ケイコの夏
放課後の教室でケイコは窓の外をながめていた。
ボールを蹴る高い音がした。校庭で男子たちがサッカーをしている。転がるボールを追いかけて男子たちは声をかけ合いながら校庭を走りまわっている。
ケイコはそれを目で追って、ボールがいったりきたりするのをぼんやりと見ていた。
――なにが楽しいんだろ。
ケイコはあくびをして、ぼさぼさに伸びたくせ毛の髪をいじりながら空を見た。
七月の空は五時を過ぎても明るかった。陽射しはだいぶ弱くなっていたけれど、なにかそれがあきらめの悪さのようにケイコには思えて、なぜだかとても気持ち悪かった。
――まのびしている感じ。
「ケイちゃん、まだ帰らないの」
声にふり返ると、ランドセルを背負ったアキがいた。
「アキを待ってたの」
今日、アキは日直で先生の雑用などを手伝っていて帰りがおそかった。
「先に帰っててよかったのに」
「いいんだ。一緒に帰ろ」
アキは悪いことをしたような顔をしたけれど、ケイコはぜんぜん気にするそぶりを見せず、自分のランドセルを肩にかけてアキの手を引いた。
「遅かったけど、なんかあったの?」
昇降口まで降りて上履きを下駄箱に入れながら、ケイコはアキに聞いた。
「山本くんがこなかったの」
「あ、そうだったね。もう一人の日直、山本だった」
ケイコは黒板に書かれた日直の名前を思い出してうなずいた。
「山本くんに逃げられたの三回目だよ。日直の仕事、今日も全部やるはめになっちゃったよ」
「山本だもんねー」
ケイコがそう言うと、アキは靴を床に落としながらため息をついた。
「あーあ、早く席替えしたいな」
日直はとなりの席の男子とやるのがクラスの決まりだった。それで席順に毎日交代していくのだ。
「もうすぐ夏休みだし、二学期になったら席替えだよ。もう少しのガマンだって」
ケイコのはげましにもアキは表情をくもらせて、心底嫌そうな顔で首をふる。
「明日にも席替えしたいよ。山本くん怖いし」
校門を出て坂をのぼる。日陰のないアスファルトの坂は嫌らしい感じに昼間の熱を残していて、汗がじんわりと肌に染み出てくる。
――だから夏は嫌い。
すっきりしないでじとじとと引きずってくる感じがあって、ケイコは夏が嫌いだった。ケイコのくせ毛には熱がこもり、こめかみから汗が伝う。くらべるととなりを歩くアキの髪は、長いけれどもさらさらのストレートでとても涼しげに見えた。
――いいなぁ、アキは。あたしとはぜんぜん違って。
アキの髪をうらやましげに見ながら坂をのぼり切る。
「あ、山本くん」
「え、ホントだ」
坂をのぼると正面に公園が見えてくる。木陰の中に何人かの男子を従えた山本の姿があった。
山本は身体が大きい。ほかの男子とくらべると腕や足が倍ぐらい太くて、背も頭ひとつ高い。顔はカエルみたいでなにを考えているのかよくわからない。身体の大きさと合わせてそれがとても怖かった。
山本がこっちを見ている。
「ケイちゃん、はやく行こう」
「うん」
アキが手を引く。足早に公園の横を通り抜ける。
「山本くん、このまえは六年生二人相手にケンカして、返り討ちにしたんだって」
公園を離れてからアキが小さな声で言った。
「あいつ、なに考えてるんだろう」
「わかんないよ、そんなの。まわりの男子も山本くんの言いなりだけど、みんな目は合わせてないし。みんな怖いんだよ、山本くん」
アキが眉をよせて首をふる。ケイコはさっき見た山本の目を思い出す。
――夏みたいに嫌な目。
昼間を引きずるように、夏の暑さはまだ沈んでいない。
公園からしばらく歩くと崖の横の道に出る。西側に開けた見晴らしのよいこの道からは、丘の下に広がる田んぼがよく見えた。その上に太陽がまだ赤くならずに残っている。
「ねぇ、このままアキの家によっていい? まだ明るいし」
この崖の上の道を通るとアキの家はすぐだった。ケイコは西日に白く照らされたアキの横顔を見る。アキが目をしばたたかせる。
「え、いいけど……お母さんに言わなくていいの?」
「いいよ。暗くなるまえに帰ればなんにも言われないもの」
陽射しを背にして影に隠れたケイコの顔が、目だけ光ってアキを見ている。アキはうなずいた。
アキの家は白い壁に赤い屋根のかわいい家で、小さな庭には芝がきれいに茂っている。チョコレート色の玄関のドアを開けると、正面を丸い瞳のウサギ柄の壁掛けが明るく出迎えてくれた。
「ただいまー」
「おじゃましまーす」
アキのうしろについてリビングに進む。そこにアキのお母さんがいた。
「あら、ケイちゃん。いらっしゃい」
アキのお母さんはちょっと丸い体型をした優しい表情の人で、ケイコはそのやわらかな雰囲気がとても好きだった。
「ちょっと待っててね、いま麦茶を出してあげるから」
「あ、おかまいなく」
ケイコの返事にアキのお母さんは苦笑を浮かべながら、二人分の麦茶とお菓子を出してくれた。
「なにする? 部屋に行く?」
お菓子を食べながらアキが訊く。ケイコはとなりの部屋を見た。
「アキのピアノ、聴きたいな」
リビングのとなりの部屋にはピアノが置いてあった。アキが「えー」と言う。
「下手だよ」
「上手だよ。あたし、アキのピアノ好きだもん」
そう言われてアキは渋々とピアノの前に座る。
「なに弾こう」
「アキの好きなの」
「えー」
しばらく首をひねっていたアキは、やがてうなずくとおもむろにピアノを弾き出した。
ポンと置かれた指が鍵盤をはじくと音が生まれる。
音。
指は流れるように鍵盤を走って音を生み、よどみなく音を重ねていく。音は次々と生まれて消えて、消えて生まれてをくり返し、旋律を作っていく。
ケイコはアキの指を見た。その動きを目で追う。それはまるでアキの指ではないもののようになめらかに動いて、鍵盤の上を右に左に楽しげに跳ねまわっている。
音楽。
ケイコは目を閉じる。
暗闇に風が聴こえたと思った瞬間、海原の上の草原にケイコはいた。
緑の草原の下には深い青色の海が透けて見えて、そこを魚たちが泳いでいる。
ここには音が吹いていた。淡い青色の空から涼やかなその音は吹いていて、白い鳥たちとともに草原へと降りてくる。
草が波立った。
音のさざ波が草を揺らして、空に舞い上げる。飛んだ草切れは鳥たちに混じって音とたわむれながら空に踊る。
草に寝転んで空に吹く音を楽しんでいると、ケイコは水平線に白波を見た。白波はどんどん大きくなって、ケイコのところへ近づいてくる。よく目をこらしてケイコは白波の正体を見た。
