(二十七)
非常に困ったことがもう一つあった。いつもどおり明日の約束もないまま病室を後にした顕也は、帰り道で大いに悩んだ。十日後に彩乃の結婚式を控えていたのだ。明後日の退院後の沙菜との関係次第では、欠席するしかなかった。いや、まず欠席することになるであろう。絶対に来てほしいと言い残してクリニックを去った彩乃の後ろ姿を、遥か昔のことのように思い出す。
もはや結婚式どころではなかった。めでたいことは自分一人が欠席してもめでたいことに変わりはないが、沙菜の人生は退院以降の数日で決定的な出来事を迎えてしまう可能性がある。そこに自分が欠けず寄り添ったところでどうにも変えようがないのかもしれない。それどころか自分がいることで良くない方向に向かうことすらあるのかもしれない。自分としても、万が一のことが起きれば、あれもできたこれもできたと一生自分を責め続けることになるであろう。今となっては、その万が一が差し迫っていることを実感している。すべての感情を捨ててしまったかのような沙菜の顔を何度も思い出す。何もできなくてもそばにいるしかない。彩乃の結婚式は電報でも打っておけばよい。
ところが翌日、少し変化があった。これまでと変わりない様子だった沙菜が、顕也が去る間際になって、気が付くと静かに泣いていた。会話ができないわけではないので退院後もとにかくずっとそばにいればこのまま何とかなるのではないか、漠然とそう考えていた顕也には予想外の出来事だった。ベッドに腰掛けて俯いているので沙菜の顔は見えない。か細い大腿に敷かれた両手がベッドに沈んだままじっと固まっている。頬を伝う涙だけが、確かに見えた。重大な変化だと直感したが、どう接してよいのかわからない。面会の時間が少し過ぎていた。
「そろそろ行くね。また明日・・・」
顕也がそう言い終わるか終わらないかという瞬間だった。ベッドに沈んでいた彼女の右手が突然すっと伸びて顕也の前腕を掴んだ。顕也は驚いてその手をまじまじと見た。初めて触れた沙菜の細い手指は、力強く顕也の手首近くを握り締めていた。食い込んだ指先が何かを訴えようとしている。それは、少なくともまだ帰らないで欲しいというサインである。
なぜだろうか? その手が顕也には心地よかった。しばらくこうしていたいと思った。以前の顕也であればその手を解いて問いかけたかもしれない。何を考えているのか教えてほしい、何か自分にできることはあるか、と。なぜだろうか? 何も話さずに、顕也はただ反対の手を沙菜の手に重ねた。不思議だった。自分は、明日にも死ぬかもしれない沙菜の全てを受け容れている。それどころか沙菜に感謝している。薄暗い路地裏の行く手を阻むように突然現れた沙菜に、救われようとしているのは自分の方だと気付いている。沙菜がいなくなれば自分はきっと再び当てなく彷徨い続けるに違いない。顕也の目にも涙が浮かぶ。顕也はそっと沙菜の手を解いて、もう一度大切なその手を自分の両手で包み込むように握り締める。十秒もあっただろうか。沙菜もまた驚いた表情のまま俯いていることに、顕也は気付けていない。沙菜が躊躇いがちにそっとその顔を上げようとした時、二人は面会時間が過ぎていることを告げに来た看護師の足音に気付いた。沙菜が手を引っ込める。
「遅くまでお疲れ様でーす。内野さんは明日退院ですねっ。」
部屋に入って来た看護師が、雰囲気を読まずにいきなりそう言ってカーテンを開けた。いつか柿を剥くナイフを貸してくれた中年看護師だった。面会時間を過ぎていることを窘める意図が遠回しではなく伝わる。デリカシーを捨てた、ある意味仕事一筋の彼女としては、面会者を帰せば業務は達成されるのである。ただ、さすがにちょっとした異変には気付いたようだった。元来気さくな彼女は、目をぱちくりさせて沙菜の様子を窺う。
「やっと退院で安心されたんですかねー?」
看護師が沙菜の顔を覗き込む。沙菜の手が床頭台の上のティッシュペーパーをさっと引き抜いて涙を拭く。沙菜が看護師と目を合わせることはなく、看護師が一方的に声をかける。
「心配もあるんでしょうけど、大丈夫ですよー。毎日欠かさず面会に来てくれる素敵な彼氏さんがいらっしゃるんだから。彼氏さん、皆勤ですもんねー。」
看護師が顕也に話を振ったが、当然二人の心情とは遠くかけ離れていた。沙菜はもちろん顕也も返事を返せるはずがない。さらにあろうことか、看護師は固まる二人を無視してすっとぼけた手品師のようにティッシュペーパーを次から次へと引き抜いて沙菜の手元に追加した。悪気がないとはいえ、ほんの少しだけでもそっとしておこうとは思わないのだろうか? きっと沙菜自身がそう思ったに違いない。
患者側になってみれば気付くことは山ほどある。まず病院では患者は何から何まで誰よりも立場が下である。少し主張すれば文句を言うなら治療を受けなくてもよいと言われ、まったく自己主張がなければ文句を言わなそうだからとぞんざいな扱いを受ける。病院とはそんな所だ。ここではこちらが医師であることはバレているので多少の計らいはあるとは思いたい。それでもこの通りなのだから、普通の患者さんたちは一体どれだけ肩身の狭い思いをしているのだろうか? 自分が何気なく接してきた形成外科の患者さんたちもまた、自分の上から目線を常に感じていたのだろうと今更のように思う。そもそも病院は患者に気分良く過ごしてもらう場所ではない。こんな所にいられないという感覚こそが健全である。究極には早く退院したい気分になってもらえば経過は良好と言える。そういう意味で、この看護師はかなりいい線を行っていた。沙菜の病状はともかく、ずいぶん前から彼女を早く退院したい気分にさせることに一役買っていたのは間違いないからだ。まさかそのとんちんかんな看護師が二人の救世主になることなど、一体誰が想像できたであろうか?
