(二十四)
徹底的にペースダウンしても日常業務はある。診察も手術も、そして研究の検体収集も、心がここにない顕也の元にまだまだ容赦なく押し寄せた。十分な時間を、沙菜の面会に割く余裕はなかった。
診療は何とかなった。積極的に手術を組まなければ良いだけであった。基本的に外科医というのは手術がなければ他にやることはないのである。しかし、研究だけはどうにもならなった。時間が取られるような内容ではなかったが、すでに集まる検体の数を自身が調整できるようなシステムにはなっていなかった。せめて被検者の容貌を独断で吟味して間引く作業を省くと、それはそれで佐伯に届けなければならない検体の数が増えた。
佐伯に会うのが億劫だった。不毛な時間だった。会話の端々にやる気のなさを臭わせて自分の研究の熱が冷めつつあることをアピールしてみても、佐伯はまったくお構いなしだった。むしろ淡々と同じペースで検体を供給する顕也を度々誉めちぎっては、この壮大な研究に不可欠な存在として大袈裟に鼓舞し続けた。
その状況を一変させたのは、沙菜とその実子のバックグラウンドを調べて顕也に教えてくれた小児科医の彼だった。佐伯との話が長くならないように、そして面識がある彼のような人物ともできるだけ出会わないように、顕也はあえて夜遅く佐伯と会うようにしていたのであるが、沙菜との面会を済ませた後に一度クリニックに検体を取りに戻ってそれを研究所に届けに来た時、ばったり彼に出会った。真面目で熱心な彼が夜遅く研究所にいること自体は然程驚くことではなかったが、よくぞ現れたとばかりに出会い頭の顕也といかにも裏話がしたいという素早い反応は、まるで別人のようであった。検体の入ったバッグを小脇に抱えて研究所の廊下を足早に佐伯のデスクのある部屋に向かう途中で呼び止められた顕也が、こちらに来いと彼が手招きする方に付いて行く。
「村沢先生って、あの論文、どこまで自分でデータ整理を任されました?」
佐伯のデスクのある部屋とは反対方向の廊下の隅で、出し抜けに彼は顕也に尋ねた。
「データ? いやあ、恥ずかしいけど全部彼任せ、一切ノータッチだよ。正直、サンプル集め以外は何もやってない。」
顕也が正直に答える。
「今、僕の論文を見てもらってるんですけど、ちょっと揉めちゃってるんですよ。」
「揉めてる? 佐伯と?」
「そうなんです。お陰様で、僕も村沢先生に教えていただいたとおり、一生懸命サンプルを集めて何とか形になりそうなところまで来ました。本当にありがとうございました。でも、問題は、佐伯先生にデータ処理して出してもらった結果を自分でも同じようにやって出した結果と比べてみると、微妙に違ったんです。」
彼が頑固な表情で腕組みして力説する。
「大きな違いだと問題なかったんです。大きな違いだったら、僕がとんちんかんだったってことで、気付かなかったと思います。でも本当に微妙な違いで。それが問題だったんです。」
いわゆる統計処理に疎い顕也は、彼がその先何を言っても理解できない自信があった。
「微妙ならいいんじゃない? 形にはなるんでしょ? 誤差ということで。」
「また先生までそんなことを。そりゃ確かにそうですよ。サブのフィギュアですし、問題なく論文にはなると思います。でも、これだけは絶対に譲れないんです。」
「なんでまた? 理由を聞かせてよ。」
「ありがとうございます。」
謙虚な彼が神妙な顔付きで小声で詳細を語り始める。何と、彼が言うには佐伯がデータを捏造している疑いがあるとのことだった。彼がギリギリ有意差なしという結果を出したのに対して、佐伯はギリギリ有意差ありという結果を出したのである。数字の違いはほんの僅か、生データをほんの少しだけ操作すると確かに佐伯の出した結果が得られると言うのだ。彼に問い詰められた佐伯は、最初は特殊な統計処理を用いたと主張していたが結局その処理方法を示さず、p値を下げるために本筋と関係ないようなところでわざわざサンプル数を増やして一からやることに意味はないと言い張り、最後には、研究は時間との戦いだから端折れるところは端折るべきで従えないなら降りてくれ、と言い放ったと言う。それが本当なら確かに問題かもしれないが、佐伯ならそこも含めてこれまで上手くやって来たのであろう。統計のことはよくわからないが、少しでも良い結果に見えるような統計処理を行うのは当然であって、佐伯がデータを改ざんした証拠はどこにもない。何よりも、臨床家の彼がデータ処理の専門家である佐伯と同じレベルで統計に明るいとは思えず、捏造とはさすがに言い過ぎ、穏やかではない。はっきり言ってしまえば、臨床医の彼が研究者のしきたりに首を突っ込んでトラブルを起こすのは上手いやり方ではないように思えた。しかし、次の彼の一言が風向きを変えた。