クジラだ。
波の先頭に白いクジラがいて、魚の群れを引きつれてくる。クジラのうしろでたくさんの魚がしぶきになって波をつくっていた。潮を噴き上げるクジラが大きな声で鳴くと、魚たちがいっせいに歌い出し、音の塊となって草原を洗っていく。
クジラが飛んだ。
クジラの大きな白い腹を見上げながら、ケイコは魚の波に呑まれた。
――すてきな曲。
波は音の奔流で、音の塊で、心地よく力強い音楽の旋律だった。ケイコは音を奏でる魚たちに身をまかせ、その曲に心を遊ばせた。
それはケイコの知らない曲だった。けれどすてきな曲だった。
しかしクジラと魚たちはやがてケイコを残して、遠く水平線に消えていく。そして海原も草原も色を失って、少しずつ暗闇に沈んでいく。
音が弱まっていく。
ケイコは目を開けた。
それはアキの指が、最後の一音を残して鍵盤から離れる瞬間だった。
音が絶えた。
「どう?」
アキのはにかんだ顔がケイコにふり向く。
「上手」
「そんなことないよ」
首をふるアキの手をにぎってケイコはくり返した。
「上手」
アキは照れたように上目づかいになってケイコを見て、笑った。
「またねー」
「うん」
アキの家を出ると、空が赤くなっていた。
太陽が丸いタマゴのようになって山のむこうに沈んでいく。
しばらくその光景をながめていたケイコは、風がだいぶ涼しくなっていることに気付いた。暑さもようやくあきらめを覚えて、夜を迎えるつもりになったのだろう。
ケイコはアキの家をふり返った。白い壁が赤く焼けていて、別の家のようにケイコには見えた。
ランドセルをかつぎ直すと、ケイコはやっと家にむかって坂を下りていった。
「ケイコ、お小遣い上げるからそこらへんで遊んでなさい」
ケイコの手のひらに五百円玉をひとつ置くと、母はケイコに背をむけてパチンコの続きを始めた。
パチンコ台からはジャラジャラと銀色のパチンコ玉がたくさん出てくる。画面のスロットがくるくるまわっていて、母はタバコを吸いながらそれを食い入るように見つめている。ケイコは自分と同じにぼさぼさとしたくせ毛の母のうしろ髪を見ながら、これは長くなりそうだなと感じておとなしく母の言葉に従った。
ケイコは自販機でアイスを買うと外に出た。自動ドアが開くと暑さがむわっと身体を包み、うるさいセミの鳴き声が降ってきたが、パチンコのやかましさとくらべたらいくらもマシにケイコには思えた。
日陰をさがしてコンクリートブロックに座る。
パチンコ店の外は一面の田園風景で、田んぼを囲う銀色のテープがきらきらと光っている。広い駐車場にはたくさんの車がならんでいて、その上は鬱陶しいぐらいの夏空だった。
明日は海の日で土日月の三連休だったが、特別どこへ遊びに行くということもなく、ケイコは母に付き合って近所のパチンコ店へ来ていた。
ケイコはアイスをなめながら母を待つ。
田んぼのむこうの丘の上に広がる住宅街が見える。ケイコの家もあそこにある。しかし歩いて帰れる距離ではなかった。こんな夏の暑さでは途中で倒れてしまうだろう。
――夏じゃなかったら、このまま遠くに行けるのに。
夏の陽射しはゆるぎない。
アイスはみるみる小さくなっていった。冷たくておいしいアイスも身体に染みて消えてしまえば、あとは甘ったるいバニラの味が口に未練たらしく残るだけだった。
アイスの棒をふらふらさせてケイコは地面を歩くアリを見た。こんなに暑いのにアリはどうしてこんなに元気なのだろうと、ケイコは棒でアリをつつく。びっくりしたアリが右往左往するのをしつこく棒でつつく。
けれどそれもすぐに飽きた。
アリは逃げていった。巣に戻るのだろうか。そう思ったケイコはアリがうらやましく思えた。
ケイコは棒で自分の頬をつつく。
――お母さん、まだパチンコかな。
まえの道路をバスが走っていくのが見えた。
ケイコはポケットの中の四百円をにぎりしめる。
空想の中でケイコはバスに乗る。バスはケイコを乗せて走り、見たこともない遠い街にケイコを降ろす。ケイコはその街で一人で暮らす。母のいない、誰もケイコを知らない街で一人。そこで大人になってケーキ屋さんになる。すてきな男の人と出会って、結婚して、子供を産んで、それで――。
ポケットの中の四百円。
ケイコはため息をつくと、アイスの棒を捨てに店内に戻った。
「ふざけんじゃねぇ!」
店に入ると大きな怒鳴り声とともになにかをたたく音が聞こえた。音にふりむくとパチンコ台を蹴っ飛ばしているオジサンが見えた。オジサンは怒鳴りながら、何度も何度もパチンコ台を殴りつけている。足元には缶ビールが何本も転がっていて、どうやら酔っぱらっているようだった。
「やめろよ父ちゃん!」
騒いでいるオジサンのうしろに男の子がいた。オジサンの子供なのだろう、必死に父親のうしろに組み付いてパチンコ台から引きはがそうとしている。
「うるせぇ!」
父親のひじが子供の頭を打った。子供が倒れる。
「あっ」
頭を押さえて起き上がった子供の顔を見て、ケイコは思わず声を出した。
山本だった。
目が合った。
いつものカエルみたいに無表情な顔に驚きが浮かんで、すぐに目をそむけた。ケイコはそんな山本とその父親を交互に見た。
「なんだ、このガキ。そんな珍しいものでもオレの顔についてんのか?」
山本の父親がケイコの視線に気付いて近づいてくる。山本の父親は息子と同じく大きな身体にカエルのような無表情な顔をしていた。違いといえばその顔が赤いのと、酒の臭いをぷんぷんとさせていることくらいだった。
「なに見てんだ」
赤く据わった目がケイコを見下ろしている。ケイコは身をすくませた。
「父ちゃん!」
山本が父親の足に飛び付いた。山本の父親は息子をふり払おうとするが、その頃には騒ぎを聞きつけた店員とまわりの客に取り押さえられていた。
「なんだ! オレがなにをした!」
店員に両脇を抱えられ、山本の父親が店の奥に連れて行かれる。ケイコは山本が父親のあとを追い、関係者以外立ち入り禁止のドアのむこうにその姿が消えるまで、山本のことをじっと見続けた。
「ケイコー、勝ったわよー」
それからしばらく待っていると、母が両手に景品の入った紙袋を持って現れた。
「なんかあった?」
ケイコの様子が沈んで見えたのか、母はケイコの顔をのぞき込んできた。
「ううん。別に」
「あ、そう」
ケイコが首をふると母はすぐにケイコから視線を外し、駐車場へ歩いていった。