この看護師は、この些細な出来事を、おそらく鼻歌交じりに何も考えずに看護記録に残した。それを読んだ別の真面目な看護師が主治医に報告した。患者が退院後にどうなろうと知ったことではないとは思わない真面目な看護師たちの間では、以前から沙菜の顕也への依存度について懐疑的な意見が持ち上がっていた。(不安そうに泣く本人の横でさらに不安そうなパートナー)という主観に満ちた適当な看護記録を読んだ主治医が、念のためそんな真面目な看護師たちの忠告に従って退院当日の朝にもう一度沙菜に聞いた。退院後は村沢氏と暮らすのか、と。そして、村沢氏とは男女の仲なのか、と。おそらくそんな流れだったのであろう。沙菜は首を縦に振らなかった。唖然とする主治医が言葉を詰まらせながら退院を延期してもよさそうに思うと切り出すと、そこで初めて沙菜が首を縦に振ったらしい。結局、沙菜自身が延期を申し出たのだと言う。長期入院の患者とその近親者らがいったん納得した退院の延期を、病院側が提案してくるのは珍しいことである。さてはスタッフ側に内省を込めた微妙な変化があったのかもしれないが、沙菜の微妙な変化が精神科的には微妙ではなかったのかもしれない。あるいはその両方だった可能性もある。真相はわからない。沙菜の退院はこうして延期になった。
自ら退院延期を決めたはずの沙菜は、かなり落ち込んでいた。化粧もせずいっそう口数少なく伏し目がちに、面会にやって来る顕也を出迎えた。顕也はいつも決まって夕食の後にやって来たが、沙菜が退院した後は長めの休みをもらうことになっていると伝えていたので、顕也の面会時間は長くなった。沙菜はそれを何度か申し訳ないと言った。迷っているように見えた。退院すべきかどうかではない。死ぬべきか生きるべきかである。
もちろん顕也はそれが悪いことではないと感じていた。数日前まで一歩も譲らなかったのが、今はどうやら思い留まってくれているのである。その心境の変化に自分の存在がどこまで関与しているのかはわからない。それでもとりあえずほっとしていた。今は一日でも長く沙菜と同じ時間を生きていること以上に何も望むことはない。生身の沙菜が、確かに生きてここにいる。今はそれだけでよい。こうやって毎日沙菜の横で何も話すことなく過ごす数時間が、不思議と充実していた。幸せだった。このままずっと迷い悩んでくれていたらいいのにとさえ思う。それはまさに、沙菜の迷いが顕也の迷いにほんの少し重なった瞬間だったのかもしれない。
生き残った者がこの手の迷いから抜け出せることはないのだと顕也は思う。時には沙菜のように抜け出したくて死ぬことを考えることもあるのかもしれない。それくらい、身近で大切な存在が突然この世からいなくなるということは、残された者のその後の人生が一変する重大なことなのだ。自分の半分が消えてなくなるような喪失感。残された自分が何のために生きていくのかまったく見えない絶望の日々。一日に何度も何度もその人のことを考える。やがて何も手に付かずオロオロするだけではその人は嘆くだろうと自分を奮い立たせて何かに身を投じる。忙しくしていれば答えのない思考の堂々巡りから解放されるのは確かだ。酒に頼ってでもとにかく立ち止まらないように何かを相手にもがき続けるしかしない。でも気付けばその何かにも意味を探っている。大切な存在がこの世から姿を消した意味。自分が生かされ存在している意味。
そんなふうに思えるようになるまででも、うんと時間はかかる。そんなふうに思えたところで大して意味など見つかりはしないことも、顕也はそろそろわかり始めている。沙菜が何を迷って退院延期を申し出たのか顕也にはわからない。しかしそれは重要ではない。大切なのはここで少しだけ時間が稼げたことだ。沙菜なりに考えるところがあってこの時間が作られたことだ。ママの言うとおり、この手の迷いに一番重要なのは時間である。何とか生き続けて時間を稼いで迷い続けるしかない。それはやがて前を向くために必要な過程なのだ。時間は後ろには進まない。もがき迷いながら時間といっしょに前に進むしかない。
