(五)
学生時代は飲み会ばかりで連日飲むことも珍しくなかった顕也ではあったが、働き始めてからはほとんど飲まなくなっていた。大して飲んだようにも思えない結婚式の二次会で見事に酔い潰れた顕也は、どうやって自宅に戻ったのか覚えていなかった。翌朝気が付いたら自宅のベッドの上にいた。
目覚めるときに美希の夢を見た。夢の中で、美希は手で千切ったような厚紙の切れ端にマジックペンで携帯電話のメールアドレスを書いて自分に差し出した。知らない街の路地裏で、薄暗くて早朝か夕暮れかもわからない。彼女はそれを受け取れという仕草を続ける。音がなく画像だけが鮮明な夢だった。どうしても受け取れと目だけで訴えている。最後には涙交じりによれよれの厚紙を自分に握らせて路地裏の奥に消えて行った。去るときに振り向かないのは夢の中でもいかにも美希らしかった。
不思議な夢だと感じる間もなく、酷い二日酔いでトイレに駆け込んだ。嘔吐すると少し楽になって、顔だけ洗ってそのまま病棟の処置に向かった。土日に下級医が持ち回りで回診や処置のために病棟に出向くのは、どの診療科でも同じである。
酷い頭痛のまま何とか午前中に処置を終わらせ、病院を出ようとロッカーで白衣を脱ごうとした時、白衣のポケットに紙切れが入っていることに気付いた。紙切れは、ポケットに忘れられたままクリーニングされて皺くちゃになった病院食の献立表であった。そのまま捨てようと思ったが、二日酔いの頭にふと彩乃が入院していた時の記憶が蘇った。我に返って折り畳まれてくっ付いた紙切れをゆっくり剥がしてみる。それは、確かに彩乃が退院の時にくれた手紙であった。鉛筆で書かれていたことが幸いして、素敵なママと手をつなぐ彩乃の絵が残されており、字も読めた。顕也は、その内容に二日酔いが醒める思いがした。
(しゅじゅつしてくれてありがとう。ママとなかよくしてね。あやの)
彩乃がどういう意味で書いたかわからない。しかし、確かに昨日、美希との距離は縮まった。患者さんの家族という肩書きではあったが、下心がまったくなかったとは言えない。パーティーで彼女のような美人を独占していたことを、男として多少誇らしく思ってもいた。その翌日にこの手紙が開かれることを、まるで彩乃が予想していたかのようである。
さらに、今朝見た夢のことをはっと思い出して、まさかと思って自分の携帯電話を取り出した。アドレス帳を開いてみる。するとやはり、あるではないか。「川原美希」の名前には、メールアドレスも電話番号も登録されている。顕也には何が何だかわからず、二日酔いも忘れてまさに夢中でこの顛末を美希にメールで知らせていた。
美希からの返事はすぐに返ってきた。
(村沢顕也先生。不思議なことがあるものですね。ところで昨晩はほんとうにごめんなさい。悪乗りしてしまって。久しぶりにお付き合いじゃないお酒ですごく楽しかったんです。アドレスは酔った勢いで私が勝手に登録しました。他のメールを勝手に読んだりしてないから安心してね。お許しください。もちろん娘の手紙のとおり、私は先生と仲良くできればいいと思っています。美希)
昨晩とは人が違ったような品のある文面に、顕也はまた少し驚いた。昨晩の出来事すべてが夢の中の出来事のようにも感じた。パーティーの席で話しかけてくる男たちのあしらい方、新郎新婦の前の堂々とした立ち居振る舞い、そしてたった今起こった出来事、何をとっても顕也にはまったく新鮮で、過去に親しくした女性の誰ともイメージが重なるものではなかった。普段の言葉使いからはおおよそ学業と縁があるはずはなく、明らかに自分とは違う世界に生きてきたであろう彼女ではあったが、単なる美貌では計り知れない人を惹き付ける圧倒的な存在感は、顕也に今まで自分が生きてきた世界の狭さを気付かせるのには十分過ぎた。
