(二十三)
彩乃が手術をキャンセルした。手術日の二日前に、本人からクリニックに電話がかかってきた。特別な患者であることを察知していた受付スタッフは、すぐに外来で診察中の顕也に電話を繋いだ。直接電話をくれてもいいのに、顕也と一定の距離を置きたかったのであろう。意外にも顕也に繋がったという口調で、彩乃が手術のキャンセルを詫びた。
「あれ? これ先生? あたし、やっぱりこのままでいいです。色々悩んだんですけど、手術、やめておきます。ご迷惑をおかけしました。」
それが彩乃にとってベストな選択かどうか、顕也にはわからなかった。手術をやらずに済みそうなことにまずは安堵する術者にとってはベストな選択ではあるが、複雑な思いはある。
「いや、それはかまわないよ。もともとはみ出して予定を組んでた手術だし。ごめん。今、外来中だからまた後で電話していい? 手術はともかく、彼氏と三人で食事でもどうかな、って思うんだけど。また後でね。」
「・・・」
「後で電話するね。」
「先生。あたし、大丈夫だから。今までありがとうございました。あっ、式は来てね。絶対だよ!」
彩乃の語気は強かった。久しぶりに会って手術を組んだその日に彩乃が言っていた言葉どおり、まずは自分は彼女の主治医なのだと思い知らされた。幼い彩乃が家族のように自分を受け入れていたわけではないことを痛感する。結婚を報告する親族が限られるはずの彩乃が、間違っても親族代わりにと自分を頼ってくれたわけではないことは確かだった。父親気取りでいた自分が今更ながら恥しくなる。ガチャリと切れた電話の受話器を持ったまま固まる顕也を、目の前の患者が不思議そうに見ている。
主治医以上でも以下でもない存在だとして、果たして自分は主治医としてどうであろうか? 勘のいい彩乃はやはり自分の自信のなさを見抜いていたに違いない。それを即座に断るわけではなく、悩んだ体にして気遣いを見せない自然な形でキャンセルしてきたのであろう。客観的にみれば、彩乃の方が患者として一枚も二枚も上手であった。そんな彩乃のさり気なくも断固たる気遣いは、顕也の美容外科という仕事に対する懐疑の断片を一気に繋ぎ合わせる強烈なメッセージになった。
彩乃のような患者の手術を自信をもって執刀できない医療とは何であろうか? 医療現場では重症患者ほど適切な治療ができないという状況は常にある。彩乃の鼻と唇も普通の美容外科医では対処できないという意味で少し重症であった。ただ、どんな領域であっても重症患者を何とかしたいと奮闘する医療者が必ずいる。彩乃の手術を適切に行うことができる形成外科医は必ずどこかにいるはずだった。いや、いなくてはならない。それが自身でないことなど、今更何とも思わない。しかし、形成外科の一分野である美容外科は、外見の悩みを抱える患者の中でも間違いなく軽症患者しか扱っていない。というよりも軽症患者以外はお断り、客ではないのである。いや、もっと言うなら、本人の不安、心配、思い込み、そんなものに付け込んで、ほとんどまるで床屋で髪を切るように客の希望や好みどおりに体にメスを入れることを良しとしているのである。第三者に与える好感度という意味では、笑顔の作り方を少し変える、つまり動的な顔付きの変化だけで手術を遥かに越える効果が望める顔立ちを元々備える者が、自らの静的な外見を否定するように誘導しているのである。それはもう患者とは呼べない。客であった。福富の娘さんのように、運良くちょっと二重瞼になっただけでパッと顔付きが変わって動的に魅力が増したという印象を受ける患者は、顕也自身の感覚的な数字ではどう考えても一割にも満たなかった。患者の日常を知るわけではないのでそこを加味したとしても、半数以上が第三者から見た印象に何の変化もないことは間違いないであろう。美容外科の存在そのものが、誰かに相談しにくいことを逆手にとって、顔立ちだけ変えれば自身の魅力が増すのではないかという半ば被害妄想のような静的外見至上主義を、助長していると言ってよかった。
