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(七)

 学会発表、手術、当直バイト、研究、山のような書類など、深夜と土日をぎりぎりまで使ってもぎりぎりにしか達成できない業務の中で、年が明けて初めて美希と会ったのは二月の半ばであった。バレンタインデーでお菓子を作るから家に来てほしいということだった。それまでも美希から定期的に連絡はあったが、本当に忙しいので断り続けていたのである。そこまで忙しいかと自問してみると、美希がひとり身であれば土曜日の夜などには時間が作れる日はあったかもしれない。いや、むしろ自分から何とかして時間を作って食事にでも誘ったかもしれないとも思う。しかし、うまくいけば男として美希を受け入れたいと勝手な妄想を繰り広げる一方で、娘と暮らす美希からの誘いを可能な限り受け止めるふところの深い男を積極的に演じることには明らかに無理があった。すぐに破綻はたんすることが目に見えているので、顕也の方から進展を目論もくろむことを避ける他なかった。

 クリスマス以来二回目に訪れた美希の自宅は、前よりも少し散らかって見えた。ブーツとハイヒールがシューズクローゼットに入り切らずに玄関ドアの近くまで並べられていて、その上にたった今彩乃が脱ぎ捨てたスニーカーがひっくり返って止まった。前と同じように彩乃に導かれて居間に入ると、美希はエプロン姿のままダイニングテーブルの上に鏡を置いて眉毛まゆげを抜いている。

「先生、お久しぶり。忙しいのに来てくれてありがとね。」

 顕也の方をちらりと見てまた鏡をのぞきながら美希が挨拶あいさつをする。

「お邪魔します。相変わらず・・・すごいね。」

 顕也が返事に少し困って答える。

「すごいって何? やっぱり久しぶりに会うのに眉毛まゆげ抜いてたら幻滅げんめつするよね。ごめんなさい。」

「そっ、そんなことないよ。美希さんの独特な雰囲気に圧倒されただけで、こちらこそ、すごいなんて失礼だよね。ごめん・・・」

 実際には、久しぶりに美希の容姿を見てやはりとてつもない美人であることに驚いて、咄嗟とっさに出た言葉だった。独特な雰囲気などではない。あなたくらい綺麗きれいな女性を自分は今まで間近で見たことがないという意味である。最初から相変わらずきれいだねと言えばよいのであるが、そんな気のいた言葉が咄嗟とっさに出るくらいなら何も苦労はしない。笑って誤魔化ごまかす顕也を、美希は少し冷たくあしらった。

「会いたくて来てくれてるなら、まず会いたかったって言うのよ。」

 そう言いながら、美希はスクッと立ち上がると、突っ立っている顕也につかつかと歩み寄って顕也の顔をまっすぐ見つめて言う。

「私はすごく会いたかった。」

 口調が厳しかったが、目が笑っていた。彼女の誘いどおりになかなか遊びに来られなかったことに対する仕返しのお出迎えだった。

「あっ、ありがとう。もちろん、自分も会いたかった。」

 顕也の棒読みのようなセリフを、彩乃が横で聞きながらいつものようにクスクス笑っている。

「ありがとう。じゃあ、そこに座って。今日は土曜日だから当直あるんでしょ? 彩乃、冷蔵庫から朝作ったの出せる?」

 美希がエプロンを外しながら彩乃にお茶の準備を指示する。

「今日は当直ないよ。」

「えっ、そうなの? じゃあ、お酒でいいじゃん。」

 本当に驚いたような声を上げて、美希が何かを考え始めた。

「先生、夕食もいっしょにどう? 私は仕事休めるかどうかわからないけど、こいつはいつも一人で食べてるから、いっしょに食べてあげてもらえたらうれしいんだけど。」

 顕也にとってもうれしい誘いだった。ここ数年、病院で夕食をとるのが当たり前になっている。当直バイトのない土日の夕食の時間に自宅にいたとしても自炊することはなく、三食ほぼ外食の生活になっていた。コンビニの弁当でもファミリーレストランでもない夕食だけで素晴らしいのに、美希が少しでも長く自分に自宅にいてほしいと言ってくれている。

 顕也のOKの返事を待つことなく、美希はちょっと難しい顔をして携帯電話を手に取り、ダウンコートを羽織って玄関から出て行った。会話の内容は聞こえないが、美希が職場仲間に自分の体調が悪いことを伝えているのがわかる。急な交代を無理に頼まれた職場仲間がしぶしぶ引き受けてくれた様子だった。淡々(たんたん)とお茶の準備をする彩乃がそれを察知して、小さな声で「やったー」とつぶやく。部屋に戻ってきた美希が彩乃と二人で小さく万歳ばんざいしながら顕也に言う。

「今日、仕事、休むから。」

「ありがとう。うれしいけど、自分のために休んでくれるのは申し訳ないと思っちゃうね。」

「いいのよ。気にしないで。もともと、土曜日はたいして忙しくないし。」

 若さゆえ盲目もうもくによって、美希の単純な厚意をあるがままに受け入れている自分に気付くはずもなく、顕也は美希というただただ美しい女性の気持ちが自分に向けられていることに心をおどらせた。


 そうするのが当然であったかのように、この日顕也は美希の自宅で夜まで家族のような時間を過ごした。夕食の後も、美希とほろ酔いで他愛もない会話を何時間も続けた。小さい頃にオタマジャクシをお風呂に泳がせて怒られたこと、高校時代に山岳部の友人と学校の裏山でテントを張って酒盛りをして停学になったこと、大学の臨床実習で東北弁の高齢のお婆ちゃんから病歴を聞き出す時に看護師さんが通訳してくれたこと、大学時代の彼女は遠距離になったまま自然消滅して今は彼女がいないこと、彩乃が時々口をはさむとはいえ顕也がこれほど一人を相手に会話を続けたことは久しくなかった。自分が普段から誰かと積極的に話をするのを楽しむタイプではないことを自覚してはいたが、その点、美希は聞き上手だった。美希自身が話をしない訳ではなく、彼女の振る話題に導かれるままにお酒のいきおいを借りて大袈裟おおげさに話すことが心地よかった。