「うふふ、今日は大勝ちだったからね。はい、これ」
車の中でケイコは大きなウサギのぬいぐるみを渡された。黒い目の白いウサギで、毛がふさふさとしている。
ケイコはぬいぐるみを抱いてみた。
冷房に冷えていたぬいぐるみは、肌に少し冷たく感じられた。
火曜日は終業式で、通知表が配られた。
ひとりずつ教卓に呼ばれて、先生から通知表を受け取る。
席に戻ったケイコは、通知表を開いてすぐに閉じた。
・担任から
全体的に成績が下がっています。
授業中などはよそ見をするなど少し集中力が散漫に見受けられます。
何か心配事があるのなら、先生に相談してみてください。
お母さんからも恵子ちゃんに気を配ってあげるようお願いします。
「機嫌悪い?」
帰りの会が終わり、ビニール袋にアサガオの鉢を入れて廊下を歩くケイコにアキが声をかけた。
「別に」
「そう?」
そっけない態度のケイコにアキは一歩うしろに下がる。
「アキは機嫌いいの?」
「そんなことないけど……」
「じゃあいいじゃん」
困った顔になるアキを置いてケイコは早足で歩く。
そのまえに人影が立った。
「あ、山本くん」
アキが声を上げる。ケイコのまえに山本が無言で立ちふさがっていた。
「なに?」
山本はいつものカエルのような無表情で、黙ったままケイコを見下ろしている。アキがケイコの服を引っぱったが、ケイコはかまわず山本をにらみ返した。
「なんの用よ?」
「おとといのこと」
山本がぼつりとつぶやくように言った。
「おととい?」
「おとといのこと、誰にも言うなよ」
山本の用事を理解したケイコは、なぜか無性に逆らいたい気分になって、あえてとぼけてみせた。
「なんのことよ」
ガマガエルみたいな土色の山本の顔が、少し赤くなる。
「おとといになにがあったのか言ってみてよ。思い出すかも知れないから」
ケイコが意地悪く言うと、山本はそっぽをむいた。
「親父が悪いんだ。オレは知らねえ」
ケイコはムッとして山本の顔につま先立って詰めよった。
「知らないじゃないわよ! 口止めしようとしてさ。謝るほうが先じゃないの?」
山本の顔がみるみる赤くなって、腕をふり上げた。アキが小さく悲鳴を上げる。
「思い通りにならないからって、そうやってなぐってどうにかしようとするんだ」
ケイコは山本の目を見て、思いっきり笑ってやった。
「あんたも父親と一緒じゃない」
腕がふり下りた。
「ケイちゃん!」
アサガオの鉢がひっくり返って、土が廊下に散らばる。ケイコと山本は取っ組みあって廊下に転がった。
「ちょっと、誰か止めてよ!」
アキの悲鳴が聞こえる。
「先生呼んで!」
痛み。殴られた頬がずきずきした。
山本は歯をむき出しにして荒い鼻息でケイコに迫る。ケイコは腕をつかんで爪を立てたが、山本はこたえることなく腕をふり上げ顔を狙って殴ってくる。
「ばかっ!」
ランドセルが飛んでくるのが見えた。山本の背中に当たる。
「ばかっ!」
アキがもう一度ランドセルを山本の背中に叩きつけた。山本がアキにふり返る。
「なにをやってる!」
先生の声がした。山本が立ち上がって逃げていく。
「ばかぁ……」
泣きそうな顔でアキがケイコを見ていた。ケイコは呆然とした表情で自分の顔を指さした。
「ほっぺたどうしたの?」
「転んだ」
「ふーん」
家に帰ったケイコは通知表を渡したけれど、母はそれを見ても特になにも言わなかった。
夏休みになった。
母は今日もパチンコに行き、アキは「コンクールが近いからピアノの練習があるの」と言っていたので、ケイコは母からもらったお小遣いをポケットに入れて、自転車をこいで商店街の方へとひとりでむかった。
夏の陽射しは相変わらず暑くて、セミはジージーとうるさかった。あごに汗が伝わる。のどに渇きを覚えたケイコは商店街に着くと、ラムネを買いにまっすぐに駄菓子屋へと走る。
「おばちゃーん」
「はいはい」
色とりどりの駄菓子に埋もれた店内の、奥の方の暗がりから小さなおばあちゃんがしわくちゃな顔をのぞかせた。
「ラムネください」
「六十円だよ」
氷水を張った金タライから取り出された水色のラムネ瓶が渡される。汗みたいに水をしたたらせて、ケイコの手にそれはひんやりとした。
「一気に飲むとお腹冷やすからね」
ケイコはうなずきながら、ラムネの口のビー玉を指で押し込む。
シュワシュワと舌にはじけるラムネの味。
ケイコはラムネ瓶をくわえながら自転車にまたがる。
商店街の横には小川が流れている。ケイコが橋を渡ろうとすると川の土手で釣りをする人影が見えた。
山本だった。
野球帽をかぶった山本は、ひとりで土手の草むらに座り、釣り糸を垂らしている。
ケイコはその帽子に陰る横顔をじっと見て少しうつむくと、ほっぺたをさすりながらハンドルを返して道を戻った。
駄菓子屋でもう一本ラムネを買う。
「山本」
土手に姿を見せたケイコに、山本は驚いた顔をした。
「昨日はごめんね」
ケイコは山本にラムネを投げた。ラムネはしずくを散らしてクルクル飛んで、山本の手にパシッとおさまる。
「あたし、ひどいこと言った」
山本のカエル顔が不思議なものでも見るように、まじまじとケイコを見つめる。
「ごめんね」
頭を下げたケイコはそのまま土手を駆け降りて、自転車に乗って走り去った。
うしろをふり返ると、山本は手に握るラムネ瓶をぼんやりと見ていた。
ケイコはそのまま住宅街へと自転車をこいでいく。
丘をのぼる坂。
ケイコは自転車を降りないで、立ちこぎで坂をのぼっていった。
カゴにいれたラムネ瓶がガラガラ揺れる。
「はあ、はあ」
噴き出す汗。
「はあ、はあ」
照りつける陽射し。
「ふはっ!」
のぼり切る。
アキの家が見えた。
「はあ、はあ」
ピアノの音が聴こえる。
家の塀まで近づいて、ケイコはその音に耳を傾けた。
水のような音。
「はあ、はあ」
塀の影によりかかって座ったケイコは、ぬるくなったラムネの残りをのどに流し込む。
自分の心臓の音を感じながら、ケイコは目をつむってピアノを聴いた。
焼けた地面の熱を冷ます、優しい雨のようなピアノの音がケイコの耳を満たしていく。
心臓の音が落ち着いていく。ケイコは手をだらりとさせ、音に身をまかせるように身体の力を抜いた。
水の音。
ケイコは降る雨が乾いた土地を優しくうるおしていく様子を幻視した。
雨はやがて川となって流れていく。
流れの先をケイコは見た。
