(二十六)
クリニックの院長は顕也の急な退職をあっさり受け入れた。辞めることは察しがついていたのか、勝手に開業のためだと勘違いしていたようであった。このクリニックにも数年で辞めて開業した若い美容外科医が、顕也が知るだけでも三人はいた。美容外科に限らず他のどの診療科のどんなに優秀な勤務医であっても、開業を理由に退職するのを強く引き止められることは基本的にまずない。顕也の勤務年数や実年齢からみれば、退職する時は開業する時と捉えられるのは自然なことである。院長は、こんな所で燻っている器ではないと一方的に顕也の退職を喜んでくれた。まだどこで何をやるか決めていないと正直に伝えても、村沢先生ならどこで開業しても患者が来るからゆっくり決めればいい、などと開業準備と疑わずにそれ以上何の詮索もない。本当に院長には感謝しかなかった。
福富に至っては、まったくいつもの調子のままであった。もともと専門分野が違うこともあり、同じクリニックに勤めていても福富といっしょに手術したことは数回しかなかった。顕也がクリニックにいなくなることの唯一の実害は、誘えば滅多に断らない身近な飲み仲間がいなくなってしまうことぐらいなのかもしれない。その誘いですら、職場は違っても電話で呼び出せば済むだけの話と思っているようであった。何より、福富自身はスタッフの出入りが激しい美容医療業界の中でも、このクリニック一筋に同じ美容外科医の立場で数多くの後輩たちの進退を見守ってきたはずである。顕也はそんな後輩たちの一人だったのであろう。急な退職とはいえ、辞めていつどこで開業するのかと福富から尋ねられることはついになかった。みんなに聞かれて何度も説明するのが面倒臭いだろうから俺は止めておく、そう言いたそうだった。それよりは、興味津々に顕也のプライベートをとことん心配してくれていた。勤務最後の日に福富が言った。
「きっかけもなく辞めるわけはない。どうせいい子が見つかったんだろうから、とにかくおめでとう。最初は色々大変だから、落ち着いたらまた連絡してくれな。俺が言うことでもないけど、色々あっていいんだぜ。みんな違うんだから。先は長いから自分たちの形を大事にな。それが男と女っちゅうもんだ・・・何言ってんだか自分でもわかんなくなってきたよ。急過ぎて最後に一杯行ける時間がないのが相当ショックらしい。こっちも暇な時にまた連絡するよ。村沢先生のことは茂子もお気に入りだからな。ガッハッハ。」
鋭いのか的外れなのかさっぱりわからないが、力を抜いて独特なユーモアで素晴らしい家族を大切に守り続ける男の正直な言葉ではあった。娘さんと血が繋がっていないことなど娘さん本人はもちろん、周囲の誰も気付かないであろう。確かに、福富のような人間こそ特殊な嗅覚で自分のような人間の過去を嗅ぎ分けていたのかもしれない。理由ありだと顔に書いてあると指摘されたママの言葉を思い出す。顕也は最後に福富とがっちり握手を交わした。
こうして仕事も研究もなくなれば、病院で沙菜と向き合う時間が一日のメインイベントになった。とはいえ仕事帰りを装って出向くので、日中はこれと言ってやることがない。働き盛りの年代でこんな生活を送る日が来るとは夢にも思わなかった。それはそれでまさに現実感がなく、遡る過去こそさらに輪をかけてあやふやで遠いものに感じられる毎日になったという意味では、かつての思惑どおりだった。もちろん今ではその思惑こそ曖昧で、診療や研究に忙殺されることなくこんな心境に至るという現実には新鮮さすら感じていた。
ただ、沙菜にも変化があった。ママが一人リュックを届けに来て何かを吹聴したのかもしれない。営業の沙菜であることに変わりはないが、早く退院したいと洩らすようになった。退院した後のことを彼女の方から話すことはなく、入院生活はうんざりとだけ顕也に度々訴えた。退院後どうするのか心配する素振りがまったくないことを、顕也は密かに心配した。何しろあの自宅である。寝泊まりできるような場所ではない。頼りになる友人でもいればよいのであるが、いればすでにここに現れて自分の居場所はとっくになくなっているはずである。沙菜は何を考えているのであろうか?
