってゆく。

 隆くんがしずかに振り返る。

 振り返った隆くんの表情は暗く、それに少し、痩せたように見えた。

「隆くん、どうしたの」

 思わず心配になって尋ねた。

 隆くんは力なく、史ちゃん、と言った。

「今日は光ちゃんはどうしたの?」

 大きな風が私たちの間を通り抜ける。

 それが私の髪も服も、隆くんの体温もいたずらにもてあそぶ。

「光はね、一昨日、しずかに冷たくなっていったよ」

 風は吹く。

ごうごうとうねりをあげている。

 木々も川もやけに大きな声で騒いでいた。

 私の頭の中では、何かがみちみちと動きのたまっていた。

 あの、黒い、線たち。

「……」

「……」

 風が止む。

 太陽はずっと私たちを見下していた。

 私にも隆くんにも、同じように太陽はあって、同じように日のあたたかさを分けてくれていた。

 それでも、光ちゃんは冷たくなった。

 しずかに、冷たくなった。

「……そう」

 私はしずかに答えた。

 気付けば、私の手は冷え冷えとしていた。

 隆くんの手は震えていた。

 それでも隆くんの表情はしずかに、しずかに保たれたままだ。

 長い沈黙だった。

 木から葉がおちてゆく音も、川に葉が落ち流れてゆく音も、遠い国の出来事のように、私には聞こえた。

 隆くんは何も聞こえていないようだった。

 みちみちと動いている針金虫の音も、隆くんには聞こえない。

「ぼくはね」

 隆くんが口を開いた。

 私は、それさえも遠い国の出来事のように聞いていた。

 私の世界には、今、この虫だけが動いているように思えた。

「光が冷たくなっていったように、史ちゃんも同じようになるのを、いやだと思ったんだよ」

 隆くんは自分の靴を見つめていて、やがて顔を上げて言った。

 私と隆くんの目が合う。

 隆くんの瞳には太陽のきらめきがうつっていた。

 太陽のひかりは、しっかりと隆くんには届いていた。

 私の頭上には雲がかかっている。

 私と隆くんの間には境界線ができていた。

 隆くんは日のひかりに照らされていた。

 私には雲の影が腕をおろして私を包んでいた。

「そう」

 私は一歩後ずさる。

 隆くんは瞬間、私に手を伸ばした。

 その冷たい影の中に手を入れ、私に向かって手を伸ばした。

「そうなの」

 私は二、三歩と後ずさる。

 隆くんが影に足を踏み入れた。

 私は顔を逸らした。

「それじゃあ、もう、一緒に公園を探す理由も無くなるわね」

 足元を見たまま私が言うと、どうやらそれ以上は近付いてこないようだった。

 雲はどんどん遠ざかってゆく。強い風がその雲をまた、遠い国へと運んでゆく。

 見ると、隆くんは伸ばした手も力なくぶらさげて、何か我慢したように口をきつく結び、私を見ていた。

「史ちゃんは公園を見つけたらどうするつもりなの」

 隆くんは尋ねた。

 私はその姿を見て、水の気配を穏やかに感じる。

「……」

「史ちゃんは、公園を見つけたらどうするつもりなの」

 隆くんは尋ねる。

 私は答えないままでいる。

「史ちゃんは」

 その奥に燃えるような感情を押しこめて、隆くんは強い瞳で言った。

「史ちゃんはそんなことを言って、ほんとうは、公園なんて無いって、知っているんじゃないの」

 隆くんは言った。

 憤りも不安もかなしみも全部押しこめたまま、隆くんの強い強い言葉だけが私に届く。

「水に誘われるだなんて、寄生されているだなんて言って、本当は、真面目に生きてゆくのが怖いだけなんじゃないの」

 隆くんの言葉が、私を殴る。

「どうしてちゃんと生きることを考えないの? 生きるためにどうしたら良いのか、どうして考えないの?」

「もういいのよ」

 穏やかに言った。

「もうよくなんかない!」

 先ほどよりもいっそう強い風が世界を包んだ。

 もう何もかも、全てを吹き飛ばしてしまうような風が世界を包み、私と隆くんの間の何もかもを混ぜ返す。

 その中で、私は穏やかに隆くんを見ていた。

 水の気配が私の足元に忍び寄る。

「もういいなら、どうして公園なんてさがすの。どうしても踏ん切りがつかないから、ありもしない公園を探しているんだろ! そんなものを理由にしているくらいなら、さっさと病院にでも行って、薬でもなんでも貰ってくれば良いんだ! 史ちゃんは、本当は死ぬことなんて考えていないんだろ!」

