見捨てられた國のヒミコ20Ⅹ0 (7)
見捨てられた國のヒミコ(7) Ⅽ.アイザック
「あのね、ミーシャが何処かへいったの。」とカオルが訴えた。
ミーシャは再会した母親から渡された子熊の縫いぐるみで、彼女のお気に入りだった。
「ほら、昨日ロケットの打ち上げを見たでしょう。あそこの公園に忘れてきたのよ、きっと。」
ヒミコの言葉にケンイチも賛同した。
「僕もそうだと思った。」
「私が探してくるわ。大丈夫よ、きっと見つかる。」
「僕も行く。」
「良いわよ、手伝ってちょうだい。」
横からカオルがヒミコのパンツを掴んだ。
「カーチャは待ってて。」
ヒミコの言葉を不服そうに首を傾けた。
「イノシシが出ると怖いから、ね。」と説得した。
ゲートは二重になっている。外側の門扉は厚く頑丈だ。カオルが悲しそうに佇んでいる。ヒミコは突然、気が変わった。カオルはドローンに乗りたいのだと気づいたのだ。
「カーチャも行く?」
ケンイチと飛び跳ねそうな少女を連れて飛行場の格納庫へ向かった。ヒミコは胸に拳銃を提げている。基地を出るときのお決まりのスタイルだ。
「声を掛けるまでは降りないで待ってるのよ。」
カオルに念を押した。人が居なくなったせいか野生動物の数が増えたように感じていた。
ドローンが舞い上がった。基地の組み立て棟ほどの高度から遥かに広がる景色を見渡す。真っ直ぐに伸びた滑走路はドローンには不要だが上空から見下ろすと美しい。目的地まで僅か数分の飛行でもカーチャは楽しそうだ。
雑草の疎らな場所を選んで着地した。素早く辺りに注意を払う。ヒミコの合図でケンイチが飛び降りた。二人で縫いぐるみを探し歩く。昨日の行動を振り返ると大体の見当は付いていたが思ったほど簡単ではなかった。季節的に草の伸びが盛んだ。ヒミコは雑草の中に注意深く眼を配った。やがて奇跡のように薄茶色の子熊の縫いぐるみを見つけた。
ヒミコはケンイチを手招きして、自身の唇に人差し指を押し当てながら草むらを眼で示した。ケンイチはミーシャを認めて満面の笑みを浮かべた。
「カーチャを呼んで。何も言わないのよ。」
ケンイチは小躍りしてドローンに駆け寄った。妹が降りるのを支えてやった。
怪訝な顔で近寄ったカオルが草むらに眼を落とし歓喜の声を上げた。「ミーシャだわ!」
「カーチャ、見付かったわね。」
ヒミコは手を伸ばしかけたカオルを制して用意したビニール袋を取り出し、縫いぐるみを包んだ。
「ダニがいると嫌だから松浦さんに消毒して貰おうね。」
カオルは小さな指でビニールの上から子熊の鼻を触って微笑んだ。
三人が基地に戻り門扉を閉めていると突然遠くから大声が聞こえた。白衣の男が手を振り上げて走ってくる。ドクター・タチバナだ。どこか異様な雰囲気にヒミコは無意識の裡に子供らの前に立ち塞がった。
目前に迫ったところで内側の鉄柵が完全に閉じる音がした。立花は眼を怒らせて叫んだ。
「そこを開けろっ!」
「いったい何なの?」
立花が柵に手を掛けて動かそうとするがビクともしない。
「早く開けるんだ。俺は用があって出かけねばならん。」
「どうぞ。」
ヒミコは顎でコントロール・ボックスを示した。門扉を開けたいなら自分でやってくれという意味だ。焦って苛立つ立花の様子が疑問でもあった。基地の出入りは厳重に管理されているのだ。
「良いから開けろ!」
「もしかしたら外出の承認がまだなの? 兄に話さなかった?」
立花は一瞬沈黙したが、憎々し気に言い放った。
「ドクター・タケル。あいつは何も出来ない。あの男は今頃…。」
ヒミコが聴き咎めた。
「立花さん、何と言ったの? 兄が今頃どうだというの。」
「さっきからここを開けろと言ってる。早くするんだ。」立花が地団太を踏んで叫んだ。
「兄に何かしたのね。言いなさいっ。」
立花は答える代わりにヒミコに飛び掛かった。
「キャッ!」思わず小さな悲鳴が漏れた。
突然の暴力を恐れたヒミコだったが立花の目的は違った。胸倉を掴み拳銃を奪い取ったのだ。それをヒミコの頭に押し当てた。
「さあ門を開けろ。」
ヒミコは驚愕したにも拘らず無言で男を睨みつけた。その目が微動もせず男に向けられている。立花は舌打ちと共にヒミコを突き飛ばした。素早くケンイチの首に肘を絡ませた。
「このガキを撃つぞっ。」
苦しさに藻掻く兄の姿を眼にしたカオルが激しく泣き声をあげた。
「分かったわ。門を開けます。」
立花の信じ難い行為にヒミコは怒りに震える指でコントロールパネルを操作した。
二重の門扉がすべて開いた。
「さあ、子供を放して。」
「ダメだ。飛行場の格納庫まで付いて来い。ドローンに乗ったら放してやる。」
立花がケンイチを引きずって先を急ぐ。
「ケンイチ、もう少し我慢して。私が付いてるからね。必ず助けるから。」
「ふん。」ヒミコの言葉を立花が嘲笑した。
格納庫には数機の乗用ドローンが置かれていた。立花は出口に近い、ヒミコ達が使用したばかりの機体に近づくとケンイチを抱えて乗り込んだ。ヒミコは息が止まりそうになった。人質にされる最悪の展開が脳裏に浮かんだ。
「お前が説明するんだ。」立花がコックピットから命令した。ドローンの操縦についてだ。
「子供を降ろして。」
「まだと言っただろう。」
「子供を降ろしてっ!」
「ドローンを始動したら降ろしてやる。」
ヒミコはステップに足を掛けて身を乗り上げた。
「ハンドルで操縦する。車と大して変わらない。簡単だ。」
「何時間飛べる。」
「四時間だ。」
「ペラを始動させろ。」
「ハンドルの横、ボタンを押してレバー四本を全部上げる。」
八基のローターが音を立てて回転した。立花は太い息を吐き満足そうに頷いた。その顔に滝のような汗が流れていた。
「降りろ、二人とも降りるんだ!」
ケンイチは転げ落ち、ヒミコは飛び降りた。
立花の顔に不気味な表情が浮かんでいた。唇は歪み、ヒミコを見る目が陰惨な光を宿している。銃口をヒミコに向けた。ヒミコは心臓が凍り付いた。立花が引き鉄に指を掛けた。安全装置が掛かっている。立花がそれを知っているのか分からなかった。立花はヒミコを見詰めて薄笑いを浮かべた。ヒミコが恐怖に襲われていることに満足したのか引き鉄を引く代わりに銃を投げつけた。ドローンが地面から浮き上がり、格納庫を飛び出していく。
ヒミコは素早く拳銃を拾い上げた。ドローンに狙いをつけたが思いとどまった。まだ何も分かっていないのだ。ケンイチに駆け寄った。
「大丈夫?」
十歳のケンイチがついに涙をボロボロと流した。しゃくり上げながら大声で叫んだ。「あいつ、あいつ…。」
ヒミコはケンイチを抱きしめて言った。
「さあ、カーチャが心配してるわ。急いで帰りましょう。」
ヒミコは自分のデスクからヘッドセットを鷲掴みにして衛星の管制センターに走った。