「村沢先生の美人遺伝子は、大丈夫なんですか?」
大丈夫という彼の言葉に大いに引っ掛かった。彼の研究の話を他人事のように聞いていたのであるが、突然自分の研究の話になり我に返る。大丈夫かどうか? 考えたこともなかった。それくらい、顕也は美人遺伝子の存在を信じて疑わなかったのである。大丈夫でないはずがない。今でも美人遺伝子の研究に入れ込んでいるのは佐伯の方なのだから。
「大丈夫・・・大丈夫?」
妙な質問に顕也が言葉に詰まる。見兼ねた彼が申し訳なさそうに謝る。
「すいません。僕は何も美人遺伝子がでっち上げだとかそういう意味で言ってるんじゃないんです。ただ、共著者の意見をまともに聞かずに、論文が一本出れば文句ないだろ、みたいな、臨床医を小馬鹿にするような態度がどうしても許せないだけなんです。僕なんてまるでサンプルを集めてくる犬みたいな扱いですよ。ちょっと傲慢じゃないですか? 犬にも言いたいことはあります。何でも思いどおりにやりたいのはわかりますけど、結果ありきで押し進めるの、研究者としてどうかと思いますよ。」
犬。確かにそうかもしれないと顕也は思った。自分のやったことはひたすらサンプル集めで、データ解析はおろか、彼が問題にしている生データを見たことすらないのだ。
「まあ、確かに佐伯はそういうところがあるな。自分にも時々無茶を言ってくる。その都度何となく突っぱねてるけど。」
「ですよね。同期の村沢先生でもゴリ押しされるんですから、自分なんてもう犬以下ですよ。屑ですね、屑。人間の屑です。」
彼は相当ストレスが溜まっている様子であった。少し共感してあげてもよさそうに思った。
「自分も、サンプル数を増やしてくれとかクリニックで顔面の形態計測装置を買ってくれとか、色々せっつかれているよ。うまくかわして細々と・・・」
「あれ? 村沢先生、その手に持ってるバッグ、さてはサンプルですか? 今日はサンプルを運んで来られたんですね。」
彼がそう言うと、二人で顕也の持つバッグをまじまじと見つめた。彼がポツリと言う。
「まだ村沢先生が直接持って来られるんですね。」
「ああ、そうなんだ。増やせと言われてもできないし、自分が直接持って来た方が色んな調整が利くからね。」
そう答えながら、顕也は主観でサンプルを間引く作業を思い返していた。当然彼には言えない。
「調整、ですか。確かに自分のペースってありますもんね。自分はそれがまったく許されない感じなんです。もう限界かもしれません。でも、先生のそのサンプルって、美人遺伝子の研究のサンプルの一部ってことですよね?」
また妙なことを聞くなあと思いながら顕也が答える。
「一部? いや、全部だよ。」
「全部? サンプルを全部先生が運んでおられるんですか? 僕はてっきりご自身のクリニックの分だけ先生が直接ここに持って来られるのかと・・・」
「自分のクリニックの分? 何それ?」
サンプル収集拡大の話は度々あったが、あくまでもお店の立地だけの話で他のクリニックのサンプルの話は初耳である。合点のいかない顕也に、逆に彼が困っている。
「いや、その、先月の進捗報告みたいな全体ミーティングで佐伯先生が挙げていた話なんですが・・・いや、これ、まさか、村沢先生に伝わってないんですかね?」
そんなミーティングがあることは知っていたが、日中クリニックの仕事のある顕也は一度も参加したことがなかった。あえて言うならこの研究のプレゼンテーションをするために、最初に一度参加しただけである。確かに、臨床医をやや小馬鹿にしているとも取れなくはない独特な居心地の会であったが、今ではいい思い出である。サンプル収集に奔走した二年間、いや、脇目も振らず犬のように走り続けたあれからの十年間を思い返す。