そこには大きな大きな湖があって、無数の波紋に雨をどんどん吸い込んで水かさを増していく。
湖はあふれて海になる。
ケイコは海に浮いた。
ふわふわと波間にただようケイコは、しかしそこで雨が止んだことに気付いた。
音が途絶えた。
「そうじゃないでしょ、アキちゃん! ここはもっと強くリズミカルに弾くって何度も……」
怒鳴る声。ケイコがアキの家をそっとのぞくと、庭のむこうの部屋の窓に、ピアノに座るアキと先生らしいおばさんの姿が見えた。
「この曲はここでなにを伝えたいの? もっと考えて弾いてみて!」
アキはうつむいて、ひざに小さく手を置いていた。
ケイコはすぐに顔を引っ込める。そして自転車を押して公園へ行った。
木陰のベンチに座る。
空のラムネのビー玉をからからと鳴らす。
木陰の下でラムネ瓶をかざすと、空色のビー玉は黒ずんで見えた。
「だからさ、少しだけでいいって言ってるじゃん。五万円。それで今月分は足りるからさぁ……」
風の通る居間に転がってケイコが本を読んでいると、母の電話をする声が聞こえてきた。
「ねぇ、かわいい娘の頼みじゃない……」
母のあまったるい声がする。ケイコは本を閉じてテレビをつけた。テレビががやがやとにぎやかな音を出し始める。けれどケイコはテレビを見ないで、ふすまを開けてとなりの部屋に移った。
――嫌だなぁ。
ふすまを閉じる。しかし二間しかない狭いアパートの部屋では、どこにいても母の声は聞こえてくるのだった。
「……だからさぁ……え、ケイコ?」
ケイコは障子の閉じた和室の暗がりに、身をひそめるようにしてタンスによりかかった。
――嫌だ。
ケイコが自分のひざに顔をうずめると、母の鋭い声がしてケイコはびくりと身をすくめた。
「ケチッ!」
受話器をたたきつける音がした。足音が近づいてくる。ケイコが顔を上げるとふすまが開いた。
「ケイコ」
逆光に影を負った母の表情は見えず、ケイコはうかがうような視線で母を見上げた。
「出かけるわよ」
またパチンコにでも行くのだろうかと思ってケイコは嫌だったが、母が車に乗ってむかったのは近所のファミリーレストランだった。
「好きなの食べなさい」
むかいの席に座った母は、メニューを広げてケイコに見せた。
ケイコが遠慮がちに比較的安いチョコレートサンデーを指さすと母は眉をひそめ、勝手に値段の高いチョコレートパフェを注文してケイコに食べさせた。
ケイコが長いスプーンを動かしてパフェのクリームを食べる。母はそんなケイコの様子をほお杖をつきながらながめていた。
「……ケイコさ、あんた将来なにになりたい?」
突然に母が聞いた。ケイコはスプーンを止めて顔を上げる。困った表情で目を左右に泳がせるケイコを見て、母は小さく笑った。
「わかんないよね、そんなの」
母はポケットからタバコを取り出すと、口にくわえて火をつけた。そして顔を横にむける。
煙がただよい、鼻に苦いタバコの臭いがした。
「あんた、あたしのこと嫌いでしょ」
ケイコは目を大きくすると、あわてて首を左右にふった。けれど母の視線はとなりの席にいる、小学生くらいの子供を連れた家族客の方をむいていた。
「ろくでなしの母親だよ、あたしゃ」
となりの席からは笑い声が聞こえる。
「母親失格だっておばあちゃんに言われちゃったよ」
母はボサボサと毛先のまとまらないくせ髪をかきながら、タバコを吸って、吐いた。
「……だからさ、いい学校に入って、いい仕事に就いて、いい男を見つけてさ……あたしみたいになっちゃダメだよ、ホント」
母はチョコレートパフェを食べ終わるまで、顔を横にむけたままだった。
勝手だな、とケイコは思った。
しばらくして母はパートに出るようになった。
昼間、ケイコが母の用意した冷凍ピラフをレンジであたためて食べていると、アキが家に訪ねてきた。
「今日のレッスンはお休みだから」
アキがそう言うのでケイコは外に遊びに行くことにした。
「どこ行くの?」
「あっち行こ」
自転車に乗った二人は山の方へ走った。
住宅街から田んぼを越えて、一段とセミの声がうるさくなる山裾の林に近づくと、木のあいだに隠れるようにしてアスレチックコースがあるのが見えてくる。
「人、多いね」
ここは山の持ち主のおじさんが趣味で作り無料で開放しているアスレチックコースで、近所の子供たちが多く集まる場所になっていた。今も十人ぐらいの子供がアスレチックにのぼったり、ロープにぶら下がって飛んだりして遊んでいる。
「あれやろ」
「ちょっと涼もうよ」
ケイコがアキの腕を引くと、アキは額の汗をふいて木陰に入った。
「はあ、涼しい」
木々のこずえが陽射しを遮ると、しめり気を帯びた森の空気がひりひりと焼かれた肌をしっとりとさます。アキは一息つくと、さげていたカバンから水筒を取り出した。
「あ、いいな」
「ケイちゃんものんでいいよ」
かわいいネコ柄の水筒を傾けると茶色の液体が白いプラスチックのカップにそそがれた。アキは一口のむと、残りをケイコに渡す。水筒の中身はよく冷えた麦茶で、麦の香りがケイコの口に広がり、のどの奥に冷たさと一緒になって落ちていく。
「おいしい。あたしも持ってくればよかった」
「重いから嫌だったけど、お母さんが暑いから持ってきなさいって。でもやっぱり持ってきてよかった」
そう言ってはにかむアキを見て、ケイコはどこからかチクリと刺すものを胸に感じた。アキから目をそらすようにカップの中の麦茶に視線を落とす。ゆらゆら揺れる麦茶の茶色にケイコの顔が浮いている。
――ものほしそうな顔。
その顔を見たケイコは、こんな顔をアキに見られたくないと思い、急いで残りの麦茶をのみ干した。
「遊ぼう」
「あ、まって」
カップをアキに返すとケイコは駆け出した。あわてて水筒をしまってアキもケイコのあとを追いかける。二人は目のまえにあったアスレチックのネットに飛びついた。
「競争ね」
「うん」
ケイコとアキは互いの顔を見合うと、二人してニコリと笑い、競い合ってアスレチックをのぼりだした。
「ケイちゃんはやいー」
アスレチックを先に上までのぼり切ったケイコは、下にいるアキに手をさしのべた。アキの手をケイコがつかむ。
「きゃっ」
ケイコがアキを引き上げると、アキは勢いあまってケイコの上に倒れこんだ。
ケイコの上に覆いかぶさったアキと顔が合う。
二人は一瞬無言でたがいの顔を見合うと、やがてどちらともなくけらけらと笑い出した。
