-identity crisis-②
「……んん」
目を覚ますと、私の部屋の天井が目に入る。くすんだ白い天井だ。
正直、もう見飽きている。
寝起き早々から億劫な気分になるのは、私にとっては珍しいことでもなんでもない。毎日毎日、義務で学校に通う日に比べたら、まだマシなくらいだ。
そう、今日はまだマシな方。
何せ、今日から私達は夏休み。
学校に行かず、部屋で一日中のんびりできる素敵な日々が待っているのだ。
これは私にとっては、とても至福な時間がやってくることを意味している。あんな人間にあふれた混沌の中に飛び込むなんて、とても私には出来そうにない。というか正直とっくにうんざりしてる。
その点、夏休みというのはとてもいい制度だ。
学校で集団に紛れ込むことなく、ダラダラと一日を無為に過ごしつつも、机に向かってひとりで勉強に集中できる。
今年の休み明けテストこそは委員長に負けるわけにはいかない。私は意気込んでいた。
「よしっ」
これを、朝の寝起き、布団の中で横になりながら考えていることからも、私の上機嫌さをうかがえると思う。
私は上半身を起き上がらせ、とりあえず部屋の中に目を向ける。
ポスターなどを全て取っ払い、余計なものは処分した部屋の中はさっぱりとして、いい意味で生活感が無い。とても私好みの部屋だ。
ここも、あの白い廊下と同じ。私の聖域だ。
そんな部屋の隅っこに、ひとつ、不思議なものがある。
「……すぅ」
それは、壁に背を預けるようにもたれかかって眠っている女の子だ。
彼女の名前は、美空。
この間、私が出会った、不思議な幽霊さんだ。あれから色々あって、私の部屋にいついている。
と言うより、私について回ってきている。なんだか、私の守護霊みたいなものだ。
寝ている時でも黒いセーラー服に、黒光りする日本刀を手放さない。ちょうど授業で習っている、鎌倉時代の武士のようだ。
「早く起きなよ?」
私は彼女の清楚な寝顔に、起こさないようにそっと声をかけた。
○
美空と一緒の生活には、不便はない。
どうやら私以外には姿も見えないようで、親にもなにも言われない。
私は、なんだか猫を飼っているような気分になってきた。部屋に常に誰かがいる、というのは、不思議な気分だけれど、それは悪いものじゃない。
常に誰かと一緒にいる、というのはとても心強いことだ。
あんな大勢が入り乱れているような、吐き気を催す内積空間とは違う。もっと、ずっと、居心地が良い。
そんな彼女には、もちろん妙な事も多い。
持っている日本刀はいったい何なのか。
どうしてあの廊下にいたのか。
気になることはいろいろあるけれど、結局それは解決できずにいる。
「思い出せない?」
「ん」
朝ご飯を食べて、パジャマのまま部屋に戻ってきた私の問いに、美空は短く頷いた。
彼女は続ける。
「何もかも、さっぱり覚えてないんだ。私はいったい、何者なのか……自分の名前も思い出せないくらいに」
「自分の名前も……」
「だから、私はあそこで消えるはずだったんだ」
でもな、と美空は歯を見せて笑う。
「あの時――紬につけてもらった名前を借りてる間は、私は消えないで済む。それが、私の存在意義だから」
「ふぅん……いわゆるアイデンティティってやつだね」
机の回転椅子でくるくると回りながら私は笑った。
アイデンティティ――存在意義。哲学なんかでよく出てくる言葉だ。
例えば、鉛筆があるとする。もしこの鉛筆に芯が入ってなかったら? もし入ってたとしても、ものを書くことが出来なかったら?
