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(二十五)

 沙菜がママと話したかった理由は何ということもなかった。病棟から出ることを許されていない沙菜が、自宅から身の回りの物を取って来てほしいと頼んだのである。連絡を取って沙菜と面会してくれたママは、すぐに顕也に報告をくれた。

「パートナーさんじゃ、ダメなんですって。」

 ママがいつものように電話口で茶化ちゃかす。ダメに決まってるでしょう、とは思っても言えない。いちいち否定するのも面倒なので、すみませんがよろしくお願いいたします、などとパートナーを気取った顕也は、ママから耳を疑うような提案を受けた。

「先生、これは遠回しにあなたに行って来てほしい、って言ってるのよ。私だって女ですからね。そんなことぐらいわかります。こっそり見てきて、こっそり分かってあげて、ただ静かに受け止めてくれる。自分が大変な時に黙ってそんなことしてくれたら、私だったられしちゃう、そんな男。行ったって言わなきゃわからないし、放っちゃおけないってことには違いないんだから。というか、私は一人じゃ行きませんから。行く義理なんてないですもの。」

 第三者が現れた方がややこしくなかったかもしれない、と思いながら顕也が丁寧ていねいに断る。

「それだけはダメです。本人がダメだって言ってますし。何度も言ってるとおり、彼女とは主治医と患者以上の何でもないんです。」

「あら、そう? 主治医が毎日お見舞いなんて行くかしら? それに、主治医だったら患者が何を病んでるのかちゃんと突き止めてあげて下さるはず。自宅にはきっと彼女がこんなふうに入院してる理由が隠されてるはずだと思いません?」

 ママの言っていることは正しかった。反論しても無駄だと思って、とりあえず自宅マンションの出入り口まで付いて行くことにした。

 沙菜の自宅マンションは目黒にあった。顕也の自宅がある大崎からそれほど遠くないので少し土地(かん)はある。その選択に、顕也はすぐにピンと来て地図で確認する。すると、そこは驚くほどきっちり彼女が働く銀座の職場と娘が通った世田谷の国立子供病院を結ぶ線上の中間点に位置していた。もうそれだけで沙菜が何を優先したのか、あれこれ想像する必要はなかった。自宅から少し離れた職場での彼女の不真面目な仕事ぶりが目に浮かぶ。

「じゃあ、自分はここで待ってますから。」

 顕也が自宅マンションの出入り口の前の路上で、足を止めてママに言う。ママは部屋の鍵とオートロックの暗証番号の書いたメモを取り出しながら、顕也の方を見もせずに即答する。

「馬鹿なこと言ってるんじゃないわ。いくら昼間でもそんなとこに突っ立ってたらすぐ通報されちゃう。荷物だってあるんだから、玄関まで来るのがすじってものよ。」

 何のすじだかわからないが、立っているだけで通報されるという忠告があながち誇張ではないくらい閑静な住宅街である。顕也は仕方なく玄関まで付いて行くことにした。

 沙菜の部屋は小さなマンションの最上階にあった。ママがさっさと部屋に入ると、顕也は玄関先に待機した。玄関先から見下ろす一戸建ての住宅には、クリスマスのイルミネネーションが取り付けられているのがちらほら見える。夜にあかりがつけば、気管きかん切開せっかいされて病院と自宅の往復以外に気軽に街には出かけられない小さな子どもの目を楽しませるには十分だったに違いない。沙菜は、住み慣れた田舎から二人で移り住んだ都会の片隅かたすみで、何を思って娘とこのイルミネーションを眺めていたのだろうか。そんなことを考えていると、玄関のドアがガチャっと開いて、困った顔のママが顔だけ出して顕也を探した。

「先生、ちょっといっしょに来て。私じゃダメだわ。」

 白々(しらじら)しいママの演技だと顕也は思った。またそうやって強引に部屋に入らせようとしているに違いない。

「さすがに中はダメです。」

 顕也はかたくなに拒否した。ところがママの顔にはちょっと人を食ったようないつもの余裕が感じられない。こんなに真剣で落ち着かないママを初めて見た。

「いいから来て。私一人じゃダメ。怖くって。」

 ただごとではないと直感した。少し気が引けたが体が勝手に動いて上がり込んだ部屋は想像とまったく違っていた。まずカーテンがない。外から部屋の中が丸見えで、窓の外には反対側と同じような住宅街が広がっている。カーテンがない理由はすぐにわかった。荷物がすべてまとめられて十箱ほどの段ボール箱がクローゼットの前に積まれている。見渡す限り家具もない。

「ねっ、だから言ったでしょ。先生だって彼女でも何でもないんだったらあんな子の面倒見なくていいのよ。わけがわからないもの。こんなに世話焼いてあげてるのに、これだもの。」

 段ボール箱しかない殺風景な部屋に茫然ぼうぜんと立ち尽くす顕也に、ママが話しかけた言葉はひとごとになった。顕也はもはや返事ができるほどの冷静さを保っていない。

(ママの言うとおり、あまりにも理解不能だ。沙菜はここに住んでいなかったということなのだろうか?)