そんな心配とは裏腹に、沙菜は顕也に時々何かを要求するようにもなった。それは、最初は差し入れる日用品や食物の内容についての他愛ない頼みごとがほとんどであった。まさにお店の女の子のように、どこのお菓子屋さんのあのスイーツが食べたい、などというおねだりである。以前は顕也が適当に見繕って買って来た食物に口を付けないことも多かったので、要求してくれること自体はありがたかった。日中は時間がたっぷりあるので、そんな買い物目当てに年の瀬を迎えた東京の街を昼間からふらふらと歩く機会が増えた。行く先々は、どこもクリスマスのプレゼントや食材を買う人でごった返している。街で年末年始を楽しむ人々の集団を見る度に、顕也は努力次第でこんな人生もあったのかもしれないと自嘲した。明らかに自分は満ち足りた家族連れや恋人たちで賑わう街に溶け込んでおらず、周囲に何とも言えない違和感を放っている。珍しい生き物でも見るように、顕也はショーウィンドウに映る自分の姿を眺めた。
顕也でなくても、家族や恋人のいない者が大した当てもなくこの時期にこの街を歩き回るのは気が滅入るであろう。普通そんな独り身たちは余程の用がないとこの辺りには近寄らないようにしているに違いない。嘘か実か、水商売の女性の自殺は客が家族の元で過ごす年末年始に多いという話を、店の女の子たちから何度か聞かされたことを思い出す。沙菜の精神科の主治医がそんな配慮をしたかどうかはわからないが、早くても一月中旬以降の退院になるという話を主治医から聞いたのは、クリスマスの数日後だった。
「やや複雑ですが、基本的にはパニック障害という診断でいいと思います。投薬拒否があったりカウンセリングに乗らなかったりして入院が長引いていて・・・」
福富と同じような年代であろう。紳士的な男性の精神科の部長が主治医の若い女医を引き連れて、面談室に通された顕也に丁寧に病状の説明をする。どうやら主治医にも顕也は沙菜のパートナーだと見なされているようであったが、果たして沙菜自身はこの説明を了承したのであろうか? 顕也が説明を遮って思い切って質問する。
「ちょっとすみません。確かに自分は入院前から彼女のことをよく理解しているつもりなんですが、実は彼女の方が私のことをどう思っているか、知らないんです。来るなとは言われないのでこうやって毎日来てるんですが、私に病状説明することが、彼女に伝わってますでしょうか?」
「はっ?」
顕也の質問に精神科医二人が一瞬顔を見合わせたが、主治医の若い女医が少しニヤニヤしながらきっぱりと答える。
「昨日、彼氏さんに話しておきますよってお伝えしたら、どうぞ、って。毎日いらっしゃる村沢さんのこと、スタッフも私もずっと彼女の前で彼氏さんって呼ばせていただいてるんですけど、それを彼女に否定されたこともないですし・・・お二人って、そんな感じの間柄でいいんですよね?」
気の強そうな女医が説明ついでに二人の関係を単刀直入に聞いてきたが、部長がニコニコしながら部下のあからさまな探りに水を差した。
「まあまあ、男女には色んな形がありますよね。そこはお二人の間で決めることですから。内野さんが村沢さんでいいと言ってるんだったら、この話は村沢さんでいいんですよ。ただ、大事なことですが・・・」
部長の顔が真剣になって、隣の女医の背筋が少し伸びる。