「お兄ちゃん、何処にいるの!」
マイクに叫ぶが応答がない。
「アースボーイ、お兄ちゃんは何処?」
「ドクター・タケルはオフィスだよ。」
ヒミコは回れ右をして兄のオフィスに向った。
不安に胸を塞がれながらドアを開け兄の姿を探した。奥の窓際に置かれた大きなデスクに近づくと、カーペットに横たわる足先が眼に飛び込んだ。ヒミコは胸が張り裂けそうな思いで倒れている兄に駆け寄った。
「お兄ちゃん!」ピクリとも動かない。
涙ぐみながら松浦を呼び出した。
「すぐ来て。お兄ちゃんが倒れてる。」
松浦の声は冷静だった。
「鼓動は? 脈が分かる? 呼吸は?」
ヒミコは無我夢中だった。胸に耳を押し当てた。手首で脈拍を調べた。心臓は動いている。呼吸は? どうすれば分かるのか。
「呼びかけて、反応は?」松浦が指示を伝えた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
ヒミコが必死に声を掛けた。反応は無い。唇が震えた。「お兄ちゃん!」
松浦が飛び込んできた。
「いったい何があったの?」
「分からない、分からないのよ。」ヒミコは涙声になった。
松浦は聴診器を出してタケルの体に当てた。
「心音も呼吸も異常は無いわ。意識が無いのは変ね。外傷も無いようだけどヒミコは何か知ってる?」
ヒミコの指摘はただ一つだった。
「立花が何かしたのよ、きっと。毒を飲まされたのじゃ。」
「ドクター・タチバナ?」
松浦は大きく頷いた。「それなら推測が付くわ。彼に睡眠導入剤をしつこく求められたので出したんだけど…。でも心配しないで。危険な量は出してないわ。」
「一時的にでも目が覚めないかしら。」
松浦が白衣のポケットから小さな瓶を取り出した。蓋を開けてタケルの鼻孔に近づける。ビクリと頭が動いた。
「お兄ちゃん!」
タケルがぼんやりと眼を開いた。
「ヒミコ…。」睡魔と戦いながら懸命に声を絞り出した。
「ヒミコ…。立花を出すな。基地の機密を持ち出すつもりだ。彼を外へ行かせてはいけない。」
「分かったわ。安心して。」
タケルの頭がゆっくりとヒミコの腕に沈んだ。瞼が半分閉じて、覚醒したか寝ているのか良く分らない。
「松浦さん、兄はどうなるの?」
「心配いらない。山下さんに手伝って貰って胃を洗浄するわ。」
後を松浦に任せてヒミコは走った。アースボーイがいつもの様にコントロール・センターで基地のデータを管理している。
「アースボーイ、基地のドローンは何処にいるかしら。」
AIロボットは瞬時に答えた。
「ヒミコが探しているドローンはいわきの南東、鮫川沖二キロにあって更に南下、洋上を北茨城方面に向かっている。」
ディスプレーに衛星からの映像が映し出された。見覚えのある機体が波の上を飛んでいる。
「海上に何かあるの?」
「日立の沖合五十キロに中華連邦の054B型フリゲート艦が認められる。」
立花の意図は明らかだった。
「ドローンをコントロールできない?」
「手動が優先する。こちらからは出来ない。」
「パイロットと通話できるわよね。」
「通信を繋いだ。通話可能だ。」
「ドクター・タチバナ、すぐに引き返して。こちらいわき基地。引き返してください。」
大声が返った。「ヒミコだな。まったくうるさい奴だ。」
「あなたは何処にも行けないわ。」
「俺は自分が行きたい所に行く。分かったか。」
「ドローンを撃ち落とす事も出来るのよ?」
「俺はミサイル駆逐艦に守られている。基地の対空兵器をすべて迎撃する能力がある。」
笑い声の後、音声が一方的に途切れた。
ヒミコは唇を噛んでドローンの映像を見詰めた。怒りなのか悲しみなのか複雑な表情が浮かんだ。
「ドクター・タチバナ、なんて馬鹿なの。あなたは私に最後の手段しか残してくれないのね。…アースボーイ!」決然と叫んだ。
「ドローンを撃墜する。」
「高萩ミサイル基地から発射できる。」
「撃って!」
「ファイヤー。二十秒で目標に到達する。」
ドローンが海の上空を飛んでいる。白と赤の機体が模型のように小さく見えた。次の瞬間オレンジ色の閃光がドローンを引き裂いた。ヒミコは一瞬眼を逸らした。機体は二つに割れ、炎と黒煙を噴き出して海中に墜落した。
「アースボーイ、駆逐艦と連絡が取れる?」
「国際VHFが使用できる。選局は自動だ。言語は中国語を選択すべきだろう。」
ヒミコは咳払いをしてマイクに向かった。
「054B型艦艇に告ぐ。貴艦は我が国のEEZを侵犯している。こちらは日本政府。直ちに退去するように。」
耳をすましたが反応は無い。ヒミコが繰り返そうとすると雑音と共に応答があった。
「こちら中華連邦所属艦。国連海洋法により航行の制限は受けない。」
ヒミコがアースボーイに尋ねた。「どういう事?」
「EEZの海域は何処の国の船であっても自由に航行できる決まりだ。ヒミコは多分領海と混同してる。領海は海岸線から22・2キロまでの範囲だ。」
「あらそうなの。でもこの軍艦、茨城沖までやって来た目的を知りたいものだわ。…この艦が現れなかったら、ドローンは何処かに不時着して結局は基地に助けを求めた筈よ。そうでしょう?」
アースボーイが赤と青の小さな光をゆっくりと点滅させて答えた。
「その質問には意味がない。」
ヒミコは唇を噛んだ。
タケルが医務室のベッドで眠っていた。ヒミコは手を握って兄を見詰めた。その顔は疲れ果てて眼を閉じているような印象だ。瞼が時おり小刻みに震えた。ヒミコは不意に兄を哀れに感じた。大地震の後からたった一人で何もかも引き受けて来たのだと悟った。
…ごめんね。私がもっと頭が良かったらお兄ちゃんの手助けが出来たのに。ヒミコは自分の不甲斐なさを感じて涙ぐんだ。
やがてタケルが目覚めた。瞳を覗き込んだヒミコが安堵の笑みを浮かべて告げた。
「お兄ちゃん、安心して。もう大丈夫だと松浦さんが言ったわ。」
「一体どうしたんだろう。急に眠くなって…。」
「睡眠導入剤を飲まされたみたい。」
「そうか…。ところでドクター・立花は何処に?」
ヒミコは躊躇いがちに言った。
「ドクターは、死んだわ。海に沈んで。」
タケルは驚きを隠さなかった。「立花博士が?」
「基地のドローンを無断で使用したわ。引き返すように警告したけど聞いてくれなかった。」
「それで?」
「立花博士は死んだわ。海に…。」後の言葉は飲み込んだ。
ヒミコが固く口を結ぶと、沈黙が二人を包んだ。タケルが上体を起こした。妹の手を取って静かに言った。
「ヒミコ、すまない。辛い思いをさせてしまったね。」
「辛くは無いわ。お兄ちゃんと、この基地を守る為なら私はやるべき事をやるわ。」
タケルは複雑な顔でヒミコの手に視線を落とした。両手で包んで口を開いた。