「アキちゃん重いー」
「えー、そんなことないよー」
ケイコは笑った。
つまらないことを忘れるようにケイコは心から笑った。
「そろそろ帰らなくちゃ」
アキが携帯電話を取り出してそうつぶやいたのは、少し遊び疲れた二人がアスレチックコースの脇にあるブランコにならんで座り、休んでいたときだった。
「もう帰るの?」
「四時までには帰りなさいって、お母さんに言われてるの。アラームが鳴っちゃった」
アキが振動する携帯電話をケイコに見せる。ランプがピカピカと赤い光を点滅させていた。
「あたしはまだ遊べるよ」
木陰からのぞく空はまだまだ明るく、そびえるような大きな入道雲は陽射しにくっきり白く浮いている。
「あたしもまだ遊んでたいよ」
アキは携帯電話をしまうと、足をぶらぶらさせながらうつむいた。アキのさらりとした髪がたれて顔を隠す。
「帰りたくないな」
隠れた顔からアキの声がぽつりと聞こえた。ケイコは普段とちがうアキの様子に、その表情をうかがうように頭を傾けた。
「なんで?」
「帰ったらあしたになって、そしたらまたレッスンしなくちゃいけないもの」
アキがケイコにふりむく。下唇をかんで上目づかいこちらを見るアキのその表情をケイコは知っていた。
ものほしげに見えるその表情は、手に入らないとわかっているものをねだる表情で、さっきケイコが麦茶に映る自分の顔に見たものだった。
「レッスン嫌なの?」
「うん」
ケイコはまえをむいて訊いた。うなずくアキもまえをむく。
「みんな上手なんだもん。あたしなんかよりずっと。先生はもっと練習すれば誰よりも上手になれるって言うし、お母さんはお母さんには無理だったことでもアキならきっとやれるからって言うけど、でも無理なんだ。あたしのほうがどうしたって下手なの。だから先生は怒るし、お母さんはため息をつくの」
話しながらアキはゆっくりとブランコを揺らした。
「レッスンしたくないな」
鎖がこすれてブランコはキイキイときしむ。その音はケイコの耳にひどくざらついて響いた。
「コンクール出たくない」
ケイコはずっと黙っていた。アキの言葉はブランコの不快な音と混ざりあって、ケイコの胸をぐちゃぐちゃとかきまわし、今なにか声を出したら、とてもよどんだ気持ちの悪いものが口からあふれ出てきてしまうような気がして、ケイコはただ口を閉じ、アキの言葉に耐えていた。
――嫌だな。
こみ上げる不快感をケイコは無視しようとする。それを認めたら、自分がどうしようもなくみじめなものになる気がしてならなかったのだ。
そのとき林間に風が吹いた。風がこずえを鳴らす。木々のざわめきがあたりを覆うと、ケイコはそこにピアノの音色を聴いた気がした。
ケイコの胸に言葉が浮いた。
「でもあたし、アキのピアノ好きだよ」
その言葉は澄んでいた。
それはケイコの純心で、少しの屈折もない自然な言葉で、ケイコ自身も驚くほどにキレイに澄み切った響きの言葉で、だからケイコはその言葉を言うことができた自分にすごくうれしい気持ちになって、だから期待のまなざしでアキの顔を見たのだった。
けれどため息混じりに返ってきたアキの言葉は、とてもなにげないもので、それだからこそひどく残酷なものだった。
「ケイちゃんはいいよね。レッスンとかしなくていいんだもん」
ケイコはブランコから降りた。
「帰ろう」
「あ、ケイちゃん」
ケイコは走った。うしろのアキをふり返ることもなくケイコは走り、自転車に飛び乗った。
「まってよ、ケイちゃん!」
アキの顔が見れなかった。ケイコは胸から込み上げてくる感情を必死に抑えて、自転車をこぎ出した。
「ケイちゃん!」
アキの声が遠ざかる。涙が目尻から流れるのをケイコは感じた。
ケイコはあてもなく自転車を走らせた。止まりたくなかった。止まってしまうと、もうどうしようもなくなってしまうような気がして、ケイコは自転車をただただ走らせ続けた。
気付けば商店街のあたりにいた。夕方の商店街には夕食の買い物をする人たちが行き交っている。
にぎやかな音。
思わず自転車を止めたケイコは、しばらくその音を聴いた。その音はとても遠く聴こえ、ケイコは肌が底冷えるようなうすらさむさを覚え、逃げるように自転車をうしろにむけた。ケイコは人のいない道へと戻ろうとする。
「あ」
そこで突然、頭にぽつぽつと水滴が当たった。
「あめ?」
見上げると黒々とした雲が山のむこうからにわかにわき上がり、雷が鳴るとドッと重い雨粒が地面に打ち降り始めた。
ケイコはシャッターの下りたタバコ屋の軒先に雨宿りした。
雨。
雨から逃げるように走る人たち。
さっきまでのにぎわいが嘘のように、商店街は雨音に静かになる。
雨。
ケイコはひとり雨宿りする。
雨。
立っているのに疲れてしまって、ケイコはとなりに立っている自販機によりかかって座り、濡れた髪を払って降る雨をながめた。
雨は白く地面にはぜる。
ケイコは泣いていた。雨にまぎれるように小さく声を出して泣いていた。どうしようもなくみじめな気持ちがあって、アキがどうしようもなくうらやましい自分があって、それで勝手に傷ついている自分がひどく腹立たしくて、このギリギリと胸を締めつける痛みに、ケイコはどうしようもなく泣いていた。
雨。
やむ気配のない雨は、道を水たまりで埋めていく。
泣き続けるケイコは雨の中に人の駆ける音を聴いた。その水を跳ねる足音はだんだんと大きくなって、ケイコのほうへと近づいてくる。
そしてケイコのまえで突然やんだ。
「え?」
顔を上げたケイコが見たのは、自分のまえに立ち止まってこちらを見下ろす山本の姿だった。
びしょ濡れの山本は、雨の中からじっとケイコを見ていた。相変わらずのカエルのような無表情で、ケイコを見下ろしている。その顔にケイコは無性に腹が立って、山本をにらみ返した。
「なによ」
山本はケイコを無視してとなりの自販機にむかう。ガコンという音がして、山本は自販機の取り出し口に手を入れる。
「ん」
コーラを手にした山本は、それをケイコのまえにつき出した。
「なに」
「ん」
戸惑うケイコに山本は口を結んだまま、ただコーラをつき出す。
「……あ、ありがとう」
ケイコがしかたなくコーラを受け取ると、山本はぼそりとつぶやいた。
「ごめんな」
「え?」
ケイコは泣き腫らした目をまるくして、ぽかんとした顔で山本を見上げた。
「顔、なぐって」
「う、うん……」
山本はそれだけ言うと、背中をむけて雨の中へと歩いていった。