あえて言うなら、疾病や外傷などによって大きく審美を損ねた患者では、その外見のために度々差別や偏見による苦悩を抱えることになる。平均的な審美が損なわれてしまった患者を医療技術で何とか平均に近付ける、そんな審美改善の医療が必要であることを疑う余地はない。美容外科はそういう患者をほとんど無視していた。平均的な静的外見に問題のない客だけを相手にして、いざ平均的な静的外見を取り戻したい彩乃のような患者が現れれば何の手立てもなく、ただ普通に左右対称の鼻と唇にして欲しいという小さな希望は方向性さえ示されることなく置き去りにされているのである。多くの美容医療がそこをビジネスだと割り切っているのであるが、動的外見の改善に貢献できていない「客」が多過ぎると感じる顕也には、ずっとどこか受け容れ難いと感じ続けていた。そんな美容外科の実態まで見抜いているはずのない彩乃が、多少なりとも先天疾患に理解のある自分の手術をさっさとキャンセルしたことで、そのモヤモヤは一挙に払拭された。
しかもそれは形成外科という領域の話であった。形成外科に審美改善を希望してやって来るほとんどの患者は、命を奪う疾患を抱える患者と比較すれば全例軽症なのである。口唇裂の彩乃も決して例外ではない。見た目の問題しか残されていない患者を対象にしている時点で、そもそも形成外科は大半の医療から逸脱した偏りのある診療科なのである。せめて疾病や外傷などによって審美的な問題を抱えることになった患者を扱うなら、ぎりぎり医療の範疇には加えてもらえるくらいの診療科だと言ってもよい。美容外科がすべてそうだとは言わないが、彩乃のような患者と向き合わずに、多くは人の不安に巧みにつけ込むような仕事を続けることは、金持ちになりたいわけではない顕也にはもう限界だった。
数日後、上の空で診療を続ける顕也をさらに動揺させる連絡が届く。また沙菜が病院に運ばれたというのだ。しかも、沙菜は店を辞めていた。以前に入院した時の情報を頼りに病院からママに連絡があったという。心配だけどもうウチの子じゃないから対処に困っている、ママからそんな相談の電話があったのは、今後のことを色々考えながら夜遅くにクリニックで荷物を整理し始めた時だった。
「お店辞めてどうするかなんて野暮なこと、ふつうは聞かないのよ。いい人ができて揚がる子も多いから。」
あっけらかんと話してはいるが、ママの心配は電話越しにも十分伝わる。本当に正直でいいママだった。
「あの子だから心配で聞いたの。そしたら、知らない人しかいないどこか遠くへ行く、みたいなことを言うのよ。」
「だ、誰と、どの辺りとか言ってましたか?」
恐る恐る顕也が聞く。
「そんなこと言っちゃくれないわよ。ただ・・・」
「ただ?」
「お嬢さんはどうするの? いっしょに行くの? って聞いたら、それはないって。それで・・・変なこと言うのよ。」
「変なこと?」
顕也は胸騒ぎがして足が少し震えるのが自分でもわかった。
「娘は会わなくても大丈夫なとこにいる、会う必要ないけどすぐに会いに行くことになる、ってすごくうれしそうに言って涙ぐんでた。素人の私にはちょっとわからないんだけど、娘さんのこと大事にしてたのは知ってたから、なんで娘さんを置いて遠くに行くなんて言ってたのかしら。きっと施設に入るような子は、親の気紛れであちこち施設を変えたりできないんですかね・・・」
真っ白になった顕也の頭には、最後までママの話が入って来ない。落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせる。
「いっ、いま、彼女はどんな容体なんですか?」
振り絞るように、顕也がママに聞く。
「それがね、詳しくはわからないの。病院っていつもそう。詳しく聞きたかったら行かなきゃなんでしょ?」
「他に誰かいないのかな? 彼氏とか・・・」
ママが知るはずもないとわかってはいるが、探りを入れてみる。
「誰かいたら私のとこに連絡なんて来やしないわよ。あの子、ほんとにノリが悪くて、度々クレームがあったくらい。それにしたって身寄りがまったくないなんてねえ。もうウチの子じゃないから、って電話をいただいた病院の方に言ったらすごく困ってて。だけど、そんなこと言われても困るのはこっちなのよね。」
いくら美容外科医とはいえ、顕也も医師の端くれである。本来これが行政の仕事であることぐらいはよく理解していた。もっと言うなら、型通りに最低限の動きしかしないお役所が、彼女のような境遇の人間を滅多に救えないという現実も熟知していた。それなのに一度行政が入ると、現場はママや自分のような他人が面会すらし辛くなるという残念な正義感に支配されてしまうのである。病院としては治療費さえ回収できれば他人でも役所でもどちらでもいいのであるが、ママに電話をしてくれた病院の担当者はケースワーカーなのだろうか? その彼が困っていたという事実は、彼なりの良心が反映しているのかもしれない。身寄りがなく行き場を失った人間を本当に救えるのは、行政でも家族でもなくその人間と慕い慕われる間柄にある赤の他人であることの方が多いという経験に基づく良心であったと思いたかった。
