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(八)

 四月になって、顕也の仕事は一気に増えた。三月の年度末に大学の教授から連絡があって、週に一日だけ大学で研究をやるように指示されたからだ。一般的に、研修医を終えて自分の専門分野にしたい診療科の大学医局に入局すれば、その医局が医師を派遣している関連病院を一、二年くらいでローテートしながら技術を磨いていくのであるが、入局二年目を迎える顕也に異動はなく、こども病院に残留になった。

 何年もかけて結果が出るかどうかもわからない研究よりも臨床の技術を磨きたい、とくに外科であれば手術の経験を積みたいという若手医師が大多数を占めるという状況が、手術直後からすぐに結果が見えるという特殊性のある形成外科ではとくに顕著である。大学で研究をやりたい若手の形成外科医などいるはずもなく、たまたま後藤の命令で大学の研究室に出入りしていた顕也をそのまま研究の方に引き込みたいという教授の意向があからさまな人事であった。

「村沢君は優秀だから、臨床じゃもの足りなくなるよ。期待しているから。」

 教授にそう告げられたのが三月の半ばで、どうやら顕也の意思とは無関係に四月から毎週水曜日に大学で研究することが決まっていたようであった。当初は週に一回大学に出向くのも息抜きになっていいのではないかと思ったが、気になる問題があった。水曜日はこども病院の手術日だったので、手術に関わることが減ったのである。もともと自分が執刀できる手術はほとんどないのだが、助手としてでも手術に立ち会えば少しは技術が向上しているはずだという安心感から引き離される思いが徐々に大きくなっていった。

 後藤はそんな顕也を鋭く見抜いて、一年目の時よりも多めに手術を執刀してみろというようになったが、相変わらず研究内容の要求もそれなりにハードルが高いので、以前よりも手術のためにあらかじめ勉強する時間が減ってしまった。

「手術のための勉強なんてらないよ。教科書なんて読んでも仕方ないから。」

 これが後藤の口(ぐせ)だった。理論をこと細かに覚えることとそれを実践してみせることはまったく別物で、手術の理論をよくわかっている外科医が必ずしもすばらしい手術ができるとは限らないのはレーシングカーを開発するエンジニアが優れたドライバーになるわけではないのと同じだ、というのが後藤の持論であった。その乱暴な持論とは正反対に、確かに実際の後藤の手術は、とても真似まねができないような複雑な操作を豊富なアイデアで補いながらいとも簡単にやっているように見えた。

 顕也には、後藤に手術をやってみろと言われて手取り足取り言われるがままにやってみても、こんなにつたないのに大丈夫だろうか、と感じることがほとんどであった。結果に大きな差が出そうと後藤が感じれば、途中から取り上げてやってしまうのであるが、そんな時はいつも、患者さんにとっては最初から後藤がやった方がよかったのではないか、という思いを強くした。その思いはあせりの裏返しでもあった。手術の技術向上を日々実感できないまま研究など続けている場合ではないのである。

 週一回の大学での研究も中途半端であった。後藤の指示に従って検体を整理してデータをそろえることに精一杯で、それ自体に興味が湧かないばかりか、自分が何か他の研究をやってみたいと感じることも一切なかった。研究室には毎日研究に没頭して何か後世に残る偉大な発見をしてやろうとギラギラしている連中が大勢おおぜいいるのである。顕也が週に一回通ったところで、百歩(ゆず)ってわずかでも医学に貢献できるような一番(はし)っこの未解明な小さな問題を解き明かすことさえ不可能に思えた。

 さらに顕也の気持ちを憂鬱ゆううつにさせたのは、この形成外科の医局に今の顕也と同じような境遇を通過して臨床で活躍する上級医がいないことであった。後藤はみずからが研究室とは無縁だと開き直っており、教授は昔やっていたとされる研究と今の臨床の専門性に関係を見出みいだすことはできず、この医局から基礎研究らしき論文が出たことがないという事実は、教授以下の誰も触れてはならない最大のタブーであった。何か新しいことをやろうという前のめりな意気込みがなければ、この医局で研究などしてはならないのである。手術の技術が一向いっこうに磨かれないまま土日の空き時間まで犠牲にしながらやるほどの意味が、どこにあるだろうか? 先の見えない生活をいられる形成外科の医局に対する顕也の不信感は、徐々に大きくなっていった。


 以前にも増して時間がとれなくなった顕也が美希と初めて二人きりでデートしたのは、彩乃が入院する病棟で初めて言葉を交わしてから一年もった頃だった。病院の正面にはもう去年と同じクリスマスツリーがあった。早い一年だったが、美希との関係に少しは進展があったのかもしれない。

