(九)
部屋のベッドに腰掛けて観覧車の周りに散りばめられたイルミネーションを眺めながら、顕也はしばらくシャワーの音を聞いていた。気恥ずかしさのないその気配だけでも、美希がこのような空間に身を置くことに慣れていることが何となく想像できる。きっと彼女は彼女が愛した男とこんな場所で過ごすような経験も含めて、かつて様々な出会いと別れを繰り返して来たのだろう。美希との距離が近くなれば、そんな過去にもっと嫉妬するのではないかと思っていたのに、偶然とはいえいざこんなホテルの一室で彼女と二人きりになっても、そんな感情はまったく湧き起らないのが自分でも不思議だった。空きっ腹に入れたお酒のせいなのかもしれない。あるがままの彼女を受け入れられる自分が確かにここにいることを実感していた。今夜このままこの部屋で彼女といっしょに過ごせたらどんなに素晴らしいだろう。
しかし、その妄想はすぐに打ち砕かれた。
「先生の好きな方でいいよ。ドレス取ってくれる?」
少しだけ開いたバスルームのドアから、美希が腕だけ出して指図する。胴にバスタオルだけ巻いたままバスルームから出て来るはずもなく、期待外れだが予想通り、それはそれで心地良い。
「はい、どうぞ。」
顕也がエンジのドレスをハンガーから外して手渡す。
「ありがとう。あたしもこっちの方がいいと思った。気が合うじゃん。」
「手伝おっか?」
「やだー。おじさんみたいなこと言わないでー。」
「ははは。」
美希もまたこの状況を楽しんでくれていることが、顕也には何よりだった。シャワーの音に代わって、汚れた服を袋に入れたり渡したドレスが擦れたりする音がドア越しに聞こえてくる。いかにも似合いそうなドレス姿の美希を想像してにやける自分は確かにおじさんだと思った。
と、次の瞬間、徐ろにバスルームのドアが開いてエンジのドレスを着た美希が外に出て来てくるりと背中を向けた。
「やっぱり手伝って。」
ドレスのファスナーは背中の中程まで上がっているが、純白のブラジャーの紐が直接背中に横一本見えている。
「一番上のホックを付けて、ファスナーを上まであげてくれる?」
「触っていいの? ドキドキするね。」
背中の産毛が見えるほど近い距離でその作業を行うのは、言葉以上に本当にドキドキした。無言で作業するのも妙に気まずい。
「きれいだね。」
顕也は、思い切ってそのまま後ろからドレスに包まれたほっそりした美希の体を抱きしめた。沈黙が数秒続いたであろうか。
「ありがとう。」
そう言うと同時に、彼女は顕也の腕の中でくるりと顕也の方に向き直ったかと思うと、正面から逆に顕也を抱きしめた。そして、離れ際に顕也の頬を両手で挟んで顔を引き寄せると、その左頬にキスをした。美し過ぎるからであろうか? 彼女の一連の動作には、顕也が自分でも驚くほどに男の本能に訴えるものがない。美しさ意外に、もっと彼女を抱きしめていたいと微塵も感じさせない理由に思い当たることはなく、男として好きな女性に対して一瞬でもそういう精神状態に陥ることが、顕也にはただ驚きであった。迂闊に抱きしめたことで自分のどこかが壊れて、もう元には戻せないことを直感した。
「さっ、行こ。」
バスルームの鏡の中の自分を見つめながら美希が言う。
「今日はちょっと飲んだ方が良さそうね。」
美希は備え付けのティッシュペーパーを二回抜き取ったかと思うと、反対の手に持っていたバッグと汚れた服の入った紙袋を顕也に手渡して、そのまままっすぐ部屋の出入り口に向かう。部屋のドアを開けて廊下に出て初めて、美希は顕也に向き直ってちょうどドアに隠れる位置で顕也の頬の口紅を拭き取った。されるがまま突っ立っている顕也とは対照的に、悪戯っぽく微笑む美希は、口紅の付いたティッシュペーパーも顕也に手渡してさっさと廊下を歩き出す。
閉める間際のドアの隙間から、顕也はもう一度窓越しの横浜の夜景をちらりと振り返った。この部屋からの眺めを一分でもいいからいっしょに楽しみたいと思っていた顕也には、振り返ることなくここを立ち去る大胆な美希が少し残念だった。
この後もいつもの調子でお酒を飲みながら、美希が顕也の話を的確に引き出した。それでいて美希が寡黙かというとそうではない。美希の誘導する会話には、いつも当たり障りがないにも関わらず、誰もが興味を引くような情報に溢れていた。今までもそんな会話だけで十分お酒が進んだし、美希が顕也について詮索するような話の振り方はほとんどなかった。異性との交際の経験が少ないように見てとれる自分への気遣いなのかもしれないと薄々感じてはいたが、美希自身が核心を濁す話し方をしていることは明らかだった。
ただ、この日は美希の自宅ではないことと彩乃がいないこと、そして彼女自身の宣言どおり、いつもより多少多めのお酒を飲んだことが、いつもとは違った。それがどう作用したのかしなかったのか、お店を出た後に美希に誘われて駅とは反対方向のベイブリッジを望む海沿いの公園を歩いている時に、その話は突然始まった。
「男って、勝手だよね。」
来た道で見せたように、遠くを見る横顔のままで美希がぽつりと言った。
「勝手? どういうところが?」
「先生は、あたしのこと、どこまでわかってるの?」
「そりゃあ、いっぱい知ってる。まずはその名のとおり、希なくらい美しくて数々の男を虜にしてきたことかな。」
顕也としては、今までにないもっとも上出来なウィットのある受け答えだと思った。立ち止まって美希の目を覗き込んでそう言ったくらいである。