いずれにしても、ここで顕也が選択を誤れば、沙菜は自分の前からその存在を消してしまうことは確実だった。生きているのか死んでしまったのかもわからないまま、自分との縁はここで完全に切れてしまうことになるであろう。そんなことはあり得ない。それだけは避けたかった。今すぐ動かなければ取り返しがつかない。幸い沙菜は確かにまだ生きている。
「明日の朝、少し付き合ってもらえないですか? 様子を見に行った方がよさそうですよね。いや、行きたいです。」
「先生がそうおっしゃるなら私はいいのよ。」
「すみません。」
「私だって気にはしてる。こういうのは見ないふりする方が難しい性分だから。それに・・・」
「それに?」
「忙しくてどうしようもないくらいお店が繁盛してるわけじゃないのよ。むしろこんなお店、いつまで続けられるんだか。あの子も心配だけど、私としては、お店もとっても心配。笑っちゃうでしょ? だから私には時間があるの。でも、先生の方こそ、お仕事大丈夫なんですの?」
お店はいつも賑わっていたので、それがママのある種の謙遜であることは明らかだった。ただ、沙菜のような女の子の拠り所になっているお店を切り盛りするママの気苦労は並大抵ではないはずである。あるいは問題解決のための出費が嵩んで本当にママ自身の取り分が少ないのかもしれない。そんなママには、こちらもできる限り正直でいたかった。
「自分は大丈夫です。色んな意味で仕事はもう一区切り。だから、自分にも時間はあるんです。」
「あら、そう? じゃあお店に来ていただけるってことかしら?」
「・・・」
「う・そ。フフフ。うそですよ。まだやんなきゃいけないこと、あるんでしょ? さっさとやんないと、間に合わないんじゃないかしら? それで、ちゃーんと落ち着いたら、ぜひ、ゆーっくりいらして下さい。オホホホホ。」
商売上手なのか下手なのか見当のつかない不思議なママであった。
翌朝、ママといっしょに沙菜に会った。会ったと言っても集中治療室で人工呼吸器に繋がって横たわる姿を少し見ただけである。路上で意識を失って倒れているところを通行人が発見して救急搬送されたのだという。所持品の中に病院の診察券を発見した救急隊が問い合わせて、たまたま前回と同じこの病院に運ばれたらしい。これは救急現場では稀なことで、意識のある患者が救急隊にかかりつけの病院への搬送希望を申し出ても、病床の都合で他院に搬送されることが少なくない。アルコール臭の漂う身寄りのない若い女性患者が意識障害と低体温で受診歴のない病院に救急搬送されていれば、間違いなくただの急性アルコール中毒として初期対応されていたであろう。沙菜は病歴から睡眠薬の濫用を疑われてすぐに胃洗浄をしたところ、やはり多量の睡眠薬の錠剤が確認された。顔のガーゼは擦り傷だけで、幸い薬物中毒は前回と同じ程度で身体的な後遺症は心配なさそうであるが、一番の問題は自殺未遂を繰り返していることである。意識が戻ったからと言ってすぐに退院させるわけにはいかない。忙しそうな救命救急医から、そんな早口の説明を、無機的な面談室でママといっしょに受けた。
救命救急医が退室すると、いっしょに話を聞いていた看護師による聴取が始まる。
「もう一度お二人のご関係をお聞かせください。ご本人様の親族はおられなくて、お二人ともお知り合いの方でよろしかったでしょうか? 前回入院の時にも面会していただいたと伺っています。確か雇用主の方と・・・」
「いえ、それが今はそうではないんです。」
ママがすかさず自身の立場を訂正する。
「前回入院の時の記録を見て電話を下さったんでしょう? あの時は、あの子はうちの店で働いてたんですけど、今はもう辞めちゃってるんです。もちろん心配だから今日来たんですけど、もう関係ないと言えば関係ないから、お友達ってとこですかねぇ。」
看護師がふむふむと相槌を打つ。
「そうなんですね。それで、こちらの男性はパートナーの方ですか?」
看護師が急に顕也に話を振った。