「パニック障害は発作が起きれば本人はとても辛いので、発作が起きないようにする薬を始めることにあまり抵抗がないのが普通なんですが、彼女はずっと拒否的でした。カウセリングも、こんな発作が起きてしまうようになった原因として思い当たる何らかの出来事、いわゆるライフイベントについて話してもらえたら、その方が対応しやすくなるのですが、それもまったく話してもらえません。もちろんそんなイベントがない方も多いですし、思い出させてしまうことで病態が悪化することもあるので、無理はよくありません。彼女についてこちらでわかっていることは、ご両親は離婚されて疎遠になっている、大学を中退して上京してホステスの仕事をされていた、村沢さんとはその時からのお付き合いだった、それだけです。彼女がそこまで頑なな原因はわかりません。元々の性格なのか、他の病態が隠れているのか、なかなか複雑です。こちらでよく診させて頂く限り、彼女は良く言えば感受性が豊か過ぎるとでも言うのでしょうか。非常に感情移入しやすい傾向があるかも知れません。頭の回転も良いので、考え過ぎてネガティブな発想からなかなか抜け出せないといった印象も受けます。まあ、みんなネガティブな発想なんてあるんですが、希死念慮が出てしまうくらいだとそれは病的です。パニック障害自体は自殺未遂のようなことがあっても本当に亡くなってしまうことは少ないとされていますが、彼女の場合は典型的ではないので何とも言えません。何より、まだ希死念慮のある可能性が高い患者さんを、こちらとしては放ってはおけません。」
顕也はその説明を冷静に聞いていた。目の前の精神科医は何も悪くないことが前提という意味の冷静である。彼らはただ精神科という学問領域の決め事に従って沙菜を治療しているだけで、不安定な彼女を本人の希望だけで早く退院させて何かあれば病院側の責任になりかねない、という事情もすごくよくわかる。しかし、一カ月以上入院している沙菜から何も聞き出せずに、自殺企図のきっかけになったライフイベントすら把握できていないというのはどうなのだろうか? 実子がいることはママから伝わっているはずである。幼くて重い障害があるだけで連絡を取らないのであろうか? 入院先を聞き出して問い合わせれば重い障害どころかすでに亡くなっていることはすぐにわかるはずである。たった一人の肉親を亡くしたことが重大なイベントかもしれないことに、誰も気付いていないというのであろうか? さらに、沙菜自身は発作が辛いなどとは明らかに思ってはない。生きるのが辛いと思っているのである。沙菜が病院のスタッフを信頼せずに何も語らないとはいえ、この説明は沙菜が抱える心の問題とはかけ離れているように感じた。こんなにも患者のことを理解できないものなのだろうか? 専門家とは何であろうか? 手術で顔立ちが変わっても顔付きがほとんど変わらずにまだどこか不満気な患者が圧倒的に多い美容外科という専門職が、改めて顕也の脳裏に浮かぶ。
「元上司の方が最後にお見えになって以降は薬を飲んでくれていますので、良い方向に向かっていると思います。休み明けに再評価して落ち着いているようなら退院でもいいと思います。親族がいらっしゃるならお話しさせてもらったほうがいいのではないかと思っています。元上司の方にもお話ししたほうがいいですか? 彼女にそれなりの影響がある人かとは思われますが・・・」
部長の話がママへの病状説明に及ぶと、看護師の記録から得た情報なのであろう。女医が慌ててそれを遮った。
「いえ、先生。それは駄目らしいんです。先日元上司の方が荷物を届けに来たとかでお見えになったときにお二人が口論になって、元上司の方が、これが最後だからと吐き捨てて帰って行かれたようなんです。元々、看護師さんが電話しても、私はもう関係ないから、ってすぐに切られてしまうことが何度かあったみたいです。」
ママらしいと顕也が苦笑する。しかも、その気安く口論とまとめられたママ劇場とでもいうべき荒療治が功を奏して、沙菜が薬を飲み始めたというではないか。結局、入院という身体拘束を課した上で何日もかけて専門家たちが寄って集って治療に当たっても、ひょこっと現れて僅かな時間で演じられたママ劇場には敵わなかったということになる。きっとママこそ病状を聞きたいに違いない。もちろん、だからと言って病状説明のためにママを病院に呼び出してよいはずもない。そもそも確信犯は大凡の結果をお見通しなのであろう。綺羅びやかな夜の街の片隅でひっそりと風の便りを待つという、粋な時間潰しの邪魔をしてはいけない。