顕也は、自分が今ようやく前を向いて歩き出したと感じている。後ろ向きの執着を断って、ようやくそこに向かうべき遥か遠くの光が見える方に向かって立ち上がって重い一歩目を踏み出したくらいかもしれない。もちろんそのきっかけは、この沙菜との出会いだ。沙菜の存在がなければ前に踏み出すことはおろか、今立ってさえいられないと感じている。消し去ることのできない過去の延長に生きていくことから逃れられないならば、沙菜との出会いもまたその延長にあることに違いはない。美希との別れ、酒と苦悩の日々、独り善がりの研究、これらが繋がって、ある日突然沙菜が目の前に現れた。あの研究がなければ沙菜と出会うことはなかった。まさに後ろを向いていたから彼女に出会った。しかし、沙菜との出会いは自分を決定的に変えた。仕事も研究もやめることにまったく躊躇はなかった。明るくなったか暗くなったか今はまだよくわからなくても、景色ががらりと変わったことは確かだ。端的に言えばそれは前を向けたということだ。過去に縛られずに、後ろを振り向かずに前を向いて生きていくことの意味に気付けたことだ。あの日々のすべてが今に繋がっているという思いが優しく背中を押し続けてくれている限り、振り向く必要などないという境地に至ったことだ。
だから彩乃の式を最後にしようと思う。後ろを振り向くのはこの式で終わりにしたい。式は研究や酒の日々と同じで自分には後ろ向きでしかない。彩乃にとっても、この式は過去との決別を意識せざるをえないはずである。これを最後に彩乃の前から姿を消すのがお互いにとって何よりなのは間違いなかった。
そんな思いで週末に彩乃の式に向かう。親族の少ない彩乃に彼氏が配慮したのであろう。挙式は二人だけで午前中に済ませているとのことで、ゲスト全員が披露宴からの参加である。ガード下のドイツ料理屋を貸し切った、形式にこだわらない美大生らしい披露宴だった。会場は有楽町なので病院のすぐ近くである。幸い、昼時の披露宴は沙菜の面会時間とも被っていない。沙菜に気付かれないよう無精髭もそのままに、ただそっと宴を見守りたいだけの顕也がそこに現れて受付の名簿にサインしたのは開宴時間ぎりぎりだった。
薄暗い店内を指定された席に向かう途中で、ナレーターの間もなく開宴というアナウンスが始まり、立ち話をしていた参加者たちが各々席に戻る。その流れに乗り、最後に入って来た顕也も四、五十人の参加者と同じように、受付の指示に従って最前列の右端に設けられた自分の席を目指す。今来たばかりで入口からの距離が遠いこともあって、静かになった店内で顕也が椅子を引こうとしたのは参加者の中でもほとんど最後になった。その手を突然斜め後ろから出て来た細い手が掴んだ。細い手は、偶然にも先日沙菜に掴まれた手首のすぐ上の辺りと同じところを同じような力で掴んでいた。はっとしたが、ただ静かにこの会を見守ることを過剰に意識する顕也は、あくまで冷静に、黙って無愛想に振り返った。
「えっ!」
驚きのあまり思わず声を漏らす顕也に、皆の視線が集まる。細い腕は茂子さんだった。横に福富もいる。さらにその横には、美希の葬式以来の丸山さんと彩乃の祖父つまり美希の父もいる。バツが悪そうに四人の顔を代わる代わる見て会釈する顕也を、福富と茂子さんが嬉しそうに笑っている。福富が顎をしゃくって司会を始めたそうにこちらを気にするナレーターの方を向くように促すと、茂子が腕を掴んでいた手を離して手際よく顕也の椅子をナレーターの方に向けて引いた。顕也はまず四人を背にして着席するしかない。
記憶や思考などいい加減なものである。沙菜のことで頭がいっぱいだったにしても、横浜こども病院で母娘であんなにお世話になった丸山さんがここに来ることぐらいは容易に想定できたはずである。彩乃を引き取って十年近く面倒をみていた美希の父も普通に考えれば来ないはずがない。不覚にも今の今までそこにはまったく考えが及ばなかった。頭の中がずっと沙菜のことだけだったというわけでもない。ただ日々の混乱を制御することに精一杯の日々だった。迷いと決意、諦めと執着、不安と希望、自身のことも含めて様々な思いが複雑に渦巻くこの頃の顕也の頭の中からは、式の同席者のことなどきれいさっぱり抜け落ちていたのである。いよいよ新郎新婦の入場になっても、主役の二人を落ち着いて眺めることなどできず、最前列で居心地悪く機械的に拍手する。深く腰掛ける姿勢すら定まらないまま、とにかく後ろが気になって仕方がない。せめて髭くらい剃っておけばよかったか? 誰が来るのか彩乃に電話で聞いておけばよかったのか? いや、あと五分早く来ればよかっただけのことかもしれない。それにしても、一体なぜ福富と茂子さんがここにいるのだろうか?