美希は一体どんな男性と結婚して離婚したのだろうか? こんな女性と一時でもうまくやって彩乃の父親になった男は、やはり俳優のような顔立ちなのだろうか? 大勢の候補者の中から彼女に選ばれるような男は、どう考えても見た目も性格も自分とは似ても似つかないクールな男だったに違いない。そして、おそらく彼女は、めいっぱい背伸びをしても自分にはまったく届かない世界からこんな自分を見ていることであろう。患者さんの家族と医師というお互いの立場を差し引いたとしても、仲良くしてほしいという美希の言葉に喜んで応じる気にならない自分に不甲斐なさを感じた。美希のような女性を相手に堂々と積極的に振る舞えるように男を磨いて来なかった自分が情けなかったが、そんな感情だけは今まで幾度も味わって来たのでとくに新鮮ではなかった。
顕也は、美希から何度か丁寧なメールをもらったが、その度に当たり障りのない返事を返した。自分から誘ったところで彩乃と二人で暮らす彼女が未婚の独身女性と同じような時間の使い方ができるはずはないし、何よりも彼女が自分の提供する何に満足してもらえるのか一向に見当がつかない。結局、三週間後のクリスマスに、顕也は美希の自宅にお邪魔することになった。彩乃とケーキを作るから食べに来てほしいという美希の誘いに押し切られたのである。その日はたまたま土曜日で、午前中に病棟の処置を終わらせてから、その足で電車を乗り継いで郊外にある美希の自宅に向かった。
横浜には、市街地から離れればまだまだ雑木林や畑などが残されている。各停しか止まらない最寄りの駅前には雑居ビルが少しあるくらいで、平屋建ての不動産屋やスナックのすぐ向こうから宅地が続き、五分も歩けば畑が見えて来る。地元のパン屋の前に設置されたクリスマスツリーから無造作に垂れ下がるメッキの剥がれたオーナメントが、街に妙な安心感を与えている。歩くと距離があるのでバスに乗るよう言われていたが、顕也は美希の自宅まで歩くことにした。美希が育ったというその街に興味があったからである。予想外の田舎ぶりに、美希との距離がまた少し縮んだように勝手に思った。
自宅の最寄りのバス停に着いたのは、午後二時頃だった。連絡すると、畑の向こうのアパートの窓から手を振る彩乃が見えた。
「せんせーい。」
彩乃は、少し照れながら窓の外に上半身を出して両手を振っている。顕也は、畑を迂回して小走りにアパート一階の玄関に向かう。
「遅くなりました。」
玄関ドアの前に立つエプロン姿の美希のところに駆け寄りながら、顕也が言う。
「来てくれてありがとね。」
「こちらこそ、クリスマスに自分なんかですみません。これ、クリスマスプレゼント。彩乃ちゃんにです。」
顕也が赤い袋を差し出すと、美希は生クリームの付いた手でそれを受け取って、後ろにいる彩乃に渡した。小学校一年生の彩乃には少し大きな袋で彩乃の顔が隠れる。
「先生、ありがとね。彩乃、お前も礼を言いなさい。さっきあんなに勢いよく手、振ってたじゃん。」
プレゼントの大きな袋の横から出ている彩乃の右目が笑っている。
「ごめんね、先生。こいつ、ちょうど今、何かと恥ずかしがる時期なんだよね。」
美希は化粧をしておらず、ジーンズにトレーナーで長い髪を後ろで束ねて大きめのヘアクリップで留めただけの、何一つ飾らないラフな格好であった。その美しい顔立ちは化粧の有無と関係がなかったが、やはり自分のことを男として見ていないのであろうか?