「あ」
ケイコはあわてて立ち上がり、山本の服をつかんだ。
「まってよ!」
山本がふり返る。山本の目がケイコを見る。
――この目、知ってる。
その目を見た瞬間、ケイコは山本の服を引いていた。
「ぬれちゃうよ」
「ぬれてるよ」
「もっとぬれちゃう」
ケイコは無理矢理に山本を軒下に引っ張った。山本は嫌がったが、服をにぎる手の強さに折れたのか、やがておとなしくケイコのとなりに並び、一緒になって雨をながめた。
沈黙を雨が打つ。
しばらく会話もなく二人でたたずむ。二人のあいだには一本の線のようなものがあった。ちょっと引っ張れば切れてしまいそうな、それでいてたがいをつなげている、そんな線が確かに二人のあいだにあって、この沈黙を気まずさのない不思議な共感に変えて、二人をこの場所に結び付けていた。
「泣いてたのか?」
やがて沈黙にぽつりと山本の言葉が浮かんだ。ケイコがうなずくと、山本はぶっきらぼうに言った。
「オレは泣かねぇぞ」
ケイコが山本にふりむく。横顔のままの山本は、下くちびるを突き出して、にらむように降り止まない雨を見すえた。
「父ちゃんはのんだくれでどうしようもねぇから」
いまだに弱まる気配を見せない雨は、白いしぶきで地面を激しく打ちひしぐ。
「オレは強くなって、父ちゃんなんかいらねぇようになるんだ」
雨にびしょびしょに濡れている山本の横顔は、けれど顔を下にはむけず、雨を突き破るようなまっすぐなまなざしで雨空を見上げながら、雨音に負けない声で決然として言った。
「だから泣かねぇ」
軒の暗がりに山本の瞳がねばり気のあるにぶい色で光る。
ケイコは自分が山本を嫌いだった理由を知った。
山本の目をケイコは知っていた。
強がりで、なまいきで、ふてぶてしくて、反抗的で、夏にいつまでも沈まないお日さまのようにあきらめの悪そうな目。
――あたしの目だ。
それはケイコと同じものだった。
どうしようもなさにただあがき、手に入らないものを欲しがって、じたばたと手足をばたつかせることをむなしいと知りながら、だからといってあきらめることもできないで、いつか幸せが来るんじゃないかと淡い期待を捨てられないでいる自分。
ケイコが目をそむけていた自分が山本の目に映っている。
しかし今のケイコには、その目は決して不快に思えなかった。
山本のくれたコーラの缶が手の中にある。
ひんやりとしたその感触は、じんわりと肌になじんでケイコの体温と混ざっていく。
「あたしも泣かない」
その声はかたく、けれど確かにケイコの口から発せられた。
「泣かない」
ケイコは胸を締めつけていた痛みがにじんで身体に溶けていくのを感じた。痛みはにぶく薄らいで、全身に広がっていく。この痛みは決して消えることはなく、ケイコの身体を手足の先まで血のめぐるように流れていった。けれどそれは全然不快な痛みではなくて、ケイコはこのチリチリと走る痛みが自分を肌覚まして自分を変えていく感覚に、心地よさを覚えていた。
ケイコも雨空を見上げる。
黒い雲から際限なく降る雨を耐えるように見ていると、雨は根負けしたかのようにしだいにその勢いを弱め、やがて雨のむこうに雲の切れ間をのぞかせた。
「あっ」
雨が弱くなるとケイコが呼び止める間もなく、山本は軒から飛び出した。走り去る山本の背中が小さくなり、やがて街角に消える。
そして雨が晴れた。
赤焼け。
雲の去った空に、赤い夕日が顔を出した。
雨のにおいの残る空は夕日をあざやかな赤色ににじませる。
街が赤色に染まる。
ケイコはしばらく赤くなった世界を見ていた。雲は影を引いて赤く流れ、ケイコは肌を染めて赤くたたずむ。
ケイコは山本からもらったコーラのプルトップを開けた。
炭酸の抜ける音。
舌を刺激する炭酸にさわやかさを感じたケイコは、そこでぽつりとつぶやいた。
「帰ろう」
ケイコは自転車を押して、ゆっくりと歩き出した。
――明日、アキに謝ろう。
夕焼けのあたたかな赤色の中を歩くケイコは、そう思いながら家への道を進んだ。
「どっか行きたいところある?」
夏休みもなかばを過ぎた頃である。その日パートが休みだった母と、ケイコがお昼ご飯の冷し中華を食べていると、母が不意にそうきいてきた。
ケイコははしを止めて母を見る。母はほお杖をついてテレビの方をむき、コップの氷をカラカラとゆらしながら麦茶を飲んでいた。
「どっかないの?」
ケイコが黙っていると、母は目を細めて横目にケイコを見る。少しいらだたしげな母の口調に、ケイコはうかがうように視線を上下させた。行きたい場所はあった。けれど、思い浮かんだその場所を口にするのに抵抗があった。それは服を脱いで自分の肌を他人にさらすような抵抗で、ケイコに胸元まで上がった言葉を口にさせるのをためらわせていた。
「あたし……」
言いよどむケイコが少し目を上げる。
母の目。
ケイコは意を決して、しぼり出すような声で答えた。
「アキちゃんのコンクールに行きたい」
アキの参加する音楽コンクールの会場は、電車で五駅ほど離れたところにある県の文化会館だった。小学生のケイコが一人で行くには少し遠い場所である。
「ふーん」
母は少し目を開くと、鼻で返事をして再びテレビに目をむけた。ケイコは自分の心臓がキュッと絞まるのを感じた。母は横をむいたままで、一口麦茶に口をつける。
「あんたら、ホントに仲いいわよね」
母に行きたいところを聞かれたとき、一番にケイコの頭に浮かんだのはアキの顔だった。アキには「あたし下手くそだから。ケイちゃんこなくても大丈夫だよ」と言われていたけれど、アキがドレスを着てステージで演奏する姿をケイコは見てみたかった。
けれど母の反応に、ケイコははずかしさが足の先から肌をチリチリと走って、顔を熱くしていくのを感じた。気はずかしさに落ち着かなくなってケイコがうつむくと、母はコップを置いてほお杖をついたまま、顔だけをケイコにむけてぼそりとこぼした。
「こういうときは動物園とか遊園地とかに行きたがるもんじゃないの? フツー」
ケイコは手をギュッとにぎり、赤くなる顔を隠すようにますますにうつむいた。母はそんなケイコの様子に、わずかに唇の端をゆがめて皮肉な笑いを浮かべると、再びケイコから目をそらして浅く息をもらした。
「どこにも連れてってないから、たまには親子水入らずで遊ぼうと思ったんだけど」
ケイコは「あっ」と顔を上げた。