「彼女のために色々考えて下さって、ありがとうございます。」
顕也は形だけ二人に頭を下げる。どうやら本人の言うとおり、ここにいても状況がよくならないことがわかれば、精神科医二人に言うことは何もなかった。どんなに時間がかかっても、ママに爽やかな風の便りを届けなければならない。それが自分の使命だと信じるしかない。
数日後、病室にスタッフのいない時を見計らって、顕也は沙菜に小声で伝えた。
「ここにいても仕方がないことがよくわかった。」
それが意外だったのか、沙菜はベッドに腰掛けたまま顕也の顔をちらりと見上げる。
「早く退院しよう。ここから出るために協力したい。何かできることある?」
顕也がそう尋ねても沙菜はしばらく黙っていたが、俯いたままぼそりと呟いた。
「口紅・・・」
「く、口紅?」
ちゃんと聞き取れずに顕也が聞き返す。
「そう。口紅買って来て。ポーチに入ってなくて。」
どうやら、ママに取って来させたリュックには、化粧道具が入っていたらしい。そこに口紅だけなかったのだという。確かに入院中の沙菜が口紅を付けているのを見たことがなかった。ベッドサイドの戸棚に仕舞ってあったリュックの中から化粧ポーチを取り出して、厳しい持ち込みのチェックに対する嫌悪を示しながら、沙菜は顕也にそう説明した。
その時、顕也はリュックのポケットに付いていたイルカのキーホルダーが外されているのを見逃さなかった。ブランドのリュックにちょっと不釣り合いな子供っぽいキーホルダーが、まさか持ち込みを許されなかったはずはない。そして精神科のスタッフこそキーホルダーに書かれたひまりの名前を見逃すはずもなく、それが彼女の実子の名であることを誰もが疑ったに違いない。そのうちの一人が真相を沙菜に優しく尋ねたかもしれない。でも沙菜は何も答えなかった。答えるはずもなかった。スタッフからの説明の中で実子の話題にならないのは、明らかにその実子の父親ではない現パートナーと思しき自分への配慮などではない。沙菜が話さなかったのだ。ただ話したくないのだ。キーホルダーは、沙菜の手によってこっそり外されたのだ。それだけはわかる。簡単にスタッフに話せるくらいの精神状態であれば、もうとっくに退院している。というより入院していない。妄想の陰で、顕也はあくまでも平静を装う。
「色とかメーカーは?」
「お任せするわ。一つでいいから。」
「それは責任重大だ。」
「大して使わないけど退院の時にすっぴんも嫌だし。」
「せっかくだから気に入って使ってもらえるの、買ってくるよ。」
「ありがとう。でも・・・それはないかな。」
沙菜は優しい顔をしていた。だから顕也は拒絶されたと感じたわけではない。周囲を気にしていた沙菜の目線がほんの一瞬棚のリュックに移る。そして沙菜は、すぐに顕也の方にまっすぐ向き直った。その澄んだ瞳はこれまでの沙菜とはまったく別人だった。少なくとも営業の沙菜ではない。穏やかさと強い意志が共存する、どこか懐かしいが取っ付きにくい顔。それは初めて見る陽葵の母の顔だったのかもしれない。
「毎日来てもらってて、ほんとにひどい女ですね。退院したら来なくてよくなるから、それまでおとなしくしてます。感謝してます。」
沙菜はそう言って、両手を重ねてよそよそしく顕也にお辞儀した。
「礼なんて要らない。」
顕也はさらりとそう言ったが、内心は酷く混乱していた。この時の沙菜の言動は、どう考えても哀しい結末を予感させたからだ。沙菜はやはりまだ死のうとしているのではないか? 退院後の話題を避けるのは、すぐにでも死ぬことを考えているからではないか? そんな素振りを見せれば病院にも自分にも退院させてもらえなくなるから、言葉少なめに息を殺して機を窺っているだけなのではないのか?