「いま世界中が経済危機を迎えているんだ。日本列島を取り巻く国でもそれが起きている。これらの国は内政から国民の眼を外らせる目的で日本を武力侵攻する可能性がある。だから僕はそれを阻止する最強の兵器を開発している。
ヒミコ、よく聞いて欲しい。もし僕に何かあったときはヒミコがこの兵器を使って日本を守ってくれないか。それはとても辛い事になるかも知れない。無理に頼める事じゃないが…。」
「分かったわ。私がやるわ。」
言下に答えたヒミコだったがその兵器を知らない以上タケルの言葉の意味を理解しているとは思えなかった。タケルが大きく息を吐いて続けた。
「もし父と母が生きていたら家族で海外に移住したかも知れないね。でも僕たちは二人きりになってしまった。あの時に考えたんだけど生き残った者は何かの役割を果たすべきじゃないか、と。そのうちこの国を守る事がその役割だと思うようになった。」
ヒミコは何も言わずに頷いた。病院の駐車場で出会った北海道の母子の姿が浮かんだ。国民を守る、それは公務員を目指した時からヒミコの心にあったものだった。
「正直なところ、僕は自分の考えをヒミコに押し付けているだけかも知れない。だから無理に従う必要は無いよ。ヒミコは自由に自分の望む人生を歩ける。安全な外国に移り住んで、恋人を見つけて結婚し…。」
「黙って!」突然ヒミコが遮った。「もう何も言わないで。私はやるって言ったでしょ。この国を守るわ。それより…。」
ヒミコは爪先立ちで狭いベッドに体を乗せ、兄と並んで腰を下ろした。タケルは妹が言いたい事があるのだと察して静かにその言葉を待った。
「お兄ちゃんはもし何かあったら…と言ったけど、その何かとは一体どんな事?」
タケルは意表を突かれたのか小さく笑った。
「確かに意味が分からない事を口にしてしまったね。何か…とは何か、自分でも想像できないよ。」
「何かなんて起きない。そうだよね…。」
ヒミコは兄の背中に頭を凭せて呟いた。
小型の偵察用ドローンがリアルタイムで地上の映像を伝えている。ヒミコは決心していた。必ず日本人が住む場所を見つけ出す。新潟北部、衛星画像にあった川沿いの平地を可能性が高いと踏んでいた。
砂丘に沿ってドローンを飛ばす。川が視界に入った。砂丘の端と樹木が茂った小高い山の間を横切り流れている。山は断崖となって海にまで迫っていて浜辺で塩が作れない地形だ。ヒミコは期待を抱きながら川を遡った。衛星の画像に比べるとドローンはより鮮明な映像を提供してくれる。
やがて農地とおぼしき開けた土地を発見してヒミコは叫んだ。
「あったわ!」
鼓動が高まった。だがそこは一面が枯草色に覆われている。強烈な違和感に襲われながら注意深く見ていくうちにヒミコはそれが麦畑だと気づいた。
やっと見つけた、と小躍りしたい気分だった。震える指でさらにドローンを操る。人の姿や住居、もしかしたら馬小屋などもある筈だった。映像に注意を払いつつ、ヒミコは何故麦畑なのかと考えていた。この時期は田植えが始まる頃だ。だが川があるにもかかわらず水田らしいものが見当たらない。川の流量が少ないのかもしれなかった。つまり水が足らない為にコメ作りを諦めたのではないかと思い至った。水不足の耕地で収穫が期待できる作物は麦とイモ類だろう。
畑の縁に一本の道路があった。枯草色の風景の中でそこには僅かに緑の草が生えている。ヒミコはこれを辿れば人家に行きつくのではないかと考えた。そのとき人が突然道路上に現れた。ヒミコは驚いて声を上げた。レンガ色の裾の長い衣を身に着けている。砂丘で出会った老人に違いなかった。ヒミコの驚きはもう一つあった。老人は何処から急に現れたのか不思議だった。
彼は一頭の馬を曳いている。褐色の馬体がゆっくり視野に入ることで、老人と馬が道路に面した色褪せた小屋から出てきたのを理解した。小屋の屋根は白く枯れた藁束で覆われて上空から見つけるのは難しい。
「おじいさん!」とヒミコが呼びかけた。
老人は立ち止まり、周囲を見渡した。背伸びをして麦畑の中を窺っている。ヒミコは笑いを堪えて再び声を掛けた。
「おじいさん、上よ、上。」
老人が大きく口を開けたままドローンを見上げた。
「私の声を覚えているでしょう? 手を振って。」
ドローンに気付いたら合図して欲しいと話した。他愛も無い頼みだが覚えていてくれれば嬉しいと思った。
老人が笑みを湛えて上空に大きく手を振った。ヒミコは急いでドローンを着地させた。
「約束どおりあなたを訪ねて来たわ。さあ、もっと近づいて。ドローンに小さな箱が付いてるでしょう? 中に携帯電話が入ってるのよ。」
ところが老人は動かない。
「警戒しなくてもいいわ。前も話したとおり私は日本政府の職員よ。心配しないで。」
老人はキョロキョロして言った。
「あんたは何処にいるんじゃ。儂が見えているんか?」
「見えているし聞こえてもいるわ。ドローンにカメラとマイクとスピーカーが付いているの。私は福島のいわきに居てそれを遠隔操作しています。さあ、携帯電話を手に取って。」
老人が歩を進めるといきなり馬が嘶いた。そのせいなのか足が止まった。ドローンを見詰めている。ヒミコは呆れてしまった。
「ドローンも携帯電話も知ってるでしょ。何を心配してるの。あなたにとって全ては風のようで空の空なのでしょ?」
ヒミコの言葉に老人は馬の鼻面を撫で、満足そうに頷いた。携帯電話を手にしたものの、ドローンを介して会話を続けた。
老人の名はクーニンだという。外国人には見えなかったが宗教上の名乗りだろうと考える事が出来た。彼によると五十人の日本人が暮らしているという。集落の地名は「山辺」で旧村上市の一部だ。
クーニンが言った。「馬に水を飲ませたら区長の所に行く。様々な事を話すと良い。住民たちは助けを求めている。」
老人はゆっくりと馬を曳いていく。ドローンも上空をその歩みに合わせて飛ぶ。彼は携帯電話を懐に入れて使おうとしない。
「電話の使い方を説明したいんだけど…。」
「今はこうやってお前さんと話が出来ている。それで良いのさ。」
「今は出来るけど。電話ならいつでも話せるわ。」
「世は去り、世は来たる。日は出で日は没し、風は南に吹き、また転じて北に向かい、巡りに廻ってまたその巡る所に帰る。その時が来れば、またお前さんと話そう。」
老人はドローンを見上げて呟いた。
「風は絶えることがない。」
ヒミコは遠く離れたいわきのオフィスで肩を竦めた。クーニンのペースに従う他なさそうだった。
山辺地区の区長、大林は六十五歳。いわきに臨時政府の機関があり避難民の受け入れと海外移住を支援していると知っていた。しかし当時も今も住民は地区を離れない考えを持っているという。ヒミコは疑問を捨てきれなかった。
「今の暮らしに住民の皆さんが満足しているとは思えません。震災から十二年が経ちます。電気はどうしていますか。冬の寒さは?