「詳しく聞かせてもらっていいかな?」
そう言って腕組みする顕也の手から床に滑り落ちたサンプルの入ったバッグが、二人に拾い上げられることはない。
「えっ、ええ、もちろん。」
彼が言葉を選びながら話し始めた内容は、すぐにでも研究から手を引きたい顕也には決定的であった。何と佐伯はすでに大手チェーンの美容外科クリニックからのサンプル提供を取り付けているらしい。そして彼の話から推測すると、どうやらその大手クリニックには三次元計測装置をも購入する意向があるという。しかもこれは水面下に進められた話ではなく、自分以外の研究室のメンバー全員が知る事実であった。今初めて知る顕也にとってそれは屈辱的なことに違いないと彼は考えているようだったが、今の顕也にここでの研究にそんな思い入れなどあるはずがない。顕也はただ呆れ、首を傾げる。何が佐伯をそうさせたのだろうか? 競争心だとしても、佐伯が出し抜こうとした相手は何のデータ処理もできないこの一臨床医の自分ということになる。確かに自分が寝返って他の研究者と手を組めば佐伯の立場を脅かすことはできるかもしれない。少し反抗的な自分をそういう方向に向かわせないように潰しておきたかったのであろうか? 逆に考えれば、佐伯がそうまでする価値を自分の集めたデータの中に見出したということになる。佐伯自身がいつかそう言っていたが、それはおそらく佐伯には予想外の何かだったということなのであろう。そしてきっと、あの論文の中にはその何かについて触れていないということになる。ただ、それが美人遺伝子の存在をさらに強く肯定するものだったとしても、もはや顕也にはどうでもよい。
腕組みしたまま難しい顔で思いを巡らせる顕也に、彼がさらに畏まる。
「す、す、すみません。僕からお伝えしてよかったんでしょうか? 知らなかったことにしてもらえたら・・・」
「いやいや、知らなかったも何もない。実はもうずっとこの研究から手を引きたいと思ってたから、いいきっかけさ。貴重な話をありがとう。」
「そっ、そうなんですか! やめたらもったいないですよ。ここでは鳴り物入りの研究、サンプルが増えればもっと確実に物を言えるかなりインパクトの大きい研究だと、みんな言ってます。」
そう言われても嬉しくも何ともない。それどころか、顕也には後ろめたかった。生データの改ざんどころか、あのサンプルは最初から自分の主観による篩が掛かっているのである。大手の美容外科チェーンで闇雲に集めた美人と、とてもではないが同じような集団になるとは思えない。佐伯が自分の集めたサンプルから何かを見出していたとするなら、それは自分の目が確かだったという証でもあるわけで、そこは臨床医として誇りに思う。美人の大きな集団の中に口唇口蓋裂の責任遺伝子を持つ小さな集団が確かに存在するという信念も決して揺らぐことはない。ただそれは、たった一人の人間の美人の判断に委ねるというバイアスに端を発する恐ろしく出鱈目な研究であった可能性が高いということを意味している。奇しくも彼に捏造者呼ばわりされた佐伯の上前をはねていた自分が少し恥ずかしい。三次元計測装置によってこのバイアスを排除できるのであるから、今後の佐伯の方向性こそが本当に正しいやり方とも言える。目の前の彼が、あの論文のそんな裏事情を知ったら、この場で発狂するかもしれない。
「ごめん。ほんとに自分はあんまり多くは望まないんだ。これで十分。論文が一本出れば文句はないさ。」
「そっ、そうなんですね。やめてどうするんですか?」
そう言われても、どうするかなど考えてもいない。もうこの研究所に来ることがないことだけは確かだと思う。
「誰も知らない人しかいない遠くにでも行くかな。」
「はっ? 美容外科の仕事はどうされるんですか?」
「あっ、それね。すぐにそっちも辞めるさ。」
適当な顕也の返事に、真面目な彼は自分がからかわれているかもしれないとは考えはない。ある意味、顕也の本心を見抜いているとも言える融通の利かなそうなその目は真剣そのものである。