 隆くんの瞳から水が流れた。

 それは足元に落ちて、やがて水たまりを作る。

 水の気配はここにあったんだ。

 やっと見つけた水辺なのに、私の心は穏やかに落ち着くことはない。

 深いかなしみだけが、この心にたまっている。

 私は滲む隆くんを見つめて、何も言えずにいた。

 私が深く俯くと、その横を、隆くんが通りすぎた。

 振り返ろうとしても、風がごうごうと私の前で踊り狂い、思わず目をつむる。

 私はもうここから歩けない。

 そんな思いが頭にとりついて、動く事もできずに、風が止むのを待つしかなかった。

 耳には風の金切り声。

 頭の中では水に歓喜する針金虫の蠢き。

 私は頭を抱えて、うずくまるのを必死で我慢した。

 じっと耐えていれば、また歩き出せると信じた。

 針金虫は、水辺へ、と、言っている。



 随分と早い時間に目が覚めた。

 風の音がやけに大きくて、目が覚めてしまったのだ。

 太陽は低く、けれど早速ぼくらの街を照らしはじめていた。

 草木も温かさの予感を期待し、ちょろちょろと顔を出し始めている。

 朗らかな鳥の声が、どこからか届いてやってくる。

 淡い黄色につつまれはじめたこの季節は、光も好きだった。

 ぼくは何も持たず身軽なままで、散歩にでることにした。

 久しぶりの散歩だ。

 あれから、一度も史ちゃんとは会えずにいた。

 ひどい憤りをぶつけたまま、ぼくは史ちゃんの前に出ることができなかった。

 史ちゃんもまた、今はどこにいるのかも分からない。

 ぼくはあのときに完全に見失ってしまった。

 史ちゃんの世界を、完全に手放してしまったのだ。

 もう史ちゃんの世界と交信することはできないのだろう。

 玄関の扉を開け、色めきたつ陽だまりの中へ飛び出す。

 いつもの散歩コースを歩こうと、決めた。

 あの大きな存在を追いかけるように、ぼくはゆっくり歩き出す。

 なつかしいあの道を踏みしめて進んでゆく。

 アスファルトは冷たさを保ったまま続いていて、まだ太陽は恥ずかしそうに、みんなにおはようを言えずにいる。

 光がいないと、随分と違う道に思える。しかし時間がたった今、またこうして歩いていると、不思議な感覚が芽生えてくる。

 光がいなくなった。史ちゃんの世界も見失ってしまった。

 けれど、こうして季節は巡ってゆくし、朝は来るし太陽も出る。

 不思議だ。

 ぼくは言い得ぬ感覚を抱え、なつかしくも真新しい道にどぎまぎしながら、いつもの道を歩いてゆく。

 すると、前方に女の子を見つけた。

 ぼくは目を見開いた。

 太陽のひかりが道路を照らしだし、草木のささやかな露をきらめかせている。

 薄く霧のかかったこの世界を、優しい場所へと手を差し出している。

「史ちゃん」

 ぼくは思わず言ってしまった。

 本当に、会えるとは思っていなかったのだ。

 史ちゃんは振り返る。

 髪が短くなっていて、でもかなしみをたたえたその容姿は相変わらずで。

 史ちゃんは、うす茶色のトートバッグを肩にさげていた。

 ぼくは立ち止まる。

 史ちゃんは笑いかける。

 ぼくに笑いかける。

「隆くん、おはよう」

 史ちゃんはあいさつをした。

 なんでもないあいさつをした。

「おはよう」

 ぼくは必死になって返した。

 史ちゃんの世界にあいさつをした。

「こんな早朝に、会えるとは思わなかったわ」

 史ちゃんは照れたように笑った。

 ぼくはそれが嬉しかった。

 とても、嬉しかった。

「ぼくも、ぼくも、会えるとは思わなかった」

 必死になって頷いた。

 史ちゃんは穏やかに笑ってくれていた。

 それが、とても嬉しかった。

「あのね、本を、返さなきゃ、と思って」

 史ちゃんはその見慣れないトートバッグの中から、丁寧に可愛らしい袋にしまわれた絵本を取り出した。