 顕也が思いを巡らせていると、ママはさっさと立ち去りたいのであろう。段ボール箱の上に置いてあった目的のブランドのリュックを手に取った。

「私はこれだけ持って行けばいいみたいだから。しかし、こんなのだけでいいのかしら。身の回りの物なんて入ってないわよ。何考えてるんだか・・・」

 確かに身の回りの物はおろか、一泊の旅行ですら間に合わないサイズである。いくらママでも、段ボール箱の中を探して入院生活に必要そうな物をピックアップすることくらいは頼んでよさそうなのに、ますます理解できなくなる。そう思いながら積み上げられた段ボール箱に立てかけられた紙袋の中をふとのぞくと、フリーザーバッグに入った白い粉が見えた。五袋、いや、十袋くらいあるかもしれない。この怪しい大量の白い粉が段ボール箱の中に隠されているわけではなく、まるで誰かに気付いてほしいとでも言わんばかりに紙袋の中のフリーザーバッグに納まっているという尋常ではない状況に戦慄せんりつが走る。ママはもう玄関で靴をこうとしている。ママが言っていたように、何も見なかったことにすればよいのだろうか? しかし、それはおそらく、もうこれ以上沙菜とは関わらないことを意味している。怪しい白い粉が怪しい限り、沙菜自身が自分の中で怪しい女になってしまう。それでは沙菜の方からでなくてもこちらから壁を作ってしまうに違いない。ここはやはりママの言うとおり、もう少し沙菜を知って行動すべきだと勇気を振りしぼる。こうなってしまった理由が必ずあるはずだ。きっとこの白い粉には秘密が隠されている。ママがすぐにも帰りたがっている。今しかないと腰をかがめて、そっと紙袋に手を掛ける。中にはフリーザーバッグと紙袋の内面の間に差し込まれた一枚の小さなメモがあった。見覚えのある字。沙菜の肉筆だった。

「私のといっしょに海にすててください。お時間をとらせてすみません。」

 震える手でフリーザーバッグを一つ取り出す。よく見るとマジックで名前が書いてあった。二種類あるフリーザーバッグはそれぞれ名前が違っている。まり、妙子。白い粉は沙菜の娘と母の遺灰であった。

 怪しいどころの話ではなかった。顕也はあまりの衝撃に立っていられず、その場にひざまずく。紙袋から取り出して床に置いたメモとまりの遺灰。メモの字はクリニックの問診票と同じでほとんど殴り書きである。体裁ていさいなどない。むしろ手紙を残した者の存命が疑われるような字体であった。

 遺灰は、それが確かに笑ったり泣いたりしていた人体の一部であることを生々(なまなま)しく顕也に語りかける。残酷な光景だった。透明なフリーザーバッグの中に見える不均一な白い粒一つ一つが、まぎれもなくかつて笑ったり泣いたりしていた人、沙菜が全力で守り育てていた娘の体を構成していた組織の残骸なのだ。こっちのはしに見える黄色味をびた荒い粒は、かつて大腿骨だいたいこつの一部だったかもしれない。先を歩く母に追いつこうと頑張って駆け出した時に、その骨が筋肉の奥底でひっそりと小さな体を支えていたかもしれない。そっちのはしに見える純白の粒は指先の骨の一部で、その指で母の手をしっかり握って病院に通っていたかもしれない。いつか下顎かがくを延長する手術を受けたら気管きかん切開せっかいを離脱できると言われて喜ぶ沙菜に合わせてわけがわからないまま全身で喜んでいたその全身の残骸。そして紙袋の中にある遺灰もまた、全身で沙菜を守り育てた沙菜の母の全身の残骸。

 医学部の解剖実習でも病院で息を引き取った患者でも、かつて顕也は人の亡骸なきがらには散々(さんざん)直面してきたはずだった。それは顕也に限ったことではなく、医師なら通常避けては通れない。ほとんどの医師と同様、顕也にとってもそれらは単に動かなくなって人の形をした何かであった。しかし、どうしたことであろうか? 目の前にある白い粉は、そんな亡骸なきがらたちとはまるで違って見える。それは、確かに人、沙菜が愛した人そのものだった。恐怖さえ感じるような残酷なストーリーが、その一粒ひとつぶ一粒ひとつぶに散りばめられていた。

 今、顕也の脳裏に美希との別れがまざまざとよみがえる。あんなにもいっしょに笑い合ったのに、あんなにも大切だったのに、あんなにも愛していたのに、三日前にはふつうにいっしょに食事していたのに、ある瞬間から動かなくってわけが分からず夢か現実か区別が付かなくなるような感覚のまま荼毘だびに付されて、その残骸はこんなフリーザーバッグの中に入る粉だけになっている。なんでこんなところに入れられてしまっているのか? なんでこんなことになってしまったのか?

 顕也のほおを涙が伝い落ちてフリーザーバッグの横に落ちる。もう一度メモを見て、死のうとした沙菜の判断に身震いする。母子家庭、母と死別、障害を持つ娘を引き取って離婚、夜の仕事、娘とも死別、天涯孤独、沙菜が何を思いながら今日まで生きてきたのか考えると、その判断が正しいような気にさえなる。研究、美人遺伝子、それが一体何だと言うのか? 自分は一体何がしたかったのか?