政府は皆さんの要望を知り、それに応えようと考えています。どのような手助けが必要でしょうか。教えてください。」
大林が口にしたのは思いがけないものだった。地域住民が社会インフラから隔絶したような生活を送っているのは震災の以前からで、もう四半世紀になるという。それでも故郷を離れない訳は、見知らぬ地に移ることへの不安があるのだと大林が説明した。
「私たちは農民だということです。土地を離れては生きられない。ここでの農作業に励み、平穏に暮らしています。いわきの避難民住宅に移る必要を感じていません。」
ヒミコは区長の言葉を半信半疑で受け止めた。クーニンは住民が助けを必要としていると口にしたからだ。
「政府は地区の皆さんに移転を求めたり強制するつもりは全くありません。大林さん、区長として解決したい問題はありませんか。私たちはその役に立ちたいと考えているだけです。」
「もし力を貸してくれるなら薬が欲しい。風邪薬や胃腸薬、鎮痛解熱剤などです。私たちはそれを入手するすべがありません。切実な問題なのです。」
「分かりました、対処します。また住民の皆さんの検診が出来るように保健師の派遣を検討します。」
「それは有難い。」
大林が嬉しそうに声を強めた。
検診の実現にはヒミコにある懸念があった。率直な疑問を付け加えた。
「大林さん、新潟の他の地域では難民を襲う武装集団の犯罪行為が見られます。山辺地区でそのような事例はありませんか。」
もし犯罪集団が跋扈するようであれば松浦の派遣は困難が伴うことになる。
「強盗団の話は数日滞在したソビエト人から耳にしたことがある。しかし山辺ではこれまでその姿を見たことがない。私たちから奪うものは何もないでしょうから。」
犯罪集団の狙いは金品だけではない。殺戮を目的とする集団もあるようなのだ。襲撃が今まで無くても、これからも無い事にはならない。
ヒミコの心配は消えなかったが、大林が唐突に猟銃の弾丸が必要だと訴えた。彼も内心で不安を抱いていたのかと思われたが話は微妙に違った。
「地区には二人のマタギがいる。」と大林が説明した。しかし二十年ほど前には両者とも銃弾が尽きてしまい、それ以来は狩猟を諦めて山菜採りと根菜類の栽培をしている。
「けれども野生動物の対策が必要で、二人に罠を置いてもらっているのだが数が少なくて埒があかない。弾丸があればかなり有効な手立てになる。どうだろう。」
ヒミコは猟銃の知識がない。
「弾丸は、どんな物かしら。」
「どんな…? …。」大林も同じことのようだ。
不意にクーニンの声がした。「シシ撃ちの弾じゃ。」
「銃は散弾銃で、弾はシシ撃ちじゃ。」
「分かったわ、多分準備できると思う。それにしても…。」ヒミコは大林の話にある疑問を抱いていた。大震災の十数年以前からまるで現代文明から隔絶したような暮らしだったと大林は匂わせていた。その原因は何か。そして住民が何故そんな暮らしを受け入れて来たのか。
分からないながらもヒミコには一つだけ推測できることがあった。かつてアスカが口にし、またアキラと二人で地方都市に無人の建設物が残されている理由を調べて知ったのだが、それは大都市の有権者を重視した選挙制度によって多くの地方都市が財政破綻に追い込まれた過去の出来事だ。その影響が山辺地区にも及んだのではないか。
ヒミコは控えめに問いかけたのだが大林は「その通りです。」とあっさり答えた。村上市は豊富な水による農業の盛んな地域で財政難にもどうにか耐えていたが、政府の政策転換が追い打ちをかけたという。まず農業関係の各種の補助金が全て打ち切られてしまった。さらにコメの輸入自由化が行われ、消費者は国産米の三分の一の値段で購入できることになった。これらは首都圏の大都市に居住する住民の利益を実現する目的だった。すでに国民の九割が大都市に集中していたからだ。
「二十年前、豪雨災害が地元を襲いました。豊かな水資源の源だった大河の上流で土砂崩れが多発し、川は至る場所で堰き止められ災害ダムが幾つも生まれてしまったのです。川の流量は激減しました。水資源の枯渇に困惑した農民たちは、それでも雪解けの春になれば問題は解決するだろうと期待しました。そして春の雪解けを迎えて私たちは本当の恐怖に直面したのです。雪解け水によるダム湖の決壊が全てを破壊したのです。」
これは終結ではなかった。災害ダムは他に幾つも残されていたのだ。根本的な解決には五年の歳月と百億円を超える予算が必要だろうとの試算に、人々の多くは絶望し故郷を去った。
「当局にそんな財源が無いのは明らかだった。人々が農業を諦めたのは無理もない話です。山辺地区は比較的被害が少なかったのでなんとか農業を続けられました。」
「そんな時こそ団結して政府に訴えるべきだったのでは? 何かしらの手立てがあったはずよ。」口にしてヒミコはすぐに気づいた。二十年前の出来事を今さら語っても意味などないのだ。
「ごめんなさい。無神経な事を言ってしまったわ。」と詫びた。
暫しの沈黙の後に大林は意外な質問を口にした。
「ヒミコさん歳は幾つですか。」
「二十歳です。」答えてから急いで付け加えた。「十八歳から国の為に働いています。」
大林はむしろ明るい声で言った。
「若い人だと想像していました。きっとあんたは我々の協同組合が全国にあったことを知らないのでしょう。」
その通りだった。ヒミコはそれを知らない。
「私たち農家は例外なく『ゼンノー』という組合に加入していました。ゼンノーは強い政治力を持っていた。国会議員の大半はゼンノーの支持が無ければ選挙に勝てなかったからね。大都市以外の選挙区は農民の利益を求める政治家で占められていました。」
ゼンノーの政治力は強大で、農家への様々な補助金の交付を実現した。その理由はどうともなった。食の安全保障の為であり、国土の保全の為だった。ゼンノーに逆らえる政治家はおらず、農林大臣は忠実な使い走りでしかなかった。ついには「農作物を作らない為の補助金」まで実現した。こうして交付された補助金の多くはゼンノーへ預けられ、その資金量は日本の国家予算に匹敵する規模にまで膨れ上がった。
「我々農家は自分たちの政治力を、ゼンノーの力を過信してしまいました。」いつの間にか大林の口調は自嘲を帯びていた。
「しかし気が付くと農業人口は減り続け、後継者も居ない有り様になっていました。それでも耕作放棄地の雑草を刈ったり、水路の泥上げをすれば補助金が貰えました。ゼンノーの政治力のたまものだったのですが、農民はこの目先の利益を得る一方で農業の未来に展望や希望を見つけられなかったのです。」