「先生ともうちょっと話がしたかったです。」
「話? いいよ。またいつでも話そう。調整するよ。」
「ちょ、調整?」
「そう、調整。数字じゃないところは勝手に調整すればいい。臨床医なんだから。」
訳のわかるはずがない彼はなぜか目を輝かせている。
「ちょ、ちょ、調整ですね。そうか! ちょうせい、調整ですよね、調整!」
多くを語ることが得意でない顕也も、医師として診療科の枠を越えて意気投合できる瞬間が嫌いなわけではない。彼が何をどう理解したのかさっぱりわからないが、自分の適当なアドバイスが彼にざっくり響けば何よりだと心から思う。何だかわかった気がしますと深々と頭を下げて足取り軽く去って行く彼の後ろ姿を温かく見届けると、一応、床に落ちたバッグを拾い上げて、その日は何事もなかったように最後の検体を佐伯に手渡す。
数日後、クリニックを退職するから研究もやめたいという意向を、佐伯に電話で伝えた。案の定、佐伯は、実に惜しい実に惜しいと連呼しつつ、罪深き先駆者がもたらす疑わしき検体供給の終止符を快く聞き入れた。
沙菜は、顕也との会話に少しずつ応じるようになった。顕也のいない時間帯に差し入れの食物にも時々口を付けているとスタッフから聞いていた。
「柿、食べる?」
その時も、あまり期待せずに買ってきた富有柿を勧めると、沙菜は遠慮がちにコクリと頷いた。誕生日にゲームを買ってもらった小学生のように、顕也の胸が踊る。ただ、精神科病棟の病室に果物ナイフを持ち込むことはできない。逸る気持ちを抑えてナースステーションにナイフを借りに行くと、沙菜を受け持つ陽気な中年看護師が対応してくれた。
「柿ですか? 女子はけっこう好きですよね。私にも果物剥いて、あーん、ってしてくれる人いないかしら。なんちゃってー。」
彼女の他愛ない一人芝居が綻ぶ顔を隠し切れない顕也に同調した悪ノリであることに気付いてはいるが、それどころではない。
「お陰様で、食べたいって言ってくれました。」
「まあ。それは良かった。わー、立派な柿。千疋屋ですか?」
そうだったかなと適当に返事をする顕也としては、さっさと柿を剥いて沙菜に届けたかった。ナイフを手渡されて共用のお茶汲み場に誘導された顕也は、シンクでいそいそと柿を剥き出す。早く自分の差し入れた柿を食べる沙菜の姿を見たい一心であった。すると、看護師がスタッフの休憩室から持って来た紙皿と爪楊枝をシンクの横に置いて、顕也に尋ねる。
「元お勤め先の上司さんって、連絡取られてますか?」
ママが沙菜とどんなふうに関わっているのかずっと気になっていたので、そう聞かれた顕也は内心ドキリとした。ママとは入院直後に主治医からの説明をいっしょに聞いたっきり話していない。柿を剥く手を止めて顕也が答える。
「いえ、取ってないです。」
「上司さん、先日一度だけ来られたんです。その時、『パートナーさんが毎日来られてるんだったら私は来なくて良さそうね。』っておっしゃって。私、おせっかいだから、『そんなことおっしゃらずに時々面会に来てあげてください。』って言っちゃったんです。そしたら、『職場の同僚でも何でもない私がここに何しに来るんですか。』って、かなり迷惑そうな感じだったんです。気分を害されたんじゃないかと思って気になってるんです。」
確かにママなら言いそうである。顕也が半分剥かれた柿を見つめながら淡々と答える。
「そうですか。遠慮してるんだと思います。そんな人です。」
「あの・・・私、その上司の方と連絡取らなきゃいけなくて。私の立場でこんなこと申し上げるのも何なんですけど・・・連絡とっていただいたりなんて・・・」
紙皿に爪楊枝まで用意してくれてずいぶん気が利くと思ったのはそういうことだったのかと納得する。沙菜が柿を食べたいと言ってくれた嬉しさも手伝って、年甲斐もなくもじもじしながら自分にお願いする彼女が健気に見えた。
「お安い御用、大丈夫ですよ。」
「ほんとですか! すみませんがよろしくお願いしまーす。」