ケイコはやっぱりこんなこと言うんじゃなかったと後悔した。アキのコンクールに行きたいのは本心だったけれど、それを口にしたことがまさか母への裏切りのようなものになってしまうなんてケイコには思いがけないことだった。
――そんなのじゃないのに。
母がさびしげに笑う。
「親より友達とはまいったもんよね」
沈黙。
テレビの音が嫌にさわがしく聞こえた。母はそのまま口を閉じてしまい、ケイコはとてもいたたまれなくなってしまった。なにかしゃべろうと、もぞもぞと口を動かすけれども言葉が見つからず、ケイコは下唇を小さくかんだ。
――そんなのじゃないのに。
母は黙ってしまったケイコを見ずに、しばらくそのボサボサのくせ髪をいじっている。どうすればいいかわからなくなったケイコは落ち着きなく視線をさまよわせる。胸がキリキリと鳴っている。ケイコは泣きたくなかった。もう泣かないとあの雨の日に決めたのだ。だから必死に言葉をさがして、自分の気持ちをつかまえようとした。
「あたし」
しぼるような声。母がケイコに目をむける。
「あたし、お母さんとアキのコンクール行きたい」
顔を上げたケイコはやっとさがし当てた言葉をふるえる声で母に伝えた。それがケイコの本心だった。ケイコは今にも泣き出しそうな赤い目をむけて母を見る。母は髪をいじる手を止めて、ケイコにむき直った。そしてしばらくじっとケイコを見つめて、やがてお腹を抱えて笑い出した。
ケイコは母の反応に目をしばたたかせる。笑い続ける母は、ようやくに笑いを抑えると、髪をくしゃくしゃとかき上げてひとつため息をついた。
「……で、いつあるわけ? そのコンクール」
「え?」
ケイコは目をまるまると開いて母を見返す。
「いつやるのかわからなきゃ、休みがとれないでしょ」
母は根負けしたかのように言った。ケイコは胸を締め付けていたものが溶けてくのを感じた。
アキのコンクールに母が連れていってくれる。
それを理解した瞬間、ケイコは身体の芯に喜びが音を立てて駆けていくのを聴いた。
「いい顔するわね、ホント」
母があきれた声で言ったが、不思議とそこに嫌な響きは聞こえなかった。
ケイコが玄関のドアを開くと気持ちよい風が肌をなでた。その日は北風が吹く秋の近さを感じる涼しい日で、今日はいい日になりそうだとケイコは胸をおどらせながら、アパートのむかいにある駐車場に駆けていった。
「お母さん、はやく!」
「はいはい」
母が鍵を開けるとケイコは車に飛び乗った。
「はしゃがないの」
母がたしなめるが、ケイコは車の後部座席に置いてあったウサギのぬいぐるみを抱いて転がる。それはほんのりとあたたかく感じられ、ケイコはぬいぐるみをギュッと抱きしめた。
車はコンクール会場である県の文化会館へむかう。
「楽しみ?」
運転中、母がケイコにそう訊いた。
「うん」
ケイコが素直にうなずくと、バックミラーに映る母がほほえむ。
「そう」
母が笑ったのでケイコも笑う。そして車は文化会館へ着く。
「へえ、けっこう広いのね」
大ホールの扉を開けた母がそうつぶやいた。ホールは見上げるような高さの広い空間で、二階、三階にまで席があった。このたくさんの座席の遥か下に緞帳に閉ざされたステージがある。その両脇には曲線のついた丸い柱のような不思議な形の壁がならんでいて、ケイコは自分がどこか違う世界に迷い込んだかのような錯覚を覚えた。
「ここでピアノ弾くんだ」
観客席はすでに半分ぐらい人で埋まり、たくさんの人の頭が動いている。
「すごいな」
「そうね」
母と二人ならんで席に着く。
やや薄暗いホールにはひんやりとした空気が流れている。
ケイコは肌がピリピリしてくるのを感じた。まるで自分がステージにのぼるかのように緊張してきて、ケイコはとなりの母の手をにぎった。母は驚いた顔をしてケイコを見たが、ケイコがこわばった表情で緞帳の閉じたステージを見つめているのに気付いたのか、目元をゆるめてその手をやわらかくにぎり返した。
やがて客席のほとんどが埋まると、ホールの照明はしぼられ、緞帳がゆっくりと開いた。コンクールが始まったのだ。
暗くなった観客席とは対照的に、照明にまばゆいステージには一台のピアノが置かれている。黒く光る大きなピアノは、音を弾き出されるその瞬間を待つように、沈黙にたたずんでいる。
そして紹介アナウンスが流れ、燕尾服を着た男の子が、ステージの袖から現れた。
男の子は一礼してピアノのまえに座ると、両手を広げ鍵盤に指を走らせた。
ピアノが鳴る。
男の子の演奏は力強く音を奏で、ひとつひとつ音を立てながら勇ましく流れる。
男の子の演奏が終わると、次に現れたのは白いドレスを着たショートヘアーの女の子で、彼女はやわらかく音を操り、まるで糸で織物を編むように、繊細に曲をつむぎ上げる。
次々となされる演奏にケイコは魅了されながら、同時に胸の内側からざらざらとしたものが染み広がるのを感じていた。
「みんな上手だね」
母の手をにぎるケイコの手に力がこもる。
「そうね」
母の返事を否定するようにケイコは首をふった。
「でもきっとアキのほうが上手だよ」
アキの名前が呼ばれた。
ステージの袖からアキが姿を現す。
赤いフリルのドレスを着たアキは、その長くさらさらとした黒髪をきらきらと光る白いティアラで飾っている。
ケイコはため息をついた。照明の下に立つアキの顔が、凛々しくまわりから浮き上がるようにまばゆくて、どこか遠い国から来た女の子みたいに見えたからだ。
一礼したアキがピアノにむかう。
静寂。
アキの指がゆるやかに鍵盤に降りる。
音。
――花だ。
華やかな音に始まる曲に、ケイコはぐるりぐるりと空をまわる花びらの円舞を聴いた。
ケイコは音に身をまかせるように目を閉じる。
するとケイコの身体は小鳥に変わり、空へと飛び上がってこの花の舞いに身を任せた。
花は風にのってめくるめく渦を巻き、ケイコは花とたわむれながら花と花の合間に踊る。くるくるまわるケイコの視界に映るのは、花の薄紅と空の青とに草の色。花の間隙に眼下にのぞける草原は、くり返しに吹く風に緑のうねりを波立てた。
――あれは。
ケイコは風打つ草原に一人立つ少女を見つけた。
――アキちゃんだ。
さらさらとした黒い髪をなびかせている少女は空を舞うケイコを認めると、遠くの丘を指さしてケイコを誘うように歩き出す。少女がアキであると確信するケイコは、迷うことなく少女のあとを追って飛ぶ。
――夜?