やがてこのような農政と予算配分に対する批判が都市部の国民に広がり、それは選挙制度の改革にまで至った。有権者数と選挙区の均衡を図る必要があるとして地方の国会議員が大幅に削減されてしまった。結局これは膨大な国債残高を抱えた政府が地方を切り捨てる財政政策に途を開くことにもなった。都市部の中間層の利益を優先するトレンドが力を持ち、同時にゼンノーはその政治力を失ったのだ。
「ゼンノーはどうなったの。今もあるの?」
「詳しくは知らんが、ゼンノーは外国にある。現地に法人を作って投資銀行としてやっているらしい。我々農民の手に残されたのは出資者を証明する紙切れ一枚。けれど農民一人の出資額はゼンノーの資金から見れば砂丘の一粒の砂だろう。ある男が出資分の返還を求めたらしい。結局は為替の変動が理由で僅かコメ一俵分を手に入れたとさ。我々にとってなんの役にも立たない。もっともその証書は水害で無くしてしまったがね。」
ヒミコは言葉が出なかった。長い時間をかけ、ゼンノーは巨大化し日本の農業は滅んだことになる。だがそれは農家とゼンノーの責任だろうか。政治が役割を果たせなかったという疑問が残る。ヒミコの父は国会議員であり与党の中心的役割を担っていたはずだ。では父は農政にどう関与したのか、その答えはもう直接には得られない。ヒミコは複雑な感情を抱いて沈黙するしかなかった。
「私たちは誰かを恨んでいるわけじゃない。」と大林は胸中を語った。
「ただ生きるために力を合わせて農業を続けて来ました。厳しい生活に耐えながら…。でも不思議なもんです。麦を作り、イモを育て、馬を飼う。そこには喜びがあるんですよ。強がりでも何でもない。
国が用意した避難民住宅に移れば便利な生活が出来るだろうとは思います。けれども生まれ育った地を捨ててまでそれを求めるのはどうですかね。その必要が無いような気がしますよ。」
大林の言葉はヒミコが前に山形の漁村で耳にした住民の話と似ていた。漁村には老人しか住んでいなかったと思い出した。
「大林さん、地区に若い年齢の人はいるんですか。」
「若い者はおらん。震災の後、国の勧めに従って外国に移住してしまった。私自身の子供も…。地区でいちばん若いのが六十。多くが七十代だ。」推測は当たっていた。
ヒミコが見ているディスプレーに『飛行用バッテリー残り約二時間』と文字が表れた。ドローンを回収しなければならない。ヒミコが大林と電話を繋いだままでドローンの高度を上げると空を見上げるクーニンが映った。
「クーニンさん、また会いましょう。」スピーカーで呼びかけた。
大林も画面に入って来た。クーニンと並んで上空を見ている。ヒミコは電話で告げた。
「大林さん、地区の皆さんと今後のことなどを話し合って貰えませんか。政府がきっとお役に立ちます。」
ヒミコは携帯電話に内閣府分室とヒミコの番号が登録されていること、バッテリーに充電の必要がないことなどを告げていったん通話を切ったのだが、山辺地区が今後も長く農業を営んでいけるとは思えなかった。では政府の職員として今後どのような対策が準備できるのか、ヒミコは自らの問いに考え込むしかなかった。
ヒミコにアスカから緊急の連絡が入った。山辺地区の住民に届ける薬品を松浦と相談している最中だった。アスカはイギリスの公共放送を確かめるように伝えた。「クボ・ハナエさんの指摘によると深刻な事態が心配されるわ。」
二人は顔を見合わせた。松浦がヒミコを伴ってデスクへ急いだ。インターネットでイギリス放送局のニュースラインを調べる。
ネオソビエト連邦の都市ウラジオストクの映像がトップニュースとして流れていた。多くの警察車両と救急車が光を点滅させて蝟集している。
「学校で爆発。数人が死傷した模様。当局はテロと断定したが詳細は不明。」とテロップが流れた。続いて金髪の女性アナウンサーが情報を伝える。
「ネオソビエト連邦の極東に位置する都市ウラジオストクの学校で爆発がありました。現場は第二十二学校、当局は爆発により警備員一人、教職員一人の二名が死亡、生徒数人がケガをしたと公表しています。」
アナウンサーは手元のタブレットと前方のディスプレーを忙しく見やった。「新しい情報です。」
「この事件について現地の捜査当局がテロ事件と断定したようです。捜査当局は反政府勢力のメンバーがこのテロを画策し実行したと指摘しています。」
彼女はスタジオに同席する解説者に訊いた。
「ネオソビエト連邦内の批判的なメンバーの活動はこれまで政権の高官の資産を公開したり汚職を示唆する情報を流したりするものでしたが、遂にテロという新しい局面を迎えたのでしょうか。」
解説席の初老の男性が冷静に答える。
「まだ詳細が明らかになったとは言えません。この国では何が起こるか予断出来ない。事件がスターリン時代のような大粛清の始まりを暗示するものなのか、政権を批判する者たちにテロリストの烙印を押すための偽旗作戦なのか、あるいは単なる個人的な犯罪か、それとも中華連邦の領土的意見を代弁する意図を持った者による事件なのか。もう少し時間が経たねば正確な事は分からないでしょう。」
ヒミコはアスカに尋ねた。ニュースが日本政府とどう係わるのか分からなかったのだ。
アスカが言った。「クボ・ハナエさんの話を聞いて。彼女が心配するようにならなければ良いけど。」
ハナエが何処か分からなかった。ヒミコは居住区に走った。子供たちと居るような気がした。それは当たっていた。
ハナエはカオルを抱いて椅子に掛け、ケンイチがそばに立っていた。カオルはヒミコに笑いかけたがハナエとケンイチに笑顔はなかった。ヒミコが近づいてケンイチの肩に手を置くと、見上げる彼の眼にいつもの無邪気な光が浮かんでこない。
「ハナエさん、お話が聞けるかしら。」
ハナエは頷いてヒミコを外へ誘った。子供たちに聞かせたくないのだろうとヒミコは感じた。
「あのニュースで何かを心配されていると聞きましたが、それはあなたの夫ミハイル氏に関してでしょうか。それとも新潟のキャンプに関係する事?」
ハナエはヒミコを見詰めて言った。「断言は出来ませんが、ウラジオストクのテロ事件は公安機関による偽旗作戦を疑わせるわ。」
「ニセハタ?」