彼女の顔がパッと明るくなる。顕也は再び柿を剥き出したが、よく考えてみればママに連絡を取って一体何を伝えればよいのか要領を得ない。軽いノリで要件を暈したまま大丈夫と言わせたお返しに彼女を少しからかいたくなって、わざと意地悪そうに柿を剥きながら顕也が言う。
「じゃあ、病棟の看護師さんがぜひ謝罪したいって言ってる、って伝えておけばいいですかね?」
冗談のつもりであったが、意に反してシャキッと業務態勢に戻った看護師から真剣な返事が返って来た。
「いえ、彼女が話したいって言ってるんです。」
「えっ?」
カットした柿を落としそうになりながら、顕也が二度聞きする。看護師の語気が少し強くなる。
「彼女が、内野さんが、どうしても上司の方に会って話がしたい、っておっしゃってるんです。それをぜひ伝えてほしいな、って。あっ、それと、爪楊枝はステーションに戻して下さいね。病院の規則なので。お部屋のゴミ箱に捨てないでくださいね。」
「わ、わかりました。」
爪楊枝にまで及ぶ精神科病棟の厳しい持ち込み制限に対する驚きはほどほどに、顕也にはそう答えるのがやっとだった。沙菜に柿を運びながら、様々な憶測が一挙に顕也の頭を占拠する。
(沙菜がママと話? 何を話したいのだろうか? 毎日病室に現れる自分が鬱陶しいのだろうか? それとも自分の知らない誰か、ママと共通の知人で沙菜からは電話で連絡が取れない重要な人物でもいるのだろうか? 辞めた店のママを相手に許される相談が重要でないはずがない。内容によっては、この先自分が沙菜に関わることが難しくなるのかもしれない。)
「ありがとう。」
柿を食べ終えた沙菜が、ボソッと礼を言った。考えに耽ける顕也は、ベッドサイドで沙菜の方からそう声をかけられて初めて紙皿の上に柿がなくなっていることに気付く。沙菜にとって、それはおそらく身に染み付いた型どおりの謝意だった。ベッドサイドのオーバーテーブルの上で顕也の方にそっと紙皿を押し返すと、沙菜は少し遅れてまっすぐ顕也に向かって微笑む。その露骨にしたたかな微笑みに、顕也が一瞬たじろぐ。それは、装いや場所こそ違うが、明らかに見覚えのある姿、一点の曇りもない営業の沙菜、営業のスマイル、営業のありがとうであった。会話ができるようになっても、沙菜との間には入院前と変わらず大きな隔たりがあることに、顕也は愕然とする。沙菜はやはりずっと遠くにいる。お金を出せば酒を注いで話を聞いてくれる場所にはいなくなってしまった分、なお一層の距離を感じる。ママと話したいと言ったのと同じように、自分とは会いたくないと沙菜が言えば、病院は直ちに自分の出入りを禁じるであろう。二人を繋ぐものなど最初から何もないのである。今の自分の立場を明かせば見舞いに来ることすら常識的には限りなく怪しい。毎日病室を訪れる権利などどこにもなかった。
それでも、顕也はもう以前の顕也ではなかった。今にも消えそうな沙菜との関係を繕うことも振り解くこともなく、ありのままを受け入れた。もはや弁護したい自分はどこにもおらず、ここから逃げ出してもどこにも行きようがなかった。以前の自分は何もかも捨てたつもりで仕事に専念するあまり、逆に仕事に執着していた。守るべきものなど何もないと信じるあまり、実は研究を最優先にしてきたということが、今ではよくわかる。研究以外のことで考えがまとまらずに時間だけが奪われそうになる度に、その場から逃げ出して酒に向かい、はぐらかして忘れたふりをしてまた仕事に戻る。そんな日々だった。しかし、研究をやめて仕事を続ける意欲もない今では、本当の意味で捨てるものが何もなくなっていた。顕也はもう過去に怯むことはなかった。望まれなくても、いや、例え嫌われようとも、ここには来ることになるであろう。そこには顕也自身がどうありたいかという望みも沙菜にこうあって欲しいという願いもない。究極には、ただ沙菜が生きていればそれで良いのである。
顕也もまた本心を笑顔で伝える。まさにありのままの気持ちだった。
「こっちこそありがとう。食べてくれてうれしい。」
迷いのない顕也の言葉に、もちろん沙菜がたじろぐことはない。店と同じように、彼女はただ、フフフ、と笑った。表情に拒絶はない。それでよかった。顕也は、じゃあまた、と振り返らずに病室を去った。