「い、いえ。ただのしゅじ、痛っ!」
ママから強烈な肘打ちが飛んできた。よろめいて椅子から落ちそうになる顕也の腕を掴んで引き上げながら、ママが訂正する。
「ただのしゅじ・・・そう、しゅじん、主人。主人ですのよ。いえ、まだいっしょになっちゃいないから、そうそう。パートナー。いい言葉ねえ、パートナー。とってもしっくりする呼び方だわ。」
「いやそれは・・・」
顕也が話そうとするのを、ママがまた肘打ちのポーズで、いいから黙ってなさい、と小声で制止する。看護師は、クスクス笑いながら二人のやり取りを見ている。
「色々あるんですね。」
「そうなの。色々あるんです。」
ママが看護師に答える。顕也の出る幕はない。
「じゃあ、パートナーさんということにしておきましょう。担当医からお話があったように、今後、ご本人様は精神的な支えが必要だと思うのですが、パートナーさんが力になってあげられそうですか?」
「もちろんですとも。ねっ?」
ママが顕也に返事を促す。
「はあ、まあその・・・」
「はいでしょ!」
「は、は、はいっ。」
顕也が頭を掻きながらしどろもどろに答える。そんな二人に優しく微笑みかけていた看護師の顔が急に真剣になる。
「パートナーさんは、確か美容外科の先生だと伺っています。先生だから少々詳しく話しても大丈夫だと思いますので教えて下さい。まず、聞いておかなければならないことは、パートナーさんとの関係がうまくいってるかどうか、つまり、パートナーさんご自身がこうなってしまった原因になっていないか、ということです。例えば喧嘩を繰り返しているとか、別れる別れないなんていう揉め事があるとか。一応確認です。原因としてはそれがもっとも多いですから。」
一般的な話としては確かにそのとおりだと思うが、顕也にとってはまったく見当違いである。
「それはないです。」
顕也がきっぱりと答える。
「では、何か思い当たることはごさいますか?」
厳しい質問だった。沙菜の壮絶な半生はもちろん、ただ一人の血縁者だった娘が半年前に亡くなっていることすら、ママは知らない。こんな話をここでできるはずがなかった。親しい間柄でもこればかりはここで軽々しく話すべきではない。誰かに相談してどうにかなることが原因なら最初から死のうなどとは思わない。どうにもならないから、誰にも何も打ち明けずに静かに死のうとしたのだ。沙菜が誰にも話していないなら、そこにはきっと彼女の強い意思が働いているに違いない。まずは彼女の意思を尊重すべきである。
「いや、わからないです。」
顕也は嘘をついた。絶対に必要な嘘だった。顕也と沙菜しか知らない彼女の過去を誰にも知られずに共有することは、絶望の淵に引きずり込まれようとする彼女の命を繋ぎ留めておくための杭を打つ作業だった。辛うじて彼女の体に結ばれた、今にも千切れそうな紐を、何とかその杭に縛り付ける咄嗟の遣り繰りであった。一歩も後に引けないその渾身の偽りこそは、同時に顕也の静かな決断であったかもしれない。
その日から、顕也は毎日沙菜のところに通った。仕事を早々に切り上げては沙菜のベッドサイドに向かう。二日目には人工呼吸器を離脱して意識が戻ったので、沙菜は面会時間終了間近にやってくる顕也を認識した。もちろん言葉はない。ただ姿を見て花束とフルーツゼリーを置いて帰る。それだけである。
一般病棟に移っても状況は変わらなかった。一般病棟と言っても希死念慮があるので自由に病棟の外に出られない構造になっている特殊な精神科病棟であった。精神科病棟には、大学で働いていた頃に一、二度足を踏み入れたことがあるだけである。同じ病院で働いていても、精神科医以外の医師が精神科病棟に入ることは滅多にない。そういう意味では勝手がわからず、顕也は普通の見舞客であった。精神科の患者は意思疎通困難を伴うことが多いので、沙菜が毎日やって来る顕也に挨拶さえしないという二人の関係を疑問に思う看護師もいなかった。時々、ほとんど手が付けられずに溜まっていく差し入れを本人に勧めてくれる看護師がいたが、会話のない二人はむしろ病棟の光景に溶け込んでいた。
沙菜は心を閉ざしていた。顕也がしばらくベッドサイドにいても、沙菜は静かに眠っているか俯いて座っているかで、帰れとも来るなとも言わなければ、一切の要求はなかった。拒否すらない無関心な対象、沙菜にとって顕也は床の塵屑と同じだった。顕也は忍耐強く変化を待った。