「テロ事件を自分たちで起こしておいて、政府を批判する人々をその犯人に仕立てるの。相手がテロリストなら逮捕、拷問、殺害も許されるという社会的な感情を育成して無実の人たちを弾圧するのよ。偽旗作戦はネオソビエト連邦の古典的な政治手法よ。」
「信じられないわ。ニュースでは学校の先生と警備員が死亡したと言ってたわ。それはどう受け止めたらいいの。」
「公安当局が無関係な国民を作戦の為に殺したのよ。」
ヒミコは言葉が出なかった。
「ヒミコ、甘い考えは捨てて。あなたが新潟に関わり続けるつもりなら覚悟が必要だわ。私がアスカさんに伝えたのはそのことよ。機敏に動いて危機を避けるか、それとも状況を理解できずに死ぬか。」
ヒミコの胸に急激に膨らむものがあった。
「私はロシア人が新潟で勝手に振舞うことを許さない。」
「気持ちは分かる。そしてこの基地の科学力も感じるわ。でも軍事力には対抗できない。自衛隊員を退避させるとか現実的な方策を取らなくては。」
「この基地には最強の兵器があるのよ。」
ハナエは無言だった。
「ホントよ。兄がそう言ったわ。」
「もしそうだとしても、新潟の人々は避難する必要があるわ。UNHCRのオコト・アミン氏に事態を報せてすぐにでも行動をとって貰いたいの。」
「少し待って。ハナエさんはニセハタの作戦で新潟のキャンプに軍事的な攻撃があると心配しているのね。でもネオソビエトがそこまでやるかしら。新潟には国連の事務所があり国際的に有名なNGOがいくつか活動しているのに。」
再びハナエが沈黙した。ヒミコは彼女の心の動きが伝わる気がした。甘い考えは捨てろと彼女は言いたいのだ。それがなぜ分らないのかと…。
「ハナエさんの不安が間違っているとは言いません。でもこれから新潟で何が起きるのかを見る必要があるのではないでしょうか。まず先に危惧されるのはハナエさんの夫ミハイルさんの安全です。」
ハナエはそれを心配している筈だった。
「ミハイルさんを守る為に何か出来ることがあったら教えてください。ネオソビエトの国内に潜伏しているのですよね。もし脱出の連絡があったら実現するよう協力します。」
「有難う。でも、いま彼が行動を起こすとは考えられない。息を潜めるしかないのよ。」
確かにそうかも知れないとヒミコは口をつぐんだ。
出しぬけにハナエがヒミコの手を取った。「ヒミコ、正直に言うと私は怖くて堪らないの。」
ハナエの眼に不安と悲しみが湛えられていた。
「公安当局はミハイルを追い詰めるわ。ミハイルとお茶を飲んだ、会話した、それを理由に無関係な人が当局に拘束される。彼らがミハイルの行方を知らない事を承知の上で何日も尋問を繰り返し、拷問する。そのうちに家族が一度も会えないまま行方が分らなくなるのよ。当局は逮捕拘束したのはテロリストミハイルの関係者とだけ公表するでしょう。それが繰り返されたら? ミハイルが長く耐えられるかしら。私はとても怖いのよ。」
ヒミコは絶句した。ハナエの予想があまりにも陰惨な事態を思い描いているように思えたが否定も出来ない。
「子供たちは、ケンイチは何か知ってるの?」
ヒミコはケンイチのいつもの笑顔が消えているのが気になっていた。
「もしかしたらケンイチはイギリスのニュースを見たのだと思う。内容を理解したとは思えないけど、彼は真っ暗な日本海を渡ってから父親のことを強く気に掛けるようになったわ。あの子なりに漠然とした不安を感じているのかもしれない。」
ヒミコはハナエと家族を取り巻く過酷な身の上を感じ、ケンイチが可哀そうでならなかった。
「新潟についてだけどアンナはどう考えているのかしら。」と、ようやく話を変えた。
「アンナは、ウラジオストクの情報を得ていないと言ったわ。だから当局がどう出るか分からない。そしてアンナの新潟の友人たちは状況を見たうえで各人が行動を判断するしかないという意見が多いそうよ。でもね…。」
ハナエはヒミコを見詰めた。
「アンナはこうも言ったわ。少なくとも五千人が太平洋側へ避難するときが来るかもしれない。出エジプト記のように列をなして歩き続けるのだと。その途中、何が襲ってくるか分からない。ヒミコの助けが必要だと彼女は言ったわ。」
ヒミコは想定される事態を考えた。まずテロ事件がハナエの言う偽旗作戦ではなかった場合、新潟が攻撃を受ける可能性は低い。ネオソビエトの当局に一定期間動きが無ければ政府として特に備える必要は無いだろう。
一方でハナエの予感が不幸にも当たってしまい新潟の難民を標的にした攻撃が行われたら、状況は一気に複雑な局面を迎えることになる。実数はともかく一万人とも伝えられた政治難民をそのままにUNHCRが容易に撤退することは難しい。この場合は日本人の自衛隊員も現地に留まることを意味する。攻撃の規模と期間によっては多数の犠牲者が生じてしまう可能性があるのだ。
では攻撃を防ぐ有効な手段があるのか。そもそもその攻撃は何処からどんな方法で行われるのかヒミコには全く分からない。基地には最強の兵器があるとハナエに告げたが、攻撃を防ぐ具体的な手立ては兄から教えられていない。
政府としての対応をアスカと、そして敷島総理と早急に講じる必要があると思われた。
「アスカさんに対応を協議してもらうわ。敷島総理の判断を待ちましょう。私としてはハナエさんの考える最悪の状況を念頭に、難民の受け入れ態勢を検討し準備するつもり。食料の問題一つを取っても簡単な事じゃないけど努力すると約束するわ。」
ヒミコがあえて口にしなかったことがあった。アンナが求める「助け」が避難する集団を攻撃から守る意味ならば、ヒミコは何が出来るかと自問した。飯豊山に臨む喜多方と県境に近い燧ヶ岳にミサイル基地があるが、その対空ミサイルの飛距離は二十キロメートル程だ。新潟の中心部までは届かない。もし攻撃が現実となったらどう対処するのか、兄に相談する事しか思い浮かばなかった。
ハナエが恐れた事態が翌日に新潟を襲った。衛星による監視を依頼していたヒミコはその報せをアースボーイから受けた。旧新潟県庁の建物がミサイル攻撃を受けたというのだ。信じられない思いで衛星画像を視た。十階建てのビルの複数の窓から黒煙が上がっている。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の新潟事務所が攻撃されたのだ。
ヒミコは急いでカミヤに電話した。すぐに繋がり、聞き覚えのある声がした。
「ヒミコか、信じ難い事が起きたぞ。」
「神谷さんは無事なの?」