「今出たところ。一時間後くらいに桜木町で大丈夫だよ。」

 一年前にいっしょに見上げたクリスマスツリーを見上げて歩きながら、美希に電話で待ち合わせ場所を伝える。この日は金曜日で、仕事の後にクリスマスのイルミネーションを見に行くことになっていた。彩乃が習い事を始めたらしく、習い事の後は近所に住む祖父の家で夕食を食べて帰るというので、二人で会えることになったのでる。美希の自宅で月に一度くらいは三人で食事するだけという間柄のまま半年以上が経過し、この日ようやく初めて二人で会うことになった。特別な日になる期待が少しはあった。

 今まで美希は、彩乃の前だからすきを見せようがなかったのであろう。二人で会うことをOKしてくれているのだから、もっと自信を持っていいはずだ。あんなに何度も自分のことを必要だと言ってくれていたではないか? 彩乃の前だと言えなかったことを、格好悪くても今日は自分も言おう。しかし、どこでどんなタイミングでそんな雰囲気になるのだろうか? 桜木町に向かう途中、普通の男が初めてのデートに臨んでいだくごく当たり前の期待をふくらませながら、顕也は日々の忙しさで失いそうになっていた健全な自分を取り戻しているようにさえ感じていた。

「あら先生、早いじゃない。」

 桜木町駅に十分ほど前に着いて改札口から出てくる人の流れを目で追っていた顕也を柱の陰から見つけた美希が、突然後ろから話かけてきた。美希の手がコートのポケットに突っ込まれた顕也の手を引き抜いて、そのまま二人は腕を組んだ。顕也はまだ美希の何を知っているわけでもなかったが、彼女のこのような慣れた仕草に身を任せることはすっかり覚えていた。

「今日あたしは何時まででも大丈夫よ。彩乃がね、『ジイジの家に泊まってあげよっか?』だってさ。笑っちゃうよね。」

「さすが彩乃ちゃん、大人だね。」

 どう考えても小学校二年生が母親といたくないはずはないので、後ろめたさはあったが、美希に調子を合わせるしかなかった。

「彩乃ちゃんて、何もかもわかってるんじゃないかって思わせる時があるんだよね。」

「そうでしょ。自分も今日は、お言葉に甘えさせていただきますって言うしかなかったよ。おかしいよね。」

 すれ違う人たちから見て、海沿いのお洒落しゃれな商業施設の飲食店に向かう二人は仕事帰りのOLと苦学生の彼氏くらいに見えたであろうか? 季節的、場所的に、色んなカップルがどこに向かうともなく、身を寄せ合って語り合ったり、クリスマスのイルミネーションを眺めたりしている。それぞれのカップルが今日ここでデートすることになった背景など知りようはないが、それぞれの見た目だけは隠しようがない。すれ違いざまのカップルの一瞬の視線が、貧乏学生のような顕也と腕を組む、抜きん出て容姿の整った美希に何度か投げられるのが顕也にもわかった。

 実は、顕也が駅に早く着いたのは、レストランを予約しておいたからである。顕也は今までレストランを予約して女性と食事をした経験がなかった。女性を食事に誘うほど食に対する欲も知識もないし、そもそも東北の小都市に予約しなければ食事できないレストランなどなかった。しかし、今日は特別な日かもしれない。この日にレストランを予約しないでいつするんだという神様の声が聞こえたのである。予約しているので遅れてはいけないと、週末にでもできる書類書きなどの仕事はすべて放棄して早めに出て来たのであった。

 立ち止まったり歩き出したりするたびひじに当たる美希の胸が、予約の時間に少々遅れて入店しても堂々とお客(づら)してゆったり席まで彼女をエスコートすればいいだけだということさえわからない顕也を、ますます落ち着きなくさせる。ぎこちないデートもやがていい思い出になるのかもしれないなどとは尚更なおさら考えられない。歩きながら時々立ち止まってイルミネーションを見上げる美希の美しい横顔に見惚みとれることに精一杯であった。その横顔はイルミネーションを見ているようで、不意にもっと向こう側の遠くを眺めるような表情を見せる。そんな仕草こそが、予約してあるレストランに行くことを告げる男の方に向き直って見せる女の微笑ほほえみの価値をいっそう高めている、という真実など到底とうてい気付きようがない。