ちらちらと後ろを振り向きながら母親に付いていく彩乃に導かれて、顕也は居間に通された。顕也が考えていたよりもずっと質素で、ごく普通の母子家庭の居室のように思えた。ダイニングテーブルの上には部屋とは不釣り合いなくらい見事なカサブランカが活けてあり、その横にはすでにクリスマス風に飾られたロールケーキが置いてあった。手作りにしてはよくできている。美希がキッチンからお茶を運んできて大きめのマグカップに注ぎながら顕也に尋ねた。
「先生、ケーキよりも昼ごはん食べたいでしょ。」
「えっ、すごい。なんでわかるの?」
病院から直接来た顕也は、昼食をとっていなかった。ケーキをたくさん食べないと失礼になると思って食べなかったのも理由の一つだった。
「顔に書いてあるよね、彩乃。」
美希がまた以前にパーティーで見せた悪戯っぽい顔付きになって、彩乃に話を振った。
「うん。かいてある。」
母が顕也の顔をまじまじと見るのを真似しながら彩乃がそう答えると、三人で声を出して笑った。笑い声が途切れる間もなく、鶏の唐揚げが運ばれてくる。フライドチキンなどという洒落たものではなく、ごはんと味噌汁も付いてきたので紛れもない唐揚げ定食である。これが猛烈に美味しかった。学生時代にアルバイトでやっていた家庭教師のお宅でいつも聞いていた母親の口癖を思い出す。美味しい料理さえ作っていれば男が家に帰って来ないなんてことはない、という言葉だった。確かにそうかもしれないと思わせるほど美味しかった。
唐揚げを頬張る顕也の前で、待ちきれない彩乃に促されるままに、美希が慣れた手付きでケーキを切り始める。
「先生の分もちゃんと残しとくからね。唐揚げもまだあるよ。」
顕也への気遣いも適当に、美希は彩乃といっしょに目の前でケーキを食べ始めた。美希と彩乃はお揃いの花柄のティーカップだった。他愛ない話を続ける美希と顕也をそっとしておくように、ケーキを食べ終えた彩乃は床の上でプレゼントの袋を開け始める。中はスケッチブックと三十六色の色鉛筆だった。スケッチブックは大切に袋の中に戻して、さっそく彩乃はどこからともなく持ってきたコピー用紙にもらった色鉛筆で奔放に絵を描き始めた。
美希が時々眠そうに欠伸をしながらお茶を注いでくれる。夜に仕事をすることもあると聞いていたが、昨晩も仕事だったのであろうか? 彩乃も時々手を止めて美希の欠伸をちょっと心配そうに見る。
顕也自身も長くいるつもりはなかったが、美希の自宅は顕也の予想をはるかに超えて居心地が良かった。あっという間に時間が過ぎて二時間程度はいたかもしれない。その短時間で、トイレを借りるにも冷蔵庫を開けるにも、全然気を遣わなくなっている自分に驚いた。美希に対してもすっかりため口になっていた。美希の機転のある会話がそうさせていることは言うまでもない。顕也は、この時すでに、美希がノーと言わなければ何度でもこの二人のところにやって来ることになる運命を感じていたのかもしれない。
「ママ、もう寝た方がいいよ。」
彩乃が美希にそう言って初めて、顕也は自分の気遣いのなさに気付かされた。
「そうね、先生。あたし、また仕事に行かなくちゃ。土曜日は暇だと思うけど、少し寝てから行かせてもらうわ。あんまりひどい顔で出勤してもクビになっちゃう。」
「ごめんね。自分もこの後は当直のアルバイトだから長くいるつもりじゃなかったんだけど、あっという間に時間がたっちゃった。ご馳走さま。」
顕也が帰り支度をしながらお礼を言うのを、美希は手持ち鏡の中の自分の目の下の隅を気にしながら口元に軽く笑みを作って聞いていた。
「そんなこと言われたら帰したくなくなるけど、今日はあたしの仕事に免じて帰してあげよう。次はいつ来る?」
「えっ?」
思わぬ質問に顕也が戸惑っているのを、美希は明らかに楽しんでいる。
「えっ、て、これだけ食べておいて次の誘いは断るつもり?」
気になる女性からストレートに押し付けがましいことを言われるとこんなにも嬉しいことを、顕也はこの時初めて知った。
「ありがとう。断れるはずがないよね。というか誘ってくれたらいつでも来るよ。」
顕也はこの嬉しい気持ちを伝えるのに何か気の利いた返事をするべきだと感じていたが、言葉が続かない。あまりにも用意のない社交辞令のような自分の返事に嫌気がした。このすごく嬉しい気持ちをわかってもらうには何と言えば良いのだろう。話の流れからして、大した帰り支度もない顕也の足はそのまま玄関に向かわざるをえない。
「とか言って、どうかしら。先生、忙しそうだから期待しないでおくね。」
打って変わって顕也の気持ちを本気で探る様子のない美希のこの日の最後の言葉に、顕也の嬉しい気持ちはまた半減した。美希は玄関ドアまで顕也を送ることなく、彩乃だけが小さな声でドアの隙間から顕也を見送った。
「せんせー、また来てねー。」
ドアが閉まる最後の瞬間まで、ドアの隙間からバイバイする赤い色鉛筆が揺れるのが見えた。自分の気持ちをすべて察して応援してくれているかのような小さな手の動きに勇気付けられながら、顕也はその足でまた近隣病院の当直アルバイトに向かった。