「そういうところが勝手かもね。ちゃんと話してるんだから、ちゃんと聞いて。」
美希の目が真剣だった。真剣というのとは少し違う。怒っている訳でもない。そう、あの時の目だ。彩乃の前で患児の母親になる時の、あの目だ。
「じゃあ、あんまり真剣でも引かれちゃうから、冗談半分に教えてあげるね。あたしの前の旦那のこと、知りたい?」
そういう話になるとは考えてもいなかった顕也ではあったが、今まで聞かなかっただけで、いつも色んな妄想交じりの憶測が心の中に燻り続けている事柄ではあった。どちらかとも言わず、すごく聞きたい。
「別にどうでもいいけど、聞かせてもらえるなら、聞きたいかな。」
「じゃあ、ずばり質問するけど、何で別れたと思う?」
「浮気したとか?」
「そんなのでいちいちギャーギャー言ってたらみっともないわ。言いそうにもないでしょ。」
「確かに。」
「あたしの方が、彼と彼の家族のちょっとした会話のやりとりを聞いて、その瞬間から急に彼とやっていくのは無理だと思ったのよ。」
「どんな内容?」
遠くを見る美しい横顔が、やはり目だけ母親のまま言葉を絞り出す。その唇がわずかに震えているのを顕也は見逃さなかった。
「彩乃のことよ。」
今までも立場上そういう話題に触れる機会があり得ると薄々感じてはいたが、自分の子が口唇裂をもって生まれてくることが想像以上に大きな精神的ダメージを母親たちに与えていることを直感的に気付かされて、顕也は後頭部を棒で殴られたくらいにいっぺんに酔いが醒めた。医療者として、医師として、あまりにも全然駄目過ぎるではないか。目の前に患者の家族以上の付き合いをしている女性のことを何一つ理解していなかった自分が情けなくて、どう返事を返していいのかもわからない。
「彼は彼の母親にこう言ったのよ。かわいそうで見ていられない、って。あんな奇形があるくらいなら、お腹にいるときにエコー検査でさっさと見つけて早く教えて欲しかった、って。」
二人はその場に立ったまま、嗚咽交じりに美希の話が続いた。
「あんな奇形って何なの? 彼の母親もそんなこと言う息子に同調して挙句の果てには、『あなた若い頃に煙草たくさん吸ってたんでしょ。』なんて言ってきたりしたわ。そもそも、彼は家柄がよくて立派な大学出たりしてたから、彼の両親が最初からあたしとの結婚に反対してたのはわかってたの。そしたら彩乃が生まれた瞬間から、ほら見たことかと言わんばかり。一番ショックだったのは、彼はあたしが傷付いてることなんてまったく見抜けないどころか、親の方に付いてあたしと彩乃から距離を置くようになったの。彩乃のことなんて一回しか抱っこしなかったと思う。」
頭が真っ白になったままの顕也には返答しようがない。しばらく沈黙が続いた後、沖で汽笛が鳴ったのをきっかけに、いったん途切れた話が再び続いた。
「三か月くらいで手術をしたときには、もう彩乃と二人で暮らしてたわ。手術のことなんてほとんど何も覚えていない。彩乃を産んだ後から数年間、あたしはボロボロだった。でも、じゃあ、彩乃のことがかわいそうかって、そんなこと一度も感じたことないわ。この世に出て来た瞬間から、かわいくてかわいくてどうしようもなかったの。ごめんね、ごめんね、こんな目に合わせてごめんね、っていつも思ってたけど、かわいかったのよ、本当に。そのうち口唇裂も見慣れてくると、あれはあれでかわいいのよ。手術し終わって違う顔になって唇があんまり動かなくなったら寂しいくらいだった。今でも同じ。どんな彩乃でも、大きくなった彩乃でも、彩乃のことが大好きなの。入院中に先生に悪態ついてても、かわいくてかわいくて仕方ないのよ。」
感情の高ぶる美希の口からは、彩乃への思いが涙とともに次々と溢れ出た。涙はともかく、美しい女性の鼻から糸を引いて長く伸び落ちる鼻水を、顕也は初めて見た。美希は、泣き笑いながら顕也のズボンのポケットを探って、さっき口紅を拭き取ったティッシュペーパーを引っ張り出した。それで鼻水を拭いながら、最後に顕也に問いかけた。
「あたしが男について心に決めたこと、聞いてもらえる?」
「ああ、聞くとも。」
顕也にとっては先の話の内容が衝撃的過ぎて、もはや何を聞かされても驚かないと思った。
「あたしが心に誓ったのはね、お家柄のいい男と頭のいい男は信用しない、ってこと。」
「家柄と頭・・・」
顕也が自分に当てはめてみるように美希の言葉を繰り返して呟く。しかし、やはり顕也には、彩乃の口唇裂が原因で母子家庭になったという事実があまりにも重大過ぎて、美希が最後に言った言葉の意味を考えることができない。この一年、男として身勝手に美希に近付いていたのであろうか? 医学部を卒業して三年半、医師として患者の気持ちに寄り添うことがないまま悪戯に手術技術の上達だけを追い求めていたのでろうか?
遠くでまた無機質な汽笛が鳴る。言いたいことを言ったからなのか、多めに飲んだお酒の酔いが回ってきたからなのか、鼻歌を歌いそうなくらい機嫌のよい美希と対照的に、ある日突然果てしない荒野に置き去りにされた少年のように心が不安でいっぱいになった顕也は、美希の後ろに付いて黙って駅に向かった。
「今日はありがとね。」
恋人たちで溢れ返る桜木町駅の改札で美希が言う。
「心配しないでね。先生は頭がいいけど特別よ。」
去り際に、美希は再び顕也の左頬にキスをした。そのキスも自分を特別だと言ってくれる彼女の言葉も、顕也の心にほとんど響かなかったのは言うまでもない。