丘のむこうに暗闇が見えた。風も絶えたその場所には、空との境界線を失った暗く果ての見えない夜の海が静かに広がっていた。
この波音もしない夜の海に音がひとつ。
ケイコは闇を裂くように降る、水のしずくの白を見た。
海に落ちる。
音。
高く空降るしずくの線は、一定のリズムで海に落ち、波紋を描いて音となる。
やがてしずくは数を増して雨となり、波紋が重なり音を連ねて曲となった。
――明かりだ。
波紋のしぶきがかがやくと、海が跳ねて明かりを灯し、光をならべて道をつくった。
道の上を少女が歩いている。
ケイコは海に飛び込み小柄なイルカに姿を変えて、音降る海の光りの道に少女を追いかけ波切り泳ぐ。
音が音呼ぶ海打つ雨は、しだいに白い線で空を染め上げ、暗闇を塗りつぶして海とともに世界を光で満たしていく。
そこで世界がはじけた。
ケイコは爆発の音を聴き、白く裂けた世界のむこうに赤い火を噴く火山を見た。
闇は消え、海は消え、ケイコは人の姿に戻って見知らぬ街の広場に立ち、祝福の言葉を述べるように饒舌に火を噴く火山の赤を見上げながら、胸に鳴る喜びの音にふるえていた。
街の広場にはピアノが置かれ、アキが黒髪をゆらし演奏している。
音と音。
アキの指が鍵盤を走ると、七つの火山が連続に火を噴き上げ、アキの指が鍵盤をたたくと、背後の火山が祝砲のごとくに噴煙とともに火柱を立ち上げる。
音と音。
ケイコはただたたずむ人としてそこに立ち、ただふるえる人としてそこで泣いた。
音。
噴炎。
火の降る街の燃える広場に、最後の火山の音が響き、ピアノの音だけが残ると静かな雨が降り始めた。
雨は火を鎮めて、街を水に沈めていく。
音は遠く、小さく――。
そして――終音。
拍手。
ホールに響く満場の拍手に目を開けたケイコは、客席にむかいおじぎをするアキを見た。
席から立ち上がってケイコは拍手をした。
アキがステージを下がっていく。
ケイコは目じりに涙をためながら、力いっぱいに拍手した。
コンクールが終わると、母はケイコをファミリーレストランへ連れていった。
「アキちゃん、すごかったわね」
母はケイコにおしぼりを手渡しながらそう言った。
「だって、アキだもん」
アキのことをほめられると、ケイコはまるでそれが自分のことのようにうれしくなる。アキが銀賞を受賞したときも自分が受賞したかのように興奮してしまい、せまい座席で手足をばたばたと動かし母を困らせた。
授賞式が終わったあと、ケイコはアキに会いに行った。
「ケイちゃん!」
アキは驚きに目をまるくしてケイコの顔を見た。
「……来ちゃった」
なにも言わずにコンクールにきたケイコは少しすまなそうな顔をしたけれど、アキは気にするそぶりもなく駆けよってきてくれたので、ケイコは笑顔になってアキを迎えた。
ケイコはアキの手をにぎる。
「アキってやっぱりすごい」
ケイコを感動させるアキの白い指。あのたくさんの拍手を生んだ白い指。それはとてもすごいことで、だからケイコはアキにそのことをどうしても伝えたくて、アキに会いに来たのだった。
けれどケイコの称賛にアキは少し眉を暗くする。
「でも、一番にはなれなかったよ」
アキは片手にかかえる銀賞の盾をゆらしながら残念そうにそうつぶやいた。しかしケイコは首を横にふり、はっきりとためらうことなく言った。
「あたし、アキの演奏が一番好きだもん」
アキが金賞を取れなかったのは残念だったけれど、ケイコにはアキの演奏が一番だった。ケイコの言葉にアキは照れくさそうに目をふせて、銀賞の盾を抱きよせて少し肩を小さくすると、上目づかいにケイコを見てはにかんだ。
「……ありがとう」
ケイコはそれだけでとてもよいことをした気持ちになって、コンクールを見に来てよかったと心から思ったのだった。
「よかったわね」
母はうれしそうにするケイコを見て顔をほころばせた。ケイコが満面の笑顔でうなずくと、母は苦笑しながらメニューをケイコのまえで開いた。
「好きなの頼みなさいよ」
色とりどりの料理がならぶメニューにケイコが迷っていると、母が念を押すように言った。
「遠慮するんじゃないわよ」
ケイコはハンバーグを注文した。
「こちら、鉄板がお熱くなっているのでご注意ください」
店員に運ばれてきたハンバーグは、熱々の鉄板の上でジュージューと鳴り、焼ける肉の湯気とともに香ばしい匂いを鼻にかよわせる。ケイコは待ちきれないといった感じで、ナイフを手にハンバーグを切ろうとする。
「……あんたってナイフとフォークの使い方、知らなかったけ?」
ケイコがナイフの刃を上から押し当ててハンバーグを切ろうとすると、ハンバーグがすべってソースを散らしテーブルを汚した。ケイコはドキッとして母を見る。けれど母は怒る様子もあきれる様子も見せないで、散ったソースを紙ナプキンでふき取ると、ケイコの手を取ってナイフとフォークの使い方を教え始めた。
「いい? こう使うの。左手のフォークで押さえて、右手のナイフで……」
母に教えられたとおり、左手のフォークでハンバーグを押さえて、右手のナイフを肉に当てて引いた。するとプツリと肉の裂ける音がして、肉汁がじわりとハンバーグの表面を流れる。
「そう」
ケイコは何度もナイフを引いていく。するとナイフの刃がするすると肉に埋まり、ついに鉄板に当たるかたい音がした。
ハンバーグがふたつに切れた。
「よくできました」
母が手をたたく。
ケイコはうれしくなった。
「そんなに細かくしなくてもいいのに」
喜々とハンバーグを細切れにしていくケイコを見ながら、母が苦笑した。
――今日はいい日。
ケイコはハンバーグを食べながらそう思った。
「ケイちゃん、おはよう」
家から出てきたアキは、門のとなりで待っていたケイコの姿を認めて手をふった。
「おはよう、アキ」
昨日で夏休みが終わり、学校が始まった。朝の風景にランドセルを背負った子供たちの姿が戻ってきて、道々にしゃべりながら、みんな丘の下の学校にむかって歩いている。
九月になっても夏の暑さはまだひきずっていて、セミも鳴きやんでいなかったけれど、朝の風はすでに涼しく気持ちのいいものになっていて、ケイコはアキと気分よく通学路を歩いた。
「今日、席替えだね」
学校へ下りる坂のまえでアキが言った。
「アキの近くになれたらいいな」
ケイコがそう答えると、アキは「私も」とうなずいた。
「でも、また山本くんのとなりになったらやだな」
ちょっと目をふせて、アキがぼやくように言う。
ケイコはとなりの席が山本になったらどうしようかと考えて、それも別に悪いことじゃないよなと思った。