それは、鉛筆ではないということになる。鉛筆のアイデンティティは、書くことだからだ。
しかし、今の美空の話を聞くと、
「じゃあ、人間のアイデンティティって――名前ってこと?」
「あいでん……なんとか、と一緒かは分からんけど」
美空は口ごもりながら、
「人間ってのは『記憶』の積み重ねだと、私は思う。名前を――名前も含めて、記憶を全部無くしてしまったその時、人間ってのは人間でなくなってしまうんだと」
「ふむ……」
「私もそうだった。記憶も無く、名前も思い出せず……情けない話だけどな」
最後に自嘲気味に美空は笑った。
『記憶』こそ、人間のアイデンティティ。それは確かに、ひとつ大きな考え方だ。今度委員長との話題に挙げてみよう。
「でも、美空はさ」
「ん?」
私は、疑問を口にする。
「幽霊なんでしょ?」
「ああ」
「幽霊ってことは……もう、死んでるってことなの?」
「……」
美空はそこで、しばらく黙りこくってしまった。
私は慌てて、
「ご、ごめん。答えにくいことだったかな……」
「いや、構わない」
美空は無表情にそう告げた。
「私は、もうとっくに死んでるんだと思う」
淡々と。
まるで、事実だけを述べているみたいに。
「もし私が生きてるんだとしたら、誰かが私の事を覚えててくれるはず。だとしたら、私は消えたりなんか、しないから」
「?」
「記憶って言うのは、自分の中だけのものじゃない」
スカートも気に掛けずにどっかりと床に胡坐をかいて、
「人間は、必ず誰かの記憶の中にいる。親兄弟でも良いだろうし、友人でも良い。ただ道端ですれ違っただけの奴にも、ひょっとしたら残ってるかも知れない」
「それ、なんかヤダ……。危ない人じゃん」
「ともかく、だ」
美空は強引に咳払いをする。
「たとえ死んでも、人間は誰かの記憶に生き続けられる。記憶に残る限り、それが死ぬことはない」
「……それって」
その話をつなげると、それは、とても恐ろしい話だ。
私の全身から血の気が引いていくような感覚になる。夏とは思えないほどの悪寒が走る。
美空はそんな私を見て嘲るように笑い、
「つまり、私はもう、誰の記憶にも残っていないってこと」
既に死んでいて。
なおかつ、誰にも覚えられていない。
そんな彼女が幽霊になった――いったい、どんな気持ちだったろう。
自分の記憶が誰のもとにあるかも分からず、いつ記憶から消えてしまうかも分からず、ただただそこにいるしかなかったのだろうか。
「美空……」
「なに、そんな顔するなよ」
美空は困ったように笑いながら、
「今の私は、紬の近くにいられるから。紬の隣にいて、紬の記憶に残っていられる。今はそれだけでいい。……紬から貰った、その名前も」
「……」
「本当にありがとな」
改めて頭を下げる美空。
私はそんな彼女の様子に、
「……ふふっ」
「あ?」
思わず、笑みがこぼれてしまうのを抑えきれない。
なんだか、改めて面と向かって感謝の言葉を言われるなんて、随分久しぶりだ。今まで、誰かのために何かをするなんて、絶対あり得なかったから。
照れくさくて、思わず頬が緩んでしまう。
「んだよ……」
美空は相変わらず、鋭い目で私を睨みつけるけど、それも気にならない。
なんだか、久々に楽しい気分だ。
「じゃあさ」
私はふと思い立って、美空に言った。
「私、美空と一緒にあちこち歩き回ってみたいな」
「?」
美空は首をかしげているが、私にはきちんと理由があった。
「美空の記憶が無いのなら、私と一緒に探そう?」
「え?」
「きっと、この近くに手がかりがあるはずだよ。通りの風景とか、古い標識とか……なんでもいい、美空が見覚えのある物を辿っていけば、いつか記憶は戻ってくるよ」
昔見たアニメを思い出した。あのアニメでも、マンホールだとか鳥居だとかを辿って小さい頃の記憶を辿っていた。
美空にも、同じことがあてはまるはず。私には、得体の知れない根拠があった。
学校の中にいた幽霊ということは、きっと美空も、生前はこの近くに住んでいた、ということだろう。だとしたら問題はない。
「それに、夏休みなんて暇だしさ。私でよければ、いくらでも力になってあげる」
「紬……」
「遠慮なんかしないで? 美空は、私の大切なともだちなんだからさ」
私の言葉に、美空はきょとん、と目を見開いた。
「ともだち」
「そう。ともだちだよ」
それも、ただのともだちじゃない。
こんな私が――人生に疲れ切った私が、心を落ち着かせることのできる、数少ないともだち。
委員長以来の、最上級をあげたって構わない。
「……なんか、すまねぇな」
すると、美空はかりかり、と頬を指でかきながら、
「紬には、本当に迷惑かけっぱなしだ。面目ない」
「迷惑だなんて」
私は笑う。
「全然、そんな事ないよ。美空と会ってから、なんだか世界が変わったみたい」
「……?」
「気のせいかもしれないけどね」
私はそれきり、美空から目をそらして、窓の外に目を向けた。
今日も今日とて、夏らしく太陽が眩しい。これからどんどん暑くなっていくことだろう。
「ほら、絶好のお出かけ日和」
「おう」
美空の言葉を聞いて、私は立ち上がる。
「今日から、さっそく捜索開始! いいね?」
「ああ!」
私と美空は共に立ち上がり、ハイタッチを交わす。
私達にしか聞こえない音で、ぱーん! と爽快な音が部屋に響いた。
ミクとツムギの目的はこういうこと。
記憶を無くしたミクと、それを取り戻そうとするツムギ。
ふたりが頑張ります。
あと、鳥居とマンホールのネタは、高校2~3年生の方なら分かるかも。
懐かしいですねぇ。