 気が付くと、横に戻ってきたママが、遺灰に手を合わせていた。少しホッとしたように、ため息交じりにママがつぶやく。

「そういうことだったのね。言ってくれればよかったのに・・・。娘さん、亡くなったら働く意味なんてなかったんだもの。あの子には。」

 顕也がママを見上げる。こんなに優しい顔のママを見るのは初めてだった。ママは何となくわかっていたのかもしれない。

「先生ね。みんながみんなそうじゃないんだけど、こういう子たちはね、夜の仕事して、お金を稼ぎたいわけじゃないの。わかるでしょ?」

「・・・お金・・・じゃない?」

 遺灰の前で唐突にお金の話を切り出された顕也は、どう答えてよいのかわからない。涙をぬぐいながら、躊躇ためらいがちにもう一度ママを見上げる。もういつものママに戻っていた。

「そう。お金じゃないのよ、稼ぎたいのは。」

「・・・」

「時間よ、時間稼ぎ。お金稼ぎじゃないの。」

「・・・時間・・・稼ぎ?」

 合点がてんのいかない顕也に、ママの声が少し大きくなる。

「そう。先生だったらわかるはずですよ。先生こそ、何で美容外科なんかで働いてらっしゃるの? いつまで研究なんて続けるおつもり?」

 図星を指された顕也が、はっと我に返る。ママは少しうれしそうに胸を張った。

「先生がそんな時間稼ぎを必要としていらっしゃることも、私には何となくわかります。すぐに立ち直れる人なんていないもの。でもね、先生。言い古された言葉だけど、人には今と未来しかないの。それは正しいと思う。過去を引きずっていつまでも時間稼ぎ、それって誰が喜ぶのかしら? 誰もハッピーにならないわ。そこの娘さんも、先生が大切にしてた人も。そろそろおめなっていいんですよ。いや、あの子にこそ今すぐにめさせてあげて。そして・・・私の仕事、減らしてくださる? 」

 何という観察眼であろうか。あまりにも的確で強烈な忠告に、顕也は驚きを隠せない。ママが自信に満ちた表情で続ける。

「先生が理由わけありだってこと、私にはわかります。あの子が先生みたいな人の時間稼ぎに付き合いたくない気持ちもよくわかる。私たちみたいな夜の女はね、仕事で心の奥底に刺さるような人を相手にするのは嫌なもんなんです。『何でここに来るの? こんなとこに現れなくてもいいのに。』それが彼女の本音なの。先生は、自分が思ってるよりもずっと正直。理由わけありだって顔に書いてある。あの子だったらすぐに、いえ、私にだってすぐにそんなことぐらいわかります。何年この仕事してると思ってらっしゃるの?」

 ママがいつものように顕也をからかいつつも優しく微笑ほほえむ。それは顕也のずっと先を歩いてきた大先輩の眼差まなざしであった。海千山千うみせんやません同じような悲しい別れをいくつも見聞きしつつ、みずからも経験してきたに違いない。沙菜とママから、いや、ひょっとすると夜に限らずあれから今まで関わってきた多くの人たちからそんなふうに見られていたのかもしれないと思うと、顕也は急に自分のやってきたことがひどく幼く感じられた。

 ママの言うとおり、もう過去に縛られるのはやめよう。少なくとも、語らずして誰かに悟られるなんて、格好悪いにもほどがある。ひっそりと心の奥底に仕舞い込んで、守るべきところだけを残して、他はすべち切って今すぐ捨ててしまおう。それは自分の過去だけではない。やがて沙菜もそうできるように、沙菜にもう一度前を向いてもらうために、全力を尽くす。それこそがきっと、自分自身が自分の過去と決別するということなのだ。そして何より、もし美希がここにいれば、少しあきれ顔で腕組みしながら笑って言い捨てるに違いない。

(さっさとやんなよ!)

 仁王立ちして顕也を見下ろすママの肩越しに美希のそんなセリフが届いた瞬間に、長い時間を越えた顕也の気持ちが吹っ切れたのをママは見逃さない。

「言っとくけど、私のは時間稼ぎじゃないわ。ただの時間(つぶ)しよ。」

 ママは茶目ったっぷりにそう言い捨てて、振り向かずに去ろうとする。顕也もすくっと立ち上がって、紙袋の中に戻した遺灰を一瞥いちべつするとそれに続く。ママの肩には沙菜にお願いされたリュックがあった。そのポケットのファスナーに取り付けられた子供っぽいイルカのキーホルダーが揺れている。よく見ると、そこにはひらがなで小さく「ひまり」と書かれていた。どうやらリュックは娘の持ち物だったらしい。病院に行く時にいつも背負っていたのであろう。かけがえのない思い出がたくさんまっているに違いない。何よりも大切に最優先してきたものを失っても、その先もずっと大切に思う気持ちに変わりはないことが、顕也には痛いほどわかる。この時顕也は、この先が長い片道かたみちになることを覚悟していた。

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