 ぼくは驚いたように目を丸くした。

「史ちゃん、いつも持ち歩いていたの?」

 史ちゃんはまた照れたように笑った。

「ええ……また、偶然会えるような気がして」

 ぼくは冷え冷えとした手で、絵本を史ちゃんから受け取る。

 ぼくは言葉にできないほどの喜びが、胸の奥に広がってゆくのを感じた。

 かろうじてぼくと史ちゃんの世界はつながっていた。

 ささやかなものたちが、息をひそめながら、ぼくたちをつないでいてくれたのだ。

 ぼくは、どきどきする心臓の音を聞きながら、そのひんやりした絵本を持つ手に力をこめた。

 そして、史ちゃんはその絵本を手放すこともせず、口を開いた。

「私ね、病院に行ってきたのよ」

 太陽がぼくらに降り注いだ。

 ぼくは息をのんだ。

 史ちゃんの瞳や、うつくしい睫毛をそのひかりが照らしだした。

 あのときの憤りや不安が思い出され、そして、さあ、と太陽に照らされて消えてゆくのを感じた。

 真横からさす太陽は、点々とする雲から、うつくしい輪郭を作りだす。

 雲は薄桃色に染められ、青白い空で嬉しそうに新しい一日に微笑んでいる。

 ぼくは驚きと、期待と、嬉しさで、何も言えなかった。

 史ちゃんは笑っていた。

 照れくさそうに笑っていた。

「心の風邪、なんていうけれど、本当に、風邪だったなんてね」

 史ちゃんは言った。

 世界は沈黙した。

 太陽が雲に隠れる。

 雲は黒々と影を作り、放射状にひかりがとびちっている。

 ぼくらの立つ場所とは違う方向へ、ひかりがとびちっている。

「笑っちゃうね」

 史ちゃんはほんとうに笑っていた。

 ぼくはもう、何も心に残す事もできず、黙っていた。

「水の気配がするの。少し、歩きましょう」

 史ちゃんはそう無邪気に言って、歩き出した。

 ぼくはその言葉を、何もない心の上でころころと転がしているだけで、それ以上は何もできなかった。

 やがて、ぼくも歩き出した。

 ずるずるとひきずられるように。足にまとわりつく何かに絡みとられないように、歩き出した。

 ざざ、と、何か雑音のようなものが聞こえる。

 世界はくらやみに包まれて、思い出したように寒さを取り戻す。

 史ちゃんの周囲はくらやみのままだ。

 ぼくの世界もくらやみがさしている。

 そして水辺へ誘う。

 ぼくの足元にはさざ波の気配がする。

 足に押し寄せているのは、重い水の塊だ。

 思いやること。

 ぼくにはそれができないでいた。

 神さまは助けてくれやしない。

 ぼくにはそれが理解できた。

 針金虫はぼくには見えない。

 世界が違う。

 ぼくと史ちゃんの世界は違う。

 こうやって、見えない境界線で切り離されている。

 あのとき伸ばした手が届かなかったように、もう、史ちゃんはここにはいない。

 この手は絶対に届かない。

 金色のひかりが、雲を縁取りまぶしさをいっそう深く増してゆく。

 ぼくは史ちゃんに駆け寄った。

 足元に絡みつく波は、大きく弾け水しぶきをあげる。ひかりを反射することも無視したまま、水は次々と消えていく。

 確かに追いかけてくる影は、ぴったりとぼくにつきまとい、振り払うことはできなかった。

 史ちゃんの足取りは重い。

 同じように、ぼくらには水が押し寄せている。

 ぼくは史ちゃんの手をとった。

 そしてしっかりとつなぐ。

 いつかこの手は離れてゆくだろう。

 無駄なことだと知っている。

 いつかこの手は離れてしまうだろう。

 でも、手をつなごう。

 同じように、手をつなごう。


第31回太宰治賞に応募、一次通過をしてくれた作品でした。

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