 美希自身は、丸山さんの結婚式の二次会で飲み過ぎたからと、顕也のペースに合わせているようであった。いつまでっても酔うような素振りは微塵みじんもない美希が繰り出す会話の内容からは、彼女が医療関係はもちろんあらゆる分野にかなりくわしいことがわかった。話の引き出しが実に多く、その業界の人間でないと知りようがないようなことまでうそか本当かわからないような口振りで話すときには、顕也はちょっと驚いて酔いがめそうになった。

 この日もまた美希が単なる美人ではないという思いを強くしたのは言うまでもなかった。だから今日のことを覚えていないような飲み方をするのはもったいないという思いもあって、少しひかえめに飲んでいたのかもしれない。夜九時過ぎにそろそろ帰り支度じたくをしようという時、彩乃の手術の経過をここで診てほしいと言ってきた美希の真剣な顔付きにも、顕也はいっぺんに酔いのめる思いをした。

「腰の骨採ったところがかゆいっていうのよ。口の中は問題ないと思うけど診てあげて。彩乃、こっちに来なさい。」

 さっきまでの饒舌じょうぜつな美希とは打って変わって、ふだん病院で毎日のように大勢おおぜい会っている、一心いっしんに我が子を思いやる真剣な母親の一人がそこにいた。

 床に寝そべって顕也がクリスマスにプレゼントした色鉛筆で去年のカレンダーの裏に絵をいていた彩乃が、色鉛筆を握りしめたまま無表情に顕也の足元に寄って来て、アーと口を開けた。とくに問題はなさそうである。

「じゃあ、イーってして。」

 顕也がいつもの病棟処置と同じ要領で上唇うわくちびるめくり上げる。そのまま腰もチェックする。病棟で抜糸して以来だ。少し傷痕の赤みがあったが自然な経過である。

「問題ないかな。腰のところは術後半年くらい赤みが続くのがふつうだから、白くなってくればかゆみはなくなるよ。」

「よかったじゃん、彩乃。かゆいのはそんなもんってことだよ。」

 美希が本当にほっとしている表情で言った。

「あと、今回の手術とは関係ないかもしれないんだけど、鼻の形ってもうちょっとよくなるんだよね。」

「手術すればね。」

「手術した方がいいの?」

「そうだね。自然な経過で成長とともに良くなっていくことは、あんまり期待できないかな。将来的に鼻を左右対称に近付けてあげる二次修正術をやるのがふつうかもね。高校生か大学生くらいで修正術を受ける人が多いけど、非対称がそこまで気にならないから受けないという人もまあまあいるよ。」

「そっか、手術か・・・」

 多くの母親と同じように、美希もまた彩乃がいずれ手術になるとは思っていなかったようで、複雑な表情を浮かべている。

「先生がやってくれるんだよね。」

 思ってもみなかった言葉に顕也は驚いた。同時に先日初めて執刀した口蓋裂こうがいれつの手術を思い出していた。同じような鼻の二次修正術は助手として四、五回見ているが、乳幼児期に行われる初回の口唇(こうしん)形成術や口蓋(こうがい)形成術よりもずっと感覚的で理論に乏しく、大半は経験にのっとって行われている手術という印象しか残っていない。今の自分がその手術をメインで執刀するまでの道程みちのりを想像しただけで気が遠くなった。

「今の自分じゃ執刀できないけど、彩乃ちゃんが大きくなるまでに腕を磨いとかなきゃね。」

 顕也は正直に自分の気持ちを言った。

「じゃあ、頑張ってね。期待してるから。」

 軽い調子で美希が送ったエールは顕也の漠然とした不安を察するものではなかったが、母親として本気で彩乃の鼻の二次修正術に極上ごくじょうの結果を求めるものでもなかった。限りなく何の含みもない美希のその言い方は、彼女こそが、これだという仕事に打ち込んで自分なりに納得のいく結果を追及する男の生き方を女性らしい立ち位置で温かく見守ってくれる一面を兼ね備えた人であると、顕也に勝手に思わせてしまうには十分だった。

 まだ足元に散らばっている彩乃の絵を踏まないように、顕也は玄関に向かった。彩乃は何も気にせずその絵を踏んづけて窓(ぎわ)のソファーに置かれていた顕也のダッフルコートを持って来てくれる。

「ぜーったいまた来てね。いっしょに絵かいてねー。」

 玄関まで付いて来てニコニコしながらそう言ってくれる彩乃とは対照的に、また連絡するね、と居間で片付けをしながら美希が言うのが遠くに聞こえた。

 ペースは遅くてもそこそこ飲んだつもりでいたのに、帰り道はすっかり酔いがめて、自分の未来に希望をえがこうと思いを巡らせた。腕を磨いてたくさん手術を執刀して患者さんに満足してもらうことを生業なりわいとする、それが今の自分のえがく将来像である。経験を積めば口蓋裂こうがいれつの手術も鼻の二次修正術も必ず上手うまくこなせる日が来るに違いない。そう信じるしかない。

 走り出した電車の窓から美希の自宅アパートがあるあたりを眺めながら、いつか本当に彩乃の鼻の二次修正術を自分が担当してあげられるように、できる限りの努力をしようと本気で心に誓った。

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