「無事だ。オコト・アミン保護官も、他の職員も無事だ。電力の関係で上の階を使用していなかったのが幸いした。」
「被害の状況は?」
「情報を把握できていない。」無理もなかった。
「こちらで分かったことは逐一報告します。安全な場所にとどまってください。」
ヒミコはアースボーイに衛星画像の分析を依頼した。「アスカさんに報せるから私にも分かり易く。」と念を押した。
分析の内容はすぐに伝えられた。
「攻撃は航空機から発射された中距離対地ミサイルが使用された。ウラジオストクの南部ウグロ空軍基地から二機のミグ戦闘機が佐渡上空に飛行している。ミサイル発射後二機はすぐに反転、基地に引き返している。航続距離ギリギリの作戦だったのじゃないかな。ネオソビエト連邦の当局は一刻も早く攻撃を世界に知らしめたかったのかも知れない。
注目すべきは航空機の出撃と同時刻にウラジオストクの艦隊基地からミサイル駆逐艦一隻が出航していることだ。数日後再びミサイル攻撃があり、それは短期間で終わらない可能性が高い。かなり深刻な展開が予想される。」
「被害の全容は?」
「ミサイルの着弾は旧新潟県庁と旧市庁舎。今のところ二か所に限られている。」
「市庁舎ですって?」
ヒミコは心臓が冷たい手で触られた気がした。県庁と川を隔てた旧市庁舎はMSF(国境なき医師団)の活動拠点だった。
「アースボーイ、MSFの、えっと誰だっけ、プロジェクトのコーディネーターに電話して。」
ヒミコは看護師のマユミを思い浮かべていた。少し年上で活気に満ちた印象が記憶にあった。彼女は無事なのか。
「MSFのマニエルです。ヒミコさんたった今、日本政府のいわき事務局に連絡したところです。突然に攻撃を受けて、深刻な被害が生れました。診療のさなか、医師のアントニオと看護師のマユミが負傷しました。応急の手当てがされましたがここで治療が継続できるか難しい。」
「マユミは、彼女はどんなケガを?」
「彼女は爆発の破片を足に受けました。アントニオは腹部です。二人が治療を受けられるよう支援してください。」
「そこは今後も危険だわ。あなたたちはどうするの?」
「退避を決断しています。新潟沿岸部のリスクを避けるため、此処を退いて西会津に医療拠点を設けるのが可能か検討しています。その実現には日本政府の協力が必要です。しかし今は何より負傷者の救護が急がれます。」
「拠点の移設については内閣府のアスカから解答があるでしょう。私はアントニオ医師とマユミの治療に協力します。具体的には二人をいわきの国立病院へドローンで運びます。そちらに到着するのは九十分後になるでしょう。ドローンは無人で自動操縦です。搭乗の定員は四人です。ケガ人を横にした場合そちらから付き添えるのは一名に限られます。」
マニエルが謝意を述べた。マユミのケガが気になったがそれはいずれ分かる事だった。
ヒミコはまず敷島の考えを知りたいと思った。政府はどう対処するのか、アスカの声はいつになく緊張して聞こえた。
「敷島総理が決定した事項と基本的な方針を伝えます。」
まず国連に対しては安全保障理事会における緊急会議の開催を要求する。その場でネオソビエトによる新潟への武力行使を最大限の言葉で非難する。
「国連なんてなんの役にも立たないわ。北海道が占拠されたときも…。」思わずヒミコが口にするとアスカが鋭く遮った。
「更なる攻撃の抑止が目的よ。何もしない訳にはいかないでしょう? それにUNHCRが攻撃されたことについて総会を開くよう求めているわ。」
「それは分かるけど、新潟は危機に直面している。カミヤさんが、無事だったのは運が良かったと言ってたわ。」
「国連本部とUNHCR新潟事務所の協議を待って結論を尊重するのが私たち政府の立場。それに先立ち、総理は難民に新潟からの避難を広く呼びかけ、UNHCRの決断を常に支持するとの声明を出している。」
「つまり国連事務所が新潟から撤退するのはやむを得ないという訳ね。護衛隊の国分寺自衛官に政府の方針を伝えます。」
ヒミコは新潟に駐留して国連職員の護衛にあたっている国分寺陸尉に電話した。
「けが人はいませんか。」
「中隊は全員無事だ。」と国分寺が答えた。
「敷島総理は難民へ新潟からの避難を呼びかけています。国連事務所も退避するでしょう。その際は行動を共にしてください。いわきへのルートは旧国道を利用してください。磐越自動車道は雪害シエッドの出入り口で土砂崩れがあり、何より県境の黒森トンネルが天井崩落のため車両の通行が不可能となっています。」
「分かった。」
「そちらの状況はどうですか。」
ヒミコは眼が細い国分寺の顔を思い浮かべながらこれからの彼らの任務の多難を思った。
「国連事務所と阿賀野の北端に装甲車を配置、東と西でサンドイッチの形で護衛に就いている。幾人かに話を聞いたがロシア人たちは各自の判断で行動するそうだ。つまりバラバラに、徒歩で県境を目指すことになる。それで実際に避難が間に合うかどうか分らんが、本隊は国連保護官と国際NGOの関係者と共にあって、分隊、ヒミコに提供された装甲車隊を県境近くの阿賀付近に駐留させ、難民の通過を護衛する予定だ。」
「今回の攻撃の内容はどんな物だったでしょう。」
「戦闘機二機から八発の対地ミサイルが発射され、旧県庁と旧新潟市庁の建物がそれぞれ四発の直撃を受けて大きく損壊し、市庁舎では複数の負傷者が出ている。ミサイルの弾頭は通常の物が使用されたと考えられる。」
「その負傷者の搬送にドローンを向かわせます。何か留意することは?」
国分寺は一瞬黙り込んだ。
ヒミコを不安が襲った。「問題がありますか。」
「ドローンは、携帯型の地対空誘導弾で狙われたら百パーセント撃ち落とされてしまう。」
ヒミコは絶句した。
「問題はそれを所持していると思われる武装集団の動きだ。奴らはここから百キロ以上離れた上越に潜んでいると視ているが、今のところ動きは無い。だが無責任な事は言えないからな。衛星で確認してくれ。もし新潟に向う動きがあれば、ドローンの使用は無謀だ。」
「国分寺さん。負傷した医師は破片を腹部に受けてるの。ドローンを飛ばすしか無いのよ。もし彼らに動きがあれば報せるから接近を阻止してください。」
「よし分かった。その時は新潟市の南西、五キロの地点で迎え撃つ。ドローンは一刻も早いほうが良い。」