沙菜がようやく見せた本心は、顕也を病院のスタッフと同じ気持ちにさせるには十分だった。顕也は、退院の話題を軽々しく口にしたことを後悔した。まだしばらく入院させておくべきなのだ。とにかく入院を長引かせれば、入院中は衝動的な行動はないであろう。死んでしまってはどうにもならない。恨まれようが罵られようが、まずは生きていてくれた方がいいに決まっている。そんな顕也の不安をよそに、沙菜はどこかすっきりした表情を見せた。早く退院しようなどと言わなければよかったが、顕也にはどうすることもできない。逆に、言いたかったことを少し言えたからなのか、沙菜はその日一日どことなく上機嫌だった。顕也はかける言葉が見つからなかった。
この日の口紅を最後に、沙菜はもう顕也に頼みごとをすることはなくなった。口紅が手に入って店にいた時と同じような化粧をするようになった沙菜は、病棟で一際目立つようになった。見た目だけではない。沙菜の振る舞いや言動は、いつの間にか顕也の前でも営業の沙菜ではなくなっていた。日に日に思慮分別を取り戻し、傍目には溌剌とした女子大生のように見えたかもしれない。気が付けば、何ら危なげない華のある一人の大人の女性に化けていた。口数は少なくても張りのある声で明るくなった沙菜は、スタッフから薬が効いて調子が上向きだと評価された。顕也が恐れていたとおり、退院前の評価とやらも問題なくクリアした。主治医からいつでも退院でいいと言われて、いよいよ顕也はうろたえた。
主治医から呼び出されて今後の通院などについて話を聞いた後、二度と自殺行為はしないという念書に沙菜がすらすらとサインをする横で、顕也は自分の膝が震えるのを自覚した。もはや入院理由がわからないほどハキハキとごく普通にスタッフに受け答えする沙菜を、顕也は直視できなかった。沙菜が平然としていればいるほど、誰もその堅い意志を動かしようがないように思えた。夜の仕事で身に付けたのか、精神科のスタッフにも見破られることのない完璧な演技をこなすその強い意志を、どうしてこの優柔不断を極める自分が変えることができるであろうか?
「それで、退院は明後日でいいですよね?」
話を早く切り上げたいのか、主治医の女医が急に顕也に尋ねた。びくっと体が動いてしまうほど驚いた顕也に、スタッフの目線が集中する。
「えっ、あっ、明後日・・・ですか・・・」
寝耳に水だった。半月ほど先かと思っていたが、まさかそんなに早く退院になるとは夢にも思わなかった。そもそも退院させてよいはずがないのである。確かにここにいても何も変わりはしない。では退院した彼女に自分は何ができるであろうか? どう考えても、退院した瞬間からせいぜい黙って拒否されるまで彼女の後ろを付いて行くことぐらいで、他にはきっと何もできない。難色を示す顕也に女医が説明を追加する。
「毎日面会に来ていただいているみたいなので内野さんの希望どおりでいいかと思ったのですが、都合が悪ければ数日後でもかまいません。もちろん内野さんお一人での退院は許可できません。お迎えは必要です。夕方の退院でも大丈夫です。」
女医の機械的な説明は、顕也の頭にほとんど入って来なかった。退院後どうしたいのか、率直に沙菜に聞けばよいのだろうか? 退院したその日に一体どこに帰るのか、さり気なく問えばよいのだろうか? そんなことができるはずがなかった。彼女が先の話題を避けているのは明らかだった。営業の沙菜ではなくなっても、沙菜とはお店のホステスと客という関係から何も変わっていない。もちろん、どんな話題を振られたところで、何としても退院したい沙菜が入院中に自分を拒絶することはないだろう。だからと言って根掘り葉掘り話を引き出そうとすれば、退院直後に自分を振り切ってどこかに行ってしまうに違いない。一方、今すぐ強固に退院を妨害しようとスタッフの前で騒げば、お迎えどころか即座に明日からの面会も許されない関係になってしまうことは明らかである。何より、どちらも沙菜の心情とはかけ離れ過ぎている。すべてにおいて沙菜が一枚上手だった。このまますべてを受け入れるしかないのであろうか?
顕也が顔を上げる。患者の都合に最大限配慮する自分に満足そうな女医が見える。無力感が顕也の思考を奪っていた。
「明後日迎えに来ます・・・」
顕也は、自分でも何を言っているのかわからないままそう答えた。お世話になりましたとスタッフに頭を下げる沙菜の姿が視界に入る。あれほど退院を望んでいたのに、その横顔には表情がなかった。沙菜にとっては思いどおりのはずなのに、安堵や喜びを一切感じ取ることができない。そこには、まるで小学生が初めて踏み入れた職員室を退室する時のように、なぜか初々しくも見える緊張だけがあった。
沙菜はもう決めているのだろうか? もうどこにも行かない、もう何も望まない、もう誰も信じないと。何も分かり合えないまますべて終わってしまうのだろうか? なぜこんなにもすれ違ってしまったのだろうか? 両手に掬い上げた水が指の隙間から少しずつ溢れ失われて、今、まさに底が尽きようとしていた。