 レストランは、大きなガラス越しにすぐ目の前の観覧車を望むホテルの二階にあった。意外にも、美希も初めて来るというので少し安心して席に着いた顕也が、さっそくビールを頼んだ。気取ってシャンパンのメニューを見ていた顕也に気をつかった美希が、いつものでいいよ、と言ったからだ。美希はいつも決まってビールを飲んだ。もともと顕也には酒の好みなどなかったが、美希はうんと冷えた生ビールを好んだ。この夏も美希の自宅にお邪魔するたびに、冷凍庫で凍らせた小さめのジョッキに缶ビールをそそいでくれた。最近では顕也も缶ビールはその方が断然美味(おい)しいと感じるようになっていた。

「ビール冷えてるかな?」

 観覧車の方を眺めながら、ビールが心底楽しみだとでも言いたそうに美希がつぶやいた。

「外が寒いから冷えてるんじゃないかな?」

 食事のメニューを一生懸命見ながら顕也が言う。外を眺め続ける美希と対照的に、顕也は膨大なメニューから目が離せない。

「あたしはビールがあれば食事は何でもいいから、先生が好きなの頼んでね。」

 美希がそう言い終わるかどうかというタイミングで、ただでさえこのような場に慣れない顕也にとっては大変な災難が降りかかった。若い女性店員が運んできたトレーからすべり落ちたビールジョッキが、突然二人のテーブルの上に横倒しに転がってきたのである。さらに悪いことに、ちゅうを舞った黄色の液体は美希の胸元に向かって飛び散り、ブラウスとスカートがずぶ濡れになってしまった。店内が一瞬静まり返り、客が全員こちらを向いているのがわかる。あまりの事態に顕也は声も出ない。ずぶ濡れの美希がこのままここで食事を続けることはどう見ても無理だ。初デートの矢先に何てことだろう。

「申し訳ありません。」

 転がったビールジョッキをトレーの上に回収する若い女性店員にとっても不測の事態のようであった。赤面してあたふたとただ申し訳ありませんを三回くらい繰り返したところに駆け寄ってきた店長らしい年配の男性店員から布巾ふきんをたくさん持ってくるよう指示されて初めて、女性店員が行動を開始した。男性店員が床にひざまずいて、席から立ち上がった美希といっしょに洋服の被害状況を確認する。

「本日は大変申し訳ございません。このままではお食事ができませんので、お着替えの準備をさせていただきますが、よろしいでしょうか? クリーニングチケットもご用意させていただきます。」

 毅然きぜんとした男性店員の対応に、むしろ美希は面白いことが始まったとでも言いたそうにニコニコし出している。

「先生ってほんと不思議な人だね。いちいち考えられないことが起こるわ。」

 駆け付けた他の女性店員にホテルのバスローブを羽織らせてもらう美希は、ちょっと楽しそうである。

「別に自分で起こしているわけじゃなんいだけど。」

 そう言いながら顕也も満更まんざらでもない。さっきまで時間を気にしながらこのビールまみれの席を目指していた自分を、腹の底から笑ってやりたい気分になってきた。苦学生の男とバスローブの女は、観覧車をバックにして突っ立ったまま、テーブルに置かれたトレーの上で無事倒れずに残ったもう一つのビールを黙って半分ずつ分け合って一気に飲み干した。

「よく冷えてんじゃん。」

 美希が真顔で言う。

「でしょ。」

「おいしいビールだわ。今日はありがとう。バッグとコートを持って来てくれる?」

 二人は最初にビールを落っことした女性店員の誘導で上層階のホテルの一室に案内された。室内には結婚式用のものと思われるエンジ色とこん色のフォーマルドレスが二着用意してあった。

「どうぞシャワーをお使いください。こちらにお召し物を入れる袋をご用意しました。中にクリーニングチケットも入っておりますのでご確認ください。」

 お辞儀じぎしながらホテルの紙袋を両手で美希に手渡した女性店員の丁寧ていねいな対応は、今の二人にとっては絶妙な気配りにも及んだ。

「お着替えの間、お連れ様にはお部屋にいてもらっても大丈夫でしょうか? すぐにお席のご準備もできますので、そちらでお待ちいただいても大丈夫ですが・・・」

 美希がクスクスと笑い出したのをきっかけに、三人は顔を見合わせて声を出して笑った。顕也は、やはり彼氏と彼女には見えないのだろうかと一瞬複雑な気分になったが、この状況もまた美希にはお店に入った瞬間からお見通しであったに違いないと納得してしまうくらい、ガウンを脱いで濡れた胸元をあらわに横浜の夜景を見下ろす美希の姿は美しかった。

「好きにしなよ。いるんだったら見ちゃだめよ。」

 美希がそういうと、女性店員は顕也の意思も確認しないまま再びペコリとお辞儀じぎをして部屋から出て行った。

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