ヒミコは大型ドローンが飛び立つのを見送った。搭乗定員が四人だが無人の自動操縦で片道二百キロの距離を飛ぶ。問題は武装集団の動きだ。上越地方にアジトがあるという国分寺の言葉は信ぴょう性があるとヒミコは思った。武装集団が新潟で活動を続けるためには支援と補給が必要なはずだ。それが出来るのはネオソビエトの治安当局と考えるのが現実的だ。そして上越には日本海に臨む大きな港があるのだ。
衛星による監視をアースボーイに指示して、次はアスカと難民の受け入れ対策を検討しなくてはならない。ヒミコは気分としては大忙しだった。
「まず伝達事項です。」とアスカが言った。「明日チャーター便がジパング島から到着する予定です。若干の食料と医薬品その他の資材を運んできますが、同時に二十名のボランティアが搭乗しているとのことです。彼らは私たちの仕事を手伝ってくれます。」
ヒミコは一瞬意外に思った。海外に移住した日本人の中に新潟の外国人難民を援助する余裕がある人々がいるということに軽く驚いた。
「その人たちはどんな人なの?」
「総理のお話ではジパング島で『列島再建』を目指すNPO法人が組織されたそうです。彼らは難民保護に関わるものの日本列島の再建が本来の目標のようです。」
「日本列島を立て直そうとする人たちがいるのね。」
ヒミコは驚きと感動で眼を見張った。
「チャーター機にはNPOの代表者が乗っているそうです。興味があればヒミコさんも一緒に話を聞いてみましょう。」
「NPOの代表者…。イルカさんみたいじゃないと良いけど。」
アスカは続けた。「チャーター機は衛星の管制隊を乗せて明後日に列島を離れます。資材は当面基地で保管してください。」
「難民の受け入れはどうなりますか。」
「残留民住宅の余剰が百二十戸あります。緊急の使用として一戸に一所帯のこだわりを捨て一室一所帯と考えれば千人近い難民を収容できます。これ以外に市内に相当数ある空き家を居住空間に整える計画で、それでもオーバーフローした場合はテントもやむを得ないでしょう。そのテントも、そして食料も国連からの供給を待たなければなりませんが。とにかく状況を見ながら対応していくことになるでしょう。難民の移動が始まればヒミコさんにも手伝って貰います。」
「難民の多くは国外へ亡命を希望するでしょうね。彼らは家族の脱出を待っているわけですが、もう新潟に留まるのは難しいと思えます。そうなればいわきに残る人は少ないかもしれません。」
「状況を見ながら…、やっていきましょう。」
ヒミコは武装集団の動きが気になった。アースボーイに確認すると上越の周辺に動きは無いという。
「彼らが行動するのはミサイル駆逐艦による攻撃が一段落してからだと推測される。」
「ミサイル駆逐艦…! 難民たちをそれほど憎む理由が分からないわ。」
「可能性の一つだけど、絶対的存在である政権に従わない集団が日本海を隔てた対岸に居座っている事が我慢ならないのだろう。」
ヒミコは肩を竦めた。アースボーイの言葉がいつになく感情的な言い回しに感じられた。「我慢ならない、だって。」
突然ハナエがヒミコのデスクへ駆け寄ってきた。「ヒミコ、どうしたら良いの…。」焦燥が顔に浮かんでいる。
「アンナが、私に耳を貸さないの。」
「どういうこと?」
「アンナのご両親がネオソビエトを脱出して漁船で佐渡島に向っているのが分ったの。アンナはご両親が到着するまで沿岸から退避しないと言い出したわ。佐渡から新潟まで小舟で渡るんだけど、監視が厳しくて簡単にはいかない。私はひとまず避難して方策を考えようと提案したんだけど受け入れてくれない。…ヒミコ、ドローンを私に使わせて。」
「どうするの?」
「アンナを連れてくるわ。」
ヒミコは戸惑った。いつものハナエらしくない。
「ハナエさん、落ち着いて。アンナを無理やり連れてくるなんて出来ないわ。」
ハナエは茫然とヒミコを見詰めた。まるで意外な言葉を聞いたかのようだった。その場に座り込むと両手で頭を抱え込んだ。指が細かに震えている。唇が声を絞り出した。
「ああアンナ…。」
ヒミコは傍に膝をついてハナエの肩を抱いた。かといって声を掛けることがためらわれた。
「ヒミコ、私たちは公安の傍受を警戒して通信が出来ていないの。アンナのご両親が佐渡に向っているのが事実かどうか。夫のミハイルが何処でどうしているのか、私たちは何も知らないのよ…。でもそれを知ろうとすると家族に危険が迫るわ。私たちは何も出来ないのよ。」
ハナエの頬を涙が幾筋も流れた。
ヒミコは地下の研究室にいる兄をテレビ電話で呼び出した。ドクター・タケルは新潟での深刻な事態をよそに平然とした様子だ。ヒミコは軽い苛立ちを覚えて言葉を投げた。
「お兄ちゃん、最強の兵器はどうなったの?」
「完成したよ。」
「えっ?」簡潔な返答に驚き、ヒミコは兄を称えるのを忘れてしまっていた。
「地上の搬出棟で待っていて。すぐに送り出すから。」
搬出棟は地下の工場で製造された機器を運び出すコンクリート製の頑強な設備だ。地表からの高さは十メートルを超える。
ヒミコがそこへ駆けつけると搬出口の巨大なシャッターが開こうとしていた。最強の兵器…、期待と怖れで胸が高鳴った。どんな機械なのか、ゴジラのような姿かもと思った。
シャッターが開くと同時に無数の小さな鳥が一斉に飛び出し、矢のように突進してきた。視界が埋め尽くされ、ヒミコは悲鳴をあげそうになった。次の瞬間、数百の鳥が揃って反転し、群れになって空を飛び素早く彼方へ消え去っていく。ヒミコは茫然としてそれを見送った。
「スズメ? 最強の兵器って、スズメ達の事?」
ヒミコには数百羽の鳥のような飛翔体が地下研究室の棚に並んだスズメ達と同じに見えた。
あまりにも意外だった。「あの小さなスズメ達が最強の兵器?」
信じられない思いで搬出口に眼を戻すと、レールが伸びた床の奥から誰かが歩いてくる。若者の顔だ。すぐに素裸なのが分かった。ヒミコは無意識に下半身に眼を走らせて、すぐに理解した。若者は性別の無い存在、ロボットだった。
ロボットはその体形には大きすぎる出口で立ち止まり、ヒミコを見ている。ハイティーンの年齢を思わせる整った顔立ちは、製作者のデザインに過ぎないが、好感を抱かせるには十分だ。外見と心理の関係はある意味で単純だ。
「あなたは誰?」とヒミコが声を掛けた。
「ボクの名はスサノオだよ、ヒミコ。」
「スサノオ、あなたが最強の兵器なの?」
「ヒミコが望めば。」
ロボットは謎めいた言葉を口にして無邪気ともとれる笑みを浮かべた。
(つづく)




